|
在原業平 二条の后をぬすみいでて、あばら家にやどれるに、
鬼一口にくひけるよし、いせ物語に見えたり。
しら玉か何ぞと人のとひし時露とこたへてきえなましものを
■解説■
まず初めに言わねばならぬのは、実際に「鬼一口」と言う名の妖怪は存在しないという点である。
「鬼一口」とは鬼が人を襲い一口に食べてしまう「様子」を表した言葉である。
これを語る有名な話として、以下の伝説を紹介する。
ある男が長年恋焦がれた女を盗み出す事に成功するも、
その帰り道、突然の雷雨に見舞われ一時そばにあった蔵で雨宿りをする。
男は女を蔵の奥で休ませ、自分は夜明けまで入り口の前で番をすることにした。
夜が明け、蔵を開けてみると何故か女の姿は消えている。
実はこの蔵、鬼が棲み家にしている場所だったのだ。
蔵の奥で女は鬼に食べられてしまい、その瞬間に「あれっ」と悲鳴を上げたのだが、
その声は轟く雷鳴に打ち消され、男には聴こえなかったのである。
伊勢物語第六段には、これを在原業平(ありわらのなりひら)を主人公として描かれた
鬼一口のエピソードが登場するが、鳥山石燕はこれをモチーフに
今昔百鬼拾遺の鬼一口を描いたと思われる。
◆参考文献:『日本霊異記』、『今昔物語』、『江戸諸国百物語』、『伊勢物語』 ほか
|
猫娘の妖怪神社
-
詳細
コメント(76)
|
『鬼一口』
作・ほおずき
列車は、揺れてゐる。
窓の外を逃げてゆく粉雪と、繰り返す暗緑の木々の風景が、
己の疲憊した横顔を正々と硝子に浮き上がらせる。
お前は─────。
お前は、もう一度あの湖が見たいと言ってゐた。
ただ灰色の空を映し続けるだけの、あの静かな湖。
男が、お前を見てゐる。 ごとごとと云ふ車輪の震動がお前の身体を揺らすので、
それが私の手にも充分に伝わって来る。
あ々、すまなかった。
息が苦しいのだね。
ほうら、もう着く頃だよ。
(一) 昭和七年二月、「東京ニテ」
昨年、駅の開業と伴に建てられたビルヂングには松屋デパートが店を構え、 各階の売り場は西洋服に身を包んだ婦人達で賑わっていた。
所謂アール・デコ調の内装が眩しいほど白く、
着古した和服にくたくたの風呂敷包みを持つ己の姿が、少しばかり恥ずかしく感じられた。
一方、土産物屋の前には幾人かの旅行客が見受けられるものの、
平日の浅草駅舎は実に閑散としている。
友人が先月、日光で小さな旅館を始めたと云うので、
私は彼を訪ねるため、初めてこの東武線に乗り込んだ。
最近では中禅寺湖の界隈に各国大使の別荘が次々と建てられているそうで、
内には一部の富裕層と思しき乗客がぱらぱらと座っている。
私は一番後ろの座席の窓側に深々と腰掛け、列車の出発を待った。
間もなくして、一人の男が慌てて車両に飛び込んできた。
男は車内を一通り見渡すと、楚々草と通路を進み、私の向い側の席に座った。
背広姿の男は私には目もくれず、徐に外套と帽子を脱いだ。
男は片手に持っていた大きな鞄、
そう、あの大きな鞄を大切そうに膝の上に抱えると、
微かに──────、
哂った。
(二) 昭和六年八月 、「蝉の理」 川野澄子は、考えるのをやめた。
考えれば考えるほど、この模糊とした感情が肥大し、
その胡乱な中身とは対称的に、
不安、焦燥と云う名の輪郭だけが、徐々にはっきりしてゆくのが判る。
だから彼女は、もう考えるのをやめようと想った。
「ええねえ、あんたは────。」
彼女は洗濯物を畳み終えると、
軒先に器用な格好でぶら下がる蝉の抜け殻を見ながら、独り言のようにそう呟いた。
澄子が結婚したのは二年前、彼女がまだ十九歳の頃だった。 福井の田舎から上京し、当時右も左も判らぬ彼女に優しくしてくれたのが今の夫である。
夫は銀行員で、世間から見れば何一つ申し分の無い真面目な亭主。
しかしその内実、彼はこの上なく嫉妬深い男であった。
勿論、夫に云えぬような用事ではないのだけれど、
偶さかの外出で澄子の帰りが少しでも遅くなろうものなら、彼は酷く憤慨した。
初めは澄子も、それだけ自分は愛されているのだ、と思うようにしていた。
