荒野の狼

気張らずにありのままの自分でいよう。

風の唄

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BSで「小笠原の自然」という番組をやっていた。

 透き通った青い海原!真白な砂浜!さざ波の音!誰もが『美しい!心が癒される!』と感動する。

 その時、私に違う感情が湧きあがっていた。え!ちょっと待てよ!

 誰しもが同じように。当たり前のように『美しい!癒される!』と感動する感情はどこからくるの?

 誰しもが『美しい!』と同じように感じる、感情・感性って何だろうって、ふと考えてしまった。

 私達はそんなこと当たりまえの事だからなにも考えもしない。でも、当たり前では無いんだよなぁー。

 人間以外の動物は、喜ぶこと、怒る事、悲しむこと、寂しがること、怖がることは本能的に持っている

 けれど、感動する心は持っていないんだよね。

 自然の美しさなんて、自然は何も私達に語りかけてはこないんだよ! ただそこに在るだけ。

 夕焼けの美しさも、紺碧な空の青さも、真白な頂をもった山々も、すべてを覆い隠す真白な雪景色も

 だだそこに在るだけ。なにも語らず、ただそこに在るだけ。。。

 でもね! 神様はね! 人間にだけ、神様しか持っていなかった。神様の大切な宝物を与えてくれたよ

 うな気がするんだよ。 それが、感動する心だよ! 美しい!と感じる心だよ!

 神様は人と心が触れ合えるように、いちばん愛されている人間にだけ、その心を与えてくれたような気

 がしてならないんです。

 自然と触れ合って美しい!と感動した時、それは神様の方から優しく語りかけてくれてるんだよ。

 だから『癒される!』 だから、その素晴らしさの前で感動の涙をながせるんだよ。

       道ばたの小さな花にも、小さな川のせせらぎの音にも・・・・・・・・

 その心が自然を通して神様と触れ合うことの出来る、大切な宝物なのだから・・・・

 

 

 

星野道夫の世界

[

ある時、新聞を読んでいると、一つの記事が私の目に飛び込んできた。『星野道夫の世界』そこに

 こう書かれていた。

  「激しい岩陰にしがみつく様に、小さな青い花が群れていた

        一瞬の夏、限られた持ち時間の中で

             一生懸命 開花しようとする

                  極北の花々はどれだって 美しい」

  
  厳しいでなくて、激しいと表現したその裏に、極北の自然の激しさの中で、必死に長い、冬を生きぬ

  いてきた、植物や動物たち。 その短い夏に花を咲かせようとしている、小さな花々たち。

  共に極北の自然の激しさを共有してきた者だけが言える、生きものを見つめる慈愛に満ちた心!

  ただの、傍観者にすぎない私にとって、これほど説得力のある言葉はなかった。

  星野道夫さんは取材中にクマに襲われて命を落とされてしまいました。

  奥様のコメントの中で、「私も主人と一緒にアラスカの激しい自然の中に身を置いた事がある。だか

  ら、アラスカの激しい自然の冬の厳しさを知っています。

  自然の中で、精一杯生きている存在を許せないはずがない。」と言われていた記事に感動してメモを

  取って今まで温めて持っていました。

 苦しさ、辛さを共に共有した者から滲み出る真実の慈しみの愛を感じさせて貰いました。感謝します。

  

               

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  雨にも負けず・・・この詩に秘められた、宮沢賢治と斎藤宗次郎の物語を知ったのは、以前、成増教

  会にいらしてた久保有政先生の“レムナント”の中で話されていたのを読んで知りました。

  久保先生も又私に神様を信じるきっかけを教えてくれた恩師です。

  

