全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全137ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

人気ブログランキングに参加しています。
         まずはここをポチッとご協力お願い申し上げます。
イメージ 2
 
イメージ 1
       南京陥落後のシナ人たちは日本軍を歓迎する意思として腕に日の丸の布を巻き、
       日本軍の入城を笑顔で迎えました。これが真実です。
 
 
同志からです。
昨年末、カナダで南京記念日宣言を行いました。従軍慰安婦含め歴史の捏造で日本がやってもいないことで世界から非難されることはあってはなりません。
日本は今まで声を上げずにきたため嘘が事実のようにされてきました。声を上げるときにはきちんと声を上げなければ受け入れたことになります。政治家も国民もそうしていかなければなりません。
 
-------------------------------------
カナダ トロント 南京記念日宣言 撤回署名 御協力お願いします!
カナダのトロント市が、2012年12月13日に南京大虐殺75周年を宣言しました。
25万人以上の民間人が虐殺されたというとんでもない内容です。
中国系市議の働きかけによるもので、このような政治活動によって、南京で大虐殺という噓が、真実性を帯び、広まることを私達カナダ在住日本人は見過すことは出来ません。
日本の名誉の為に、我々の子供たちの為に、この捏造歴史に日本人として反対の声をあげるため署名運動を始めました。
宣言撤回を求める署名運動に皆様にも御協力いただけますよう、よろしくお願い申し上げます。
日本の名誉を護る在カナダ邦人の会 代表 はすみ 都志子
連絡先  hasumitoshiko@gmail.com
請願提出者 藤原太一

【 請願 Petitioning 】

署名はこちらから
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
http://goo.gl/SWLcb

カナダ トロント市長 ロブ フォード殿
Rob Ford, Mayor of Toronto
トロント市南京記念日宣言の撤回を求めます
Rob Ford,Mayor of Toronto:Rescind the Dec 13,2013 proclamation about Nanking

【署名方法】

http://goo.gl/SWLcbにアクセスするとこの画面が出ます。
http://sakura.a.la9.jp/japan/wp-content/uploads/2013/05/setumei_01-300x204.jpg
②必要事項を記入してからSignをクリックします。
http://sakura.a.la9.jp/japan/wp-content/uploads/2013/05/setumei_04.jpg
③署名が完了してたらこの画面になります。

【トロント南京記念日宣言】

<宣言文日本語>
トロント市長、Rob Ford
宣言 南京追悼 記念日 2012年12月13日
カナダ全土の中国系カナダ人のコミュニ ティは、1937年の南京大虐殺の75周年を追悼記念します。
1928年、中国の首都は北京から、1930年代半ばに人口・100万人以上の都市に発展した南京に移されました。 1937年に侵略軍は都市内や周辺に多くの残虐行為を犯し、南京を占領しました。犠牲者は主に、南京 の25万人以上の民間人でした。
アジアの歴史の中におけるこの悲劇的な時を認識することによって、私たちはカナダの意味 深い宝である- 平和、自由と民主主義を理解し真価を認める機会を与えられます。
それゆえ、今、市長ロブ・フォードは、トロント市議会を代表して、大きな国家的な苦しみの期間に亡くなった男性、女性、子供たちの名誉のために2012年12月13日を、トロント市における “南京追悼記念日”と宣言します。

【Why this is important to you?
意見書き込み欄に書く文章サンプル】

署名サイトページ( http://goo.gl/SWLcb )の右側 Postal Codeの下に意見を書き込む欄があります。
下記サンプル文をご用意しました。適当にアレンジして使って下さって構いません。
皆様のご意見も是非書き込んでください。
 
