楽山日記

本、映画、ドラマ、音楽、人生、思想、生活…など、風の吹くまま気の向くままに綴ります。

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思い起こせば、自分がハマっていたカルトは、人間の本質については次のように規定していた。

・人は神の子であって、神と同一の性質を有する。
・人の内奥には神性が宿っており、それを顕現させれば神と合一できる。
・人は自らの霊性を磨き、高めることで進化し、神となることができる。
・人は心の曇りを晴らすことで、天上界と同通し、高級諸神霊のメッセージを受け取ることができる。
・人は心の曇りを晴らすことで、霊道を開き、霊能力を得ることができる。
・人の本質は霊であって、永遠の生命を有する。
・人の能力に限界はない。思ったことは実現する。だから自分にはできないと自己限定をしなければ、無限に発展してゆくことができる。
・キリスト教でいうところの原罪だとか、罪の子などという考え方は間違いである。人の本質は神とつながっている。

これらをまとめていえば、人は本来、神であって、永遠、無限の存在であるということ。高度な悟りを得れば、意識は宇宙大に広がり、宇宙即我、梵我一如、神我一如というような境地に達すると…。

   *

自分は信者だったので、上のような人間観を信じていたわけだけども、今になって冷静になってみれば、
このような人間観は、自己肯定感を高め、より積極的な生き方を後押しするという良い面もあるだろうけれども、
鼻持ちならぬほどの高慢さを生み出すという一面もあったのは確かだ。

まあ上の思想を信じたゆえに、高慢になったり、反省しなくなったりする者が出たとしても、
それは上の思想が悪いというよりも、その者の解釈、理解がまちがっているとも言えるわけだけれども、
たとえそういう場合であったとしても、上の思想自体が、そういう勘違いを生みやすいという欠点を持っていることは否定できない。

こう考えると、思想というものは本当にやっかいであるし、それを信じるときにはよくよく注意しなければならないんだなあと思う。

   *

ちなみに自分みたいなお調子者は、人は神の子か、罪の子かは証明しきれないことだろうし、
それだったら真ん中を取って、その時々で二つの考え方を活用したらいいんじゃないかと思ったりもするが、
多分これは、無宗教的な考え方であって、熱心な信者からしたら受け入れ難いものだろうなあと想像する。
やっぱこの種の問題は難しい。

〈了〉





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人間関係は難しいというけれども、その理由の一つに言葉が伝わらないということがあると思う。

そして、言葉が伝わらない理由は、大きく分ければ、話し手の問題と、聞き手の問題ということになりそう。

まず話し手の問題としては、自分の気持ちをきちんとした言葉にできているかということがある。心にもないことを言ったり、話すことがコロコロ変わったりしては、相手はそれを理解するのは困難である。

また、そもそも自分の気持ちを言葉に出さないのでは仕方がない。いちいち口に出さなくても、自分の気持ちを察してくれるはずだというのは、価値観の多様化が進んでいる現代ではなかなかに難しい。

話をするタイミングも大事になる。どんなにいい言葉でも、場違いであれば、受け入れられるどころか、反発されかねない。

聞き手との関係性も重要だ。ある程度の信頼関係ができていないと、スムーズな対話は難しい。スムーズな対話を望むなら、まずは良好な信頼関係の形成が必要。

聞き手の問題としては、まず読解力がある。相手の言葉を読み解く能力がなければどうにもならない。

また偏見を去る必要もある。相手のことを悪党だと決めつけて、毛嫌いしていたなら、相手がどんなに丁寧に話したとしても、裏に何かあるに違いないと邪推し、それをそのままに理解することはできないだろう。

自惚れも要注意だ。自分は絶対に正しいと思い込んでいたら、耳に痛い言葉を素直に聞けるわけもない。

いやはや、こうしてみると、会話というのは、すごく難しいものなんだなあと思えてくる。良好なコミュニケーションが維持できている状態は、まさしく奇跡である。

愉快な会話ができる相手がいるということは、本当に貴重だし、ありがたいことでもあるし、そういう人は大切にしなくちゃいけないなあと思う。

〈了〉





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かつて自分が所属していたカルトは、ものごとの正邪を非常にやかましくいう団体だった。

