戦後の日本

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愛される自衛隊。
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  平成2年(1990年)の湾岸戦争後、日本海上自衛隊は511名の掃海部隊を派遣し、残された機雷を処理しています。日本海軍がインド洋に行ったのは第一次世界大戦の地中海派遣と大東亜戦争のインド洋作戦以来となります。

  ペルシャ湾に面した国でクウェートに近い国を順にあげると、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦があり、アラブ首長国連邦のドバイには当時日本の大手企業70社ほど進出しており、約350名の日本人が駐在していました。ドバイは安全で週末のゴルフコースはプレーを楽しむ欧米人の男女があふれ、レストランやパブは家族連れやカップルで賑わっていました。ところが、日本人は続々と引き揚げてしまったのです。

  ドバイ在住日本人会の赤井豪太氏は大手家電メーカーの所長と「ドバイは全然、問題じないじゃないか。これなら避難する必要はないのでここに残ることにするよ。ゴルフでもやりながらゆっくりしましょう」「OK!そうしよう」と会話を交わしますが、その所長が突然「やっぱりここを離れることにしたよ」と電話をかけてきました。理由を尋ねると「本社から自分だけいい格好するなと言われた」というのです。

  イラク軍のクウェート侵攻後、半年たった平成3年(1991年)1月17日、多国籍軍による「砂漠の嵐」作戦が開始され、空爆後、地上戦に移行し、2月28日に多国籍軍の圧倒的勝利をもって戦闘は終了しました。この戦争の貢献度によって復興の機器資材の調達先は優先的に割り当てられ、日本は130億ドル(当時1兆5000億円ほど)を出しましたが、小さな船1隻を出したノルウェーよりも評価が低かったのです。人的貢献がないからです。
  ペルシャ湾の沿岸諸国の間では「湾岸の復興に貢献してくれた国に感謝する」ということで、背中に湾岸の復興に貢献した国の国旗が描かれたTシャツが売られましたが、そこに日本の国旗はありませんでした。湾岸の日本人はどれほど肩身の狭い思いをしたことか

  その年の5月の終わりにドバイの現地新聞の見出し。

「日本海軍来たる」


  日本人会の赤井豪太氏は「すごいぞ!来たぞ!やったぞ!」とやたら興奮する自分を抑えきれなかったといいます。正確には海上自衛隊なのですが、外国で「自衛隊」という言葉は通用しません。軍隊です。赤井氏は周囲のイギリス人やインド人から次のように言われ、一緒に喜んでくれたそうです。

「アカイ、良かったな。日本海軍が来るんだってな」


  海上自衛隊の掃海部隊はカフジ沖の機雷処分も行っており、この海域ではそれ以前からイラン・イラク戦争による機雷が漂流しており、問題になっていました。日本は原油を採掘していた関係で重要な航路になっていましたが、サウジアラビアにはノウハウがなく、現地サウジアラビア人の作業員も船に乗るのを嫌がっていました。そこへ海上自衛隊の掃海部隊が登場したのです。サウジアラビア石油の社員(日本人)はヘリコプターから旭日旗を確認すると「日本の掃海部隊を発見したぞ!」と基地に打電し、感極まり大音量のスピーカーを使って掃海艇に呼びかけました。

「海上自衛隊の皆さん。ご苦労様です。今、上空にいるのはアラビア石油のヘリコプターです。ありがとうございます!ありがとうございます!」


  以前からアラブの人たちから「日本の海軍はなぜ来ないのか?」とよく聞かれていたといいますから、思いのほどが伝わってくる話です。



参考文献
  光人社「ペルシャ湾の軍艦旗」碇義朗(著)
参考サイト
  「湾岸の夜明け作戦」 落合 http://www.mod.go.jp/msdf/mf/touksyu/yoakenosakusen.pdf
  「湾岸の夜明け」作戦に掃海部隊派遣(「海上自衛隊50年史」から抜粋) http://www.mod.go.jp/msdf/mf/touksyu/wanngann.pdf

添付画像
  海上自衛隊 掃海隊群ホームページより http://www.mod.go.jp/msdf/mf/index.html

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ジパング @海上自衛隊&大日本帝国海軍
http://www.youtube.com/watch?v=51rIaskPAfM