<サンプル>
台北の国民党党史館に『中央宣伝部国際宣伝処工作概要 1938年〜1941年4月(民国27年〜30年4月)』が保存されています。それについての論文が下のURLです。
これによると、中国は中央宣伝部の国際宣伝処を作り、国民党中央宣伝部は表に出ないで、外国人を動かして中国の敵の軍閥の残虐なことを宣伝する活動を、おおよそ南京陥落の一ヶ月前から始めています。
中央宣伝部は、お茶会と記者会見を、南京陥落前から始め、南京陥落前の十二月一日から十一ヶ月の間に三百回の記者会見を開いていました。記者が書いた記事は厳格に綿密に審査し、場合によっては削除または差し止めもしていました。
“南京大虐殺説“に擬似信憑性を与えたのは、第三者が書いたと思われていたティンパーリの『戦争とは何か』という単行本や、ニューヨーク・タイムズやシカゴ・デイリーニュースの記事、ベイツ教授の裁判での証言などです。しかし、これらの背後の全てに中央宣伝部の影響があったことが、今では判明しています。
ティンパーリが中央宣伝部の顧問で、お金をもらって『戦争とは何か』を書いてもらったことや、ベイツ教授は中華民国政府顧問だったことも判明しました。
ニューヨーク・タイムズやシカゴ・デイリーニュースの記事は、ベイツ教授のレポートを基に書かれたことも、ベイツの手紙から判明しています。
是非お読みください。
A document titled ‘An Overview of Propaganda Operations of the International Information Division of the Central Propaganda Bureau of the Nationalist Party from 1938 to April 1941’ is held in the Guomindang Historical Documents Archive in Taipei. A description and explanation of this document is contained in the following online book.
According to it, the Central Propaganda Bureau of the Nationalist Party formed an Information Division which, starting about one month before the fall of Nanking, behind the scenes got foreigners to publicize supposed atrocities committed by the armed forces of China’s enemies
The Central Propaganda Bureau began to hold tea parties and press conferences before the fall of Nanking. Over 300 press conferences were held in the eleven months after December 1, 1937. The CPB meticulously and strictly examined the articles written by journalists and in some cases deleted or embargoed some stories .
The thing that gave the ‘Nanking Massacre’ story some credibility was the work of what appeared to be third parties: Timperley’s book What War Means, the articles in the New York Times and Chicago Daily News and Professor Bates testimony at the Tokyo War Tribunal. However it is now clear that the Central Propaganda Bureau had an influence behind all of these.
It is now known that Timperley was an advisor to the Central Propaganda Bureau and that he was paid money by them to write What War Means.
In addition it has been become evident that Professor Bates was an advisor to the Chinese Nationalist government.
It is also now known from a letter of Professor Bates that the articles in the New York Times and Chicago Daily News were based on his reports.
Please read this.
 
・・・・・・
人気ブログランキングに参加しています。
  いつまでも大人しく大嘘を受け入れるわけにはいかない、
                     と思った方はここをポチッとお願いします。
イメージ 2

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

開く コメント(4)

愛される自衛隊。
イメージ 1

  平成2年(1990年)の湾岸戦争後、日本海上自衛隊は511名の掃海部隊を派遣し、残された機雷を処理しています。日本海軍がインド洋に行ったのは第一次世界大戦の地中海派遣と大東亜戦争のインド洋作戦以来となります。

  ペルシャ湾に面した国でクウェートに近い国を順にあげると、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦があり、アラブ首長国連邦のドバイには当時日本の大手企業70社ほど進出しており、約350名の日本人が駐在していました。ドバイは安全で週末のゴルフコースはプレーを楽しむ欧米人の男女があふれ、レストランやパブは家族連れやカップルで賑わっていました。ところが、日本人は続々と引き揚げてしまったのです。

  ドバイ在住日本人会の赤井豪太氏は大手家電メーカーの所長と「ドバイは全然、問題じないじゃないか。これなら避難する必要はないのでここに残ることにするよ。ゴルフでもやりながらゆっくりしましょう」「OK!そうしよう」と会話を交わしますが、その所長が突然「やっぱりここを離れることにしたよ」と電話をかけてきました。理由を尋ねると「本社から自分だけいい格好するなと言われた」というのです。

  イラク軍のクウェート侵攻後、半年たった平成3年(1991年)1月17日、多国籍軍による「砂漠の嵐」作戦が開始され、空爆後、地上戦に移行し、2月28日に多国籍軍の圧倒的勝利をもって戦闘は終了しました。この戦争の貢献度によって復興の機器資材の調達先は優先的に割り当てられ、日本は130億ドル(当時1兆5000億円ほど)を出しましたが、小さな船1隻を出したノルウェーよりも評価が低かったのです。人的貢献がないからです。
  ペルシャ湾の沿岸諸国の間では「湾岸の復興に貢献してくれた国に感謝する」ということで、背中に湾岸の復興に貢献した国の国旗が描かれたTシャツが売られましたが、そこに日本の国旗はありませんでした。湾岸の日本人はどれほど肩身の狭い思いをしたことか

  その年の5月の終わりにドバイの現地新聞の見出し。

「日本海軍来たる」


  日本人会の赤井豪太氏は「すごいぞ!来たぞ!やったぞ!」とやたら興奮する自分を抑えきれなかったといいます。正確には海上自衛隊なのですが、外国で「自衛隊」という言葉は通用しません。軍隊です。赤井氏は周囲のイギリス人やインド人から次のように言われ、一緒に喜んでくれたそうです。