たとえば、こんな感じである。
「当団体は正しい宗教であるが、あの団体は邪教だ」
「当団体は正しい教えを説いているが、あの思想は邪悪だ」

さらには、こういう主張もよく聞かされた。
「我々は神の正義を体現しているのである。それを認めない彼らは悪であり、悪霊悪魔と同じだ。改心しなければ地獄に堕ちるだろう」

まさしく、自分らは真っ白で、他者(批判者)は真っ黒だという考え方である。

この結果どうなったかというと、今この団体の人々は、他者の意見に耳を傾けることはできなくなり、外部の人々との交流は薄れ、同じ信仰を持つ仲間だけで固まり、カルト化に歯止めが止まらなくなってきているようだ。

これは、正邪を単純に分かち、なんでもハッキリ白黒つけたがる考え方の危険性がよくわかる事例であると思う。

   *

思うに、現実の世の中は、白黒でバッサリ分けられるほど単純なものばかりではない。

たとえば、どのような団体であれ、良いところもあれば、悪いところもあるものだ。
また、どういう思想にも、良いところもあれば、悪いところもある。
完全に真っ白な団体や思想なんて無いし、完全に真っ黒な団体や思想も無い。これが現実。

自分はカルト信者だったころは、こんな当たり前のことも分からず、なんでも単純に正邪、白黒を決めつけてしまい、、ものごと一つ一つのプラス面、マイナス面を考えることを怠っていたのだった。
この点、本当に反省しないといけないなあと思う。

カルトに染まると、思考力を失うというけれども、これは本当に怖いことである。

〈了〉





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*st自由同一人物説!?
先日、他所の議論にコメントを入れたら、そのせいで自作自演の嫌疑をかけられてしまいました。

・STさんは複数のハンドルネームを使って多重人格を形成し他者を攻撃しています。|The Gate of Heaven

これはあまりに頓珍漢だし、いちいち反論する気にもならなかったけど、その後、思うところあって、やっぱり何か書いといた方がよいと考えを改め、記事にすることにしました。


*横レス問題
まずはこの辺りを読むと、Yさんは、議論の当事者でない私が横レスしたことを問題視しているようです。

その荒らし行為に私が対抗している最中(さなか)、ど真ん中に、「自由」さんが
突然割り込もうとしました。
突然でした。
通常、激しいやりとりが行われているところに 誰も横レスなどしません。

 これはまあ、普通はその通りなんだろうと思います。
ただ私は、他所でカルト信者との喧々諤々の議論を見たり、やったり、横レスしたり、されたりしてきた経験があるせいか、この辺りのことはあまり気にしない方です。


*配慮の内容
配慮うんぬんは、率直に申し上げると、よく分からないですね。

当日、二度目のコメントは 自由さんに配慮して、stさんから見えないように 
承認ボタンを押さず、
そのままとし、自由さんには その旨伝えました。

私としては、私のコメントが承認公開されなかったのは、
Yさんが読めばそれで十分であること、
承認公開されるとYさんとstさんとの対決の邪魔になることなどが、理由だろうと思ってました。


*ポチ君よろしく
これは迂闊ながらも、思わず笑ってしまった。わんちゃんみたいだったであるしょうか。

自由さんはstさんの、わんちゃんのポチ君よろしく、手先のようになって
内容を 報告していました。

これについて、コメント欄の流れを見ていただければわかると思うけど、
stさんが、承認されていないコメントがあることに疑念を表明し、それが新たな火種になりそうな気配があるでしょう。
だから私は、それは大して問題視する必要ないですよと、stさんに伝えようとしたのです。
見方を変えれば、未承認コメントがあることをもって、Yさんがstさんから非難されないようにしたってこと。

私は自由さんに配慮していたのに、、何を自由さんはしている!?と不思議でした。

それは申し訳ないことをしました。すみません。
私の方では、上で述べた通り、私のコメントが公開されなかったのは、議論を円滑にするためのものだと思ってました。
だから、新たな火種が生じないようにコメント内容を伝えるのは、この目的にかなうものだろうし、かまわないだろうという考えてました。

