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資本論第3巻学習会

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『資本論』学習会・第3巻読書録のブログ掲載一覧表(2012.9.20〜2014.7.21)
 (全16ページ)
「B16」::資本論第3巻学習会レポート1・全3巻の構成と第1・2巻の復習
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/folder/1215033.html?m=lc&p=16
ここではまず最初に、『資本論』全3巻の目次を掲げる。
又マルクスの経済表も付けた。いつも全体像を把握する必要があるからです。
「B15」:資本論学習会レポート・全3巻の構成と1、2巻の復習
第1章・第2章・第3章・第4章
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/folder/1215033.html?m=lc&p=15
(その2)今回は、第3巻第1篇第1章まで。はじめに第1・2巻の復習。
(マルクスの自筆経済表貼付・1863.7.6エンゲルス宛「資本論」に関する手紙p129参照)

 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/37527832.html
(その3)レポート・第1章 費用価格と利潤(マルクスの経済表貼付)
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/37528136.html
資本論第3巻学習会レポート2−1 (2012.10.17)・第2章 利潤率
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/37623814.html
第3章 利潤率の剰余価値率に対する関係
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/37625878.html
第4章 利潤率に対する回転の影響
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/37625885.html
「B14」:資本論学習会第1篇第5章・第6章・第7章・第2篇第8章・補論1・2
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/folder/1215033.html?m=lc&p=14
第5章 不変資本の使用における節約
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/37704240.html
第6章 価格変動の影響・第7章 補遺
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/37705567.html
第2篇・利潤の平均利潤への転化 第8章・生産部門の相違による資本構成の相違と
それにもとづく利潤率の相違
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/37793341.html
補論1、『「資本論」に関する手紙』から ①
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/37850998.html
補論2、『「資本論」に関する手紙』から(続き) ②(マルクスの経済表貼付)
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/37853697.html
「B13」:第2篇・第9章・第10章の①・②・第11章
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/folder/1215033.html?m=lc&p=13
第2篇利潤の平均利潤への転化 第9章平均利潤率の形成と商品価値の生産価格への転化
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/37947764.html
第10章の①競争による一般的利潤率の均等化。市場価格と市場価値。超過利潤
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38035964.html
第10章 競争による一般的利潤率の均等化。市場価格と市場価値。超過利潤②
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38059821.html
第10章(その3)競争による一般的利潤率の均等化。市場価格と市場価値。超過利潤
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38061170.html
第11章 生産価格に対する労賃の一般的変動の影響
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38063324.html
「B12」: 第12章・第3篇第13章・第14章・第15章1・2
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/folder/1215033.html?m=lc&p=12
 第12章 補遺 (資本の物神性の昂進)
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38074378.html
第3篇 利潤率の傾向的低下の法則:第13章 この法則そのもの
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38108655.html
第14章 反対に作用する諸原因
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38173588.html
第15章 この法則の内的矛盾の展開 その①
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38191535.html
第15章・第3節・人口の過剰を伴う資本の過剰②
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38191537.html
「B11」:第4篇第16章・第17章1・2・3・商業利潤全体の概要
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/folder/1215033.html?m=lc&p=11
第4篇 商品資本と貨幣資本との商品取引資本と貨幣取引資本とへの転化(商人資本)
第16章 商品取引資本
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38279533.html
第17章 商業利潤 (その1)
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38384983.html
第17章 商業利潤 (その2)
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38394747.html
第17章 商業利潤 (その3)
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38397661.html
学習会資料・商業利潤全体の概要
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38432042.html
「B10」:第18章1・2・第19章・第20章1・2
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/folder/1215033.html?m=lc&p=10
第18章、商人資本の回転。価格(その1)
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38478527.html
第18章、商人資本の回転。価格(その2)
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38481008.html
第19章、貨幣取引資本
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38490417.html
第20章、商人資本に関する歴史的考察(その1)
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38516654.html
第20章、商人資本に関する歴史的考察(その2)
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38518890.html
「B9」:第21章1・2第22章・第23章・第24章
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/folder/1215033.html?m=lc&p=9
第5篇利子と企業者利得とへの利潤の分裂第21章、利子生み資本 (その1)
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38548150.html
第21章、利子生み資本 (その2)
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38548170.html
第22章、利潤の分割 利子率 利子率の「自然的」な率
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38558877.html
第23章、利子と企業者利得
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38605028.html
第24章、利子生み資本の形態での資本関係の外在化
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38611856.html
「B8」:第25章・第26章・第27章・第28章・第29章
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/folder/1215033.html?m=lc&p=8
第25章、信用と架空資本
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38640957.html
第26章、貨幣資本の蓄積 それが利子率に及ぼす影響
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38646041.html
第27章、資本主義的生産における信用の役割
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38650972.html
第28章、流通手段と資本 トゥクとフラートンとの見解
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38655071.html
第29章、銀行資本の諸成分
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38669921.html
「B7」:第30章・第31章・第32章・第33章・第34章
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/folder/1215033.html?m=lc&p=7
第30章、貨幣資本と現実資本Ⅰ
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38683462.html
第31章、貨幣資本と現実資本Ⅱ
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38706765.html
第32章、貨幣資本と現実資本Ⅲ(結び)
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38713713.html
第33章、信用制度のもとでの流通手段
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38773541.html
第34章、通貨主義と1844年のイギリスの銀行法
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38777240.html
「B6」:第35章・第36章1・第36章Ⅱ・第6篇第37章Ⅰ・第37章Ⅱ
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/folder/1215033.html?m=lc&p=6
第35章、貴金属と為替相場
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38779890.html
第36章、資本主義以前(Ⅰ) 
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38809405.html
第36章、資本主義以前(Ⅱ) 
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38810122.html
第6篇超過利潤の地代への転化 第37章、緒論(1)
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38851278.html
第37章、緒論(2)
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38851299.html
「B5」:第38章・第39章1・第39章2・第40〜44章・第45章①
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/folder/1215033.html?m=lc&p=5
第38章、差額地代 総論
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38901072.html
第39章、差額地代Ⅰの1 
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38909463.html
第39章、差額地代Ⅰの2
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38922103.html
第40章〜第44章、差額地代
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38928391.html
第45章、絶対地代①
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/38999539.html
「B4」:第45章②・「参考」・第46章・第47章1節・第47章2節
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/folder/1215033.html?m=lc&p=4
第45章、絶対地代②
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/39024876.html
「参考」宮川彰著『資本論』第2・3巻を読む(下)第45章絶対地代から
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/39027001.html
第46章、建築地代、鉱山地代、土地価格
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/39035304.html
第47章、資本主義的地代の生成 第一節 緒論
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/39088879.html
第47章、資本主義的地代の生成 第二節 労働地代
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/39119172.html
「B3」:第47章第3節・参考・第47章第4節・第7篇第48章断片
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/folder/1215033.html?m=lc&p=3
第3節 生産物地代
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/39120613.html
参考:「日本の場合」:労働地代と生産物地代が併存した。
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/39124919.html
第4節 貨幣地代
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/39149523.html
第5節 分益農制と農民的分割地所有
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/39152418.html
第7篇 収入とその源泉 第48章 三位一体的定式 (断片、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ) 
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/39180458.html
「B2」:第48章三位一体的定式①・第48章②・第48章③・第48章④・第48章⑤
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/folder/1215033.html?m=lc&p=2
第48章 三位一体的定式(1) 
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/39193869.html
第48章 三位一体的定式 (2) (断片、Ⅰ、Ⅱ) 
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/39224632.html
第48章 三位一体的定式(3) 
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/39224674.html
第48章 三位一体的定式(4)
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/39224723.html
第48章 三位一体的定式(5) 断片Ⅲ 
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/39224736.html
「B1」:第49章・第50章①・第50章②・第7篇第51章・第52章
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/folder/1215033.html?m=lc&p=1
第49章 生産過程の分析のために① (マルクスの経済表貼付)
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/39252286.html
第49章 生産過程の分析のために②
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/39260123.html
第50章 競争の外観①
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/39265131.html
第50章 競争の外観② 
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/39267645.html
第7篇 収入とその源泉 
 第51章 分配関係と生産関係 第52章 諸階級

(資本論第3巻・了)