「アカイ、良かったな。日本海軍が来るんだってな」


  海上自衛隊の掃海部隊はカフジ沖の機雷処分も行っており、この海域ではそれ以前からイラン・イラク戦争による機雷が漂流しており、問題になっていました。日本は原油を採掘していた関係で重要な航路になっていましたが、サウジアラビアにはノウハウがなく、現地サウジアラビア人の作業員も船に乗るのを嫌がっていました。そこへ海上自衛隊の掃海部隊が登場したのです。サウジアラビア石油の社員(日本人)はヘリコプターから旭日旗を確認すると「日本の掃海部隊を発見したぞ!」と基地に打電し、感極まり大音量のスピーカーを使って掃海艇に呼びかけました。

「海上自衛隊の皆さん。ご苦労様です。今、上空にいるのはアラビア石油のヘリコプターです。ありがとうございます!ありがとうございます!」


  以前からアラブの人たちから「日本の海軍はなぜ来ないのか?」とよく聞かれていたといいますから、思いのほどが伝わってくる話です。



参考文献
  光人社「ペルシャ湾の軍艦旗」碇義朗(著)
参考サイト
  「湾岸の夜明け作戦」 落合 http://www.mod.go.jp/msdf/mf/touksyu/yoakenosakusen.pdf
  「湾岸の夜明け」作戦に掃海部隊派遣(「海上自衛隊50年史」から抜粋) http://www.mod.go.jp/msdf/mf/touksyu/wanngann.pdf

添付画像
  海上自衛隊 掃海隊群ホームページより http://www.mod.go.jp/msdf/mf/index.html

http://www.hiroshima-blog.com/area/banner001.jpg クリックで応援お願いします。


ジパング @海上自衛隊&大日本帝国海軍
http://www.youtube.com/watch?v=51rIaskPAfM






ほんの20年前の話です。
イメージ 1

  私は以前ゴルフをやっており、現在はやっていませんが、「湾岸戦争ゲーム」といういわゆるニギリというのがあるのを知りました。1、アメリカ 2、フセイン、3、イギリス、4、日本、というもので、どうやら日本は「カネだけ出す」という位置づけのルールのようです。

  平成2年(1990年)の湾岸戦争(イラクのクウェート侵攻)では日本は自衛隊を憲法の制約で出せないため、金だけ出すとということになり、批判が内外にありました。クウェート政府は日本に感謝しませんでした。クウェート政府というより、国際社会は人的貢献がないと評価しないものなのです。湾岸戦争後、クウェート政府は「ワシントン・ポスト」紙の全面を使って協力各国に謝意を表しましたが、その中に日本の国旗はありませんでした。
  湾岸戦争の復興の機器資材は貢献度に応じて調達先など優先的に割り振りましたが、130億ドル(当時、約1兆5000億円)を支払った日本に対する評価は惨めなもので、小さな船1隻を出したノルウェーやわずか数人の看護兵を出したアジアの某国よりも低いものでした。「日本はGHQ憲法九条があるので云々」・・・世界はそんなこと知りません。そんなこと言ったらアホと思われます。

  しかし、その後、平成3年、日本は英、仏、独、伊とともに海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣し、機雷を取り除き、さらにエジプト政府の要請を得て日本単独でカフジ沖も掃海しています。機雷はラジコンで爆破できないものが多数あり、自衛隊員の水中処分隊員が手作業爆破準備したとのことで、これは命がけの作業です。この後、クウェート政府は日本国旗の入った記念切手を発行し、読売新聞に「心からありがとう クウェートから日本の皆様へ」と題する全ページ広告を掲載して日本に謝意を表しています。

  ペルシャ湾に派遣した海上自衛隊の司令官、落合元海将補(当時、一佐)はあの沖縄戦の海軍司令官、大田実少将の三男です。「沖縄県民斯く戦へり」で有名でしょう。掃海部隊が現地入りしたとき、ペルシャ湾の沿岸諸国の間では「湾岸の復興に貢献してくれた国に感謝する」ということで、背中に湾岸の復興に貢献した国の国旗が描かれたTシャツが売られ、約30カ国に及ぶ派遣艦隊の乗員たちは、自国の国旗が描かれたTシャツを着て、繁華街を大きな顔で歩き回っていましたが、130億ドルの巨費を支払っていた日本の日の丸はその中にありませんでした。落合一佐は苦い思いを味わいましたが、日本の掃海部隊の活躍が知られるようになってくると、Tシャツに日の丸が見られるようになりました。

