荒野の狼

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風の唄

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エルサレム入城

        
                    
                     http://www.bmp.jp/artbible/picture/112.jpg 

エルサレム入城

マタイ21章16節(エルサレム入城)では、子供だちはその純粋な目でイエスの真実にふれ、「ダビデの子にホサナ」と叫びつづけていた。
 
この場面で律法学者たちはイエスに、「子供たちが何と言っているか、聞こえるか」と詰問するところがある。
 
これに対してイエスは「聞いています、あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意されたと書いてあるのをあなたがたは読まなかったのですか。」と答えた。 
 
この答は詩篇8章のあなたは幼子と乳飲み子たちの口によって力を打ち建てられました。」の引照句であります。
 
ダビデはこの詩篇8章で人間実存への根源である天地創造、つまり創世記1章を語ろうとしました。
このテーマは私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。・・御名は全地にわたり・・つまり地において主の御名を讃美することが主題であります。
 
それは神学者や哲学者や祭司などによらず(人の知恵など神の前では、とるにたらぬもの)、「小さきもの」幼児や乳飲み子の口による賛美は、この世の最大の神の敵も、その前に敗退する。
 
幼子のように純粋で無心をもって神を讃美する信仰こそが最大の力であります。
 
つまり、天の上にある神の栄光は「父なる神」によりベツレヘムのうまぶねで生まれ受肉し人の子としてこの地上に降りてこられたイエスさまの栄光を「わが主よ!わが父!」と純粋、無心な幼子の心をもって信仰し賛美することであります。 
 
「信仰の大盾をもて」と聖書に書いてあるとおり、幼子のような純粋、無心な神への信仰が、この世の最大の神の敵、サタンもその前に打ち負かされる。
 
わかりますか?わたしたちは神学がどうの知識がどうのと知恵をふりかざしている人がいますが、そんなことではなく幼子のような信仰を目指しましょう。
 
それから、エルサレム入城で見逃せない事がもうひとつあります。
それは、ゼカリア9章9節の、預言者ゼカリア預言通り、
 
『シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに』
 
雌ろばの子の子ろばに乗っての入城は、凛として颯爽と馬に跨って入城するその王なる王の姿ではなく、人の下部として働かされる“ろば”、それも雌ろば、それよりもさらに低い“子ろば”での入城は謙遜の象徴でもあった。
 
その御姿は、権力や権威をかざす王ではなく、よわき者、小さきものに仕える王としての在り方を身をもって現されました。
 
あのベツレヘムのうまぶねに人の子として受肉し、貧しき者、小さき者と生まれた神の子がこのエルサレム入城、そして十字架の贖いのイエス様の愛へと、常に低きところから愛の手をさしのべてくれる神の愛の偉大さを感じ感謝せざるを得ません!
 
常に、罪深き私たちと苦しみを共にして下さる神の愛に感謝します!アーメン!

一粒の麦

               一粒の麦のたとえ
 
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今年2年生になる義也が「おとうさん!友達に聞いたんだけれど、トウモロコシの実を植えるとトウモロコシが出来るの?」て聞いてきた。
私はそくざに「ああ!出来るよ!」と答えてしまった。  と言うのも私が小学生の時にトウモロコシの水栽培の観察を理科の時間でやった事があった。
 
なんで今まで覚えていたかと言うと、子供心にも悔しい思い出がありました。それは、観察の発表も終わり発芽したトウモロコシを庭のある子は家へ持ち帰り、自分の家の庭に植えていた。私の家は庭が無かったのでそれが出来なかったのです。
 
植えたこのトウモロコシは大きく成長して実がなるまでになったのを見て、出来なかった悔しい気持ちが今まで心の隅に忘れないであったようです。  やり残したことの一つだ!
 