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『資本論』学習会レポート 『資本論』・第3巻・第7篇・諸収入とその源泉
第51章、分配関係と生産関係  (資本論学習会 2014.7.16開催分)
・年々新たに追加される労働によって新たに追加される価値は、・・・3つの違った収入形態をとる3つの部分に分かれるのであって、これらの形態はこの価値の一部分を労働力の所有者のもの、一部分を資本の所有者のもの、そして第3の部分を土地所有者のものとして、・・・表している。つまり、これらは分配の関係又は形態である。なぜなら、それらは、新たに生産された総価値が種々の生産要因の所有者たちの間に分配される関係を表しているからである。(⑪p432)
・普通の見方にとっては、これらの分配関係は、自然関係として、あらゆる社会的生産の性質から生じ人間的生産そのものの諸法則から生ずる関係として、現れる。確かに資本主義以前の社会が別の分配様式を示している事は否定できないが、しかし、その場合にはこれらの分配様式は、かの自然的な分配関係の未発展で不完全な、仮装された、その最も純粋な表現とその最高の姿とに還元されていない、別の色合いをつけられた様式と解されるのである。(⑪p432)
・この考え方でただ1つだけ正しいのは次の点である。即ち、どんな種類かの社会的生産を前提すれば、労働は常に2つの部分に区別されうるのであって、その一方は生産者やその従属者たちが直接に個人的に消費する生産物を生産する部分であり、他方は、−生産的に消費される部分を別とすれば−常に剰余労働であり、その生産物は常に一般的な社会的欲望の充足に役立つものであって、この事は、この剰余生産物がどのように分配されようと、又誰がこの社会的欲望の代表者として現れようと、それには関わりはないという事である。
(⑪p433)
・もっと教養のある、もっと批判的な意識は、分配関係の歴史的に発展した性格を承認するのであるが、しかし、そのかわりに、生産関係そのものの、いつでも変わらない、人間の本性から生まれてくる、従って一切の歴史的発展から独立した性格を、益々固執するのである。(注35:J・Sミル)(⑪p433)
・これに反して、資本主義的生産様式の科学的分析は次のような事を証明している。資本主義的生産様式は特別な種類の、独自な歴史的規定をもつ生産様式だという事。それは、他の全ての特定の生産様式と同様に、社会的生産力とその発展形態との与えられた段階を自分の歴史的条件として前提しており、この条件はそれ自体が先行過程の歴史的な成果であり産物であるが、それをまた与えられた基礎として新たな生産様式がそこから出発するという事。この独自な歴史的に規定された生産様式に対応する生産関係−人間が彼らの社会的生活過程において、彼らの社会的生活の生産において、取り結ぶ関係−は、ある独自な歴史的な一時的な性格を持っているという事。そして最後に、分配関係は本質的にはこの生産関係と同じであり、その裏面であり、従って両方とも同じ歴史的な一時的な性格を共通に持っているという事。(⑪p434)
・分配関係を考察する際、人々はまず第一に、年間生産物が労賃と利潤と地代として分配されるという、いわゆる事実から出発するが、しかしこのように言えば、事実は間違いである。生産物は2つに分かれて一方では資本になり他方では種々の収入になる。これらの収入の一つである労賃は、常に前もって資本の形態で同じ労働者に相対した後に始めてそれ自身1つの収入の、つまりこの労働者の収入の形態をとるのである。
(⑪p434)
・生産された労働条件及び労働生産物一般が資本として直接生産者に相対するという事は、はじめから、労働者に対する物的労働条件の一定の社会的性格を含んでおり、従って又労働者たちが生産そのものに際して労働条件の所有者との間でも彼らどうしの間でも結ぶ一定の関係を含んでいる。これらの労働条件の資本への転化はそれ自身又直接生産者からの土地の収奪を含んでおり、従って又土地所有の一定の形態を含んでいる。
(⑪p434〜p435)
・他方、資本主義的生産様式が生産条件のこの特定の社会的な姿を前提するとすれば、それは又この同じ姿を絶えず再生産するのである。確かに資本はそれ自身既にある分配を前提している、という事はできる。即ち、労働者からの労働条件の収奪、少数者へのこれら条件の集積、他の諸個人の為の土地の排他的所有、要するに本源的蓄積に関する篇で展開された関係の全てを前提しているという事ができる。(⑪p435)
・しかし、このような分配は、人々が生産関係に対立させて、分配関係に1つの歴史的性格を与えようと考えている分配関係とは全く違ったものである。後者の分配関係は、生産物のうちの個人的消費に入る部分に対する種々の権利を意味している。これに反して、前者の分配関係は、生産関係そのものの中で直接生産者に対立して生産関係の特定の当事者たちに割り当たる特殊な社会的機能の基礎である。この分配関係は生産条件そのものにもその代表者たちにも特殊な社会的性質を与える。それは生産の全性格と全運動とを規定するのである。(⑪p435〜p436)
・資本主義的生産様式を初めから際立ったものにしているのは次の2つの特徴である。(⑪p436)
第一に、この生産様式はその生産物を商品として生産する。
商品として生産するという事は、この生産様式を他の生産様式から区別するものではない。しかし、商品である事がその生産物の支配的で規定的な性格であるという事は、確かにそれを他の生産様式から区別する。(⑪p436)
・この事はまず第一に、労働者自身がただ商品の売り手として、従って自由な賃金労働者として現れ、従って労働が一般に賃金労働として現れるという事を含んでいる。・・・この生産様式の主要な当事者である資本家と賃金労働者とは、そのものとしてはただ資本と賃労働との肉体化であり人格化であるにすぎない。即ち社会的生産過程が個々人にあてがう一定の社会的な役割であり、この特定の社会的生産諸関係の産物であるにすぎない。(⑪p436)
・(1)生産物が商品であるという性格と(2)商品が資本の生産物であるという性格とは、既に全ての流通関係を含んでいる。即ち生産物がそこを通らなければならない。又そこでは生産物が一定の社会的性格をとる一定の社会的過程を含んでいる。それは又生産当事者たちの一定の関係を含んでおり、この関係によって彼らの生産物の利用も生活手段か生産手段かへの生産物の再転化も規定されている。(⑪p436〜p437)