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ほんの20年前の話です。
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  私は以前ゴルフをやっており、現在はやっていませんが、「湾岸戦争ゲーム」といういわゆるニギリというのがあるのを知りました。1、アメリカ 2、フセイン、3、イギリス、4、日本、というもので、どうやら日本は「カネだけ出す」という位置づけのルールのようです。

  平成2年(1990年)の湾岸戦争(イラクのクウェート侵攻)では日本は自衛隊を憲法の制約で出せないため、金だけ出すとということになり、批判が内外にありました。クウェート政府は日本に感謝しませんでした。クウェート政府というより、国際社会は人的貢献がないと評価しないものなのです。湾岸戦争後、クウェート政府は「ワシントン・ポスト」紙の全面を使って協力各国に謝意を表しましたが、その中に日本の国旗はありませんでした。
  湾岸戦争の復興の機器資材は貢献度に応じて調達先など優先的に割り振りましたが、130億ドル(当時、約1兆5000億円)を支払った日本に対する評価は惨めなもので、小さな船1隻を出したノルウェーやわずか数人の看護兵を出したアジアの某国よりも低いものでした。「日本はGHQ憲法九条があるので云々」・・・世界はそんなこと知りません。そんなこと言ったらアホと思われます。

  しかし、その後、平成3年、日本は英、仏、独、伊とともに海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣し、機雷を取り除き、さらにエジプト政府の要請を得て日本単独でカフジ沖も掃海しています。機雷はラジコンで爆破できないものが多数あり、自衛隊員の水中処分隊員が手作業爆破準備したとのことで、これは命がけの作業です。この後、クウェート政府は日本国旗の入った記念切手を発行し、読売新聞に「心からありがとう クウェートから日本の皆様へ」と題する全ページ広告を掲載して日本に謝意を表しています。

  ペルシャ湾に派遣した海上自衛隊の司令官、落合元海将補(当時、一佐)はあの沖縄戦の海軍司令官、大田実少将の三男です。「沖縄県民斯く戦へり」で有名でしょう。掃海部隊が現地入りしたとき、ペルシャ湾の沿岸諸国の間では「湾岸の復興に貢献してくれた国に感謝する」ということで、背中に湾岸の復興に貢献した国の国旗が描かれたTシャツが売られ、約30カ国に及ぶ派遣艦隊の乗員たちは、自国の国旗が描かれたTシャツを着て、繁華街を大きな顔で歩き回っていましたが、130億ドルの巨費を支払っていた日本の日の丸はその中にありませんでした。落合一佐は苦い思いを味わいましたが、日本の掃海部隊の活躍が知られるようになってくると、Tシャツに日の丸が見られるようになりました。

落合一佐「資金提供のみの協力と、実際に現地にやってきて作業に参加する協力との差を、つくづく思い知らされた」

  当初はカネだけでしたが、海上自衛隊の命をかけた活躍により、日本は復権しました。それなのに、ゴルフの湾岸戦争ゲームはいったいどうして、カネだけ出したことになっているのか。ひとつはマスコミが報道したがらなかったというのがあるでしょう。マスコミは戦後ずっとGHQのプレスコードに縛られています。軍を称賛してはダメなんです。もうひとつは日本人が自虐に親しむ国民性になってしまったことがあげられます。これもGHQによる自虐史観の植え付けというマインドコントロールの影響がずっと残っているからでしょう。それでも掃海部隊が日本を離れて2ヶ月余りもするとさすがにマスコミは取材しにやってきて、日本テレビは「追跡」という番組で報道しました。掃海部隊が凱旋したとき、その様子を朝日、読売、毎日がヘリコプターで取材しました。出発時には派遣反対派の運動が大きかったものの、帰還時には様子が随分違ったといいます。広島の呉に掃海部隊艦艇6隻が姿を現すと、出迎えのフェリーには「歓迎、尊い任務に心から感謝します」という横断幕が張られ、船上から400人が日の丸を振って迎えました。呉のFバースに近づくと騒がしいので、また何か反対を叫んでいるのかと思ったら「ご苦労様でした。お疲れ様でした」と迎えてくれたといいます。



参考文献
  光人社「ペルシャ湾の軍艦旗」碇義朗(著)
  PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
参考サイト
  WikiPedia「自衛隊ペルシャ湾派遣」