ところが、それは少し違っていた。
女学校時代の友人との文通が、澄子にとっての唯一の楽しみであった。
ある日、彼女がこれまでに届いた友人からの手紙を楽しそうに眺めていたところ、
夫は激しい勢いでその手紙の束を取り上げ、その全てを燃やしてしまった。
恐らく、妻が自分ではない男と密通しているとでも思い込んだのだろう。
庭の隅で真っ黒になった手紙の山の前で、澄子は何時間も泣き続けた。
以来、夫が澄子を疑うような行動や言動は日に日にその勢いを増し、
終いには近所の商店街へ夕飯の買い物に出る事さえ許されなくなった。
だからこの二年間、彼女はこの結婚生活に幸せを感じた事など一度も無い。 あるとすれば、それはまだ結婚して間もない頃、
二人で出掛けた湖の想い出であろうか。
寒空の下、互いの手を取りながら眺めた美しい湖。
ただ灰色の空を映し続けるだけの、あの静かな湖。
きっと世間の云う「幸せ」とは程遠いのかも知れぬが、 少なくとも彼女にとってそれは、とても安らかな時間だった。
小さな檻の中で彼女は今、過ぎ去りし日を想う。 何者の掣肘も受けずに泳ぐ、安穏の時を想う。
軒下にぶら下がる蝉の抜け殻を見て、澄子は呟く。
「私も─────、
私も、逃げてええんよね。」
(三) 「列車ニテ」
男は、相変わらず鞄を抱えている。 真四角の大きな革製の鞄には、幾つもの鍵が付いている。
大金でも入っているのだろうか。
それは丁度下今市の駅を過ぎ、再び列車が山間に差し掛かった頃だ。 鞄の表面をゆっくりと撫でながら、男は何やらぼそぼそと独り言を言い始めた。
その殆どが列車の音に掻き消されてしまったが、
「大丈夫だよ」、「もう少しだね」などという言葉が聞こえてきた。
そして硝子窓の外をじっと見ていたかと思うと、
時折その神経質そうな目でじろりとこちらを睨むので、
その度に私は、ぞうっとした。
あと半時程もすれば、友人の待つ日光に着く。
外では、粉雪が降り始めている。
(四) 昭和六年九月一日、「川野秀春 ト 云フ男」 彼が仕事を終えて帰宅すると、家の灯りは全て消えていた。
毎日必ず自分を出迎えるはずの妻の姿は無い。
各部屋を廻り妻の名前を大声で呼ぶも、やはり家は蛻の殻であった。
彼は一先ず茶の間に戻り、辺りを見渡した。
するとどうした事だろう。
開け放たれた箪笥から、妻の衣服が無くなっている。
鏡台の前からは化粧道具が消えているし、玄関には靴も無い。
そしてふと、思った。
手紙─────。
そうだ、あの手紙の相手と逃げたに違いない。
先ほどまで湯を沸かしていた跡を見ると、まだそう遠くへは行っておるまい。
込み上げる怒りを抑え、彼は家を飛び出した。
妻は、直ぐに見つかった。 妻は駅で列車を待っているようだった。
彼は妻に駆け寄ると、その場から彼女を無理矢理引きずり、家に戻った。
妻は泣きながら、ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も謝ったが、
最早彼は、聴く耳を持たなかった。
「あの手紙の男と、何処へ行くつもりだったのだ。
普段はせぬ化粧などをして、お前は何をするつもりだったのだ。
そうか、もう二度と逃げられぬようにしてやる。」
無意識に彼は、妻の首を絞めていた。
彼女の柔らかな頬を伝い、大量の涙が彼の手首を濡らしている。
ようやく我に返った時は既に────、
川野秀春は、妻・澄子を殺害していた。
(五) 「鬼」
その夜、川野は朝まで妻の遺骸の傍に座り込んでいた。
まだ薄暗い部屋の中、動かない妻を見て、
彼は後悔もしなければ、満足もしていなかった。
まるで夢でも見ているかのように虚ろな眼差しで、彼はゆっくりと煙草に火を点けた。
その日から彼は妻、いや、「妻だったもの」と生活するようになった。
こちらからの問いかけには一切答えぬが、
その代わりに己を裏切ることも、己から逃げ出す事もせぬこの肉の塊が、
川野の想い描いた妻としての姿に限りなく等しく、そして妙に可愛らしく思えてきた。