・前述の2つの性格((1)と(2))からは、価値規定の全体が、又価値による総生産の規制が出てくる。価値というこの全く独自な形態では、一方では、労働はただ社会的労働として認められるだけであり、他方では、この社会的労働の分配も、その生産物の相互補足即ち物質代謝も、社会的連動装置への従属や挿入も、個々の資本家的生産者たちの偶然的な相殺的な活動に任されてある。(⑪p437)
・資本家的生産者たちは互いにただ商品所有者として相対するだけであり、又各自が自分の商品をできるだけ高く売ろうとするのだから、内的な法則はただ彼らの競争、彼らが互いに加え合う圧力を通じてのみ貫徹されるのであって、この競争や圧力によって諸々の偏差は相殺されるのである。ここでは価値の法則はただ内的な法則として、個々の当事者に対しては盲目な自然法則として、作用するだけであって、生産の社会的均衡を生産の偶然的な諸波動のただ中を通じて維持するのである。(⑪p437)
・さらに、資本主義的生産様式の全体を特徴づけている社会的な生産規定の物化と生産の物質的基礎の主体化とは、既に商品の内に含まれており、資本の生産物としての商品のうちにはなおさら含まれているのである。(⑪p437)
・資本主義的生産様式を特に際立ったものにする第二のものは
生産の直接目的でも規定的動機でもある剰余価値の生産である。資本は本質的に資本を生産する。そして、資本がそれをするのは、ただ、資本が剰余価値を生産する限りでの事である。・・・この点にこそ、資本主義時代に特有な生産様式は基づいているのである。(⑪p438)
・この生産様式は、労働の社会的生産力の、といっても労働者に対して独立した資本の力になっており従って労働者自身の発展に直接に対立している生産力の、発展の1つの特殊な形態なのである。価値と剰余価値との為の生産は、・・・商品生産に必要な労働時間、即ちその商品の価値を、その時々の社会的平均よりも小さくしようとする絶えず働いている傾向を含んでいる。費用価格をその最低限まで減らそうとする衝動は、労働の社会的生産力の増大の最も強力なてこである。といっても、この増大はここではただ資本の生産力の不断の増大として現れるだけであるが。(⑪p438)
・資本家が資本の人格化として直接的生産過程でもつ権威、彼が生産の指揮者及び支配者として行う社会的機能は、奴隷や農奴などによる生産を基礎とする権威とは本質的に違うものである。(⑪p438)
・資本主義的生産の基礎の上では、直接的生産者の大衆に対して、彼らの生産の社会的性格が、厳格に規制する権威の形態をとって、又労働過程の、完全な階層制として編成された社会的な機構の形態をとって、相対している。−といっても、この権威の担い手には、ただ彼が労働に対立する労働条件の人格化だから権威が属するだけであって、以前の生産形態でのように彼が政治的又は神政的支配者だからではないのであるが。
(⑪p439
・ところが、この権威の担い手たち、互いにただ商品所有者として相対するだけの資本家たち自身の間では、最も完全な無政府状態が支配していて、その中では、生産の社会的関連はただ個人的恣意に対する優勢な自然法則としてその力を現すだけである。(⑪p439)
・ただ、賃労働の形態にある労働と資本の形態にある生産手段とが前提されているからこそ、・・・価値(生産物)の一部分が剰余価値として現れ、又この剰余価値が利潤(地代)として、資本家の利得として、資本家に属する追加の処分可能な富として、現れるのである。しかし又、ただ剰余価値がこのように彼の利潤として現れるからこそ、再生産の拡張にあてられており利潤の一部分をなしている追加生産手段が新たな追加資本として現れるのであり、又再生産過程の拡張が一般に資本主義的蓄積過程として現れるのである。(⑪p439)
・いわゆる分配関係そのものを見てみよう。労賃は賃労働を前提し、利潤は資本を前提する。つまり、これらの一定の分配形態は、生産条件の一定の社会的性格と生産当事者達の一定の社会的関係とを前提するのである。だから、一定の分配関係は、ただ歴史的に規定された生産関係でしかないのである。(⑪p440)
・今度は利潤をとってみよう。この剰余価値の特定形態は、
生産手段の新たな形成が資本主義的生産という形態で行われる為の前提であり、従って再生産を支配する関係である。個々の資本家には、全利潤を本来は収入として食ってしまう事ができるかのように思われるのであるが、・・・実際上、保険・予備財源や競争の法則等の形で、制限が彼の前に現れており、利潤は彼に個人的に消費されうる生産物の単なる分配範疇ではないという事を示しているのである。(⑪p440)
・資本主義的生産過程の全体は、さらに生産物の価格によっても調節されている。しかし、調節的生産価格はそれ自身又利潤率の均等化やそれに対応する種々の社会的生産部面への資本の配分によって調節されている。だから利潤は、ここでは、生産物の分配のではなく、生産物の生産そのものの主要因として、資本や労働そのものの種々の生産部面への配分の部分として現れるのである。(⑪p440)
・利潤の企業者利得と利子とへの分裂は、同じ収入の分配として現れる。しかし、この分裂は、第一に、自分を増殖し剰余価値を生み出す価値としての資本の発展から、・・・生ずるのである。それは、それ自身のうちから信用や信用施設を、従って又生産の姿を発展させる。利子などでは、いわゆる分配形態が規定的な生産契機として価格に入る。(⑪p441)
・地代については、単なる分配形態であるように見えるかもしれない。なぜなら、土地所有そのものは、生産過程ではどんな機能も行わないからである。しかし、(1)地代が平均利潤を越える超過分に制限されるという事情、(2)土地所有者が生産過程と社会的生産過程全体との指揮者であり支配者である地位から、単なる土地の賃貸し人に、土地の高利貸に、単なる地代収得者に押し下げられるという事情は、資本主義的生産様式の1つの独自な歴史的結果である。(⑪p441)
・土地が土地所有という形態を与えられたという事は、資本主義的生産様式の1つの歴史的前提である。土地所有が、農業の資本主義的経営様式を可能にする諸形態を与えられるという事は、この生産様式の独自な性格の産物である。(⑪p441)

・(結論)だから、いわゆる分配関係は、生産過程の、又人間が彼らの人間的生活の再生産過程で互いに取り結ぶ諸関係の、歴史的に規定された独自に社会的な諸形態に対応するのであり、又この諸形態から生ずるのである。この分配関係の歴史的性格は生産関係の歴史的性格であって、分配関係はただ生産関係の一面を表しているだけである。資本主義的分配は、他の生産様式から生ずる分配関係とは違うのであって、どの分配形態も、自分がそこから出てきた、そして自分がそれに対応する特定の生産形態とともに消滅するのである。(⑪p442)
・ただ分配関係だけを歴史的なものと見て生産関係をそうとは見ない見解は、一面では、ただブルジョア経済学にまだ囚われている批判の見解でしかない。他面では、それは社会的生産過程を、異常に孤立した人間が何の社会的援助もなしに行うような単純な労働過程と混同し同一視することに基づいている。(⑪p442)
・労働過程がただ人間と自然との間の単なる過程でしかない限りでは、労働過程の単純な諸要素は、常に労働過程の全ての社会的発展形態に共通なものである。しかし、この過程の一定の歴史的な形態は、それぞれ、さらにこの過程の物質的基礎と社会的形態とを発展させる。ある成熟段階に達すれば、一定の歴史的形態は脱ぎ捨てられて、より高い形態に席を譲る。このような危機の瞬間が到来したという事が分かるのは、一方の分配関係、従って又それに対応する生産関係の一定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力及び発展との間の矛盾と対立とが広さと深さとを増した時である。そうなれば、生産の物質的発展と生産の社会的形態との間に衝突が起きるのである。(⑪p442)
 
第52章 諸階級  (資本論学習会 2014.7.16開催分)
・労賃・利潤・地代をそれぞれの収入源泉とする単なる労働力の所有者と資本の所有者と土地の所有者、つまり賃金労働者と資本家と土地所有者とは、資本主義的生産様式を基礎とする近代社会の三大階級をなしている。イギリスでは、近代社会がその経済的編制において最も著しく最も典型的に発展している。それにも関わらず、この階級編制はこの国でさえ純粋に現れてはいない。(⑪p443)
・中間階級や過渡的階層がこの国でも至る所で限界規定を紛らわしくしている。とはいえ、これは我々の考察にとってはどうでもよい事である。既に見たように、生産手段を益々労働から切り離し、分散している生産手段を益々大きな集団に集積し、こうして労働を賃労働に転化し生産手段を資本に転化することは、資本主義的生産様式の不断の傾向であり発展法則である。そして、この傾向には、他方では、資本と労働からの土地所有の独立的分離が、又は資本主義的生産様式に対応する土地所有形態への全ての土地所有の転化が対応している。(⑪p443)
・まず答えられなければならないのは、何が階級を形成するのか?という問いである。そしてその答えは、何が賃金労働者と資本家と土地所有者とを3つの大きな社会階級にするのか?という別の問いに答える事によって、自ずから明らかになるのである。(⑪p444)
・一見したところでは、それは収入が同じだという事であり、収入源泉が同じだという事である。3つの大きな社会群があって、その構成分子、それを形成している個々人は、それぞれ、労賃・利潤・地代によって、つまり彼らの労働力、彼らの資本、彼らの土地所有の経済的実現によって、生活しているのである。(⑪p444)
・とはいえ、この立場から見れば、例えば医者と役人も2つの階級を形成することになるであろう。なぜなら、彼らは2つの違った社会群に属しており、それぞれの群の成員の収入は、それぞれ同じ源泉から流れ出ているからである。同じ事は、社会的分業によって労働者も資本家も土地所有者もそれぞれ更に無限に多くの利害関係や地位に・・・細分される事についても言えるであろう。(⑪p444)  
 (原稿はここで切れている。F・エンゲルス)   以上、第7篇 収入とその源泉 
第51章 分配関係と生産関係 第52章 諸階級 (資本論第3巻・了)

 
※資本論学習会に沿って、今までブログに掲載した読書録を「マルクス主義研究」の項目の中に
一覧表として纏めました。
「資本論第3巻学習会」のブログ掲載一覧表です。総索引としてご利用ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2unj/39273028.html
 

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第50章 競争の外観

『資本論』学習会レポート 『資本論』・第3巻・第7篇・諸収入とその源泉
第50章、競争の外観②  (資本論学習会 2014.7.16開催分)
・W(商品の総価値)=C(不変資本)+V(可変資本)+M(剰余価値)→ W−C=V+M
 ※「300w−200c=100(v+m)」