添付画像
  機雷の爆破処分と見守る掃海艇
    海上自衛隊掃海隊群ホームページ 掃海部隊の歴史より http://www.mod.go.jp/msdf/mf/rekisi.html

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[歌詞字幕] GUNKAN March 行進曲『軍艦』 - 海上自衛隊横須賀音楽隊



日本を愛したスリランカのジャヤワルダナ氏。
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  スリランカ独立後の蔵相となったJ・R・ジャヤワルダナ氏はサンフランシスコ講和条約会議で「自由にしてかつ独立した日本の復活」「憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ愛によって消え去るものである」という演説を行い、不朽の名演説と言われました。

  スリランカではお釈迦様の入滅の2500年後に「ジャヤ・セーナ(勝利の戦士)」という名の人が、東のほうから来て仏教を助ける、という言い伝えがあり、昭和17年(1942年)4月に日本軍がコロンボとトリンコマリーを空襲したときに「遂にやってきた」と歓迎したといいます。ジャヤワルダナ氏もこのときを独立の好機と考えたようです。

  第二次世界大戦が終わり、スリランカは独立し、ジャヤワルダナ氏は蔵相となりました。(後、大統領)そしてサンフランシスコ講和条約に出席します。講和条約はソ連が日本の主権制限案を提案したり、議事進行を妨害するために32人の代表団を送り込んでおり、緊張と不安の中に開会されました。

  ジャヤワルダナ氏のスピーチの一部
「アジア諸国民が日本は自由でなければならないということに感心を持っているのはなぜでありましょうか。それは日本とのわれわれの長年の関係のためであり、そしてまた、アジアの諸国民の中で日本だけが強力で自由であり日本を保護者にして盟友として見上げていた時に、アジア隷従人民が日本に対して抱いていた高い尊敬のためであります。私は、アジアに対する共栄のスローガンが隷従人民に魅力のあったこと、そしてビルマ、インド及びインドネシアの指導者のあるものがかくすることにより彼らの愛する国々が解放されるかもしれないという希望によって日本人と同調したという前大戦中に起こった出来事を思い出すことができるのであります」

「空襲や東南アジア軍の指揮下にある膨大な軍隊の駐屯及びわれわれが連合国に対して天然ゴムの唯一の生産者であった時、われわれの主要商品の一つであるゴムを枯渇せしめたことによってもたらされた損害はわれわれに対してその賠償を請求するつもりはありません。何故ならばわれわれは、そのメッセージがアジアの無数の人々の生命を高貴ならしめたあの偉大な教師の言葉すなわち『憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ愛によってのみ消え去るものである』という言葉を信ずるからであります。それは偉大なる教師であり仏教の創始者である仏陀のメッセージであります」


「故にこの条約の目的とする所は、日本を自由にし、日本の回復に何ら制限をも課さず、日本が外部からの侵略及び内部よりの破壊に対して自らの軍事的防衛力を組織するようにすること、そうするまでには日本防衛のために友好国家の援助を要請すること並びに日本経済に害を及ぼすようないかなる賠償も日本から取り立てないことを保証することであります」


  15分にわたる演説であり、全部書くと長くなりますので、各国の新聞・雑誌の反応を書きますと、ジャヤワルダナ氏の演説を「この会議最高の歴史的発言」(ソルトレイク・トリビューン紙)、「世に忘れ去られようとしていた国家間の礼節と寛容を声高く説き、鋭い理論でソ連の策略を打ち破った」(サンフランシスコ・エグザミナー紙)、「ジャヤワルダナ氏こそ、最も才能あふれるアジアのスポークスマン」(タイム誌)と絶賛されました。

  ときの吉田首相はジャヤワルダナ氏に感謝の手紙を送っています。そしてジャヤワルダナ氏は昭和54年(1979年)に国賓として来日し、昭和天皇に謁見しています。

  ジャヤワルダナ氏は明治時代に日本を訪れて日本をモデルにして祖国の独立を図ろうとした傑僧ダルマパーラの伝統的親日感情を受け継ぎました。仏教を通じても日本に親しみを覚え、禅の世界的権威といわれる鈴木教授とも交流があり、生涯日本を愛しました。親日の理由を聞かれると「日本は西欧に対してひとり際立った存在だった、そして、仏教国だから」と答えたといいます。
  1996年11月1日、ジャヤワルダナ氏は永眠しました。彼の遺志に基づき、死後の彼の角膜が臓器提供されました。片方はスリランカ人に、そしてもう片方は日本人に