どうして、私が わざわざ 未承認にしてあげて、気をつかって配慮していたのに、
自由さんは、
何のことは無い、stさんに 報告している。

 見当ちがいだったらすみませんけど、気を使って未承認にしてあげたというのは、ひょっとしたら、私のコメントが謝罪コメントだったからでしょうか。
謝罪コメントを公開されたら私が恥ずかしいだろうと思いやったということ? 違うかな?
ともかくも、せっかくの配慮を無にしてしまったようで申し訳ありません。


*別人ですよ
ところで、コメント欄の流れから、
stさんは、Yさんが未承認コメントに返事を書くまでは、未承認コメントがあることを知らなかったらしいことがわかります。
また、stさんは、私が自分の未承認コメントの内容を伝えるまでは、それを知らなかったようです。
以上をまとめると、私は未承認コメントがあることも、その内容も知っていたが、stさんはそのどちらも知らなかったらしいということです。
これはつまり、シンプルに考えれば、stさんと私は別人だという結論になるかと思います。


*同一人物?
この辺りは、同一人物だと断定してしまってますね。

stさんと自由さんは同一人物です。

ハッキリ明言しておきますけど、stさんと私は別人です。
思い返してみれば、たしか、stさんは、Yさんから嘘を書かれてるというような発言をしてたかと思いますが、
正直、自分にはこれについては真相は分かりませんでした。
Yさんによるst批判は、事実に則ったものか、嘘、歪曲、捏造があるのかは、いまいち分からなかった。
でも、st自由同一人物説などというデタラメを事実であるかのように宣伝しているのをみると、他のst批判についても似たようなものなのかなあと想像しないわけにはいきません。残念です。


*根拠について
記事には、st自由同一人物説の根拠について、いろいろ並べてあります。
私は、stさんではないので、stさんに関わる部分については答えようはないですけど、自分に関することなら答えられるので、その部分について書いてみます。

stさんは自由という言葉を好むのがすぐわかる、だから別のブログのハンドルネームには自由と名付けたようだ。

私が「自由」と名乗ってるのは、マインドコントロールからの自由とか、そういう意図があってのことです。
恥ずかしながら私は、過去にカルトにハマっていた時期があるので、そういう名前にしたわけです。

両ブログとも 思考パターンが非常に似ている。例えば、AがAなら〇、AがBなら×、AがBなら△dなどの分析的思考をブログ上でしていた、。 

分析的思考というのは、ある程度ものを考える人なら、誰でもやることであって、分析的思考が共通しているから同一人物だといわれても困ります。
それに私は、分析、論理は大切とは思いますが、それ以上に内省的であることを大事に思ってます。
分析的論理的であっても内省的でない人の言葉は薄っぺらいけれども、分析的論理的ではなくとも内省的な人の言葉は奥深いことが多いので…。

ところで、Yさんも、Mさんも、どちらも文末に「、。」と書きますね。
分析的思考が共通してることよりも、こういう特殊な文字遣いが共通している方がよほどあやしく、同一人物であることが疑われるのではないでしょうか。まあこれは冗談ですけど。

言葉使いまたは同じ語句の使用、そして言い回しに類似点が多くある。たとえば、「である・直感・論法・共感・様相を呈す・正直・」他にもあるが省略。

ここで例示されてる言葉は、さほど特殊でなく、誰でも使うものでしょう。
「直観、論法、共感、正直」は誰でも使う言葉だし、「様相を呈す」はよくある決まり文句です。
また、日本語の末尾は、大きく分ければ、「だ、である」体と、「です、ます」調の二つしかないのに、「二人とも『だ、である』体を使ってるから同一人物だ」というのは無茶です。
なんかこういうのって、「stも、自由も、どちらも日本語を使っているから、二人は同一人物にちがいない」と言われているみたいで、変な感じです。