任意の商品の総価値(W)が300で、そのうち200がその商品の生産に消費された生産手段即ち不変資本の価値(C)だとしよう。そうすれば、100がこの商品の生産過程でそれに付加された新価値の総額として残る。(※「300w−200c=100(v+m)」)(⑪p416)
・この100という新価値は、3つの収入形態への分割の為に処分されうるものの全てである。労賃をx、利潤をy、地代をzとすれば、x+y+zの合計は常に100である。ところが、産業家や商人や銀行家の観念では、又俗流経済学者たちの観念でも、全くそうではなくなるのである。・・・
(彼らにおいては)商品の価格は、簡単に、労賃・利潤・地代という、商品の価値からも相互にも独立に規定されている3つの価値量から構成されており、従って、xとyとzとはそれぞれそれ自体として独立に与えられ規定されているのであって、これらの量の総額−それは100より小さいことも大きいこともありうる−から、つまり、これらの商品価値形成要素の合計から、始めて商品そのものの価値量が結果として出てくるというのである。(⑪p416)
・この取り違えは次のような理由から必然的である。
第一に、
商品の種々の価値成分はそれぞれ独立な収入として相対し、これらの収入はそういうものとして労働と資本と土地という3つの全く別々な生産要因に関連させられており、従ってこれらの生産要因から発生するように見えるからである。(⑪p416)
・労働力の所有、資本の所有、土地の所有は、商品のこれらの種々の価値成分をこれらのそれぞれの所有者たちのものにし、従ってそれらを彼らにとっての収入に転化する原因である。しかし、価値は、収入への転化から発生するのではなく、・・・その前に、そこに存在していなければならない。
これらの3つの部分の相互の相対的な大きさの規定は、それぞれ別々の法則に従うものであり、商品価値そのものとそれらとの関連も、商品価値そのものによるそれらの制限も、決して表面には現れないので、この逆さになった外観は益々固まらざるをえないのである。(⑪p417)
・第二に、労賃の一般的な上昇又は低下は、その他の事情が変わらなければ、それとは反対の方向への一般的利潤率の運動を引き起こす事によって、種々の商品の生産価格を変化させ、それぞれの生産部面の資本の平均構成に応じて一方を高くし他方を低くする。故にこの場合には、とにかくいくつかの生産部面では、商品の平均価格が労賃の上昇の為に上がり、低下の為に下がるという事が経験されるのである。「経験」されないのは、このような変動が労賃には関わりのない商品価値によってひそかに調節されるという事である。(⑪p417)
・これに反して、もし労賃の上昇が局部的で、ただ特殊な生産部面で特有な事情によって起きるだけならば、それに対応したこれら商品の名目的な価格引き上げが現れうる。その場合には、・・・ただ、種々の生産部面への剰余価値の均等な分配の局部的な撹乱に対する反動でしかなく、特殊な利潤率の一般的利潤率への均等化の手段でしかない。その場合になされる「経験」もやはり労賃による価格の規定である。つまり、この2つの場合に経験される事は、労賃が商品価格を規定したという事である。経験されないのは、この関連の隠れた原因である。(⑪p418)
・さらに、労働の平均価格、即ち労働力の価値は、必要生活手段の生産価格によって規定されている。・・・ここで再び経験される事は、労賃と商品価格との間に或る関連があるという事である。しかし、原因が結果として、又結果が原因として現れうるという事は、市場価格の運動の場合と同様なのであって、市場価格の運動では、平均を越える労賃の上昇は、繁栄期における生産価格を越える市場価格の上昇に対応し、そのあとにくる平均以下への労賃の低下は、生産価格よりも下への市場価格の低下に対応するのである。生産価格が商品価値によって拘束されているという事には、市場価格の振動的運動を無視すれば、明らかに、労賃が上がれば利潤率は下がり、逆ならば逆だという経験が常に対応せざるをえないであろう。(⑪p418)
・しかし、既に見たように、利潤率は労賃の運動には関わりなく、不変資本の価値の運動によって規定されているという事もありうるのであり、従って労賃と利潤率とが反対方向にではなく、同じ方向に運動して両者が一緒に上下する事もありうるのである。・・・全てこれらの経験は、種々の価値成分の独立な逆立ちした形態によって引き起こされる外観、まるで労賃が一人でか又は労賃と利潤とが一緒に商品価値を規定するかのような外観を確かなものにするのである。ひとたび・・・労働の価格と労働によって生み出された価値とが一致するように見えるならば、それは利潤や地代については自明である。そうなれば、それらの価格即ち貨幣表現は、労働にも労働によって生み出された価値にも関わりなしに調節される事にならざるをえないのである。(⑪p419)
・第三に、・・・一口で言えば、資本主義的な基礎の上で社会的価値生産物の分配と生産価格の規制とが行われるが、そのさい競争は排除されていると仮定しよう。・・・このような前提の下でさえも、現実の運動は必然的に逆立ちした姿で現れるであろう。即ち、所与の価値量が3つの部分に分解されてそれぞれの部分が互いに独立した収入形態をとるという事としては現れないで、逆に、労賃・利潤・地代という別々に独立に規定されている構成要素の合計によってこの価値量が形成されるという事として現れるであろう。(⑪p420)(物象化的顛倒の上に形成されている近代会計!)
・このような外観は必然的に生ずるであろう。なぜならば、個別資本やその商品生産物の現実の運動では、商品価値がその分解の前提として現れるのではなく、逆に、それが分解されて生ずる諸成分が商品価値の前提として機能するからである。(⑪p420)
・(労賃・利子・地代における物象化的顛倒の構造分析)(⑪p420)
・最初、まず我々が見たのは、それぞれの資本家にとって商品の費用価格は所与の大きさとして現れ、又現実の生産価格の中に常にそういうものとして現れるという事である。しかし、費用価格は、不変資本即ち前貸生産手段の価値(C)・プラス労働力の価値(V)に等しいのであるが、この労働力の価値(V)は、生産当事者たちにとっては労働の価格という不合理な形で現れ、従って労賃が同時に労働者の収入として現れる事になる。(⑪p420〜p421)
・労働の平均価格が1つの所与の大きさであるのは、労働力の価値が他のどの商品価値とも同様にその再生産に必要な労働時間によって規定されているからである。しかし、・・・労賃という形に分解される価値部分は、それがこの労賃という形をとる事、つまり資本家が労働者に労働者自身の生産物中の彼の分け前を労賃という現象形態で前貸しする事から発生するのではなく、労働者が自分の労賃に対応する等価を生産する事、即ち彼の一日又は一年の労働の一部分が彼の労働力の価格に含まれている価値を生産する事から発生するのである。(⑪p421)
・しかし、労賃は、それに対応する価値等価が生産されるより前に、契約によって定められる。それゆえ、商品価値が生産される前からその大きさが与えられている1つの価格要素として、つまり費用価格の成分として、労賃は、独立の形で商品の総価値から分かれる1部分としては現れないで、逆に、この総価値を前もって規定する与えられた量として、即ち価格又は価値の形成者として現れるのである。(⑪p421)
・労賃が商品の費用価格で演ずるのに似た役割を平均利潤は商品の生産価格で演ずる。なぜなら、生産価格は費用価格・プラス・前貸資本に対する平均利潤に等しいからである。この平均利潤は、実際上では、つまり資本家自身の観念や計算では、1つの調節的な要素として入ってくる。即ちそれがある投下部面から別の部面への諸資本の移転を規定する限りで入ってくるだけではなく、長期間にわたる再生産過程を包括するような販売や契約が行われる場合にはいつでも入ってくるのである。(⑪p421〜p422)
