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人は、この世を創った創造主(神)の意志に操られて、人生を送っていることを知らない。
人間に、心があって、肉体という物質があるように、この大宇宙にも、創造主の意思(心)があって、物質界という大宇宙が存在する。
人は皆、心が先に動いて、体が動く。体が先に動いて、心が後、ということは絶対にない。
この大宇宙も、創造主の心が動いて、目に見える物質界が出来てゆく。
私たちの心は、この創造主の心とつながっていて、創造主の心が動いて、私たちの心が動く。
創造主は、自分じゃ直接動けないから、私たち人間の心を通じて、自分の目的である、この世の進化と向上を、果そうとする。
そのために、人間の心には、他の動物にはない、万物の霊長と言われる、高等優秀な機能を与えられた。
つまり、創造主は、この世の進化と向上を図る為、人間に、自分と同等な能力を与えて、この世に派遣した。
いわば、人間は、その心を通じて操られる、創造主の操り人形のようなものなのだ。
だから、平和も、戦争も、この私の目の前の、電気蛍光スタンドも、パソコンも、机も、時計も人の心を通じて、大宇宙を創った、創造主の意思によって、できたものである。
つまり、創造主の心が、人間の心に反映して、出来上がったものである。
よく「平和」「平和」、「戦争反対」と叫びながら、人を憎み、平気で他人を中傷する人達がいる。
口では、「平和」「平和」と叫びながら、親兄弟、隣人達と喧嘩ばかりしている人たちもいる。
これらの、平和も戦争も、そして、隣人との諍いも、全て、同じ人の心の中から、出て来る。
人の心に「憎しみ」「怨み」「嫉妬」という感情がなくならない限り、「戦争」も「平和」もそして、同じように、隣人とのイザコザも決してなくなることはない。
だから、人の心が変わらない限り、戦争がなくなることはない。
人の心に平安が、訪れない限り、世の中の戦争も、全ての、人の世の不幸も、なくなることはない。
人は、皆、肉体や心のほかに、本当の自分(真我)というものがあって、その本当の自分に、本心良心という、もう一つの本当の心が、あることを知らない。
この世を創った創造主は、自分の名代として、この世に派遣した「霊魂」と言われるもを通じて、自分の目的である、この世の進化と向上とを図ろうとしている。
この「霊魂」と言われるものこそ、本当の自分(真我)なのである。
だから、一番安全で、最も効率のいい生き方が、この霊魂から生まれる本心良心に従って、生きることなんだ。
だって、この良心本心に従って生きることが、即ち、この世を創った創造主の意思に叶った生き方なんだもん。
「悟った人」というのは、つまり、霊魂から出てくる、もう一つの心、つまり、本心良心の、命ずるままに生きている人のことを、言うんだよ。
逆を言うとだね、本能のまま、生きたり、感情のまま、生きたり、屁理屈を屁理屈とも思わないで、行動したりするから、
つまり、本心良心に従わない生き方をするから、皆、不本意な、不幸な生涯を、生きてしまうことになる。
知らないから、そうするのだろうけど。知らないからといって、創造主は見逃しちゃくれないよ。早く気がつけ、勉強しろ、と言って罰をくれる。
この世を創った創造主の、意思に反して生きることになるから、つまり、創造主が定めたレール逸脱して生きるから、
罰を与えようとしているんではなくても、結果的に、罰を与えられたような結果になってしまうんだよ。
神様は、罰を与える気などなくても、定められたレールから外れた生き方をすれば、そこに脱線事故があるのは、当然の結果じゃないか。全て、身から出た錆なんだよ。
神様は、本心良心に従って、この世の進化と向上に尽くしなさい、と言って、この世に送り出したのに、
ただ、飲むこと、着ること、寝ること、食らうこと、楽をすることだけを考えて、自己本位な生き方をすれば、当然の事なんだよ、失敗するのは。
ところで、「禅」とは、「一心」と、言われるが、悟りを開くということは、この「一心」になることなんだよ。
「一心」というのは、先程来言っている、本心良心の事を、そう、言うんだよ。
だから、御釈迦さんは、この「一心」のことを「涅槃妙心」と言ったんだよ。
本来、人間には、この「一心」しかないんだ。
ところが、私たちは、この世に生を受け、この物質界で、生きて行くためには、肉体という物質を必要とする。
この肉体という物質を、維持し管理する為に、本能とか、感覚とか、理性とかの心が与えられてあるんだ。
そういう意味では、本能心とか、感情とか、理性心とか、私たちを惑わし、苦しめる心も、必要だからあるんだが、
それに囚われて、それが全てのように、思っちゃうから、生き方を、間違うんだよ。
本来そういうものは、本心良心(一心)でコントロールされるべきものなんだが、
こういうものを、全てと思っちゃうと、逆にコントロールされるべきものに、コントロールされるようになってしまうんだよ。
前のブログでも、私は、「人格の陶冶」とは、「人生に何が起ころうとも、泰然自若として、少しもうろたえない強い心を創る」ことだと言ったが。
禅でいう「一心」も、これと同じ意味なんだよ。
本能とか、感情とか、理性とかに囚われて、自己本位な生き方をすると、雑念・妄念が発生して、この雑念妄念に妨害されて、本心良心が出にくい状態になってしまうんだよ。
坐禅も、瞑想も、出にくくなってしまった、本心良心を、雑念・妄念を排除して、出やすいようにする為に、するんだよ。
この雑念・妄念が、排除されれば、そこに、瑠璃金剛たる、強い、強い根本心が、現れ出てくるのは、当然の事なんだよ。元々、そこにあるもんだもん。
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人は皆、心が先に動いて、体が動く。体が先に動いて、心が後、ということは絶対にない。、、、、今まで自分は走り出してから考えるタイプと思い込んでいました。でも思い立ったからこそ行動していたのですね。
心が思い立ち、それから体が動いていたんだと「あたりまえのこと」を今さらながら知りました。ありがとうございます。
2008/4/8(火) 午後 11:29
ちーずさん:コメントありがとう。難しい話なのに見ていただいてありがとう。
2008/4/9(水) 午前 8:15
考え方によって、罰と思う人もいれば、神様が注意して教えてくれていると思う人もいます、私は人に親切にすれば自分も人から親切にしてもらえる、人に悪いことをすれば自分にも悪いことが起こる、『相手に与えたものが、少し形が変わって自分に戻ってくるだけ』、だから相手の為にやってあげたことは、結局、自分の為になるので良い事を進んでやりたいです。
私は自分の心の痛む事はやらないように心がけています、人間は悪い事をしたら心が痛むのは不思議ですね(*^。^*)
〜ミックス〜
2008/4/11(金) 午前 7:30 [ ミックス ]