参考文献
  桜の花出版「日本のお陰です」桜の花出版編集部(編)
  転展社「世界から見た大東亜戦争」名越ニ荒之助(編)
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  日本国との平和条約に署名する吉田茂首席全権と全権委員(PD)


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当然言うべきは言う。
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  昭和26年(1951年)9月4日、サンフランシスコ講和会議は米国トルーマン大統領の開会の辞で始まりました。この会議に白洲次郎は講和会議首席全権顧問として随行しました。講和会議はソ連、チェコスロバキア、ポーランドの調印式ボイコットがありましたが、予想より短い5日間で調印式を迎えることができました。

  調印式の前日の9月7日に吉田首相が講和条約の受諾演説をする予定になっていました。吉田茂は次郎に「演説の草稿に目を通してくれたか?」と聞きます。次郎は「あなたの晴れ舞台ではないですか。お好きにやられたらいいんじゃありませんか」と返すと吉田は「そう言わず見てくれよ」と言います。

  次郎は渋々外務省の役人に草稿を持ってこさせます。そして一目で渋面になります。

  次郎の回想
「それを見るとしゃくにさわったね。第一英語なんです。占領がいい、感謝感激と書いてある。冗談いうなというんだ。GHQの外交局と打ち合わせやってるのです。英語でこういうものを日本の首席全権が演説するといって、向こうのやつに配ってあるわけです。そんなの勝手にしろってといったんです。小畑さんにこういう趣旨で書くんだといって、ぜんぶ日本語で書いてもらったのです。それに書いたのは沖縄かえせということ」

  次郎は奄美大島、琉球諸島、小笠原諸島等の返還についてに言及させようとします。これにはGHQを恐れる外務省は次郎を思いとどまらせようと必死になります。しかし次郎は「GHQを刺激するから触れるなだと。バカヤロー、冗談いうな!」と一喝しました。以下、直された原稿の一部。

「第一、領土の処分の問題であります。奄美大島、琉球諸島、小笠原群島その他平和条約第3条によつて国際連合の信託統治制度の下におかるることあるべき北緯29度以南の諸島の主権が日本に残されるというアメリカ合衆国全権及び英国全権の前言を、私は国民の名において多大の喜をもつて諒承するのであります。私は世界、とくにアジアの平和と安定がすみやかに確立され、これらの諸島が1日も早く日本の行政の下に戻ることを期待するものであります」


  この日本語原稿は演説の直前まで作成が続けられ、できあがったときつなぎ合わせると30Mにもなり、巻くと直径10センチになりました。吉田茂は下読みなしでぶっつけ本番で悠々と読み上げました。この巻紙原稿を各国のマスコミは「吉田のトイレットペーパー」と打電しました。

  9月8日は調印式でした。「ジャパン!」とアナウンスが入り、吉田首相以下6名の全権委員が登壇しました。吉田首相は調印の際にサイン用として新品のペンが渡されましたが、わざわざ胸ポケットから自分のペンを出してサインしました。独立を回復した日本が自力で国際社会を生き抜くという意気込みをみせたパフォーマンスです。

  次郎(そうだ、じいさん。よくやった!)

  そしてこの日、はじめて議場に日の丸の旗がはためきました。



参考文献
  講談社文庫「白洲次郎 占領を背負った男」北康利(著)
  河出書房新社「白洲次郎」『講和条約への道』白洲次郎
参考サイト
  データベース『世界と日本』 日本政治・国際関係データベース
    東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室
    サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説
    http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPUS/19510907.S1J.html

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  サンフランシスコ講和会議へ向かう機上の吉田茂(右)と白洲次郎(PD)

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戦前は普通ですよ。旧ソ連や中共、北朝鮮のような恐ろしい国ではありません。
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  小林よしのり著「天皇論」の中で小林氏が美容室で髪を切ってもらっているとき、美容師と世間話になり、その美容師がこんなことを述べていたと書いています。

