夫婦塚古墳・早良神王墓/金武古墳群
所在 福岡市西区金武
規模 墳丘径30m、高さ44.5m 全長11.5 円墳 (2号墳)
築 古墳時代後期 6世紀中期から7世紀の群集墳
『筑前国続風土記付録』に「(金武村)乙石の北二丁斗に石窟二あり、共に口は南にむかへり」と記された2基の古墳。市指定史跡。
複室の横穴式石室が、南側に向かい開口している。玄室は各面1石ずつの巨石で組み上げたもの。開口部から入り、巨大な石室の有様を見ることができる。
// 夫婦塚古墳・金武神王墓/金武古墳群をはじめとした室見が丘の古墳群の事 //
〜 室見が丘の古墳群 II.鉄と馬と新しい文化 〜 福岡市博物館資料より
古墳時代がはじまった頃、室見川(むろみがわ)左岸の日向(ひなた)川と竜谷(りゅうこく)川に挟まれたこの場所には古墳も集落もありませんでした。飯盛山(いいもりやま)を隔てた西側の今宿古墳群に古墳時代前期から前方後円墳が築造されたのとは対照的です。
ここに古墳がはじめて築かれたのは、古墳時代中期になってからです。室見川沿いの微高地上に帆立貝式(ほたてがいしき)古墳(吉武S1号墳)と方墳(吉武S2号墳)が作られました。1号墳は5世紀前半の早良(さわら)平野では最も大きな古墳で、早良平野一番の有力者の墓だったと考えられます。ほぼ同じ頃、竜谷川沿い台地上の金武城田遺跡でも円墳(城田2次1号墳)が作られました。古墳の規模は小さいですが、中国で魏〜晋の時代に作られた鏡が出土しており、稀少な海外からの文物を入手できる人の古墳だったとみられます。
これら5世紀前半の古墳が、最終的に百数十基を超える古墳が築造された、金武・吉武地区の古墳群の端緒となったのです。
2.やってきた鉄と馬と新しい文化 ―5世紀中頃〜6世紀前半―
竜谷川沿いは城田2次1号墳以降、古墳が築造されなくなりますが、吉武S1号墳群の周辺では継続して古墳群や集落が営まれています。吉武遺跡群の生活遺構や古墳から、韓半島南部からやってきた陶質(とうしつ)土器・軟質(なんしつ)土器・鉄器などが出土しています。
また、馬具の出土から、馬がこの時代の吉武遺跡群にいたことが分かっています。鉄器は輸入するだけでなく、自らも製鉄を行っていたようで、金武古墳群や浦江古墳群から、製鉄の際に生じる鉄滓(てっさい)を副葬品として供えた古墳がみつかっています。鉄滓を古墳に供える行為は、ごく一部の地域に限定されるもので、こうした古墳の被葬者は製鉄に関わる人たちだったとする説が有力です。
新しい形のうつわや、製鉄と鉄器の使用、乗馬や馬耕はそれまでの暮らしを大きく替えるものでした。この新しい文化は古墳時代後期以降、全国に広がっていきますが、吉武遺跡群ではいち早くそれを受け入れていたのです。
4.古墳のおわりとその後 ―6世紀末〜7世紀―
日向川上流の多くの古墳は時期の詳細がはっきりしませんが、発掘調査で判明している例からみて、多くがこの時期の古墳とみられます。また、新羅土器も継続してこの地域から出土しています。
7世紀末までに古墳の築造・追葬がなされなくなりますが、7世紀以降も、金武城田遺跡では大壁(おおかべ)建物や大型掘立柱建物が造られており、この場所が古墳築造終了後も、古代の早良郡(さわらぐん)を支える重要な場所として、機能し続けていた様子がうかがえます。
(赤坂亨)
夫婦塚古墳・早良神王墓/金武古墳群
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