しかし数週間もすると、その関係は徐々に壊れ始めた。
遺体の腐敗が始まり、あの可愛らしい妻の面影が無くなり始めたからだ。
部屋中に漂う死臭と、身体に群がる小さな蟲を見て、川野は少しだけ恐ろしくなった。
しかし彼は、それを思いも寄らぬ方法で解決した。
澄子の遺体を半分に切断し、大きな鍵付きの鞄に入れ、
今度はこれを妻と呼ぶことにした。
それから川野は数ヶ月もの間、この大きな鞄と共に朝夕を過ごした。
当人には全く自覚が無いものの、この異様な共同生活を続けるうちに、
彼の顔は以前とは比べ物にならぬ程憔悴しきっていた。
その間、鞄を触っても決してそれを開ける事は無かったのだが、
二月のある日、彼はふと久々に中の様子を見てみたいと思ってしまった。
鍵を外し、恐る恐る蓋を開けた川野は、その予想外の妻の姿に愕然とした。
既に妻は、白骨化していたのだ。
彼は慌てて蓋を閉じると、そこで初めて自分の犯した罪に気が付いた。
それから同日の午後、川野は外套に身を包み帽子を深く被ると、
妻、つまりこの大きな鞄を担ぎ上げ、
何かに誘われるかの様に、ふらふらとした足取りで駅へと向かった。
(六) 「湖」 列車は、揺れている。
降り始めた雪が、前から後ろへ、次々と逃げてゆく。
山間の木々が織り成す暗緑の風景は、
窓に映る己の顔を、より正々と浮き上がらせる。
お前は────。
お前は、あの湖が好きだった。
私はもう、お前と別れようと想う。
ただ灰色の空を映し続けるだけの、静かな湖。
あの湖に、お前を返してやろう。
先程から、向いの席の男が私達を見ている。 大丈夫、何も怖い事は無いのだよ。
まるで列車の振動に合わせるように、お前の身体が弾んでいる。
なんだ、今日は随分と楽しそうじゃないか。
あ々、すまない。 いつもより蓋を強く閉め過ぎたので、きっと息が苦しいのだね。
けれどあと少しの辛抱だ。
ほうら─────、
もう着く頃だよ。
|
空が────。 空が、初めて高いと感じる。 無味乾燥な縹色の空。 ちっぽけな己の肉眼では到底見ることの出来ないその幔幕の果てを、 ただ、ぼんやりと探す。 時折、己の視界を遮るやうに通り過ぎる雲が、 この錯雑とした疚しい心を酷く咎める。 けれど。 けれどこの淫奔な空と、流れては消えるあの不埒な薄雲の偽りに、 何時しか私は、私の罪を溶かしてしまった。 「貴女は余程、海が好きなのですね。」 遠くに見える小さな島影を、私達はもう、彼此一時間ほど眺めている。 彼女とは今先程知り合ったばかりなのだが、 その美しい横顔と、どこか悲しそうな表情で海を見詰める彼女に、 私は何かしら声を掛けずには居られなかったのだ。 「え々、好きと云えば好きだし、嫌いと云えば嫌いかしら。」 青は、何も空だけのものではありませんから、と彼女は哂った。 小さな灯台に、海鳥達が群がっている。 三月の潮風は、まだ少しだけ冷たかった。 久江は、貧しい長屋の一角で育った。 父親はもともと何か商売をやっていたようだが、ある時失敗し、 久江が物心ついた頃にはいわゆる「酒乱」に成り果てていた。 そんな夫に愛想を尽かしたのか、母親もまた、久江達を置いて男と逃げてしまった。 久江には四つ上の兄がいたが、父親の暴力の犠牲になるのはいつも、 大人しく、弱い久江だった。 だから久江は、「父親とはそんなものなのだろう」と思って育ったし、 それは同時に「父親とは、知能の低い虫けらか獣の様な存在」と云う認識を正当化させた。 彼女が父親に感じるのは単に「恐怖」であり、 それは「威厳」でもなければ、ましてや「尊敬」などとは程遠い感情であった。 ある日、彼女が兄と玄関先でおはじきをして遊んでいたところ、 父親が物凄い怒鳴り声と共にやって来て、二人を殴った。 ただ、二人が楽しそうに笑う声が「気に入らなかった」のだろう。 久江はいつものように白けた表情で、黙って殴られる事にした。 下手に抵抗するよりも早く終わるからだ。 しかし父親はそんな久江の態度を見て、その日は久江ばかりを執拗に殴り続けた。 