「北朝鮮、危ないですよね〜」「戦前の日本も同じだったんですからねえ」「天皇を神様にして戦争しちゃって」

  私自身も戦中、戦前というのは軍部独裁で庶民はないがしろになり、自由がなく、情報も思想も統制され、恐ろしい社会だったと教えられてきました。そして敗戦によってGHQが解放した、と。こういう認識を持った人がまだまだ多いのでしょう。

  大東亜戦争中、東條英機首相は首相官邸から街へ出て、魚河岸に鰯があるか、赤ん坊の”おしめ”の心配に耳を貸したりしています。物資不足を心配し、国民の様子を観察しています。昭和18年の初頭、東條は親しい友人に「(戦争に)敗れるのは陸海軍の抗争と、国民の厭戦(えんせん)気分だな」と語っています。つまり国民感情は政治に対して大きな影響力を持っていたということです。日本は明治天皇の五箇条のご誓文、自由民権運動を経て、民主的な大日本帝国憲法が発布され、大正デモクラシーなどがあり、民主主義が醸造されていました。大東亜戦争期間は戦時体制としてそれが抑制され、「国家社会主義」に寄っただけです。


  情報統制も軍事情報は大本営発表しか報道できませんでしたが、戦争中ではどこの国も軍事情報はコントロールするもので、戦果は報告を集計するといいほうに解釈し勝ちで過大なものになりやすく、被害は敵にその情報が伝わると弱みを教えることになるので、抑制して発表されるものです。真珠湾攻撃で米国は当初は被害状況を伏せ、幾分解除するとどの戦艦が撃沈されたか報道できるようになっています。日本からジェット気流を利用した風船爆弾の被害を米国は厳重な報道管制を敷き、日本側に戦果がわからないようにしています。もちろんこういった統制は戦意維持の意図もあります。

  昭和17年4月に初めて東京が空襲(ドーリットル空襲)されたとき大本営は「敵機9機を撃墜。損害軽微」と発表しましたが、『皇軍は空気(9機と空気をかけた駄洒落)を撃墜した』と揶揄するマスコミもありました。昭和19年2月に毎日新聞に「勝利か滅亡か 戦局はここまできた」「竹槍では間に合わぬ。飛行機だ、海洋航空機だ」と新名丈夫記者が書いたことがあります。東條首相は激怒しますが、海軍は絶賛します。当時の雰囲気が見えてきそうな話です。ただ、東條首相は逆鱗にふれた記者その他の人を兵隊として召集させ激戦地に送るなど過酷な仕打ちをしています。こういうのは評判が悪かったようです。新名記者の場合は、陸軍で召集されましたが、海軍の大西瀧次郎中将が中に入って海軍報道部員として引き抜き、戦後フィリピンから無事帰還しています。

  戦前は治安維持法で言論や思想弾圧があり、おそろしい憲兵や特高警察がいた、と多くの人はおどろおどろしいイメージを刷り込まれているでしょう。この法律の趣旨はあくまで共産主義イデオロギーが日本国内に入ってくることを防ぐのが目的でした。当初の最高刑は10年です。その後、最高刑は死刑となりましたが、死刑になった人は一人も居ません。また、ソ連や中共を見てわかるとおり、共産主義というのは常に暴力とセットになっており当時としては取り締まる意義も大きかったわけです。オウム真理教が恐ろしいテロ集団に成長するまで放置されていたことを考えると理解できると思います。もちろん治安維持法は冤罪で逮捕された人も多かったのも事実で拷問もありました。法の運用に問題はあったでしょう。何事にも両面あります。


  戦時中も帝国議会は開催されていました。もっともこれは陸軍機密費が動いて陸軍に都合のよい議員(陸軍代議士と呼ばれた)が多く誕生したわけですが、じゃあ、今の政治は?というと背後になにやら怪しげな支援団体がいてカネが動いて選挙に流れていっています。政党助成金もおかしな使われ方がされている話を聞きます。あんまり変わりませんね。戦前が特別というわけではないでしょう。




参考文献

  「天皇論」小林よしのり著
  「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子著
  「東条英機」太田尚樹著
  「GHQ焚書図書開封」西尾幹二著
  「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一著
参考サイト 
  WikiPedia「風船爆弾」「ドーリットル空襲」

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  昭和15年のあかちゃんの店 http://syasinsyuu.cool.ne.jp/mise/22.jpg (ごちゃまぜ写真館より http://kyoto.cool.ne.jp/syasinsyuu/index.htm )


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