ちなみに私から見て、stさんの言葉で印象に残ってるのは、「訂正不能」という言葉です。私だったら、この場合は、「反省できない」という表現にするだろうと思います。
でもstさんと話すときは、流れを重視して、「反省できない」を「訂正不能」に置き換えて話すかもしれません。
多分だけど、他の人にもこういうことはあるんじゃないかなあと想像します。
つまり、言葉遣いは、相互に影響し合う側面があるから、二人の言葉遣いが同じであることをもって、二人の間に交流があるだろうことは推定できても、、二人は同一人物であるとまでは断定できないってことです。

私とマリアさんをstさんがカルトだと言い始めたら、タイミングよく自由さんはカルト記事を書いた、そしてそれをstさんは即座に 自由さんの記事から転載した。 それはタイミングが良すぎる。

当ブログをご覧いただければ理解していただけると思いますが、私は前々からカルト問題に興味があり、その方面の記事を書いてます。
だから、カルトか否かの議論に注目し、触発され、自らの過去の反省の意味もあって、その種の記事を書いたということです。
ちなみに、これより少し前、私は次の記事を読んでました。

・カルトの定義をめぐるあれこれ|藤倉善郎(やや日刊カルト新聞)|note

この記事中には、キリスト教では「正統派を自認する側から見た「聖書を流用する異端集団」というカルト観を表明する人たちがいます。感情的に仕方ないことなのかもしれませんが。」という部分があります。
この文章が記憶に残っていたせいか、私は、stさんがカルト云々と発言したときには、「カルト教団の信者」という意味よりは、「異端者」という意味合いなんだろうなあと思ったのでした。
あとは、Yさんらの発言を見ていて、「自分もカルト信者だった頃は、こういう考え方をしていたなあ」と思ったりもしたものです。この辺りが、自分の過去の反省に通ずる部分ですね。

上にも書きましたが、stさんと私で何十ものコメントのやり取りの最中に割り込んでこようとした事、通常の神経を持っている人間なら 入ってこないです、。 自由のハンドルネームはstさんと同一人物なので、気を使うこともなく、勝手気ままに横レスを入れられるのです。 

また、Mさんと同じく、「、。」を使ってますね。こういう句読点の使い方は他では見たことないですけど、流行りなんでしょうか。
まあそれはともかく、上にも書きましたが、私は他所で、カルト信者らとの喧々諤々の議論を見たり、参加してたりしてたせいか、横レスするのも、されるのも、あんまり気にならないタイプです。すみません。

あ、今、気が付きましたが、「上にも書きましたが」というのは、Yさんも使ってますね。でも、こういう慣用的な表現が被ったからといって、別にどうってことはありません。たまたまそうなっただけであって、Yさんと私とが同一人物ではないのは当たり前です。
言葉遣い、語彙、決まり文句…などは、同一人物でなくとも、やり取りする間柄であれば、たとえそれが協調関係であろうと、敵対関係であろうとも、相互に影響し合うものですから、似てくるものなんですよね。

あとは、自分で言うのも何ですけど、私が人間観の話題を持ち出したのは、それなりの理由はありました。
お互いに人格批判して傷つけあうよりも、アブラハムは義人だったか、人は義人となれるのかという議論をした方が生産的だろうし、そちらの方に話題を転じられればと期待してたわけです。
まあ結果は、「バカは黙ってろ。バカが口を開けば余計に事態は悪くなる」という教訓通りになったわけですが…。とほほ。
私はリアルでも、空気が悪いと思えば、意図的にその空気を変えようとすることはあります。その時には、「お前、空気読めよ」と言う人もいれば、「お前、あんまり気を使いすぎるなよ」と言う人もいます。
私のやり方が下手だからこういう結果になるわけですが、後者は、人の内面を察するのに長けた方だなあと感心します。


*ものすごい怨念?
これは、stさんに向けて書いてるのか、私に向けて書いてるのか、その境目が判然としないですね。

この人は、どうしても私を否定したいようです。
抹殺したいようです。
最初は優しい言葉で近づいてきました。
しかし、彼の書いた文字には
ものすごい怨念が感じられました、
だから 自由さんには 即座に退出をさせました。
ふたりは 同一人物なのです。