・しかし、平均利潤がこのようにして入ってくる限りでは、それは1つの前提された量であって、この量は、実際、それぞれの個別的生産部面で生み出された価値や剰余価値からは独立したものであり、従って又、これらの部面のそれぞれで各個の資本投下が生み出した価値や剰余価値からはなおさら独立したものである。現象は平均利潤を価値の分裂の結果としては示さないで、むしろ、商品生産物の価値からは独立した、商品の生産過程ではじめから与えられている、そして商品の平均価格そのものを規定する量として、即ち価値形成者として、示すのである。(⑪p422)
・しかも、剰余価値は、その種々の部分が互いに全く独立な諸形態に分解される為に、もっとずっと具体的な形態で商品の価値形成に前提されているものとして現れる。平均利潤の一部分は、利子という形で、独立に、商品やその価値の生産に前提された一要素として、機能資本家に相対する。利子の大きさは変動するとはいえ、利子は、それぞれの資本家にとっては、1つの与えられた大きさであって、それが個々の資本家にとっては、自分の生産する商品の費用価格に入るのである。
(⑪p422)
・農業資本家にとっては、契約で定められた借地料という形での地代がやはりそうであり、又他の企業家たちにとっては営業場所の賃貸料の形での地代がそうである。これらの部分は、剰余価値が分解されたものであるのに、個別資本家にとっては費用価格の諸要素として与えられているので、逆に剰余価値の形成者として、即ち労賃が商品価格の他の部分を形成するように、その一部分を形成するものとして、現れるのである。(⑪p422)
・このような、商品価値の分解の産物が、なぜ常に価値形成そのものの前提として現れるのか、という秘密は、ただ単に次のような事なのである。即ち、資本主義的生産様式は、他の生産様式がどれでもそうするように、絶えず物質的生産物を再生産するだけではなく、社会的経済的諸関係を、この生産物形成の経済的形態規定を、再生産するという事である。それ故、この生産様式の結果が絶えずその前提として現れるのは、丁度その前提がその結果として現れるのと同様である。
・そして、このような同じ諸関係の不断の再生産こそは、個々の資本家が自明の事として、疑いない事実として、予想するものなのである。資本主義的生産そのものが存続する限り、新たに追加される労働の一部分は絶えず労賃に、もう一つの部分は利潤(利子と企業者利得)に、そして第3の部分は地代に、分解される。(⑪p423)
・種々の生産要因の所有者たちの間の契約では、この事が前提されているのであって、この前提は、これらの相対的な量的関係が各個の場合にどのように変動しようとも、正しいのである。種々の価値部分がそれぞれ一定の姿で相対するという事が前提されているのは、その姿が絶えず再生産されるからであり、又それが絶えず再生産されるのは、それが絶えず前提されているからである。
(⑪p423)
・第四に、商品の価値規定そのものは、個々の資本家にとっては全くどうでもよい事である。それは、既にはじめから、彼の背後で彼からは独立な諸関係の力によって行われるものである。なぜなら、価値ではなく、価値とは違った生産価格が、それぞれの生産部面で調節的な平均価格を形成するのだからである。(⑪p425)
・価値規定が資本家の関心を引くのは、ただ、それが資本家自身にとっての商品の生産費を上下する限りでの事であり、つまり、ただそれが彼を1つの例外的な位置に置く限りでの事である。これに反して、資本家にとって、労賃・利子・地代は、機能資本家としての彼の手に落ちる利潤部分即ち企業者利得を彼が実現しうるような価格の調節的限界として現れるだけではなく、とにかく継続的再生産が可能である為には彼がその価格で商品を売ることができなければならないような価格の調節的限界としても現れるのである。(⑪p425〜p426)
・労賃・利子・地代とによって彼にとって個別的に与えられている費用価格を越えて普通以上の企業者利得を彼が価格から取り出すという事さえ前提されていれば、商品に含まれている価値や剰余価値を彼が販売によって実現するかどうかは、彼にとっては全くどうでもよいのである。それゆえ、不変資本部分を別とすれば、彼には労賃・利子・地代が商品価格の限界を画する要素として、従って又創造的な規定的な要素として現れるのである。(⑪p426)
・個々の資本家たちの間の競争でも、世界市場での競争でも、労賃・利子・地代という与えられた前提された量が不変な調節的な量として計算に入るのである。不変というのは、それらが大きさを変えないという意味での事ではなくて、それらが各個の場合に与えられていて、絶えず変動する市場価格にとっての不変の限界をなしているという意味でのことである。(⑪p427)
・ある国では資本主義的生産様式が一般に発展していない為に、労賃や土地の価格は低いが資本の利子は高く、別のある国では労賃や土地の価格は高いが資本の利子は低いとすれば、資本家は一方の国ではより多く労働や土地を充用し、他方の国では比較的より多く資本を充用する。この場合に両国間の競争がどの程度まで可能かという計算では、これらの要因が規定的な要素として入る。だからこの場合に、経験・・・が示している事は、商品の価格は労賃・利子・地代とによって、即ち労働と資本と土地との価格によって規定されているという事であり、又実際にこれらの価格要素が調節的な価格形成者であるという事である。(⑪p428)
・第五に、資本主義的生産様式の基礎の上では、新たに追加された労働を表す価値を労賃・利潤・地代という収入形態に分解する事が全く自明な事になるので、この方法がもともとそれらの収入形態の存在条件がないところでも適用されるのである。即ち一切が類推によってそれらの収入形態の下に包摂されるのである。(⑪p429)
・もし一人の独立な労働者、これを例えば一人の小農民とすれば、(その場合には3つの収入形態の全てを適用できる)彼が自分自身の為に労働し、自分自身の生産物を売るとすれば、彼は、第一に自分自身を労働者として使用する自分自身の雇い主(資本家)とみなされ、次には自分自身を自分の借地農業者として使用する自分自身の土地所有者とみなされる。彼は、賃金労働者としての自分には労賃を支払い、資本家としての自分の為には利潤を請求し、土地所有者としての自分には地代を支払う。・・・このように、資本主義的生産様式に対応しない生産形態でも資本主義的生産様式の収入形態の下に包摂されうるので、なおさら、資本主義的諸関係がどの生産様式の自然関係でもあるかのような外観が固まるのである。(⑪p429〜p430)
・(未来社会論として)
・労賃をその一般的基礎に、即ち労働生産物のうちの労働者の個人的消費に入る部分に、還元するとしよう。この分け前を資本主義的制限から解放して、一方では社会の現存生産力が許し、他方では個性の十分な発展が必要とする消費範囲までそれを拡張するとしよう。さらに、剰余労働と剰余生産物を、社会の与えられた生産条件の下で、一方では保険+予備財源の形成の為に必要な、他方では社会的欲望によって規定された程度での再生産の不断の拡張の為に必要な程度まで縮小するとしよう。最後に、第一の必要労働と第二の剰余労働とのうちに、社会成員のうち労働能力のあるものが、まだそれのないものやもはやそれのないものの為にいつでもしなければならない労働量を含めるとしよう。即ち労賃からも剰余価値からも、必要労働からも剰余労働からも、独自な資本主義的性格を剥ぎ取ってしまうとしよう。そうすれば、そこに残るのは、もはやこれらの形態ではなくて、ただ、全ての社会的生産様式に共通な、これらの形態の基礎だけである。(⑪p430)
・ついでに言えば、この種の包摂は、以前の支配的な生産様式、例えば封建的生産様式にも備わっている。この生産様式には全く対応していないで全くその外にあった生産関係が封建的な関連の下に包摂されていた。例えばイングランドでは自由農民保有地がそれであって、これはただ貨幣納付義務だけを含むもので、ただ名目的に封建的だっただけである。(⑪p430〜p431)
以上、第7篇 収入とその源泉 第50章 競争の外観② 了