それを見兼ねた兄が突然家の中へ入ったかと思うと、直ぐに包丁を片手に戻り、 父親を、刺した。 「ぎゃっ」っという叫び声と共に倒れた父は、もがきながらゆっくり家の中へと這って行ったが、 二人が恐る恐る中へ戻った頃にはもう動かなくなっていた。 兄は動揺しつつも、己の過ちを誰かに知らせなければと泣き騒いでいた。 だが。 だが、久江は少し違っていた。 冷静に父親の体を仰向けにし、物置に有った縄を父親の首に巻きつけると、 反対側の先を一番太い梁の上へと投げ通し、兄に一緒に引くように命じた。 二人は幼い力で精一杯縄を引き、父親の体を天井から吊るし上げた。 じっと眼を見開いたまま、父親の顔が二人を見下ろしていた。 四本の手足が、ぶらりぶらりと無気味に揺れている。 こわい────、と思った。 それは今までに感じていた「恐怖」の感情とは違い、 きっと「畏怖」の念に近かったのだと思う。 何かを見透かされるような、そして己の後ろめたさを抉る様な空洞の眼差し。 久江はこの日初めて───、 「父親」を知った。 空が────。 空が、初めて高いと感じる。 勿論、空が高いのは知っていた。 しかしその高さを知るのが恐い。 いや、「見上げる」事が何よりも恐ろしかった。 あの日、あの瞬間から、私は上を見る事が出来ない。 己の犯した過ちを、空は知っている。 空は、眼だ。 終りの無い、空洞の眼。 私は一人、この岸壁に立つ。 海を見下ろす事で、空から逃げたいと思った。 所詮空の青など、海の蒼を模倣した紛い物に過ぎないのだから。 だが、どうだ。 混沌とした苔色の海に浮かぶのは、陰鬱で醜い記憶の凝塊。 太陽も、雲も、海鳥も、そこには無い。 ふと、空を見上げる。 最後に空を見たのは、一体何時の事だろう。 哀しげな、縹色の空。 雄大な緞帳の如く貫ける青い空は、 己の過ち、己の後悔、そして僅かに残されたちっぽけな良心をも包んでくれた。 空は、眼だ。 優しい眼だ。 時折、視界を遮るやうに通り過ぎる雲が、 この錯雑とした疚しい心を酷く咎める。 だから────。 だから、この淫奔な空と、流れては消えるあの不埒な薄雲の偽りに、 私は、私の罪を溶かしてしまおう。 〜解説〜 見越は、見越入道とも呼ばれ、 妖怪たちの親玉だとも言われている。 巨大な体と、禿げ上がった頭が特徴である。 愛知県には次のような伝説が残っている。 その昔、名古屋に向かおうとした商人がススキの原を通ると、 突然のつむじ風が起きた。 驚いて立ち止まると、目の前ににゅうっと大きな顔が現れた。 商人はまず最初に顔を見て、次に後ろを振り返り、胸、腹、足と視線を変えた。 この大きな化け物はどうやら相当巨大で、 背後のススキの原から覆いかぶさるように商人を見下ろしている。 何度も何度もこの順序で視線を移していると、 見越はいつの間にかススキの原の向こうへ去っていった言う。 もしこの時、逆に足から顔に向かって順番に視線を移していると、 見越はどんどん大きくなり、最後は見た者を殺してしまう。 更にもう一つ、見越を撃退する方法としては、 大きくなっていく見越に「見越した!」と言ってやると、 だんだん小さくなって消えてしまうそうだ。 自註自解 今回は、妖怪・見越の性質をある程度盛り込んだお話が書けたように思う。 「見上げる」、「見下す」、などというキーワードを出発点とし、 物理的な「見る」と、内面的な「見る」を書くことが出来た。 しかし一方で、大まかな構想は以前からぼんやりと浮かんではいたものの、 結果的に文章量が増え、少しばかり纏まりに欠ける仕上がりになってしまった。 反省点はまだまだあるが、これもまた、皆さんの様々な解釈で読んでいただければ幸いです。 ほおずきより |
何とも云えぬ匂ひだ。
だが───。
ただ宛てもなく、夜を歩く。
辺りは一面、焦土と瓦礫の荒野。
ならば、一体どこからやって来るのか。
この不思議な、甘い匂ひ。
