荒野の狼

気張らずにありのままの自分でいよう。

風の唄

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命日

 
松沢牧師・四周忌
 
 
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国木田独歩の『武蔵野』を思いめぐらす様な、美しい自然の中にある、『武蔵野霊苑』に松沢牧師は眠っている。
今日、12月21日。仕事で徹夜明けのもう若くは無い体を引きずる思いで、彼の墓参りをしてきました。
 
先にお参りした人がいたらしく、可愛らしい花が生けられていて、その可愛い花束に挟み込んだ小さなメッセージ・カードを見つけた。 
 『メリー・クリスマス  先生わたし結婚することになりました』と可愛い文字で書かれていました。
言葉では言えない何かホンワリと言うのかホノボノと言うのか、松沢さんの人との係わり方の優しさを感じさせてくれる様なメッセージでした。
 
毎年私はこうして彼に会いにくるのです。遠くに見える秩父連山を眺めながら、話しかけるわけでもなく、只墓石に腰掛けて、山を見ながらのひと時を過ごしにくるのです。近くには武蔵野のもうすっかり葉を落とし切って枝と枝との間から晩秋の空を覗かせている雑木林。冷たい風に身をかがめながら、彼と共有しているこの空間に友と居る安らぎを感じにくるのです。
 
松沢さん! 松沢さんを今もなお慕ってくれている人たちが大勢いるよ!
このブログを通してその思いを語ってくれている人もいるよ!
幸せ者だね!松沢さん!
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心の中に生きる

 
心の中に生きる

 
 
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四年前の12月21日。
会社を出庫して一時間ほど走っていたら、携帯に電話がかかって来た。「松沢先生が死にました!」教会の役員からの電話でした。あまりにも唐突な話だったのですぐには受け止められずに何回も聞き直しました。「Sさんも死にました。」  「え!」・・・・・状況がますます理解できず頭の中がパニックってしまい、その事態を受け止めるまでかなりの時間がかかったのを思い出します。
「嘘だろう・・・嘘だろう」と呟いていました。時間がたつにつれて言い知れぬ失望感と寂しさが襲ってきた。
 
ああ〜あの忌まわしい日から4年の歳月が流れてしまったのだなぁ・・・・・。
4年と言う歳月は、成増教会も平穏を取り戻し今では何もなかったように素晴らしい賛美礼拝が行われている。
松沢秀章も何時しか忘れ去られていくのだろう。それでいいのかもしれない。
 
アーサーや松沢さんが立ち上げたバイク・ミッション『ロード・エンジェルス』にあこがれバイクに乗って集まってきた連中も、何時しかバイクを降りた。       
当時バイク・ファッションで教会に来ていた奴もそれを脱ぎ捨て、変わり身、早く何もなかったように賛美し祈っている姿を見ると何処か寂しくなってくる。
 
俺みたいな馬鹿野郎は、今だにバイクを乗り回し今も変わらずライダースの皮ジャンを着て礼拝している。
バイカーも偽物と本物がいる! 一つが好きになったら、とことん好きになる。
信仰も同じ!変わり身の早い信仰もある! ジーザスを愛したらとことん信じて愛していくのが俺流!
 
松沢秀章!忘れ去られてもそれでいい!俺の心の中に昨日のように生きているのだから。
イエスさまと一緒に・・・・・・。
 
 いつまでも、いつまでも松沢秀章とアーサーと私はブラザーなのだから!
     
 いつまでも、いつまでも忘れないよ!松沢さん!
 
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新しい教会

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畑の中に建っている可愛い教会! 主任牧師は高橋武夫牧師。イメージ 2
 
『決して戒律を守らなければならないといった、窮屈なところでもありません。むしろ、教会は人間にとって真の自由を知ることのできる場所といえます』
 
『教会とは安らげるところだと思います。こどもにとっても大人にとっても、です。そして地域の人々にも開放したいと願っています。こども達の「声なき叫び」に耳を傾け、「家庭の次にくつろげるところ」「誰も裏切らない仲間のいるところ」として、こどもたちの安心して集える「溜まり場」として利用していただきたいのです。教会とは安らげるところだと思います。こどもにとっても大人にとっても、です。そして地域の人々にも開放したいと願っています。こども達の「声なき叫び」に耳を傾け、「家庭の次にくつろげるところ」「誰も裏切らない仲間のいるところ」として、こどもたちの安心して集える「溜まり場として利用していただきたいのです。』
 