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第50章 競争の外観

『資本論』学習会レポート 『資本論』・第3巻・第7篇・諸収入とその源泉
第50章、競争の外観①  
(資本論学習会 2014.7.16開催分)
(※この章は、前章(49章)のアダム・スミスの5つの誤りの第五についての考察)(学習会資料)
・諸商品の価値、又は諸商品の総価値によって調節される生産価格は、次のものに分解される。
(①不変資本(c)、②可変資本(v)、③剰余価値(m))
(1)不変資本(c):
商品生産に際して生産手段の形で消費された過去の労働を表している価値部分。一言で言えば、これらの生産手段が商品の生産過程に入って行く時に持っていた価値又は価格。我々がここで言うのは、個々の商品ではなく、商品資本、即ち一定期間、例えば一年間の資本の生産物を表している形態の事である。
(2)可変資本(v):労働者の収入の大きさを表し労働者にとっては労賃に転化される可変資本価値部分。労働者はこの労賃をこの可変価値部分として再生産した訳である。要するに、商品の生産中に(1)の不変資本に新たに付加された労働の支払部分を表している価値部分。
(3)剰余価値(m):商品生産物の価値のうち不払労働又は剰余労働を表す部分。この剰余価値部分は、さらに又、同時に収入形態でもある次のような独立の諸形態をとる。即ち、資本の利潤の諸形態(資本そのものの利子と、機能資本としての資本の企業者利得)と、生産過程で協力する土地の所有者のものになる地代とがそれである。(⑪p392〜p393)
※(注33(⑪p393))不変資本部分に付加された価値について:この価値が労賃・利潤・地代とに分かれるとすれば、これらのものが価値部分であるという事は自明である。勿論、これらのものがこの価値の表されている直接的生産物のうちに、即ち労働者と資本家とが1つの個別生産部面、例えば紡績業で生産した直接的生産物つまり糸の内に存在すると考える事はできる。しかし、この事は、同じ価値のある何か別の商品に表されているのよりも多くも少なくもない。実際、労賃は貨幣で、つまり純粋な価値表現で支払われる。利子や地代もそうである。資本家にとっては、実際、彼の生産物が純粋な価値表現に転化されるという事は非常に重大な事である。分配そのものは既にこの転化が前提されているのである。これらの価値が、その生産からこれらの価値が発生したその同じ生産物、同じ商品に再転化されるかどうか、労働者が直接に自分が生産した生産物の一部分を買い戻すか、それとも他人が行った別種の労働の生産物を買うかは、事柄そのものには何の関係もないのである。(⑪p394)
・仮に500という資本の生産物価値が 400c+100v+150m=650 で、この150mはさらに利潤75+地代75 に分かれるとしよう。この場合には、可変資本vによって計られる労賃(100v)は前貸資本(500=400c+100v)の20%であり、総資本(500)に対する剰余価値m(150)は30%、即ち15%の利潤と15%の地代とである。(⑪p395)
・商品価値(650)のうち新たに付加された労働が対象化されている成分の総額は100v+150m=250である。この価値成分の大きさは、それが労賃・利潤・地代とに分かれる事には関わりがない。我々がこれらの部分相互の割合から知るところでは、例えば100ポンドで支払われた労働力が、250ポンドの貨幣量で表される労働量を供給した訳である。これによって、労働者は自分自身の為の労働の一倍半の剰余労働をしたという事が分かる。(⑪p395)
・このようにして生産された、そしてそれに対象化されている労働の量によって規定された、250という商品価値(100v+150m)は、労働者と資本家と土地所有者とが労賃・利潤・地代という収入の形でこの価値から引き出しうる配当の限界をなしているのである。(⑪p395)
・労賃の価値や利潤率や地代率の変動は、これらの部分の割合を調節する諸法則の作用がどうであろうとも、ただ、250という新たに作りだされた商品価値(100v+150m)によって画される限界の中で動くことができるだけであろう。その例外が現れるのは、ただ地代が独占価格に基づいている場合だけであろう。これは少しも法則を変えるものではなく、考察を複雑にするだけであろう。(⑪p396〜p397)
・(まとめ)新たに付加される労働によって生産手段又は不変資本部分に年々新たに付け加えられる価値が労賃・利潤・地代という別々の収入形態に区分され分解されるという事は、価値そのものの限界には、つまりこれらの種々の範疇の間に分配される価値総額には、何の変化も引き起こさないのである。それは丁度、これら個々の部分の相互の間の割合の変動がこれら部分の総額を、この与えられた価値量を、変えることができないのと同様である。(⑪p401)
・つまり、まず第一に、労賃・利潤・地代とに分割される諸商品の価値量、つまりこれら種々の価値部分の総額の絶対的限界は、与えられている。第二に、個々の範疇そのものについて言えば、それらの平均的な調節的な限界もやはり与えられている。労賃は、諸範疇のこのような限界付けの基礎をなしている。(⑪p402)
・労賃は、一面からは自然法則によって調節されている。その最低限界は、労働者が自分の労働力を維持し再生産する為に必要な生活手段の肉体的最低限によって、従って一定量の諸商品によって与えられている。これら商品の価値は、それらの再生産に必要な労働時間によって規定されている。例えば労働者の平均的な一日分の生活手段が価値から見て6時間の平均労働に等しいとすれば、彼は自分の毎日の労働のうち平均6時間は自分自身の為に労働しなければならない。(⑪p402)
・彼の労働力の現実の価値はこの肉体的最低限とは違っている。それは風土や社会的発展の程度によって違っている。それは、肉体的欲望によって定まるだけではなく、第二の自然となる歴史的に発展した社会的欲望によっても定まる。しかし、どの国でも、ある一定の時代には、この調節的な平均的な労賃はある与えられた大きさである。従って、残りの全ての収入の価値には限界がある。
この価値の限界は、不払労働を表す価値の限界によって、即ちこの不払労働の量によって与えられているのである。(⑪p402〜p403)
・利潤率の高さは、生産に前貸された社会的総資本(c+v)に対する総剰余価値(m)の比率である。この資本が500で剰余価値が100ならば、20%が利潤率の絶対的限界をなしている。種々の生産部面に投下されている資本の間にこの率を基準として社会的利潤が分配される事は、商品価値から偏った生産価格を生み出すのであって、これが現実に調節的な平均市場価格である。とはいえ、このような偏差は、価値による価格の規定や利潤の合法則的限界を廃棄するものではない。(⑪p404)
・・・・だから、価値の生産価格への転化は利潤の限界を廃棄するのではなく、ただ、社会資本を構成する種々の個別資本の間への利潤の分配を変えるだけであり、ただ、利潤をこれらの資本に均等に、即ちこれらの資本がこの総資本の価値部分をなしている割合に応じて、分配するだけである。(⑪p404)
・現実には、商品価値は前提された大きさであり、労賃・利潤・地代の相互の相対的な大きさがどうであろうと、それらの総価値の全体である。かの間違った見解では、労賃・利潤・地代とが3つの独立した価値量であって、それらの総量が商品価値量を生産し限界づけ規定するのだ、というのである。(⑪p408)
・さらに明らかなのは、ここでは価値概念が全くなくなってしまうという事である。残るものは、ただ、ある貨幣量が労働力や資本や土地の所有者たちに支払われるという意味での価格の概念だけである。だが、貨幣とは何か?貨幣は物ではなく、価値の一定の形態であり、従ってやはり価値を前提している。そこで我々が言いたいのは、一定量の金銀がかの諸生産要素に支払われるという事である。ところが金銀は、他の全ての商品と同様にそれ自身商品である。だから、金銀の価格も又、労賃・利潤・地代とによって規定されている。だから、我々は、労賃・利潤・地代を、それらがある量の金銀に等値されるという事によって規定する事はできないのである。(⑪p408〜p409)
・まず労賃をとってみよう。では、労賃の調節的な価格はどのようにして規定されるのか?我々は労働力の需給によって、と言いたい。だが、労働力のどんな需要なのか?資本による需要である。・・・労賃を規定する為には、我々は資本を前提する事はできない。なぜなら、資本そのものの価値が労賃によって規定されているからである。(⑪p409〜p410)
・さらに又、ここに競争を持ち込んでも何の役にも立たない。競争は労働の市場価格を上下させる。だが、労働の需給が一致していると仮定する時、その場合には、労賃は何によって規定されるのか。競争によって。だが、需給の一致により、競争が規定しなくなっているという事・・・は、今前提したばかりである。我々が求めたいのは、他でもない労賃の自然価格、即ち競争によって調節されるのではなく、逆に競争を調節する労働の価格なのである。(⑪p410〜p411)
・ところで、商品の第二の価格要素をなしている平均利潤・・・は、どうなのか?平均利潤は利潤の平均率によって規定される。ではこの平均率はどうして規定されるか?資本家たちの間の競争によってか?とはいえ、この競争は既に利潤の存在を前提している。競争は、・・・いろいろに違った利潤率を、従って又いろいろに違った利潤を前提している。(⑪p411〜p412)
・競争はただ利潤率の不等を均等化する事ができるだけである。その為には、利潤は商品価格の要素として既に存在していなければならない。競争は利潤を作りだしはしない。競争は、均等化が行われた時に現れる水準を高くしたり低くしたりはするが、この水準を作りだしはしない。そして、利潤の必然的な率を論ずる時に我々が知りたいと思うのは、まさに、競争の運動からは独立な、むしろそれ自身が競争を調節する利潤率に他ならない。(⑪p412)
・平均利潤率は、互いに競争する資本家たちの間の力の均衡とともに現れる。競争は、この均衡を作りだすことはできるが、この均衡の上に現れる利潤率を作りだす事はできない。
・・・競争は、それぞれの資本が自分の大きさに比例して同等な利潤をあげるような商品価格を出現させた。しかし、この利潤の大きさそのものは、競争には関わりがない。競争はただ全ての偏差を絶えず又この大きさに帰らせるだけである。(⑪p412〜p413)
・こんなばかげた手続きを地代について繰り返す事は不要である。この手続きをなんとかして一貫させれば、それは、利潤や地代を、まず第一に労賃によって規定されている商品価格への不可解な法則によって規定された単なる価格付加分として現れさせるという事は、分かっている。要するに、経済学者たちが競争を説明しなければならないのに、逆に競争のほうが経済学者たちのあらゆる概念喪失を説明してやらなければならないのである。(⑪p413)
・(競争の外観の下における三位一体的定式の物象化的顛倒のまとめ)(⑪p415)
・商品の価値(W)からその商品の生産に消費された生産手段の価値(C)を引き去ったもの、この与えられた、商品生産物に対象化されている労働量によって規定される価値量(V+M)が3つの成分に分解されて、これらの成分が労賃・利潤・地代として独立な互いに関わりのない収入形態の姿をとるという事、−この分解は、資本主義的生産のむき出しの表面では、従って又それに囚われている当事者たちの観念では、逆さになって現れるのである。(⑪p415)
以上、第7篇 収入とその源泉 第50章 競争の外観① 了