上の方では、私に配慮して、コメントを未承認にしてあげたという感じでしたけど、
ここをみると、はじめっから私のことを疑い、拒絶してたみたいですね。
疑い、拒絶していた相手にも配慮を忘れないのであれば、Yさんは立派な方だと思います。


*コピペミス
次の文章は、私のコメントと、それに対するYさんの疑念です。
Yさんがいうには、「たぶん」のあとのマルがないのがおかしいということらしい。
(分かりやすいように、色を付けてます)

A:{ 「人間観の議論をしてはいません」という発言には、私も驚きました。
人は義人になりうるかはずっと議論してきたテーマだと思うので。
まあ今は忙しくて、そっちに手が回らないのでしょう、たぶん

2018/8/14(火) 午前 6:55 [ 自由 ]  

Aの文の最後が「たぶん」で終わっています、終わったのに
「。」が無く不自然です。 

この点については、私も指摘されるまで気が付きませんでした。
それで、下書きに使ってたテキストエディタを確認したところ、ちゃんとマルがついてました。
どうやら、テキストエディタから、コメント欄にコピペするときに、うっかりマルを外しちゃったようです。
まあ、よくある失敗だけど、これが真相です。


*つながってませんよ
Yさんの見方によると、stさんと私とのやりとりは、一つにつながるとのことです。(分かりやすく、色を変えておきました)

人間観の議論をしてはいません」という発言には、私も驚きました。
人は義人になりうるかはずっと議論してきたテーマだと思うので。
まあ今は忙しくて、そっちに手が回らないのでしょう、たぶん
  人間についても人間の言葉についても、神がかりと人間離れのために、失っている人のようです。
あと4日・・とか、何の意味か分からないけど露骨に脅してきてます。怖い人です。・・関わらないほうが無難でしょうけど、私の場合、そうもいかないような気持があるので、こちらで記事を書き、向こうでコメントを入れることになるでしょう。
コメントありがとうございます。
} 

Yさんによれば、上の文章(自由作)と、下の文章(stさん作)は一つにつなげても不自然ではない、だからこれらは、元々は、同一人物が、まとまった一つの文章として書いたものであり、あとで二つに分けたのだろうということらしい。
でも、私から言わせてもらうと、この二つの文章は大分ちがってます。いわば、木に竹を接ぐ状態です。

まず私とstさんの立ち位置にちがいがあります。私の方は、Yさん本人を直截的に批判したくなかったので、問題はYさんにあるのではなく、忙しさにあるのだろうとしてます。
一方、stさんの方は、正面からYさんを批判しています。問題は、Yさん本人にあるという具合です。
よって、二つの文章の立ち位置は大分ちがってます。

二人の立ち位置のちがいを分かりやすく書くと、こんな感じでしょうか。
たぶん、本人のせいではなくて、忙しさのせいなのでしょう
本人が神がかりと人間離れしているためのようです
もしこれを同一人物が書いたのだとすると、「本人に責任はないでしょう」としつつ、「本人に責任があるようです」としているわけで、随分と支離滅裂なものになってしまいます。
よって、これらの文章はつながらないし、立ち位置がちがう別人によるものだと分かります。


*主語は?
あとは、この二つの文章に共通する点を考えてみると、どちらもYさんについての文章だということがあります。言葉を補うと、こうなるでしょう。

(Yさんは) まあ今は忙しくて、そっちに手が回らないのでしょう、たぶん  
(Yさんは) 人間についても人間の言葉についても、神がかりと人間離れのために、失っている人のようです 。

一般に、こんな風に主語が同じであれば、つなげて読めたとしても不思議ではないです。
たとえば、こんな風に。

K 「(Aさんは)すごく優しい方ですね
J 「(Aさんは)人の心が分かる人なんでしょうね

これをつなげれば、こうなります。

「(Aさんは)すごく優しい方ですね。人の心が分かる人なんでしょうね

どうでしょうか? 二つの文章はきれいにつながっているのではないでしょうか。
stさんと私の場合は、立ち位置に若干のちがいがあるので、主語が同じでもつなげると不自然さがありました。
でも、KとJの場合は、主語だけでなく、立ち位置も同じなので、つなげると一人の言葉としか思えなくなってます。