落合一佐「資金提供のみの協力と、実際に現地にやってきて作業に参加する協力との差を、つくづく思い知らされた」

  当初はカネだけでしたが、海上自衛隊の命をかけた活躍により、日本は復権しました。それなのに、ゴルフの湾岸戦争ゲームはいったいどうして、カネだけ出したことになっているのか。ひとつはマスコミが報道したがらなかったというのがあるでしょう。マスコミは戦後ずっとGHQのプレスコードに縛られています。軍を称賛してはダメなんです。もうひとつは日本人が自虐に親しむ国民性になってしまったことがあげられます。これもGHQによる自虐史観の植え付けというマインドコントロールの影響がずっと残っているからでしょう。それでも掃海部隊が日本を離れて2ヶ月余りもするとさすがにマスコミは取材しにやってきて、日本テレビは「追跡」という番組で報道しました。掃海部隊が凱旋したとき、その様子を朝日、読売、毎日がヘリコプターで取材しました。出発時には派遣反対派の運動が大きかったものの、帰還時には様子が随分違ったといいます。広島の呉に掃海部隊艦艇6隻が姿を現すと、出迎えのフェリーには「歓迎、尊い任務に心から感謝します」という横断幕が張られ、船上から400人が日の丸を振って迎えました。呉のFバースに近づくと騒がしいので、また何か反対を叫んでいるのかと思ったら「ご苦労様でした。お疲れ様でした」と迎えてくれたといいます。



参考文献
  光人社「ペルシャ湾の軍艦旗」碇義朗(著)
  PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
参考サイト
  WikiPedia「自衛隊ペルシャ湾派遣」

添付画像
  機雷の爆破処分と見守る掃海艇
    海上自衛隊掃海隊群ホームページ 掃海部隊の歴史より http://www.mod.go.jp/msdf/mf/rekisi.html

http://www.hiroshima-blog.com/area/banner001.jpg クリックで応援お願いします。



[歌詞字幕] GUNKAN March 行進曲『軍艦』 - 海上自衛隊横須賀音楽隊



原田要さん、現在もお元気。
イメージ 1

  昭和17年(1942年)4月5日、日本連合艦隊機動部隊はセイロン島コロンボを空襲しました。セイロン島はインドの東南にある島で、イギリスの植民地でした。現在のスリランカです。
  大東亜戦争の日本の海軍の基本戦略は太平洋においては漸減邀撃戦といって米艦隊が日本近海に来れば潜水艦や航空機で消耗させ、艦隊決戦を行うというものですが、インド洋においてはイギリスが喜望岬経由でスエズ、中東石油地帯の海上輸送船をしていたのを遮断し、まずはイギリスを屈服させるというものでした。そこでセイロン島の占領を計画しましたが、方針がまとまらず、結局、英艦隊の撃滅プランのみとなってしまいました。意外にこのことは知られていません。大東亜戦争は太平洋における玉砕戦や本土空襲などの話ばかり持ち上げられます。まるで最初から「無謀だった」を刷り込むかのようであり、インド洋作戦の可能性については言及されません。

  南雲機動部隊の第二航空戦隊の空母「蒼龍」のゼロ戦飛行士だった原田要さん(海軍中尉)はコロンボ空襲に加わりました。

「コロンボ上空に到着すると、情報どおり、ハリケーンが非常に沢山待っていました。

 ところで、空戦が始まって気がつきましたが、その頃はすでにイギリス軍は零戦の戦い方をある程度研究していたようでした。
 零戦の得意な巴戦には入ろうとせず、スピードに勝る彼らは、我々が近づくと、逃げていって対空砲火の届く市にまで、我々を誘導しようとするのでした。
 それで我々は追いかけていって、機銃を打ち込んで、彼らがそれを避けたところを接近していって撃ち落す、という作戦を採らざるを得ませんでした
 しかし、ついにそのフルマーも水田に不時着しました。私は、とどめを刺せるととも思ったのですが、既に戦闘能力を失っている相手をこれ以上深追いせず、他の戦闘機を撃墜しようと引き返したのでした」。

「戦闘で、私が最後に追いかけた機が”フルマー”という複座式戦闘機でした。私は背後に回りこんで、機銃を撃つのですが、相手はベテランと見えて、機体を横に滑らせるので、狙いが絞れずになかなか撃ち落せませんでした」