だが、これは何だ。 漆黒の闇に、ぬうっと姿を現した、小さな山。 まるで遠い世界へと誘うように、 己の鼻孔を満たし続けるこの蒼黒の山が、 私は少しだけ、「欲しゐ」と思ふ。 十月の終わりにもなると、街は少しずつ活気を取り戻した。 隅田川の河川敷などには、家を失った沢山の被災者が未だ身を寄せ合うように生活していたが、 銀座界隈のビルヂングの中には、もう営業を再開している店もある。 では、ここ浅草はどうだろう。 浅草寺は、五重塔以外ほぼ壊滅状態と云って良い。 更に凌雲閣、通称「十二階」も、殆ど無惨な骨組みだけになってしまった。 吉原方面を歩けば、僅かに生き延びた遊女達が必死に客を探していたし、 街角では、顔に似合わぬ西洋帽子を被った興行師が、下手糞なバイオリンを弾いている。 それでも九月初めの震災直後に比べれば、街には色も、音もある。 あと半時もすれば、陽が沈む。 橙の空を飛ぶ夥しい数の蜻蛉が、無数の黒点の様に見ゑた。 あれは────、 あれは震災から三日後の、九月四日。 都心に暮らしていた友人の安否が気になり、私はわざわざここ浅草へ出向いた。 悲惨なものだった。 木造の家屋は全て倒壊し、焼け野原とはまさにあの事だろう。 そして何より、無造作に散らかる、人間の屍骸。 もはや男か女かも判別が付かぬ程に煤けた肉塊が、辺り一面に転がっていた。 特に、ここ吉原の光景は今でも忘れない。 浅草寺裏のひょうたん池を、みっしりと埋め尽くした女郎達の遺骸。 迫り来る炎から逃げるため、皆がこの池に飛び込んだ結果、 全員が所謂「溺死」、或いは「圧死」したのである。 少し遠くに、女が一人立っている。 恐らく、生き延びた女郎の一人に違いない。 まだ若い、美しい女だ。 僅かな月明かりの中、役人達が誰のものとも判らぬ遺体を運んでいる。 遺体は広場に集められ、山の様に次々と積み上げられてゆく。 時折、その山が「ぷすり」と煙を吐く。 女は────。 ただそれを、じっと見つめていた。 黒い肉塊で出来た、歪な山。 肉親の遺骸でも捜しているのだろうか。 いや、違う。 女は、笑っている。 口元が、微かに笑っているように見えた。 そして時々、小さな声で何かを呟く。
私の耳にはそれが、
「欲しい。」 と聴こゑた。
「河内国にありといふ」
〜解説〜その昔、火と同様油もまた、生活には欠かせない物であった。 河内の国、現在の東大阪市には次のよう話が残っている。 平岡神社の御神灯の油を盗んだ老婆に神罰が下り、 死後も永遠に飛び続ける火の玉と化した。 この老婆は十八歳までに十一人の男達と馴れ親しんだが、 その男達は十一人とも全員死んでしまった。 その噂を聞いて誰もこの女には近寄らなくなり、 独り身のまま八十八まで生きた。 そして神罰が下り火の玉になった後も、 街を飛び回り、人々を恐れさせたという。 石燕の描いた姥が火。 真ん中に、皺だらけの老婆の顔が見える。 大きく開いたその眼は、じっと何かを見つめているようである。 自註自解 今までこの書庫の物語の多くは、大正〜昭和を舞台に書いてきた。 そして何度か関東大震災前後の背景を投影してきたのだが、 半分は想像、半分は史実に基づく。 姥が火の若かりし頃、多くの男性と馴れ親しんだ過去。 そこに吉原の遊女、火、夜などというキーワードを重ね合わせ、 今回のストーリーに仕上がった。 物語に登場する「女」は、己のイメージでは、 震災によるあまりの恐怖に「心神喪失状態」に陥っているといった感じ。 しかし彼女の心情は、読んでくださる方々それぞれの想像に委ねたい。 毎度の「恐ろしい」「怖い」とはまた違った、 「気味の悪さ」の様な感覚が伝われば、幸である。 ほおずきより |
|
