日韓史

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反日だけではない韓国。
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  金 完燮氏(キム・ワンソプ)著の「親日派のための弁明2」には日本時代の朝鮮を狂おしいほどに懐かしむ人が多い、と書いてあります。日本時代は法がなくても生きられる社会だったと金氏の親戚が述べていたといいます。金氏は両親からも次のように聞いています。

「あの時代を狂おしいほどに懐かしむ人も多い。だから集まるたびに演歌をむせび泣くように歌う」

  さらに1930年生まれの先輩からこう聞いています。

「『今よりあのころの方がよかったと思わないか?生きる楽しみもあって』というと、同窓の99%は同意する」

  先生からは次のように言われたといいます。

「北海道に徴用に行った朝鮮人の賃金は、当時の日本人ホワイトカラーの月給の三倍から五倍で、勤務時間も徹底して遵守され、朝鮮人は幸せだったように思える」

  金氏は「反日洗脳教育」を受けて成長した韓国の戦後世代にとっては、天地がひっくりかえるほど衝撃的な証言である、と述べています。日本人も強制連行というウソや従軍慰安婦というウソ、とにかく戦前真っ暗、日本悪玉論を学校教育やマスコミに刷り込まれて信じてしまってきた人にとっては信じがたい話でしょう。

  満州の北朝鮮国境付近には満州族や朝鮮族の自治区がいくつか存在しています。吉林省の東部に行くと延辺朝鮮族自治州という区域があり、80万人近くの朝鮮族が居住しているといいます。満州時代からの朝鮮族や北朝鮮の飢餓難民が多く住み着いたようです。曙機関(時事問題、国際問題を漫画で描く製作集団)のレポートによるとこの自治州では日本語教育が盛んであるといいます。高等教育を受けたくらいの朝鮮族なら日常会話の日本語ができるので、日本人にとって極めて旅行しやすい地域なのだそうです。
  さらに驚いたことにこの地域では野外に出かけることを「サンポ」といい食べ物持参だとそれを「ベントウ」といい、日本の言葉が残っているといいます。8月15日は敬老の日で、人民公園を訪ねると気の良い朝鮮族の老人たちが日本人を見つけると「日本の歌を歌ってくれ」と所望してくるといいます。曙機関の人が日本の歌を所望されたとき、流行りの歌などしらなかったので、「勝ってくるぞと勇ましくー」と軍歌を歌ったところ、老人たちの目に衝撃が走り、

「ちかーってくにを出たからわー」

と一緒になって唱和し始めたのです。そしてやんややんやの喝采で、「もう一曲」とリクエストされたといいますから、びっくりするお話です。日本時代を懐かしんだのです。若者も韓国企業が当地に進出してくるとその工場に働きにいきますが同じ民族なのに差別され、韓国へ出稼ぎにでると同じく差別されるので、日本への郷愁を深めているといいます。

「韓国の奴らめ!口を開けば『俺たちは経済力がある、経済力がある』って自慢するが、日本ほど経済力がある訳でもないじゃないか。それをなんだって偉そうに!!」

  前出の金 完燮氏は幼いころ「トラ!トラ!トラ!」という映画(アメリカ製作)を見、卑劣で悪どく描かれた日本を見て続編を楽しみにしていた、と述べています。時は流れて「パール・ハーバー」という映画(アメリカ製作)を見たとき「私は日本軍を応援している自分を発見した」「地球の反対側まで出征して、アメリカの太平洋艦隊を叩き潰した日本という国の偉大さに、私は感動し、驚きを覚えた」と書いています。反日教育の洗脳が解けていったのでしょう。
  金氏によると韓国では歴史の「真実」に気付いた世代が増えているといいます。おそらくネットの発達によるものでしょう。また知識人の中にも勇気ある発言をする人が増えてきているそうです。世代を超えて日本への郷愁・・・とまではいかないでしょうが、少しずつあるべき姿に変わってきているのかもしれません。