  原田要さんは、このときの「フルマー」の操縦士、サイクス氏に平成13年(2001年)にイギリスのジャーナリストのパーキンス氏の尽力でイギリスで再会することになりました。イギリス南西部のドーセット州でサイクス氏の自宅を尋ねると、普段の生活は全て車椅子だというサイクス氏が、原田さんを迎えるために、わざわざ立って出迎えてくれたのです。

「その姿に思わず涙が浮かび、あの時とどめを刺さずに本当に良かったと、この再会を心から喜びました」


  両氏がコロンボ空襲について話題になった時、原田さんはサイクス氏が機体を横滑りさせて、攻撃を避けていたことについて「あなたはベテランでしたね。私が考えていた、後ろに付かれたら機体を横に滑らせるという戦法をちゃんとやっていた。しかし、どうやって機体を滑らしたのですか」と聞くと、「違いますよ。あれは、あなた(が)最初に撃った弾で操縦索がやられて、機体の制御が出来なくなっていたからなんです」ということだったのです。

  この訪問の話はイギリスでも大きく取り上げられ、スリランカでも大きく取り上げられ、大反響を呼んだといいます。

原田さんは大東亜戦争についてこう語っています。
「日本はやむに止まれず、戦争を始めました。アメリカによって経済封鎖され、石油を断たれ、最後には日本が到底受け入れられない、最後通牒と言うべき『ハル・ノート』を突きつけてきました。そのような状況で、日本は国家の存亡を懸けて戦争を始めざるを得なかったのです」

「戦争は本当に残酷です。決してやってはいけないものです。

 それでも、日本軍が南方に進撃し、結局は負けてしまいましたが、そういったことが引き金となって、アジアの国々が独立できたのだとすれば、あの戦争にも非常に意義があったのでしょう。
 ベトナムがそうですし、スリランカも植民地から脱却できたのですから、私は本当に良かったと思います」。



参考文献
  桜の花出版「日本のお陰です」桜の花出版編集部(編)
  Gakken「帝国海軍 太平洋作戦史Ⅰ」
     『インド洋作戦』三木原瑟一
     『対米戦略と漸減邀撃戦構想』有坂純
  光人社刊「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」新野哲也(著)

添付画像
  爆撃を受ける英空母ハーミーズ(PD)

http://www.hiroshima-blog.com/area/banner001.jpg よろしくお願いします。


元ゼロ戦パイロットが語る戦争の真実 - Zero Fighter pilot's testimony
http://www.youtube.com/watch?v=b9NrJFvn47c




開く トラックバック(1)

郷土防衛軍斯く戦へり

自分の命よりも尊い郷土と祖国。郷土を愛し、祖国を愛し、戦った沖縄県民。
イメージ 1

  昭和20年(1945年)3月26日から始まった大東亜戦争沖縄地上戦での日本軍はこれまでの様相を異にしていました。昭和17年9月に制定された「陸軍防衛召集規則」に基づいて昭和19年より在郷軍人を主にした召集から3次にわたり、約25,000人が軍人、軍属として召集されました。※1 沖縄防衛軍全体が96,000人ですから約25%が郷土兵ということになります。まさに「郷土防衛軍」です。

  防衛召集しても武器が不足しており、多くの郷土兵は後方支援にまわされましたが、フィリピン方面へ武器弾薬を運ぶ輸送船が戦況悪化により輸送を中止して那覇など各港に停泊しており、大本営許可のもとこの武器を沖縄防衛軍が取得し、郷土兵中心に独立歩兵7個大隊を編成しました。

  昭和20年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸。沖縄防衛軍は賀屋支隊をはじめ、主陣地を守備した第62師団、第2陣地を守備した第24師団の歩兵第22連隊などが激しい抵抗を見せます。しかし、5月からの総攻撃に失敗。その後、独立混成第44旅団配下の部隊が米第6海兵師団と安里52高地(シュガーローフ)で激戦を展開します。

  沖縄防衛軍には遊撃隊というのがあり、国頭郡内に遊撃戦を展開する部隊です。いわゆるゲリラ戦です。幹部は陸軍中野学校出身者で、隊員は在郷軍人や学校生徒、鉄血勤皇隊(県立第三中学校生徒)が主です。地元ですから地元の地理や情報に詳しく、一般民衆の協力が得られ、沖縄第32軍の玉砕後も秘密遊撃戦を続け、在郷の兵員は各の出身部落に帰還させ家業を行いつつ情報収集を続行し、兵員も隊長を慕って食料とともに情報を持ち寄る場合や、隊長が変装して密かに隊員の家を訪ねて激励したといいます。