この牧師さんの教会へ行ってみようと思いました。
 
亡くなった私の友、松沢牧師が新たに創り上げようとしていた教会は、イエスさまの御言葉のとおり
   「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」
安心して憩える、安らぎの場所である、教会でした。
自分の居場所を無くして、教会に躓き、教会を転々としている若者も多くいました。口コミで松沢牧師のうわさを聞いてやってくる人もいました。初めて教会へ行ったけれど教会の雰囲気になじめず行かなくなってしまった若者もうわさを聞いてやってきました。
松沢牧師の建ち上げようとしていた教会は、教会という枠を取っ払って、上手く祈れなくても良いじゃないか!
証しが世間話でも良いじゃないか!なんとなくその教会へ来ると気さくな仲間がいて、ホッとできる場所、日曜日の午後あの教会へ行くと安らげる!教会へ行くのが皆に会えて楽しい!そこから出発しよう!そこからイエスさまの愛の中に導かれれば良いじゃないか!
彼はいつも皆と同じ目線でいた。だから『秀!』とか『松っちゃん!』とか親しく呼ぶ若者もいました。
いつも、いつでも「アンダースタンド」の世界だった。
アンダースタンドから語る彼のメッセージは躓いた若者のこころの隙間をイエスさまの愛で満たすのに充分だった。
私自身、教会をさ迷う者となってしまった今、新たに・・・・・・
 
『決して戒律を守らなければならないといった、窮屈なところでもありません。むしろ、教会は人間にとって真の自由を知ることのできる場所といえます』
 
高橋牧師のこの言葉に心動かされ新たな教会を見つけた思いでいます。
松沢牧師が亡くなって12月21日で4年を迎えようとしております。教会を定めるその時が来たような気がいたします。
 
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のぞみ教会のメッセージより

野の花を見よ

野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
(新約聖書マタイによる福音書
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 人は厳しい生活にさらされると自然に目をくれるゆとりまで無くします。キリストは当時の貧しい群衆に対し、空の鳥や野の花に注意を促しました。もちろん、風雅な生活をお勧めした訳ではありません。「何を食べようかと命のことで思い煩い、何を着ようかと体のことで思い煩うな」と語られましたように「生活の思い煩い」をいさめるためでした。
イメージ 4当時のイスラエル民族はローマ帝国の圧政の許で明日食べるパンや洗い替えの衣服さえままならない生活をしておりました。そんな彼らが生活と信仰の唯一の規範として読んでいた律法の書(旧約聖書)には、かつてイスラエルが誇った「ソロモン王の栄華」が眩しいように記録されていました。例えば、レバノンにあったソロモン王の別荘の厨房には、そのすべての器が金で出来ていて銀の器は一つもなかったと記されています。銀はソロモンの世には尊ばれなかったとまで記されております。いつしか「ソロモンの秘宝」の伝説が生まれたのも無理からぬ ことかも知れません。
 
ですから、イスラエルの民は現実の生活の厳しさが増すほどにソロモンの栄華を理想としてそんな時代の再来を夢見ていたのです。 山上の垂訓の場所と思われている所には今日でも野の花が咲き乱れております。キリストは多分その花を指しながら、あなた方が日々に夢見ているあのソロモンでさえこの花一つほどにも着飾ってはいなかった、と言われたのです。キリストのこの意表をつくような教えはいったい何を意味していたのでしょう。富の象徴とまで見なされたソロモン王の栄華ははかなくも彼一代で終わりました。そして、次の代には国が南北に分裂し、やがてアッスリアやバビロンの相次ぐ侵略を受けて滅びてしまいました。ことの真価を問う一つのバロメーターにどれだけ長持ちするか、或いは長続きするかがありますが、まさにソロモンの栄華は華やかながら短い命でした。
 一方、野の花はどうでしょう。ときに刈られて炉で燃やされ、また冬枯れの季節には跡形もなく消えてしまいますが、暖かな春の訪れと共に再び芽吹き、人の目を楽しませてくれます。それは名もない小さな野の花であっても神さまが命を与えられておるからです。
 
自然を通して神さまが育まれるままに委ねきっている野の花や空の鳥から、わたしたち人間も「神への信頼」を学びなさいとキリストは教えられたのです。

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アドベントの3週に入り、今日のメッセージはヨハネの福音書1章14節〜18節から語られました。
 
『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』
ヨハネの福音書の最初にでてくる誰でも知っている御言葉である。
 
そして  『ことばは、人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとからこられたひとり子としての栄光である』(14節)
 
  
ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ,東方の博士たちがエルサレムへやって来て、こう言った「ユダヤ人の王としてお生まれになったお方はどこにおいでになりますか。わたしたちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
                                                                                                                                        
すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子をみてひれ伏して拝んだ。
聖書にはこう書かれています。
 
そしてヨハネの福音書1章18節にはこう書かれています。
『いまだかって神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。』
つまり初めて神は受肉し神の存在を私たちのまえに示されたました。
 