このことから、Yさんが、stさんと私の文章はつながると錯覚してしまった原因がどこにあるか、およその見当はつけられそうです。
うっかりミスは誰にでもあることだし、これをもってYさんを責めはしませんが、元々、頭のいい人だろうし、先入観にとらわれず、じっくり考えればこんなミスはしなかったろうと思うと残念であるし、気の毒だなあとは思います。


*まとめ(別人です!)
つい先日、私はstさんのところにおじゃまして、的外れな批判に対しては、いちいち反論しないでもいいのではないかというようなコメントをしました。
でも、st自由同一人物説を真に受けてる人がいるらしいこと、いまだに的外れな批判が続けられていること、当該記事を読み返してみたことなどから、やっぱりこちらの意見も出した方がいいかなあと考え直して、この記事を書いた次第です。
stさんには、わざわざ反論の必要ないでしょうと偉そうなことを言っておきながら、あっという間に考えを変えるなんて、我ながら節操なく、情けないと思いますが、まあ仕方ありません。

というわけで、私の主張をもう一度繰り返しますが、stさんと私は別人です。このことは、強く強調しておきます。
すでに二人は同一人物だと信じ込んでいる人からしたら、それを修正することは難しいかもしれませんが、事実は事実、真実は真実です。二人は別人です。
この事実に反発する人に対しては、「すぐに、この事実を受け入れなさい」とまでは言いませんが、できればこれを機会に、もう少し考えてみてもらえたらなあとは思います。
以上、長い記事になってしまいましたが、最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。

〈了〉




*追記
けっこうな長文なので、もしかしたら、キモイと言われてしまいそうな気もしますが、
一つ一つの論点を、なるだけ丁寧に説明したら、こんなになってしまいました。まあしょうがないですね。





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自分がカルトにハマってしまった理由を考えると、霊的人生観を信じていたこともあるのかなあと思う。

霊的人生観というのは、大雑把に言えば、人の本質は霊であって、自らの霊性を高めるために、この世に生まれてくるというものではあるが、
こういう人生観からは、必然的に次の考え方が生まれる。

・前世からの縁を強く意識する。
「この人と出会ったのは、前世からの縁があるからだ」
「この人とは初対面のはずなのに、どうも昔から知っていたような気がする。きっと前世でも仲間だったのだろう」

・人に優劣をつける。
「この人は霊格が高い。だから判断力、理解力が優れている」
「あの人は霊格が低い。だから判断力、理解力が劣っている」
「この宗教の正しさが分かるかどうかで、その人の霊格は見当がつく。この宗教を正しいとする人は霊格が高く、正しくないとする人は霊格が低い」

・師を求める。
「自分の霊性を磨くには、霊格の高い師に学ぶ必要がある」
「師と出会うには、前世からの努力と縁が大切である」
「自分はようやく師と出会うことができた。自分はこのために幾転生も繰り返してきたのだ。この機会は絶対に逃してはならない」

こうしてみると、霊的人生観というものは、
身内だけでかたまり、批判者は霊格が低いと見下し、個人崇拝(教祖崇拝)を招くという、いかにもカルト的な思考を助長するもののように思える。

自分がカルトにハマったのも、こういう霊的人生観にどっぷり浸りきってしまったためもあるようだ。

   

もっとも霊的人生観には、心の慰めとして有用なところはある。
「死んだら終わりではない。人は霊として永遠に生きるのだ」
「死に別れた大切な人と、来世で再会できる」
「今生での苦労、努力は、来世で報われる」
という具合にである。

ただ、こういう良い所だけでなく、上で述べた欠点があることも確かだ。
どんな物事にも、プラス面もあれば、マイナス面もあるものだし、霊的人生観もその例外ではないのだろう。

だから霊的人生観について、そのすべては正であり、完璧であると信じ込んでしまい、マイナス面に対する警戒を怠った自分は、けっこうな代償を支払わされてしまったのだろう。

一般に宗教というものは、信じることを尊ぶものであるけど、
カルト的になるほど、信じきること…プラス面だけを見て、マイナス面は見ないことを求められるようだし、この点、注意が必要だ。

〈了〉





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