参考文献
  「親日派のための弁明」金 完燮(著)/荒木 和博 (翻訳), 荒木 信子 (翻訳)
  「親日派のための弁明2」金 完燮(著)/星野知美 (翻訳)
  オークラ出版「世界に愛された日本」『中朝国境・朝鮮族の地を歩く』曙機関
添付画像
  新義州府の税関通り(PD)

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津軽海峡冬景色 - 北朝鮮版 Japanese Enka Song North Korean Version
http://www.youtube.com/watch?v=PQKKiY46lK8

 北朝鮮で演歌はポピュラーというが日本語の歌詞でも歌われているところが興味深い。年配の人や満州の人が「狂おしいほど懐かしむ」からか???youtubeにはいくつか北朝鮮で歌われている日本の演歌がアップされています。何か粋さを感じます。ちなみに著作権料は支払われていない模様。


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安重根の弾は命中しなかった。
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  日露戦争終了直後の明治38年(1905年)11月17日、日本と大韓帝国の保護条約の方針が発表されると、韓国統監府が設置されることになり、伊藤博文が初代統監に就任しました。この頃、韓国の民衆パワーは公称100万人の一進会に結集されており、「李朝政府の外交権を日本に委任せよ」と大規模なデモが行われていました。伊藤が赴任してきた日にはソウルの南大門に「歓迎」の巨大な幕が張り出されました。
  伊藤は4年後の明治42年(1909年)10月、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家安重根によって狙撃され、死亡しました。現在、韓国では安重根は英雄となっています。

  元九州大学大学院客員教授の若狭和朋氏は伊藤博文暗殺の犯人は安重根ではないと指摘しています。氏によると伊藤博文には三発の銃弾が命中し、体内に残っていた二発の銃弾はフランス騎兵銃のものです。(もう一発は肉をそいで対外に出ている)安重根は7連発ブローニング拳銃です。まず、銃弾が異なります。伊藤に同行した貴族院室田義文も5発被弾し、犯人は安重根ではないと書き記しています。その内容の一部。

「駅の二階の食堂からフランス騎兵銃で撃った者がある。・・・右肩から斜め下に撃つにはいかなる方法によるも二階を除いて不可能である。そこは格子になっていて斜め下に狙うには絶好であった」

  室田義文は伊藤公の遺体の処置に立会い、右肩を砕いて右乳下に止まった一弾と右腕関節を貫通して臍下(せいか/へそした)に止まった一弾を現任しています。ところが不思議なことに、検事の調書には室田が「騎馬銃」について述べた記録はなく、安重根を裁いたこうはん記録のどこにも「騎馬銃」の文字は出てこないし、遺体の処置に当たった医師の談話にも「騎馬銃」は出てこない・・・

  若狭氏はここで外務省外交資料館の「伊藤公爵満州視察一件」というファイルに以下の記載があるのを指摘しています。
「・・・真の凶行担当者は、安重根の成功とともに逃亡したるものならんか。今、ウラジオ方面の消息に通じたる者の言うところに照らし凶行首謀者および凶行の任に当たりたる疑いあるものを挙げれば左の数人なるべきか」として25人の名前を記しており、安重根の名前もこの中にありますが、この25人は「韓民会」というロシア特務機関の影響下にある組織でした。つまり、安重根を犯人にしたてあげて外交的にも内政的にも幕引きにしたということです。ロシア特務機関がなぜ伊藤を狙ったかは若狭氏の記述は長いので簡単にいうと、日露戦争前に伊藤はロシアと協商を結ぼうとしていたものの、その後、日英同盟が結ばれ、日露開戦が予想より早くなり、そのためロシアは敗北した。対ロシア謀略の中心人物が伊藤であると判断しており、裏切り者として復讐したというものです。