「実験してみようかぁ〜」 義也は「うん!やろう、やろう!」とはしゃいでいました。
本当はスーパーでトウモロコシを買って、それでやりたかったのだけど、時期的なものか売って無くて、仕方が無いので100円ショップでトウモロコシの種を買ってきた。
 
平たいお皿の中にティッシュペイパーを敷き詰め水を浸み込ませて、その上に種を置いた。観察を開始した。
 
3週間頃から、すこし変化が表われてきた。 白い根が出てきた。
 
又1週間頃から、今度は緑色の新芽が表われてきた。発芽だ! すこし陽のあたる方へお皿を置いてあげた。
 
そして、この3連休は家族旅行で家を三日空けることになって、旅行から帰ってみると、義也が興奮した声で
「おとうさん!おとうさん!早く来て!葉っぱがこんなに大きくなっている!!」と叫んでいた。
 
「おお!すごい!天気が良くなったら庭に植えかえてあげよう。」
さあ、これから先は幼いころやれなかった事を子供達とやろう!   私の心もどこかはしゃいでいました。
 
こんな小さな処ににも、こんな感動があるんだ! 
 
種を蒔けば芽が出る。当たり前だろう・・・。私達はどこかその様な冷めた目で物を見てはいないだろうか?
 
神様は私達人間に感動する感性を与えてくれた。 それは神様との対話の始まりでもある。
 
小さな命の力づよさ、生きている事の素晴らしさを神様はこんな小さな処までにも、私達に語りかけている。
 
なのに、私達は無感動、無感性でどこか冷めた心でものを見ている。子供たちを除いて・・・・。
 
私ははしゃぐ子供達を見て、この子らがもう少し成長してものを理解できるようになったら、「一粒の麦」のたとえ
 
話しを聞かせてあげよう。
 
命の受け継ぎ。 親は命の土台となって子を成長させる。親は子の命の糧となり我が子の土台となる。イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

牧師の遺言とその母


松沢秀章という牧師は実におかしな牧師だった。頭は長髪ボサボサで、髭をたくわえ、いつでも黒のジーンズをはいてジーンズの後ろのポケットにウォレット・チェーンをつけたウォレットを押し込み、銀のブレスレット、銀の指輪、黒のウエスタンシャツの襟元から銀の十字架を覗かせて、ハーレーに跨り街を走り抜ける。
礼拝にもそのスタイルでメッセージをしていた。形にとらわれない自由な在りのままの人だった。 ある時、近くに在る光が丘公園をC型肝炎で疲れた顔をして散歩していたら、警察官に怪しまれ職務質問をされ、牧師だと名のったら信用されず教会へ電話して確認される始末。

キリスト教兄弟団の理事の先生たちは、パリサイ人がイエス様を見る様な眼でこの牧師を見つめていた。
でも、しかし、彼の口から出て来るメッセージはと言うと。

イエスさまの説教になぜ人々は魅かれていったか、それはパリサイ派や律法学者のように、律法を引用しながら長々とややこしく話すのではなく、誰の言葉も借りずに自分の言葉で話しをしていたナザレのイエスという人間に他の預言者とちがうものを感じていった。それが人々を信服させる力になっていった。

このことは、今、メッセージをしている牧師さんたちにも言える事。聖書を引用しながら長々とややこしく話す。稚拙な論理をふりまわして分かり難い、これが1パーセントの要因。ハートが無い!人を魅きつける魅力がない!

彼は違っていた。彼の口から語られるメッセージは自分の言葉でイエスの愛を語っていた。誰にもよく分かる言葉で話していた。松沢秀章の心の中には、松沢秀章を見つめていてくれているイエス様がいつも居た。だからイエスさまの愛を自分の言葉で語る事が出来た。愛の豊かな人であった・・・・。

彼が生前に母に言い残した言葉があった。

「おふくろ!今は牧師の母として大事にされているが、俺が死んだら、おふくろに辛くあたる人も出て来るぞ! そんな時は決して恨んだり、怒ったりしては駄目だぞ! それをやったら信仰が薄いんだぞ!」
て、お母さんは私に話してくれました。

「秀章の言ったとおりになった。親しくしてくれていた人から手のうらをかえすように、冷たくされ“教会のお墓によく入れるわね!”とまで皮肉を言われて挨拶もされなくなった。」て・・・・。
そんな時、秀章に言われた通りに祈った・・・。

