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我々は行くぞ!
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  明治37年から明治38年の日露戦争で日本が大国ロシアを打ち破りました。このとき、スリランカの仏教界の重鎮であるアナガーリカ・ダルマパーラは「こんなすばらしいことはない。皆さんは気づいていないかもしれないが、皆さん日本人によってアジアはまさに死の淵から生還したのだ」と述べています。イギリスの植民地支配下にあったスリランカの人々は熱狂したといいます。ダルマパーラは生涯にわたり4回来日し、「欧米人のアジア人に対する差別的偏見をなくし、植民地支配という悲劇の中にあるアジアを救うことこそ日本の役目なのだ」と語っています。

  昭和14年(1939年)頃、スリランカに日本から輸入した下着のシャツの背中に小さなラベルがついていて、シンハラ語で「我々は行くぞ」と書いていました。イギリス人はその意味を知らずに輸入していました。

  スリランカ軍海軍少佐だったソマシリ・テベンドラ氏は兄が残してくれた「ジャパンワッテ(日本庭園)」の話を語っています。それによるとそのジャパンワッテという農場を管理しているラトナヤケ氏が驚く話をしたそうです。
「私の二番目の雇い主はカワバタという日本人で、当時有名だったニッセイという紙の卸の会社の社員でした。彼は、片言でも英語が話せて外国人と働いたことの有る農場労働者を探していました。私の以前の雇い主が、この人は南アメリカ出身でしたが、私のことを優秀だと推薦してくれたお陰で、その仕事に就くことができました。
  私たちは、まだジャングルだったこの土地までやってきて、プフルウェバ村のほとんどの男たちを雇って、木を切り倒し、土地を整備し、できる限り平らにしました。私の妻のタンガンマとここに落ち着き、カワバタ氏の指示を厳密に守って、その通りに作物を選び育てていました。種は全て日本から贈られてきて、見ての通り、今でもそれらは見事に育っています。木は一本もはやさず、野菜だけを作ってきました」

「1930年代終わりになると、戦争の暗い雲が地平に不気味に迫り、日本はひょっとすると敵になるかもしれないということになってきました。しかし、静かなプフルウェバ村ではそのことは何の意味もないことでした。ところが、カワバタ氏がそのために日本に戻ることになり、その前に大急ぎでやってきました。

 彼はその時になんと、『この農場は日本の飛行機の滑走路となる。そしてスリランカをイギリスから解放するためにやってくるのだ』と言うのでした。私は彼の指示を一字一句まで正確に守らなければならず、野菜だけを育て、木の一本たりともこの場所にかからないように気をつけなければいけませんでした」

  カワバラ氏は二度と姿を現さなかったのですが、実に不思議な話です。1930年代終わりに第二次世界大戦が始まりましたから、既に日本の特務機関などが動いていたのでしょうか???

  そして昭和16年(1941年)12月8日、日本は米英と交戦状態になりました。翌、昭和17年4月5日9:00、日本海軍南雲機動部隊は総数128機に及ぶ第一次コロンボ攻撃隊が発艦を開始。ついに日本軍がやってきました。巡洋艦阿武隈をはじめとする各艦からも水偵が飛び立ち、索敵を開始しました。イギリス軍は35機のハリケーンと6機のフルマーで応戦しました。

  スリランカの最高市民栄誉を受賞した外科医、デシャマンニイ・P・R・アントニス氏の話
「日本軍の戦闘機とイギリス軍の戦闘機が空中戦を演じて、スリランカ人は生まれて初めて見るその光景に手に汗を握ったといいます。その4日後の4月9日にはスリランカ北部のトリンコマリー港を爆撃しました・・・
  ところで、トリンコマリーの空襲の際に撃ち落された日本軍機に乗っていた日本兵をスリランカのある僧が助けてかくまったという話があります・・・スリランカではよく言われている話です」「私達は、日本はスリランカを占領しているイギリスと戦っているのだと言っていたのです。日本軍がトリンコマリーを空襲し、イギリスの戦艦を撃沈した時は、皆とても喜びました

  結局、日本軍は上陸しなかったので、スリランカの接点はこの二度の空襲と海戦だけになります。前述のソマシリ・テベンドラ氏の話によるとトリンコマリーの空襲の時に日本軍の一機が撃墜されて墜落し、石油基地中にある石油タンクのひとつに衝突したといいます。そのタンクは炎上し、その後も7日間燃え続け、その後、タンクに衝突した日本軍機のエンジンなどが現場から取り出されて、現在も保存されているといいます。現場にはその出来事についての大きな看板が作られているのだそうです。

  第二次世界大戦が終了し、イギリスの植民地であったスリランカでは対日戦勝利の式典が行われました。VJD(ビクトリー・オーバー・ジャパン・デイ)といいます。テベンドラ氏の町、ラテュナプラでも大きな式典が行われました。そしてテベンドラ氏の父が演説を行っており、それは以下のようなものでした。

「この日は、私達が日本に対する勝利を祝うものです。しかし、私達は日本によって得たものがあります。それは愛国心という心でした。それは、日本によって全てのアジアの国々にもたらされたものでした。

  戦争によってアジアの国々、インドネシアやインド、スリランカ、ビルマなどは自らに対する自信と民族主義の意識を得たのです。私達は日本に、このことを感謝しなければなりません

  イギリスの代表がいる前で堂々とこういう演説をしたのですから驚きます。そしてスリランカは世界大戦終了の3年後の1948年にイギリスから独立しました。



参考文献
  桜の花出版「日本のお陰です」桜の花出版編集部(編)
  Gakken「帝国海軍 太平洋作戦史Ⅰ」『インド洋作戦』三木原瑟一

添付画像
  日本軍による空襲下の英巡洋艦ドーセットシャーとコーンウォール スリランカ沖での海戦(PD)

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