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郷土防衛軍斯く戦へり

自分の命よりも尊い郷土と祖国。郷土を愛し、祖国を愛し、戦った沖縄県民。
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  昭和20年(1945年)3月26日から始まった大東亜戦争沖縄地上戦での日本軍はこれまでの様相を異にしていました。昭和17年9月に制定された「陸軍防衛召集規則」に基づいて昭和19年より在郷軍人を主にした召集から3次にわたり、約25,000人が軍人、軍属として召集されました。※1 沖縄防衛軍全体が96,000人ですから約25%が郷土兵ということになります。まさに「郷土防衛軍」です。

  防衛召集しても武器が不足しており、多くの郷土兵は後方支援にまわされましたが、フィリピン方面へ武器弾薬を運ぶ輸送船が戦況悪化により輸送を中止して那覇など各港に停泊しており、大本営許可のもとこの武器を沖縄防衛軍が取得し、郷土兵中心に独立歩兵7個大隊を編成しました。

  昭和20年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸。沖縄防衛軍は賀屋支隊をはじめ、主陣地を守備した第62師団、第2陣地を守備した第24師団の歩兵第22連隊などが激しい抵抗を見せます。しかし、5月からの総攻撃に失敗。その後、独立混成第44旅団配下の部隊が米第6海兵師団と安里52高地(シュガーローフ)で激戦を展開します。

  沖縄防衛軍には遊撃隊というのがあり、国頭郡内に遊撃戦を展開する部隊です。いわゆるゲリラ戦です。幹部は陸軍中野学校出身者で、隊員は在郷軍人や学校生徒、鉄血勤皇隊(県立第三中学校生徒)が主です。地元ですから地元の地理や情報に詳しく、一般民衆の協力が得られ、沖縄第32軍の玉砕後も秘密遊撃戦を続け、在郷の兵員は各の出身部落に帰還させ家業を行いつつ情報収集を続行し、兵員も隊長を慕って食料とともに情報を持ち寄る場合や、隊長が変装して密かに隊員の家を訪ねて激励したといいます。

  5月の総攻撃が失敗した日本軍は戦力を消耗していき、5月24日、首里を放棄し、南部島尻地区への撤退が決まります。このとき、安国寺住職兼沖縄一中教諭・永岡敬淳少佐指揮の郷土部隊、特設警備二百二十三中隊(通称・永岡隊)は過酷にも首里戦線に最後まで残され、首里西側の松川正面に現れた戦車を伴う米軍を撃退。しかし、永岡隊は敵中孤立します。そして遂に永岡隊の壕は馬乗り攻撃(壕の上からドリルで穴をあけ、ガスなどで攻撃)を受け、永岡隊は壕を脱出します。その後も米軍に対して斬りこみを行い、戦死者が続出。6月22日、永岡隊長は救護班の女性に形見の数珠を託し、「誰もついてくるな」と言い残し、姿を消しました。(自決)

  沖縄一中・鉄血勤皇隊は篠原隊長のもと、陣地構築、部隊の誘導、通信線の補線、伝令などに従事します。首里戦線撤退後の6月3日、保栄茂(びん)グスクから新垣へ転進します。しかし、弾雨と豪雨がひどく、更に南下します。ところが入れる壕がもうありません。6月9日、民家の庭で睡眠をとっているところに艦砲弾が飛来。篠原隊長が戦死しました。その後、隊は分かれて行動し、多くが戦死しました。第五砲兵司令部へ伝令に出た宮城辰夫は重傷を負い、5年生の山田義邦は、彼を連れて勤皇隊本部へ向かいますが、地響きを立てて迫る敵戦車隊を見て、断念。自分がいると友の邪魔になると思った宮城辰夫は「手榴弾をくれ」といいます。山田は「どうせボクもすぐ後から行くから」と最後の言葉をかけ手榴弾を渡しました。

  郷土兵25,000人のうち、13,000人が戦死。鉄血勤皇隊、通信隊、学徒看護隊(ひめゆり、白梅、なごらん等)は2,804人中1,135人が戦死。現在の論調ではこの人たちは軍国主義に騙されたかわいそうな被害者にされているでしょう。

  沖縄一中・鉄血勤皇隊、武富良浩さん ※2
「篠原先生をはじめ、宮城辰夫君らの多くの戦没学友は皆、自分の使命に精一杯取り組み、国に殉じた、純粋で、心の綺麗な人ばかりでした。置かれた状況の中で人間の誠意、倫理を身に賭して貫くことは容易にできることではありません。特に近年、政界、官界、財界、民間ともに信義に悖る(もとる)行為や、我利我利亡者が平気でまかり通る世の中だけに、その感をいっそう深くします。しかし、そんな綺麗な生きざまがイデオロギーによって犬死のように言われ、弄ばれるのは、人間の世の中が薄汚くなった裏返しでしょう。篠原教官のような立派な人格が、軍人だった、配属将校だった、ヤマトンチュウ(本土人)だったという理由で、これまで顕彰されなかったのは人間としてはずかしいことです」

  郷土防衛軍斯く戦へり。沖縄のニライカナイ信仰(祖霊崇拝)に基づき、大東亜戦争沖縄戦を戦った先人を称え、ご冥福を祈りたいと思います。


※1 沖縄戦では「防衛隊」という言葉がよく使われるが、防衛召集された兵は本来「防衛隊」ではなく、通常の軍人。「防衛隊」は市町村単位の義勇兵のことで、現在、混同して使用されている。

※2 武富良浩氏は琉球王朝史上名高い与那原良矩(よなばる りょうく)の子孫。父、良達は沖縄教育界のリーダで、沖縄戦では妻子を逃がした上、手榴弾で米兵に立ち向かい刺し違える壮烈な戦死を遂げている。



参考文献
  光人社「沖縄一中 鉄血勤皇隊」田村洋三(著)
  光人社NF文庫「沖縄に死す」小松茂朗(著)
  PHP「沖縄戦 集団自決の謎と真実」秦郁彦(編)
参考サイト
  沖縄戦史 http://www.okinawa-senshi.com/index.htm
  WikiPedia「沖縄戦」

添付画像
  安里52高地(シュガーローフ PD)


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