気と心と宇宙法則

難病(難しい病気)の人たちの力になりたい、と思っています。

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白鵬は、双葉山を尊敬し、双葉山のような横綱をなることを、目指している、と聞く。
 
 
1月24日(土)の読売新聞によると、
 
「大相撲春場所で、横綱白鵬は、5場所連続33度目の優勝を決め、「昭和の大横綱」と呼ばれた大鵬が達成した32度の優勝記録を塗り替えた」、とあるが、
 
その「稀勢の里を下して、大鵬の記録を抜く33度目の白鵬」と書かれた記事の横にある写真は、白鵬が稀勢の里に、張り手をかまして、稀勢の里が顔をゆがめて、大きくのけぞっているものだった。
 
 
この写真を目にした時、私は、ふと、白鵬の張り手を批判する意図をもって、敢えて、この写真を載せたんじゃないか、と期待したのだが、
 
反対に、写真の下のコラム、編集手帳は、いかにも、白鵬をほめそやすように、「『日本人よりも日本人』と評される平成の大横綱は責任感も人一倍だが、この3月には30歳になる」とあって、いささか、がっかりした。
 
 
ところが、今日(1月24日)は、かの稀勢の里との、最初の取り組みで、審判団が、物言いをつけ、取り直しとなったことについて、優勝後の一夜明けた記者会見の席で、白鵬が、
 
「なぜ取り直しなのか。ビデオを見たが、子供がみても(自分が勝ったと)分かる相撲。なぜ、取り直しにした。(審判団は)もう少し緊張感をもってやってもらいた、と裁定に異を唱えた」という報道がなされると、
 
一転、この編集士は、1月27日の編集手帳で次のように、白鵬を批判している。
 
「横綱大鵬は物言いのつく、きわどい一番で、平幕戸田に敗れ連勝が45で途切れた。テレビ中継のビデオでは、大鵬の足が土俵に残っている。(大鵬が)勝っていた。『大変だ、誤審だ』と支度部屋に押し掛けた報道陣に大鵬は語ったという。『負けは仕方がない。横綱が物言いのつく相撲を取ってはいけない』勝負審判ではなく、あんな相撲を取った自分が悪い」という話を紹介しながら、
 
最後は「記録の上では相撲史の山頂を極めた人も、精神はまだ遥か下、山麓をさまよう途中らしい、好漢自重せよ。」と締めていた。
 
 
別に、「編集手帳」の編集士に、ケチをつけるつもりはないが、数日前には「日本人より日本人らしい」と持ち上げながら、
 
白鵬に、こういう発言があった途端に「精神はまだ遥か下、山麓をさまよう途中らしい」と直ぐに評価を引き下げる態度には、精神的なブレが感じられて、「この人(編集士)まだ、日本人というのも、相撲道というのも、よくわかってないんじゃないか」、と些かの疑問の念を禁じえなかった。
 
 
私は、特に、白鵬の相撲は、テレビでも、見ないようにしている。
 
何故なら、彼の相撲は、立ち合いから、途中の取り組みまで、何かと、と言ったら「張り手」の連発だからである。
 
ああいう、彼の相撲を見ていると、いつも、「相撲はボクシングじゃない」、と白けた気持ちになってしまうからだ。
 
 
相撲は、「相撲道」というくらいだから、ボクシングとは違う。
 
相撲は、ボクシングと違って、戦争とか、ケンカではない。
 
 
ボクシングは、そもそも、ストリートファイト、つまり、ケンカをする時、相手を殴り倒すことを、その発祥としていることは、明らかだが、
 
相撲は、日本の長い歴史とr習慣に培われた作法と、礼儀を持ったスポーツである、その作法と礼儀の裏には、脈々として、それを支える、思想哲学と、人生観が流れているはずである。
 
 
張り手も、相撲の組手の一つだという人がいるが、取り組みの最中に、思わず自然に出たものならまだ許せるが、彼の場合は、常に、意識して、相手を殴り倒そうとしている。
 
その証拠に、彼が取っている相撲で、張り手のなかった相撲を探すのが、難しいくらいである。
                                     
 
1月27日の記者会見では、記者から「今後は何を目指すか」と訊かれて、「後の先で頑張るというと、勝ち負けではなく違う世界がみられるという感じ。平成では白鵬が『後の先を』をやったと思ってくれたらうれしい。」などと、ぬけぬけと答えている。
 
 
「後の先」というのは、相手に先手を取らしておいて、その動きを見て、後で、自分がどう動くか、戦うかを、考えるというものである。
 
 
「後の先」のことで、思い浮かべるのは、昭和の大横綱とか、不世出の大横綱、と言われた双葉山のことである。
 
彼は、決して、立ち合いの変化とか、待ったをせず、相手が立てば立ち、相手に組手十分にならせてから、やおら、自分の業を掛けた、と言われている。
 
 
白鵬が、「後の先」という言葉を使って、「平成では、白鵬が『後の先を』をやったと思ってくれたらうれしい」などと言っているのは、双葉山を意識してそう言っているのだろうが、
 