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『資本論』学習会レポート 『資本論』・第3巻・第7篇・諸収入とその源泉
第49章、生産過程の分析のために②  (資本論学習会 2014.6.18開催分)
・経済表(①)とは別に、ここでは単純再生産の表式をとってみよう。(⑪p369)
  Ⅰ.(生産手段)4000c+1000v+1000m=6000
  Ⅱ.(生活手段)2000c+ 500v+ 500m=3000  (1+Ⅱ=9000)
(※マルクスの経済表では、ⅠとⅡが反対になっている点、注意してください。)
Ⅱでは、生産者(資本家と労働者)と土地所有者によって、500v+ 500m=1000が収入として消費される。あとには2000cが残っていて補填されなければならない。これは、1000v+1000m=2000という収入を持っているⅠの労働者と資本家と地代収得者によって消費される。
・消費されるⅡの生産物はⅠの収入として消費され、消費されえない生産物で表されているⅠの収入部分はⅡの不変資本として消費される。即ち、Ⅱ(2000c)=Ⅰ(1000v+ 1000m)。そこで、あとにはⅠの4000cが残っている。これは、Ⅰ自身の生産物=6000又はむしろ=6000−2000によって補填される。なぜならば、この2000は既にⅡの為の不変資本に転換されているからである。(⑪p369)
・注意しておきたいのは、数字は任意なものにみえようとも、再生産過程が正常に、従って蓄積を無視して行われる限り、部門Ⅰでの労賃と利潤と地代との価値総額2000(1000v+1000m)は部門Ⅱの不変資本部分(2000c)の価値に等しくなければならないという事は、明らかである。
(⑪p369)
・こうして、年間商品生産物の価値は、・・・2つの価値成分に分解される。即ち、その一方のAは前貸不変資本の価値を補填し、他方のBは収入の形態をとって労賃・利潤・地代として現れるのである。(⑪p370)
・この価値成分Bは価値成分Aに対して1つの対立をなしている。即ち他の事情が変わらなければ、Aは(1)決して収入の形態をとらないで、(2)常に資本の形態、しかも不変資本の形態で還流するという限りで、対立をなしているのである。とはいえ、成分Bもまた、それ自身のうりに対立を含んでいる。(⑪p370)
・一方の利潤および地代(m)と他方の労賃(v)とでは、それらが3つとも収入の形態をなしているという点は共通である。それにもかかわらず、それらは、利潤と地代には剰余価値つまり不払労働が表され、労賃には支払労賃が表されているという事によって、本質的に違っている。
(⑪p370)
・生産物の価値のうち、支出された労賃を表し、従って労賃を補填し、労賃に転化される部分は、まず可変資本として、又新たに再生産に前貸しされる資本の一成分として、還流する。この成分は二重に機能する。第一に、資本の形態で存在し、資本として労働力と交換される。労働者の手の中では、それは、(第二に)労働者が自分の労働力を売って手に入れる収入に転化され、収入として生活手段に転化されて消費される。貨幣流通に媒介されてこの二重の過程は現れる。(⑪p370)
・第一の機能(労働力と資本との交換を通じたこの労働力の発現=労働過程)は、資本家にとっての過程である。しかし、第二に、この貨幣で労働者達は自分達の商品生産物のうちのこの貨幣ではかられた部分(生活手段)を買い、この部分は彼らによって収入として消費される。(⑪p371)
・(まとめ)だから、生産物の価値のうち、再生産に際して労賃即ち労働者の収入に転化される部分は、まず資本家の手に資本の形態で、詳しく言えば可変資本の形態で還流するのである。それがこの形態で還流するという事は、労働が賃労働として、生産手段が資本として、そして生産過程そのものが資本主義的生産過程として、絶えず新たに再生産される為の、1つの本質的な条件なのである。(⑪p371)
・無用な困難を避けるためには、総収益と純収益とを、総収入と純収入とから区別しなければならない。総収益又は総生産物は、再生産された生産物全体(W)である。その価値(W)は、前貸しされて生産に消費された不変資本Cと可変資本Vとの価値・プラス利潤と地代とに分解される剰余価値(M)に等しい。(総生産物W=C+V+M)あるいは又、個々の資本のではなく社会的総資本の生産物を見れば、総収益は、不変資本と可変資本とをなしている素材的諸要素・プラス・利潤と地代とを表す剰余生産物の素材的諸要素に等しい。(総生産物W=C+V+M=国民総生産GNP)(⑪p372)
・総収入(V+M)は、総生産物(W=C+V+M)のうちの、生産で消費された不変資本を補填する価値部分およびそれによって計られる生産物部分(C)の控除後に残っている価値部分およびそれによって計られる生産物部分である。だから、総収入は、労賃・プラス・利潤・プラス・地代(v+m)に等しい。(国民所得)(⑪p372)
・これに反して、純収入は、剰余価値(M)であり、従って労賃を引き去ったあとに残る剰余生産物であり、従って事実上、資本によって実現されて土地所有者との間で分割される剰余価値および、これによって計られる剰余生産物を表しているものである。(⑪p372)
・(まとめ)既に見たように、各個の商品価値も、各個の資本の商品生産物全体の価値も、2つの部分に分かれる。一方は、ただ不変資本だけを補填し、他方はその一小部分は可変資本として還流し、従って又資本の形態で還流するとはいえ、全体として総収入に転化されるべきものであって、合計すれば総収入になる労賃・利潤・地代という形態をとるべきものである。さらには、一社会の年間総生産物の価値についても同じ事である。・・・社会全体の収入を見れば国民的収入は、労賃・利潤・地代から、つまり総収入から、成っている。とはいえ、これも又、社会全体が資本主義的生産の基礎の上では、資本家的立場に立っており、従ってただ利潤と地代とに分解される収入だけを純収入とみなすという限りでは、抽象である。(⑪p373)
(総収入と純収入の相違、又、A・スミス以来のドグマの継承について、注29(p373)参照)
・各個の資本家の場合、・・・困難は、生産過程を全体として考察するときに初めて現れる。生産物のうち収入として労賃・利潤・地代の形態で消費される部分の全体の価値は、実際、全て、労賃・プラス・利潤・プラス・地代から成っている価値額に、つまり3つの収入の総価値になってしまう、とはいえ、この生産物部分の価値は、収入に入らないそれと全く同様に、それに含まれている不変資本の価値Cに等しい価値部分を含んでおり、従って明らかに収入の価値によって限界を画されている事はありえないという事情、・・・によって容易にごまかされる。(⑪p374〜p375)
・商品価値は、結局は労賃・利潤・地代に分解されうるという根本的に間違った説は、消費者は結局は総生産物の総価値を支払わなければならないというようにも表現される。・・・これらの明らかに無理な分析に導く困難は、要するに次のようなものである。
(以下、まとめ・Aスミスのドグマが陥った困難の由来(1)〜(5))(⑪p376〜p381)
・(1)不変資本と可変資本との根本関係、従って剰余価値の性質、従って又資本主義的生産様式の全基礎が理解されていないという事。(資本論第二巻第三編社会の全資本の再生産と流通参照)
(2)労働が、新たな価値を付け加える事によって、もとの価値を、この価値を新たに生産する事なしに、新たな形態で保存するその仕方が理解されていないという事。(3)再生産過程の関連が、個別資本の立場からではなく総資本の立場から見た場合に、どのように現れるかが理解されていないという事。労賃と剰余価値、つまり一年間に新たに追加された全労働が作りだした全価値が、それに実現されている生産物は、どのようにしてその不変価値部分を補填し、しかも同時に、ただ収入だけによって限界を画される価値に分解されうるのか、という困難。さらに、新たに追加された労働の総量はただ労賃と剰余価値とだけに実現され、しかもこの2つの価値総額に残らず表されるにもかかわらず、どのようにして、生産中に消費された不変資本は、素材的にも価値的にも、新たな不変資本によって補填されうるのか、という困難。まさにこの点にこそ、再生産の分析に際して、・・・大きな困難があるのである。(⑪p378〜p379)