私の目から見るとお母さんは偉かった。
私が寂しくて教会へ行けなかったのに、お母さんは回りの冷たい目線を感じながら、寂しい気持ちをこらえて、決して健康とはいえない身体を押して欠かさず教会へ行っていました。

でも三年が過ぎ相手方との民事賠償の問題も解決して落ち着きを取り戻したこの頃、冷たくしていた人の心もお母さんに優しい言葉をかけてくれるようになってくれて
「秀章の言った通り恨まず祈る事で、大きな恵みとなったことに感謝しています」と話してくれた。

その時、お母さんから一通の手紙を見せられた。お母さんによって、三年間封印されていた手紙だった。
その手紙とは、あの事件の時共に亡くなわれたS主婦のお母さんからの手紙だった。

しかし彼女も障害を持った娘さんを抱え、重荷を負った生活に疲れて死をも考えていた時期もありました、彼女自身もC型肝炎を患っていて苦しい立場でした。

それを救ったのが松沢さんでした。彼女にじっと寄り添い、同じ病の苦しみを分かち合い愛ちゃん(娘さんの名前)共々サポートしていたのです。(旦那は?と言っても名ばかりの人でした)あんな事件が起きてしまって、松沢さんは特に主婦達から強烈なバッシングをうけ教会を去って行った人もありました。

残された家族との民事保障の話し合いも三年ぶりに解決した今、松沢さんのお母さんは私に三年間封印してきたS主婦のお母さんからの手紙を私だけに見せてくれました。
その手紙には切々とS主婦と松沢さんとの思い出と彼によって救われた我が子への感謝の気持ちが一杯溢れ出てくるような素晴らしい手紙でした。××子は幸せでした。とまで書かれていたのです

表面でしか判断できない人の寂しさよ、その裏には隠された真実があるのです!

お母さんはその手紙を誰にも見せずに封印しておりました、交渉の手段に使われたくなかったのでしょう。ボロボロになって死んでいった松沢秀章にどこかイエス様の面影が見えるのは私だけでしょうか・・・・。

成増教会の皆さんへ・・・。
  
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(左から アーサー・松沢牧師・元ヤクザのキンちゃん・そして私)

狂信主義は、賢明さでも知性でもないし、愛でもないのです。それは一種の熱病のようなものでもあるし、色つきレンズのようであって、わたしたちを近視眼にし、ついには視力さえも奪い取ってしまうのです。

狂信主義は、スポーツの世界にも政治の世界にも宗教の世界にもあります。宗教的狂信主義は深い悟りと確信からは生まれてきません。

狂信的な宗教には愛がないし、その反対に神経質なまでの傲慢があり、人を裁くのは自分たちの役割とさえ考えているのです。(中略)

一般的に言って、狂信的な人は自分に酔いしれ、言っていることと行動にくい違いがあり、むしろ本能的に行動し、無知なところがあります。 

真の宗教には狂信主義的なところはなく、本当の愛があるのであって、それは誰からも強制されることのない人間の自由な心から出てくるのです。 

        “聖フランシスコ修道会司祭・小平正寿著ー「アシジからの伝言」より”


マタイ 21章23から ユダヤの祭司長や長老たちが、イエス様に宗教に関する最高の権威を振りかざして、追求する処がある。彼らも一つの狂信主義者であったかも知れない。神を思う余りに、人間的権威と神の権威を何処かで履き違えてしまい。律法主義に奔り神を見失ってしまっていた。自分達の立場、人間的な権威の保守。律法による裁きの制圧。上からものを言う高慢さ。

イエス様のエルサレム入城では、ゼカリア9章9節の、預言者ゼカリア預言通り、

『シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに』

雌ろばの子の子ろばに乗っての入城は、颯爽と馬に跨って入城するその王なる王の姿ではなく、人の下部として働かされる“ろば”、それよりもさらに低い“子ろば”での入城は謙遜の象徴でもあった。
イエス様はそれに依って謙遜を示されたのであったと考える。