  よく言われているのは伊藤博文は日韓合邦慎重派で、日韓合邦に反対する安重根は伊藤を暗殺して日韓合邦を加速させたバカなテロリストだったというのがありますが、伊藤暗殺が日韓合邦の思惑の外であれば話はあってきます。少なくとも安重根の銃弾は伊藤には命中しなかったのは間違いないでしょう。彼はテロリストとしても成果は無く、韓国でいう義士としても成果は無かったわけです。



参考文献
  「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
  「歴史通」2010/7『安重根は犯人ではない』若狭和朋
参考サイト
  WikiPedia「伊藤博文」「安重根」

添付写真
  韓国の民族衣装を着て記念撮影におさまる伊藤(韓国統監時代、前列左から二番目が梅子夫人) (PD)

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非文明国に条約の有効無効を語る資格はない。
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  1909年12月、韓国の一進会は日韓合邦の上奏を行います。総理大臣だった李完用はこのとき日韓合邦に反対の姿勢でしたが、韓国の世論は日韓合邦に向かいます。
  1910年6月30日、大韓帝国の警察権は日本が引き受けます。7月12日に「併合後の韓国統治方針」を決定し、伊藤博文の後任である寺内正毅が本格的に動き始めます。8月16日に李完用と会談し、併合条約の具体案を話し合い、8月18日、大韓帝国の閣議はこの案を承認しました。8月22日、純宗皇帝の御前会議で最終的に日韓併合案は承認され、李完用と寺内正毅がこれに調印し、歴史的な日韓合併が成立しました。

  この条約は「韓国併合ニ関スル条約」といわれるもので、平成13年(2001年)に日韓併合が合法か不法かという論争がおきています。岩波の「世界」誌上で日韓の学者が争いましたが、決着がつかず、アメリカのハーバード大学のアジアセンター主催で日米韓英独も含めて議論しました。これは韓国が国際社会で不法論を確定させようとたくらみ、韓国政府傘下の国際交流財団の財政支援のもと韓国の学者ら主導で行われたものです。韓国は不法に朝鮮半島を併合したことを主張しました。国際法の専門家であるケンブリッジ大学のクロフォード教授が強い合法の主張を行いました。

「そもそも当時の国際社会では、国際法は文明国相互の間に適用される。この国際法を適用するまでの文明の成熟度を有さない国家には適用されない。言い換えるなら、文明国と非文明国の関係は、文明国相互においてと同様に国際法において規定されない。それゆえ、前者(文明国と非文明国の関係)においては後者(文明国相互の関係)で必要とされる手続きは必ずしも必要でない。極論すれば、文明国と非文明国との関係の一類型として登場する、植民地化する国と植民地化される国の最終段階では、必ず条約の形式を必要とするとさえ言えない。当時において重要だったのは、特定の文明国と非文明国の関係が他の文明国にどのように受け止められていたか、である。単純化して言えば、植民地化において法が存在していたのは、その部分(他の文明国が受容したか否か)のみである。この意味において、韓国併合は、それが米英を初めとする列強に認められている。仮にどのような大きな手続き的瑕疵(かし)があり、非文明国の意志に反していたとしても、当時の国際法慣行からすれば無効とはいえない」


自分で生きていけない国について周辺の国が国際秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことであって、日韓併合条約は国際法上は無法ではなかった」


  韓国側は猛反発しますが、同教授は一喝します。

「強制されたから不法という議論は第一次大戦以降のもので、当時としては問題になるものではない」


  韓国側は「条約に国王の署名がない」と不法論を補強しようとしましたが、日本側から日韓保護条約についての皇帝の日記など、韓国側の資料を分析し、高宗皇帝は条約に賛成し、批判的だった大臣たちの意見を却下していた事実を紹介しました。欧米の学者からも皇帝の署名は必要ない、とする見解が出されたといいます。

  この会議に参加していた学者によると韓国側はがっくりと肩を落として去ったそうです。しかし、この会議の内容を日本のマスコミは黙殺しました。


参考文献
  「親日派のための弁明」金完燮著
  「かへるうぶすな」南出喜久治著
参考サイト
  WikiPedia「韓国併合ニ関スル条約」

関連記事
  列強が支持した日韓合邦 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/21057715.html

