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尾張国式内社めぐりトップへ
大野神社(おおのじんじゃ)
所在地:一宮市浅井町大野郷東1042
訪問日:2009年12月12日
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 当社は、木曽川の堤防(南側・愛知県側)を走っていって黒岩の交差点を左(大野方面)に下っていった所にある。地図で見ると、「138タワーパーク」の東南に近接している。
 当社は、おそらく存在したであろう参道は失われていて、道路からいきなり境内への鳥居が立っている。やや暗ぼったい写真では分かりづらいかも知れないが、ここの鳥居は風雨にさらされて、かなり古いと感じさせられる。事実、裏面の刻印を見ると明治40年建立のものであることが分かる。古いはずである。100年余を経ている。
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 鳥居をくぐると境内だが、神橋や透垣(すいがい)はなく、いきなり正面に神楽殿が見える。
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 近づいてみると、神楽殿で、手前にあるのは燭台だ。拝殿はその奥にある。
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 これが拝殿だ。ここには由緒その他の説明板は見あたらず、故事来歴を伺う術がない。ここの祭神は、式内社調査には誉田別命ほむだわけのみこと)、天照大神、建水方神(たけみなかたのかみ)の3神とし、菅原道真公を合祀している、としている。他方、「尾張式内実訪書」では誉田別命のみを記している。どちらが正しいか私には分からないが、「尾張式内実訪書」は服部宮司の話を記しており、同宮司から祭神のことを聞かなかったとは考えにくく、ここでは「尾張式内実訪書」を取り、当社の祭神、少なくとも主祭神は誉田別命としておきたい。誉田別命は、後に十五代応神天皇として即位する人物で、三韓征伐を行ったとされう、有名な神功皇后(じんぐうこうごう)の御子である。
 ついでに建水方神に言及すると、通常、建御名方神と表記され、大国主の御子とされている。軍神のひとつである。
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 明治3年以前は「八幡社」と呼ばれていたというから、主神は建御名方神だった可能性もある。当社の旧地は少し南だったと伝えられ、その祭神は罔象女神(みずはめのかみ)だった、という前記服部宮司の話を重くみると、当社の本来の主神は軍神なのではなく、水神だったことになる。
 なお、当地はかって若栗郡大沼郷(おうのごう)と言われていたから{沼」の文字からして水に関係が深かったという意見があるようだが、.にわかに肯首しがたい。式内社名は「大沼神社」ではなく「大野神社」となっているうえに、木曽川の氾濫の激しい地帯だったので、大きな沼が定位置にあったとは言い難いし、このあたりにそんな大沼があったという話は聞いたことがない。ただ、木曽川の氾濫に加えて新田開発にも力が注がれた地帯だから、水にまつわる崇敬が生まれたことは容易に推察される。
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 最後に、式内社調査は津島社という境内社の存在を記しているが、見落としたのか、私には確認できなかった。
当大野神社を含め、木曽川沿いには式内社等古社が多く、水に対する古代の人々の謝意や恐れの思いが伝わってくるように思われる。

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こんにちは。加藤さんの式内社巡りの記事、楽しく拝見しています。
この大野神社も昨年5月にウオーキングで立ち寄ったところです。
こうして解説していただけると神社の由来などが本当によく分かり
ます。それにしても、神社の始まりが、同じような年代に属している
ようで、日本の自覚の始まり(記録の始まり)と軌を一にしている
ように感じられました。日本の古代社会の生活・由来などを知る上
でも神社の記録などは、貴重ですね。

2010/1/7(木) 午前 10:43 [ ウオーキングライフ ] 返信する

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ウオーキングさん、コメありがとうございました。神社は江戸時代になっても、否、現代でも創建され続けています。ただ、感心するのは、古社が長命を保ち続けていることです。きっと神社は私たち日本人にとけ込んでいるんでしょうね。

2010/1/7(木) 午後 2:41 [ 加藤勝美 ] 返信する

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