宗教という名の下ではとかく、人間的権威、権力欲、それの保身に陥りやすい。純粋に神を見つめる目が知らず知らずの内に、わたしたちを近視眼にし、ついには視力さえも奪い取ってしまうのです。

狂信主義者は神を愛するあまりに陥り易い落とし穴と言っても良いかも知れない。神を愛している事実、狂信その自覚の無い事がいっそうの哀れさを誘う。

“GOD SPELL”神の言葉は宗教ではない!
俺達のもとへきて、そのように弱い俺達との愛の関係をもってくれる素敵なスピリット!
愛のRELATIONSHIP其の物なのです。

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黒ずくめのバイカーファッション! 
これがクリスチャン?顔をしかめるクリスチャンも居る事でしょう。
バイクをこの上なく愛し、自然の中を風を求めて神を感じ。神との純粋なリレイション・シップを求めて走るハーレー野郎達が俺達です!

これは一月二十二日に行われた学童保育の会の講習会へ出席した時の私の感想報告書です。

  “子どもの小さなサインを見逃さないで”

            2010,1,22  学童保育の会   講師・岸 康裕 氏

講義内容は、岸先生の今までに体験されてきた、色々な事例を上げて年代別(低学年・中学年・高学年と分類して)に起こり易い問題と原因についての認識とそれにどのように対処し問題を乗り越えていったかの話でした。

低学年・・・親友の苗をはさみでちょん切ったM子の話
      聞き分けの良い子だったゆえの、親の安心感からほったらかしてしまい、まだ幼い子の心の           寂しさ、親の手の内の温もりを求めているのに気ずかなかった事が原因の事例。

中学年・・・2年間、自暴自棄で荒れ続けたI男の話
      夫婦共稼ぎの家庭、生活感の無い無機質な家庭の引き起こした。まだ幼い子の孤独感が引き            起こした事例。

高学年・・・運動が苦手で、友達づくりの苦手なT男
      家からお金を持ち出し男女問わずに、おごって友達としてのつながりを持とうとしたT男。

 年代別一つ一つの事例を抜粋してみましたが、この問題に岸氏はどのような所に原因があったかを
 探し出し、どのように問題のある子に対処していったかを熱心に話されていました。

   “この世でいちばん貧しいのは、食べ物やお金がないことではなく、
            自分なんてこの世に必要とされていないと思うことである“

これはマザーテレサの言葉であります。愛の貧困、これこそが小さな幼いこころをないがしろにされてしまった子供の叫び声だと思います。家庭の中の問題も勿論あるでしょう。

しかしまた、子供たちが一人で飛び込んでいく社会は学校生活です。その中での集団生活
子供たちの生活する時間の大半は学校に居る時間です。親のサインの見過ごしと同時にその子らに関わる先生方の目も重要な役割を担っていると思います。 

この事例を見て感じることは、事が起きる前に子供たちの投げかけてくるサインに少しでも気が付いてさえすれば・・・。ほとんど、事が起きてからの対処にすぎません。親の無責任さは当然責任を負わなければなりませんが・・・。学校生活の中での孤立感、・寂しさが虐めに・虐められに・進学教育の重圧が暴力に・要因は学校生活の中にもたくさんあると思います。

教室の中で忘れ去られた子、勉強の中で忘れ去られた子、自分はこの世界では必要とされていないんだ!と感じている子供たち。幼い胸を痛めている子供たち。

仲間に入りたくても自分から入れない子、そういう子供たちは誰かに声をかけて欲しいと
待っています。活発に話かけてくる子より、話かけられない子。いつもみんなの後について一人でいる子。

目立たない子に声をかけて欲しい。寂しさを抱えている子はその一言を! 声をかけてくれる事を待っています! そんな子に目を向けてほしい。送ってくる小さな信号を受けてほしい・・・・・。
講義を聞いていてそんな気持ちになりました。

  “インドにおいて、貧しさは経済的な貧困として現れているが、
      豊かな日本においては、精神的な貧しさによる家庭崩壊となって現れている。”
                              
                                   マザー・テレサ

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