烏が、があ、があ、と啼ひてゐる。 己の持つ鍬の重さだけが鈍く、痛ひ。 色褪せた硝子玉の眼が、時々こちらを睨むので、 慌てて、木の葉で顔を覆ふ。 もう、このくらいで良いだらうか。 腐った土の中に、それを転がす。 ───── ふわり。 手首に当たる、長ひ毛髪の感触に、 ぞうっとする。 赤ん坊は、うをん、うをん、と啼ひてゐる。 ────── 娘ですよ。 女は、少しだけ間を置いてそう応えた。 先ほど私と入れ違いに店を飛び出して行った小さな娘。 歳は七、八歳といった処か。どうやらこの女主人の一人娘の様だ。 私には子供が居ないが、元気に外を駆け回る童子達を眺めるのは嫌いではない。 あの娘が近所の友達とでも遊んでいるのであろう、 時々、店の表から甲高い笑い声が聞こえて来る。 浅草橋界隈でも割と外れに位置する此処「今井商店」は、江戸時代から続く小さな雑貨店だ。 雑貨店と言っても、特にこの季節店頭に並ぶのは、様々な種類の花火が主である。 私は私で、如何にも花火に興味があるという顔で店内を見回してはいるが、 表に掲げられた「花火、お売り致します」と云う珍しい貼り紙に誘われ、 ついふらっと立ち寄ったのが本当の処だ。 「それなら、この線香花火を一袋貰おうか。」 そう言って立ち上がった時、ふと店の奥に見える居間の風景に目が留まった。 仏壇の前に何枚かの写真が立て掛けてあるのだが、 小さな赤ん坊を抱いた女の姿が写っている。 しかし、それはこの女ではない。 よく似てはいるが、確かに違うのだ。 何故ならこの女はこの女で、赤子を抱いた女の横にしっかりと写っているのだから。 私が不思議そうにそれを眺めていると、後ろで女が云う。 「──── 本当は。 本当はあの子、妹の子なのですよ。 私は生まれつき体が弱くて、子供が産めませんでしたので。 けれどその妹が、七年前に亡くなりましてね。以来私が母親代わりと言う訳です。」 何か思いつめるような口調で、女はそう話した。 私は、これは失礼な事を訊いてしまったね、と謝り、店を後にした。 いつの間にか表に居たはずの子供達は、遊ぶ場所を変えてしまったのか、 その姿は見えなくなっていた。 烏が、があ、があ、と啼ひてゐる。 妹は、私よりも美しひ。 私よりも美しくて、いゐ匂ひ。 私よりもいゐ匂ひで、頭も良ひ。 私は ───、ただ魯鈍で ただ、 醜ひ。 私が最も欲しかった物。 それも、君は手に入れてしまった。 何年もの間、己の中に鬱積し続けた嫉妬が、 遂に君のいのちを奪ってしまった。 幼い頃は、あんなに仲の良かった君。 私が居なければ何も出来なかった、とても可愛らしい君。 せめて、せめて ───。 懐かしいあの夏の日の夕暮れ時に、 母に隠れて小さな花火を灯した、この小さな森。 この森に君を、帰してあげやうと思ふ。 もう動かなひ、硝子玉のやうなその眼。 もう、そんな怖ろしい眼で、お姉ちやんを視ないで欲しひ。 そして、そしてお姉ちやんを、赦して欲しひ。 君の残した小さないのちは、私がきっと大切にするから。 鍬を持つ手に、鈍い痛みと疲労を感じる。 もう、このくらいで良いだろうか。 この咽返るやうな腐葉土の香りも、美しい君にとってはさぞ辛かろう。 きっと君は、一人ではこの穴に入る事も出来ないから。 お姉ちやんが、転がしながら、ゆっくりと入れてあげる。
──── ふわり。
手首に当たる、長く美しい毛髪の、感触。
赤ん坊はまだ、うをん、うをん、と啼ひてゐる。
〜解説〜 旧鼠には様々な伝説が残っているが、 奈良県にはこのような民話がある。 その昔、那曾和太郎(なそのわたろう)という侍がいたが、 厩舎の屋根裏に大きな鼠が住み着いていた。 しかし特に悪さをするわけでもないので放って置いたが、 この鼠、夜になると母屋に来ては、 この家で飼っていた猫と仲良く遊んでいた。 この猫が、ある時子猫を五匹生んで死んでしまった。 旧鼠は、その後も毎夜母屋へ来ては子猫たちに乳を与え、 そのおかげで猫達は立派に大きくなったと云う。 しかしその後、旧鼠はどこかへ消えてしまったそうだ。 〜自註自解〜 産みの母親に代わり子供を育てる旧鼠になぞらえた、 心温まるストーリーにしたいと考えていたのにも関わらず、 今回はいつの間にか後味の悪い残酷な話になってしまった。 真夏の木漏れ日の中で、己の罪を悔いながら、 実の妹から赤ん坊を奪い、育てる事を決意した女。 皆さんのお好きな解釈で読んで頂ければ幸いです。 ほおずきより |