  5月の総攻撃が失敗した日本軍は戦力を消耗していき、5月24日、首里を放棄し、南部島尻地区への撤退が決まります。このとき、安国寺住職兼沖縄一中教諭・永岡敬淳少佐指揮の郷土部隊、特設警備二百二十三中隊(通称・永岡隊)は過酷にも首里戦線に最後まで残され、首里西側の松川正面に現れた戦車を伴う米軍を撃退。しかし、永岡隊は敵中孤立します。そして遂に永岡隊の壕は馬乗り攻撃(壕の上からドリルで穴をあけ、ガスなどで攻撃)を受け、永岡隊は壕を脱出します。その後も米軍に対して斬りこみを行い、戦死者が続出。6月22日、永岡隊長は救護班の女性に形見の数珠を託し、「誰もついてくるな」と言い残し、姿を消しました。(自決)

  沖縄一中・鉄血勤皇隊は篠原隊長のもと、陣地構築、部隊の誘導、通信線の補線、伝令などに従事します。首里戦線撤退後の6月3日、保栄茂(びん)グスクから新垣へ転進します。しかし、弾雨と豪雨がひどく、更に南下します。ところが入れる壕がもうありません。6月9日、民家の庭で睡眠をとっているところに艦砲弾が飛来。篠原隊長が戦死しました。その後、隊は分かれて行動し、多くが戦死しました。第五砲兵司令部へ伝令に出た宮城辰夫は重傷を負い、5年生の山田義邦は、彼を連れて勤皇隊本部へ向かいますが、地響きを立てて迫る敵戦車隊を見て、断念。自分がいると友の邪魔になると思った宮城辰夫は「手榴弾をくれ」といいます。山田は「どうせボクもすぐ後から行くから」と最後の言葉をかけ手榴弾を渡しました。

  郷土兵25,000人のうち、13,000人が戦死。鉄血勤皇隊、通信隊、学徒看護隊(ひめゆり、白梅、なごらん等)は2,804人中1,135人が戦死。現在の論調ではこの人たちは軍国主義に騙されたかわいそうな被害者にされているでしょう。

  沖縄一中・鉄血勤皇隊、武富良浩さん ※2
「篠原先生をはじめ、宮城辰夫君らの多くの戦没学友は皆、自分の使命に精一杯取り組み、国に殉じた、純粋で、心の綺麗な人ばかりでした。置かれた状況の中で人間の誠意、倫理を身に賭して貫くことは容易にできることではありません。特に近年、政界、官界、財界、民間ともに信義に悖る(もとる)行為や、我利我利亡者が平気でまかり通る世の中だけに、その感をいっそう深くします。しかし、そんな綺麗な生きざまがイデオロギーによって犬死のように言われ、弄ばれるのは、人間の世の中が薄汚くなった裏返しでしょう。篠原教官のような立派な人格が、軍人だった、配属将校だった、ヤマトンチュウ(本土人)だったという理由で、これまで顕彰されなかったのは人間としてはずかしいことです」

  郷土防衛軍斯く戦へり。沖縄のニライカナイ信仰(祖霊崇拝)に基づき、大東亜戦争沖縄戦を戦った先人を称え、ご冥福を祈りたいと思います。


※1 沖縄戦では「防衛隊」という言葉がよく使われるが、防衛召集された兵は本来「防衛隊」ではなく、通常の軍人。「防衛隊」は市町村単位の義勇兵のことで、現在、混同して使用されている。

※2 武富良浩氏は琉球王朝史上名高い与那原良矩(よなばる りょうく)の子孫。父、良達は沖縄教育界のリーダで、沖縄戦では妻子を逃がした上、手榴弾で米兵に立ち向かい刺し違える壮烈な戦死を遂げている。



参考文献
  光人社「沖縄一中 鉄血勤皇隊」田村洋三(著)
  光人社NF文庫「沖縄に死す」小松茂朗(著)
  PHP「沖縄戦 集団自決の謎と真実」秦郁彦(編)
参考サイト
  沖縄戦史 http://www.okinawa-senshi.com/index.htm
  WikiPedia「沖縄戦」

添付画像
  安里52高地(シュガーローフ PD)


http://www.hiroshima-blog.com/area/banner001.jpg よろしくお願いします。

全137ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事