  さて斎藤宗次郎は内村鑑三の影響をうけて、岩手県で初めてのクリスチャンになりました。

  その当時。キリスト教は「ヤソ教」と呼ばれ多くの人々から、軽蔑の眼でみられていました。

  宗次郎も花巻では村八分の扱いを受けていました。 多くの嫌がらせを受けそれはそれは辛い寂しい

  生活の中で、ある時、宗次郎の愛娘の愛子ちゃんが「ヤソの子!」「ヤソの子!」といじめられ

  お腹を蹴られて、それがもとで亡くなってしまったのです。

  それでも宗次郎は、神様の愛を信じ、我身をもって、人々にキリストの愛を示したのです。

  冬は通学する子供たちの為に雪かきを欠かさずやってあげる。小さな子供にはおんぶをしてあげた

  そうです。 宗次郎の毎日は人々の為の祈りと神様への感謝の祈りでした。

  そしてある時、内村鑑三から招かれ東京へ行く事になり、花巻の駅に行くと花巻の駅は宗次郎を

  見送る人で一杯になっていたそうです。町長をはじめ、神主、僧侶にいたるまで、花巻のすべて人

  が見送りに来たと言ってもおかしくないくらい、大勢の見送りの人々でいっぱいだったそうです。

  その中に宮沢賢治も居ました。 宗次郎が東京で生活するようになって、最初に手紙をくれたのは

  宮沢賢治だったそうです。 

  見送る人など誰もいないと思ってた花巻の駅は大勢の人に埋め尽くされてた。

  宗次郎の我身をもって示したキリストの愛が人々の心を動かし宮沢賢治の心をも動かして

  法華経の人、宮沢賢治にこの『雨にも負けず 風にも負けず・・・・・・』の詩を書かせた。



  斎藤宗次郎は内村鑑三を最後まで看取った人でもあります。

  内村鑑三には多くの著名な弟子がいました、有島武朗、志賀直哉などみんな内村鑑三から離れて

  行く中で、斎藤宗次郎は内村鑑三を最後まで看取ったキリストの愛の実践者です。

 
  野の花の小道に咲く一本のゆりの花のように!

  

  

  

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  今日のメッセージはルカ19章1〜10節を取り上げて話ていた。まるで聖書講義かゼミのようなメ

  ッセージで私の心の中まで御言葉が響いて来なかった。生活の中への適応が、少しも感じられなくて

  自分自身何故か寂しくなってしまった。 こんな事思ってはいけないと思っても、わかっていながら

  つい、松沢さんだったら、どのようなメッセージをするのかな?と思ったら寂しくなってしまい、

  交わりもしないで、すぐに帰ってしまった。  このブログを見てくれている成増教会の兄弟、姉妹

  たち、自分だけかな、こんな風に感じてしまうのは、まだまだ駄目だな!神様を見つめる事が出来な

  くて、やっと気持ちが立ち直ったと思ったのに。この世の中にどのように御言葉が生きていて、生活

  の中に適応されるのかを求めているのに。・・・・・・

  当時、パリサイ人は無学で無知な一般の人々を「地の民」といって軽蔑していました。特に娼婦や

  取税人などは、無学で戒めを破る罪深い者として差別し、嫌悪していたので彼達の御国への道は

  閉ざされていた。特に取税人はローマの手先として徴税し私腹を肥やしていたので、盗人としてみん

  なに軽蔑されていた。 「モーセの律法」はイエスさまの時代では600をこす戒めがあったといわ

  れています。日々の生活の糧に追われている貧しき者たちは、戒めを守れるはずがなく。

  そういう訳で、御国への道はかたく閉ざされていました。イエスさまはそんな弱き者小さき者をその

  律法から解き放なし救いの手を差し伸べる為に彼達の所へ来てくれました。

  ザアカイもその一人でした。イエスさまの噂を聞き、彼の心の中は閉ざされて諦めていた御国への道

  をイエスさまにすがりたい気持ちがあったと思われる。それは後に、「主よ。ご覧ください。私の

  財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして

  返します」と言っているのは、自分の犯した罪への改心とイエスさまの救いを受けたい心の現れだと

  感じられるのです。みんなから嫌われ者のザアカイは自分からイエスさまにすがる事は出来なかった

  ただ一眼でも姿が見たい一心から、でも背の低いザアカイは人の影で見えないので、先回りして、い

  ちじく桑の木に登ってイエスさまを見ようとする。そして、イエスさまは「きょうは、あなたの家に

  泊まることにしてあるから」と言われる。 私はこのところが一番嬉しい!

  ザアカイはこんな嫌われ者の罪人に声すらかけてはもらえないだろう。でもザアカイの心の中には目

  を向けて欲しい、声をかけて欲しいという気持ちがあったはずだと思う。だからただ一眼でも姿が見

  たい。そんなザアカイにイエスさまは声をかけてくれた、しかもイエスさまはザアカイの心の中を前

  から見抜いていて、「泊まることにしてある。」って言うんだよ!こんな嬉しい事はないよね!