添付画像
  御署名原本・明治四十三年・条約第四号・韓国併合ニ関スル条約 (国立公文書館より)

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韓国の抗日義兵のウソ

義兵どころか民衆の敵
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  日韓合邦は一進会に代表される韓国民衆の意思でもあり、英米などの列強の意思でもありました。
  一進会は1905年乙巳保護条約を締結するとの日本政府の方針が知らされると「韓国の外交権を日本に委任せよ」と条約締結を支援します。
  1906年3月2日、伊藤博文が朝鮮の初代総監に赴任した妃、一進会は南大門に「歓迎」と記した巨大な垂れ幕を掲げて伊藤を歓迎します。
  大韓帝国政府は1907年に国債償還運動を展開します。国民から義援金を集めて国の外債を返済しようというもので、高宗の圧政によって草の根や木の皮まで口にして延命してきた韓国民衆はあきれ、一進会は政府を弾劾します。ハーグ密使事件により高宗が退位すると韓国軍に解散命令が出て、一部の軍人が武装解除を拒否し、内戦がおきます。ここのところはウソの歴史がまかり通っているところです。

  ウソ:日本軍 VS 義兵
  真実:日本軍 + 一進会  VS  韓国軍の一部

  日本の教科書にもウソが書かれています。少し前のものと思われますが、山川出版の「世界の歴史」です。(日本人が知ってはならない歴史より引用)
「日露戦争中、日本は軍をソウルに入れて内政・外交の実験を握り、戦後、韓国を保護国化した。これに対する韓国民衆の怒りは大きく、各地で反日義兵闘争が広がった。しかし日本はこれを弾圧し、1910年韓国を併合したのである」

  このときの内戦1906年から1910年までの保護国時代に暴徒鎮圧のため戦死した日本軍の死者は87名、憲兵の死者28名、警察官21名、計147名に過ぎず、内戦というよりテロに近いのではないかという数字です。韓国では数千の「義兵」が抵抗したことになっているそうですが、どうでしょう。中川八洋著「歴史を捏造する韓国」ではどのグループも数十で最大の部隊でも数百がやっと、となっています。Wikiには韓国人に16,700人の死者と書いています。これは朝鮮駐箚軍司令部編「朝鮮暴徒討伐誌」によるものと思われます。数千の義兵が1万6千死んだことになります。同著では4年間に14万、最多の年で6万の義兵が計281回の衝突を起こしたとなっており、装備面を考えても日本軍は2000余りでしたから、よっぽど弱い義兵だったのか、一進会が多かったのか、というところになります。日本側の資料なので、数の数え方を考えて功績を多く見せたのかもしれません。韓国の民衆は「義兵」にソッポを向き、潜んでいる「義兵」を日本軍や憲兵に密告しました。立派な「偽兵」です。

  1908年、元韓国外交顧問であったアメリカ人スティーブンスは日本の総監府を賞賛する発言がもとで帰米したときに韓国人に暗殺されました。英米と日本に併合論が高まります。1909年7月に日本は適当な時期に日韓合邦を行うことを閣議決定します。10月、伊藤博文が暗殺されると、12月に一進会は韓日合邦建議書を提出します。以下一部(意訳)

「日本は日清戦争を通じて韓国を独立させ、日露戦争でロシアに食われかけていた韓国を救ってくれた。それでも韓国はありがたく思うどころか、あの国にくっつきこの国にくっつきし、結局は外交権を奪われることになったが、これは私たちがみずから招いたことである。丁未条約を締結することになったのも、やはりハーグ事件を起こした私たちに責任がある。伊藤博文公が国民を見守ってくれ、太子を導いて私たち韓国のためにご苦労されたことを忘れられない。にもかかわらずハルピンの事件が起きてしまった以上、今後はいかなる危険が到来するかわからない。これもまた私たち韓国人がみずからそうしてしまったのである」