アドベントの3週を迎えた今日、街ではクリスマス・キャロルが鳴り響き、街のいたるところに、イルミネイションが輝いて、人々はプレゼントを贈るためのウインドウ・ショッピング、若いカップルはデート、子供たちはサンタさんに胸を踊らせて、街は光り輝いている。 いつもの年と同じ様に・・・・。
ああ〜でも、いく人の人々が厳粛な気持ちをもってクリスマスを迎えようとしている人々がいるのだろうか・・・・・。
1パーセントと言われている日本の現状を考えると少し空しさを感じてしまう。
 
星に先導されてイエスさまのもとへ歩んで行った博士や羊飼いのように心踊らせてイエスさまを迎えよう。
迎えるその日までの、その一歩、一歩、その一日、一日のうちに心からイエスさまを迎える祈りと賛美をクリスチャンである私たちは持って歩んでいきましょう。
クリスマス・プレゼントとは、『神さまがひとり子“イエスさま”を私たちの救いのため、この世に人となられて贈られた』のがクリスマス・プレゼントなのです。神さまから贈られた『愛』のプレゼントなのです。
 
十字架のうえでイエスさま涙を流しておられます。『わたしの愛にこたえてもらえないのか!十字架に架けられた神のあれはどの愛に わたしはあなたたちの鎖の重さを背負った 鞭に背を曲げた それなのに・・・・・』
 
十字架のキリストに目を向ける人は1パーセントしかいない!
神の愛を知る人は1パーセントしかいない!
孤独なキリストが十字架のうえにいる!
ゲッセマネの血の汗流した祈りのなかで、眠ってしまった弟子たち!
神の与える時を見逃さぬいよう、いつも神さまに目を向けていよう!
 
メリー・クリスマス!この世が神さまの愛で満たされますように!
 
 
 
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 のぞみ教会・主任牧師
高橋武夫師のメッセージに思う。
 
 
 
 
 

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 アメリカ横断の時のアーサーと松沢さんと私(インディアンのテントの前で)

  
  以前にも書いたことありますけれど、もう一度この祈りにふれてみたくなりました。

  このインデイアンの祈りは、なんと素直な、なんと謙遜の溢れた祈りでしょう!

  
  ある本にこう書かれていました。

  『私達がキリストの愛を通して父なる主の愛をうけるには、徳でなくして謙遜であること。

  自力に恃んで努力精進する事でなく、自己の一切を捨て、くずれる心、己れに恃むところのない事を

  知って、へりくだる心、貧しき心、悲しめる心、憂うる心である。』


 ローマ書  1章20節

  神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、

  被造物によって知られ、はっきりと認められるのである


 また、道元は「正法眼蔵」の中でこのように言っている。

  『自然はこの世に流れる真理を、何一つ隠していない』

  森はあからさまにある、我々が生きる真理は一本の木にも、一匹の虫にも、一滴の水の露にもすべて

  明らかにされている。

  森を前にし、何も感じないとしたら、感じられないほうに問題がある。



  美の中を歩かせて下さい

  赤と紫の夕陽を見させて下さい

  私の手に彼方の造った物を 愛でさせて下さい

  彼方の声を私の耳に届かせて下さい

  彼方が我が人々に教えた事を理解出来るように 私を賢くして下さい

  彼方がすべての葉や岩の影に隠した教えを学ばせて下さい

  それは兄弟よりも強くなる為ではなく

  一番手強い敵 自分自身と戦う為です

  いつも清潔な手と素直な目で 彼方の元へ向かえる様に私に準備させて下さい

  消えゆく夕陽の様に私の人生が 消えゆく時

  私の霊が恥じる事なく 彼方の元へと向かえる様に 


  
  このインディアンの祈りは そのままクリスチャンの立派な祈りでもあります!

  道元の中にも、法然の中にも、また親鸞の中にも、そしてネイティブアメリカンの中にも

  自然を通して語られてくる、大きな存在は一つである。

  そこには、聖書も無ければ経典も無い! 生の神のメッセージが聖書や経典というフィルターなしに

  ダイレクトに伝えられる!  

  自然とは偉大なるものであり、偉大なる神の力でもある!

  道元の言葉をかりて言うなら、 

  自然を前にして、何も感じないとしたら、感じられないほうに問題がある。


 五体投地 という祈り方が仏教にある。全身を地に投げ出して仏に祈るチベット仏教によくみられる。

  もし自分に負い切れない重荷を抱えている人がいるならば、一度すべてのものを脱ぎ棄てて

  裸の自分を自然の中に投げ出してごらん。

  裸の心で自然を感じてごらん

  涙があふれ出てくるよ

  よろこびがあふれ出てくるよ

  感動があふれ出てくるよ

  ほら それが神さまが、あなたに与えてくれた命なんだよ! 生命力なんだよ!


天地創造の神、父、御子、御霊の神に ハレルヤ! 
 
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   『以前に載せたブログですけれど・
       もう一度載せてみたくなりました。』
 

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