  私の小さい子供の頃、引っ込み思案で、みんなが先生と楽しそうに遊んだり、話をしているのを仲間

  に入れず遠くでよく見ていた事があった。先生が自分に声をかけてくれないかな、気が付いてくれな

  いかな思っているのに、でも気が付いてくれず子供心にもすごく寂しい思いをしたことがあった。

  イエスさまの愛の深さがここに表れているよね!隠れた影の部分に光をあててくれる慈愛が表われて

  いるよね!

  それからね、律法の戒めの中には汚れた動物、たとえば豚など、また水の中にいるウロコのないもの

  は食べてはいけないとか、一日の食にも事欠く貧しい人たちにとって神の怒りを恐れながらも罪を犯

  す者も大勢いました。でもイエスさまはマルコ7章19節に在るとおり、「すべての食物はきよいと

  された」これも貧しき者、弱き者へイエスさまの慈しみ、憐みの愛が注がれたことの現れだと思う。

  弱きゆえに、小さきゆえに、貧しきゆえに御国への道を閉ざされていた人々の救いの為に地に降りて

  来られたイエスさまの栄光に感謝の祈りを捧げます! アーメン!

  

  私達は光のあたるところで無く、あたらないところ、強いところで無く、弱いところに目を向けられ

  るような愛を持ち続けたいものですね!

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       アメリカ横断の時のアーサーと松沢さんと私(インディアンのテントの前で)

  
  以前にも書いたことありますけれど、もう一度この祈りにふれてみたくなりました。

  このインデイアンの祈りは、なんと素直な、なんと謙遜の溢れた祈りでしょう!

  
  ある本にこう書かれていました。

  『私達がキリストの愛を通して父なる主の愛をうけるには、徳でなくして謙遜であること。

  自力に恃んで努力精進する事でなく、自己の一切を捨て、くずれる心、己れに恃むところのない事を

  知って、へりくだる心、貧しき心、悲しめる心、憂うる心である。』


 ローマ書  1章20節

  神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、

  被造物によって知られ、はっきりと認められるのである


 また、道元は「正法眼蔵」の中でこのように言っている。

  『自然はこの世に流れる真理を、何一つ隠していない』

  森はあからさまにある、我々が生きる真理は一本の木にも、一匹の虫にも、一滴の水の露にもすべて

  明らかにされている。

  森を前にし、何も感じないとしたら、感じられないほうに問題がある。



 “ 美の中を歩かせて下さい

  赤と紫の夕陽を見させて下さい

  私の手に彼方の造った物を 愛でさせて下さい

  彼方の声を私の耳に届かせて下さい

  彼方が我が人々に教えた事を理解出来るように 私を賢くして下さい

  彼方がすべての葉や岩の影に隠した教えを学ばせて下さい

  それは兄弟よりも強くなる為ではなく

  一番手強い敵 自分自身と戦う為です

  いつも清潔な手と素直な目で 彼方の元へ向かえる様に私に準備させて下さい

  消えゆく夕陽の様に私の人生が 消えゆく時

  私の霊が恥じる事なく 彼方の元へと向かえる様に ”


  
  このインディアンの祈りは そのままクリスチャンの立派な祈りでもあります!

  道元の中にも、法然の中にも、また親鸞の中にも、そしてネイティブアメリカンの中にも

  自然を通して語られてくる、大きな存在は一つである。

  そこには、聖書も無ければ経典も無い! 生の神のメッセージが聖書や経典というフィルターなしに

  ダイレクトに伝えられる!  

  自然とは偉大なるものであり、偉大なる神の力でもある!

  道元の言葉をかりて言うなら、 

  自然を前にして、何も感じないとしたら、感じられないほうに問題がある。


 五体投地 という祈り方が仏教にある。全身を地に投げ出して仏に祈るチベット仏教によくみられる。

  もし自分に負い切れない重荷を抱えている人がいるならば、一度すべてのものを脱ぎ棄てて

  裸の自分を自然の中に投げ出してごらん。

  裸の心で自然を感じてごらん

  涙があふれ出てくるよ

  よろこびがあふれ出てくるよ

  感動があふれ出てくるよ

  ほら それが神さまが、あなたに与えてくれた命なんだよ! 生命力なんだよ!



  天地創造の神、父、御子、御霊の神に ハレルヤ!  
  


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