  1910年8月22日、「韓国併合ニ関スル条約」が結ばれました。不幸な歴史です。(日本にとって不幸、韓国にとって幸福)


参考文献
  「親日派のための弁明」金完燮著
  「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
  「歴史を捏造する韓国」中川八洋著
  「韓国併合への道」呉善花著
参考サイト
  WikiPedia「韓国併合」

関連記事
  列強が支持した日韓合邦 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/21057715.html
  日韓合邦を亡国と思っていなかった韓国人 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/23634194.html

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  大韓帝国軍の兵士(PD)

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隠されている一進会の存在
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  1860年に崔済愚(チェ・ジェウ、さい せいぐ)が起こした思想、東学の三世教主、孫 秉熙(ソン・ビョンヒ)は1903年に李容九(イ・ヨング)らに半島の東学組織を進歩会に再編させます。進歩会は黒い服をきて、断髪していました。朝鮮では儒教の規範により白い服を身に着けており、長い髪をかきあげて髷を結っていましたから目につきます。大韓帝国政府は進歩会の前身が東学ということを知り、驚愕します。そこで日本に進歩会の討伐を依頼します。しかし、日本は拒否。日露戦争が勃発すると進歩会は日本軍に協力し、開化派と合同し、一進会を結成しました。大韓帝国皇帝の高宗らは裏でロシアとつながっていました。ですから、日露戦争は半島内では次のような構図になっていたわけです。

  日本 大韓帝国(一進会)

      VS

  ロシア 大韓帝国(高宗ら支配階級)

  進歩会は5万人の東学教徒を動員し、日本軍の京義鉄道施設工事と兵站業務を助けました。またロシア軍の動きを探る諜報部員を朝鮮半島と満州各地に派遣し、日本軍の目となり耳となっていました。つまり民衆は日本を支持したわけです。
  教育学博士の若狭和朋氏の祖父は上等兵で日露戦争に従軍してこう述べていたといいます。

「俺たち第一軍は朝鮮に上陸して朝鮮からロスケ(ソ連兵のこと)を追い出しながら、満州に渡った。朝鮮人は、日本軍に協力した。これは凄かった。だいたい、朝鮮の村では、貧乏人は徹底的にいじめられておった。日本軍は支那軍やロスケと違って、いじめもせんし、物を取り上げたりはせんから大歓迎してくれたもんたい。両班(貴族階級のこと)とか威張ったやつどんがおったが、好かんかった。お産をする家があって、(出入り禁止の)はり紙を出したことがあった。お?・・・俺が書いた。命令たい。軍隊では何でも命令だ。貼ったのは、だれか知らんが、日本軍は悪さはせんやった。食い物を差し出すけど、ばってん命令でもあったが、食わなかった。日本軍は好かれていた」

  民衆が日本軍を支持していたことが良くわかる話です。また、このようにも言っています。

「トロッコみたいな鉄道を日本軍に協力して敷いてくれた朝鮮の部隊・・・ではないが、いた。その指導者はあとで大臣になったと聞いた。が、誰か忘れた」

  大臣になったというのは宋 秉粥淵愁鵝Ε咼腑鵐献絅鵝砲里海箸任靴腓Α

  戦争初期に朝鮮半島北部を旅行したマッケンジーは著書でこう述べています。
「どこでも韓国の国民からは日本軍に対する友好的話題ばかりを聞かされた。労務者や農民たちも友好的であった」

  現在、これらの一進会の事実は韓国では徹底的に隠されているといいます。よくて日本の御用団体の扱いです。韓国でも文明の大転換期に国家革新に動いた人たちがいたのです。


参考文献
  「親日派のための弁明」金完燮著
  「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
  「大東亜戦争への道」中村粲著
関連記事
  日韓合邦を熱望した一進会 http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/21080352.html

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  ソウル東門1904年(PD)

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