・(4)さらに、剰余価値のいろいろな成分が互いに独立ないろいろな収入の形で現れる事によって困難は一層ひどくなる。即ち収入と資本という固定した規定が入れ替わってその位置を換え、従ってそれらはただ個別資本家の立場からの相対的な規定でしかなくて総生産過程を見渡す場合には消えてしまうかのように見える、という困難である。・・・こういう事を見落とすので、消費者達の収入が全生産物を、従って不変価値部分をも、補填するという外観が生ずるのである。(アダム・スミスの誤謬の一因等、具体例は(⑪p379〜p380)参照)
・(5)価値の生産価格への転化が引き起こす混乱は別としても、剰余価値が別々の、互いに独立した、それぞれ別々の生産要素に関連する収入形態、即ち利潤と地代とに転化される事によって、もう一つ別の混乱が起きる。商品の価値が基礎だという事は忘れられてしまう。又、この商品価値が別々の成分に分かれる事や、これらの価値成分がさらに収入の諸形態に発展する事、即ち、これらの価値成分が別々の生産要因の別々の所有者たちとこれらの個々の価値成分との関係に転化され、一定の範疇と名義とに従ってこれらの所有者の間に分配される事は、価値規定やその法則そのものを少しも変えるものでないという事も、忘れられてしまう。(⑪p381)
・又、価値法則は次のような事情によっても変えられはしない。というのは、利潤の均等化、即ち種々の資本の間への総剰余価値の分配や部分的に(絶対地代において)土地所有がこの均等化の前に置く障害が、商品の調節的平均価格を商品の個別的価値からは偏ったものとして規定するという事情である。この事情は、種々の商品価格への剰余価値の追加に影響するだけで、剰余価値そのものを、又これらの種々の価格成分の源泉としての商品の総価値を、廃棄しはしないのである。(⑪p381)
・これこそは、我々が次章で考察しようとする取り違えであって、この取り違えは、必然的に、価値がそれ自身の諸成分から生ずるかのような外観と関連しているのである。即ちまず第一に、商品の種々の価値成分が種々の収入においてそれぞれ独立の形態を与えられ、このような収入として、それらの源泉としての商品価値に関連させられるのではなく、それらの源泉としての別々の素材的生産要素に関連させられるのである。それらは、・・・価値成分としてではなく、諸収入として、生産当事者のこれらの特定範疇である労働者と資本家と土地所有者とのものになる価値成分として、である。(⑪p381)
・ところが今では、これらの価値成分は商品価値の分解から生ずるのではなく、逆に、それらが集まって始めて商品価値を形成するのだと想像する事ができるのであって、そこであの見事な悪循環が出てくるのである。即ち商品価値は労賃・利潤・地代の価値総額から生じ、そして労賃・利潤・地代との価値はまた商品価値によって規定されている、という繰り返しになるのである。(⑪p381〜p382)
・蓄積過程では、引き続き、このような超過労働の生産物の資本への転化が行われる。そして、すべての新たな資本は利潤や地代やその他の収入形態から、即ち剰余労働から生ずるという事情は、商品の全価値が収入から生ずるという間違った観念を抱かせるようになる。このような、利潤の資本への再転化は、・・・むしろ反対に、追加労働−それは常に収入の形態で表される−は、元の資本価値の保存又は再生産に役立つのではなく、それが収入として消費されない限り新たな超過資本の創造に役立つという事を、示しているのである。(⑪p385)
・困難の全ては次の事からしょうずる。即ち、全ての新たに追加された労働は、それによってつくりだされた価値が労賃になってしまわない限り、利潤−ここでは剰余価値一般の形態とみなされる−として現れるという事、即ち資本家にとっては、何も費用のかからない価値・・・として現れるという事である。それだからこそ、この価値は、自由に処分できる追加の富という形で、個別資本家の立場から見れば彼の収入という形態で、存在するのである。(⑪p385)
・しかし、この新たに作りだされた価値は、個人的に消費されるように生産的にも消費され、収入として消費されるように資本としても消費されうる。(⑪p385)・・・確かに労働者が作りだす剰余価値は収入と資本とに分かれる。即ち消費手段と追加生産手段とに分かれる。しかし、前年から受け継がれた元からの不変資本は、その価値から見れば、新たに追加される労働によって再生産されるのではないのである。(⑪p386)
・再生産が不変な規模で行われる限り、不変資本中の消費された要素は、量や形はともかく作用能力としては、相当種類の新品によって現物補填されなければならない。・・・労働の生産力が下がれば、生産物のより大きい部分が元の資本の補填に加わらなければならなくなり、剰余生産物は減るのである。(⑪p387)
・利潤の資本への転化が意味するものは、超過労働の一部分が新たな追加生産手段の形成に充用されるという事に他ならない。これが利潤の資本への転化という形で行われるという事は、ただ、労働者ではなくて資本家が超過労働を自由に処分する事ができるという事を意味しているだけである。(⑪p388)
・この超過労働がまず第一に、それが収入として現れる段階を通らなければならないという事、これはただ、この労働又はその生産物が非労働者によって取り込まれるという事を意味しているだけである。しかし、実際に資本に転化されるものは、利潤そのものではない。剰余価値の資本への転化は、ただ剰余価値や剰余生産物が資本家によって収入として個人的に消費されないという事を意味しているだけである。(⑪p388)
・誤解はいろいろな形で言い表される。例えば、一方の人にとって収入を表すものが他方の人にとっては資本を表すのであり、従ってこれはただ主観的な関係でしかない、というように。例えば紡績業者の糸は、彼にとって利潤を表す価値部分を含んでいる。だから、もし織物業者が糸を買えば、彼は紡績業者の利潤を実現するのであるが、しかし彼にとってはこの糸はただ彼の不変資本の一部分でしかないというわけである。(⑪p389)
・収入と資本との関係について次の事を注意したい。即ち、価値から見れば、糸と一緒に織物業者の資本にその成分として入るものは、糸の価値である、という事。この価値の諸部分が紡績業者にとってどのように資本と収入とに、言い換えれば支払労働と不払労働とに分解されたかは、商品の価値規定そのものにとっては全くどうでもよい事である。第二に、不変資本を構成している商品成分も、全ての他の商品価値と同様に、生産手段の生産者や所有者にとっては、労賃・利潤・地代とに分解された価値部分に還元されうるものだという事は、全く正しい。これはただ、およそ商品価値とは商品に含まれている社会的に必要な労働の尺度に他ならないという事実の資本主義的な表現形態でしかないのである。(⑪p390)
・しかし、このことは、各個の資本の商品生産物が別々の部分に分かれて、一部分はただ不変資本部分だけを、他の部分は可変資本部分だけを、そして第三の部分は剰余価値だけを表すという事を少しも妨げないのである。(⑪p390)
・第一にその生産様式が価値に基づいており、さらに進んでは資本主義的に組織されている一国を、ただ国民的欲望の為にだけ労働する1つの全体とみなす事は、間違った抽象である。第二に、資本主義的生産様式が廃止されてからでも社会的生産が保持される限り、価値規定は、労働時間の規制や種々の生産群の間での社会的労働の配分や最後にそれに関する簿記が以前よりも一層重要になるという意味では、やはり有力に作用するのである。(⑪p391)
以上、第7篇 収入とその源泉 第49章 生産過程の分析のために② 了

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