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用明天皇 河内磯長原陵(こうちのしながのはらのみささぎ)
用明天皇、和風諡号は、日本書紀では橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)、古事記では橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)という。緯は池辺皇子(いけのべのみこ)。また、即位前の名称として大兄皇子(おおえのみこ)とも称する。
敏達天皇崩御の後即位。蘇我稲目の孫でもある用明天皇は、崇仏派であり仏法を重んじた。一方、危機感を持った廃仏派の筆頭である物部守屋は、欽明天皇の皇子の一人・穴穂部皇子と通じていた。しかしながら、用明天皇は疱瘡のため、在位2年足らずの587年4月9日(古事記では4月15日)に崩御した。磐余池上陵(いわれのいけがみのみささぎ)に葬られたが後に現陵に改葬された。
皇居は磐余池辺隻槻宮(いわれのいけのへのなみつきのみや)。現在の奈良県桜井市阿部、あるいは同市池之内などの説があるが、同市池尻町で2011年に所在地が不明だった磐余池と見られる池の堤跡が見つかり、その堤跡上で発見された大型建物跡が磐余池辺雙槻宮であった可能性も出てきた。
厩戸皇子の父親であることから後世様々な説話に引用されている。陵墓は方墳で、前方後円墳は以後築かれていない様である。
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