立ち合いの時、必ず、相手に張り手を一発かましといて、相手が怯んだり、脳震盪を起こしてフラフラになったところを、攻め込んで行く、卑怯な相撲を取る者が、
 
「後の先」とか、「双葉山」などと言葉を口にすることすら、チャンチャラおかしい。
 
 
読売新聞の、編集手帳の編集士には、悪いが、
 
白鵬は「日本人らしい日本人」どころか、日本の心というものが、全くわかっていない、思わず「日本をなめてんのか」と思えるような外国人力士、と言わざるを得ない。


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本田では勝てない

日頃は、他人の、しかも、個人の批判は慎まなければならない、と強く自戒している身だが、
 
それでも、総理大臣とか、知事とか、そういった公職にある、公人の批判は許されると聞いている。
 
なぜ許されるとかというと、それは、例えば総理大臣個人を批判することなしには、その国の政策を批判することはできないし、知事個人を批判することなしには、県の失政を正すことができないからだろう。
 
 
つまり、個人と公の機関とが密接不離一体となっている時は、個人を批判しても構わない、ということだろうと、思う。
 
また、公の機関を批判する為に、その執行者個人を批判することは、延いては、その公機関を良くすることにも繋がるから、即ち、人の為世のためにする行為だから、許されてしかるべき、ということなのだろう。
 
 
さて、そういうことからすれば、サッカー日本代表も、日本を代表する公人と見れば、日本サッカーを良くするためなら、選手個人の批判も、許されていいはずだと思う。
 
そういう言いわけを考えながら、書くということは、まだ、心のどこかに、個人を批判するという、後ろめたい気持ちが残っているせいなのかもしれない。
 
 
FIFA日本代表、本田圭佑のことである。
 
先日のアジア杯豪州大会、アラブ首長国連合戦をテレビで見ていて、「本田が中心になっているうちは、日本はこれ以上、決して強くはならないだろう」と思った。
 
「本田以外に中心になれる選手が誰がいる」、と言われれば、それまでだが、
 
それでも、次のワールドカップまでに、誰か本田に代わるような選手が出てくるか、意図してそういう選手を育てなければ、決して、日本は、世界のトップクラスには入れないだろう、と思う。
 
 
本田のサッカーを、一言で言い表すなら、「雑」という一言に尽きる。
 
以前から、日本代表の欠点は、「決めきれない」ことにある、と言われている。
 
「決めきれない」ということは、つまり、途中までの試合運びは上手でも、ゴールを決められない、点が取れない、従って試合を決めきれない、ということである。
 
 
日本代表が、点を取れない、従って試合を決めきれないということは、取りも直さず、本田が点を取れない、決めきれない、ということになると思う。
 
決めきれない原因を、本田一人に背負わせるのは、可哀想だという意見もあるかもしれないが、
 
これまでの試合を見ている限り、ゴール前では、殆どの場合、本田一人にボールを集めていることからして、彼はそう言われても仕方ないと思う。
 
 
彼を「雑」だと言ったが、彼がゴールを決めきれない原因は、この「雑」な性格にあると思っている。
 
性格が「雑」ということは、つまり、集中力に欠ける、ということである。
 
集中力に欠けるから、ここぞという時に、ゴールポストを外すのである。
 
 
なぜ、私が、彼の性格が「雑」で、集中力に欠ける、と言うかというと、
 
具体的に言えば、「茶髪」、「チンピラみたいなサングラス」、「ビッグマウス」、「俺が俺が、という過度な自己主張」、などが挙げられる。
 
こういう態度を見ていると、要は、彼は、「目立ちたがり屋」なのだということが、よくわかる。
 
 
先日のUEA戦でも、試合が終わった直後、一人だけ上半身肌になって、いかにも、自分の素晴らしい肉体を、誇示しているかのようだった。
 
サポーターに謝っている時だって、一人だけ、裸になって、頭を下げていた。
 
折角、応援に集まって来てくれたサポーターに、感謝の意を伝える時ぐらいは、ちゃんと服を着て、頭を下げるのが、常識だろうと思う。
 
 
天風先生は、「真理のひびき」という本で次のように言っている。
 
箴言18「人生に活きる際 気取ったり ぶったり せぬように心がけると どんなに心に余裕が出来るか わからない」と言っているが、
 
本田の、あの態度は、気取ったり、ぶったり、していると考えられないだろうか?
 
 
天風先生は、この言葉の意味を次のように解説してくれている。
 
「禅の言葉に、『無碍自在』(むげじざい)というのがある。これは心に何ら執着のないときの心の力が、その融通性を百パーセントにして、その可能率を向上するという意味を喝破したものと思う。
これは理屈でなく、心に何らの執着もない場合は、いいかえると心が何もの何ごとにもとらわれていないときには、これを形容すれば、円転滑脱、自由自在に、臨機応変の対応ができるものであるということは、われわれが人生において経験する事実がしばしばこれを証明している。
反対に、心に何かの執着、すなわちとらわれがあると、心の力はたちまちに委縮して、その可能率が著しく低下する。」
 
要は、天風先生は、日頃、気取ったり、ぶったり、した生活をしていると、いざという時に、心が円転滑脱、自由自在に、臨機応変的に働かなくなる、と言っているのである。
 
だから、日頃から、気取ったり、ぶったり、つまり、何かに執着しないような生活を送らなければならない、と言っているのである。
 
つまり、彼が、ここぞという時に、ゴールを決めきれないのは、日頃から、つまらぬことに執着して、心の力(つまり集中力)を低下させているからだ、ということになる。
 
 
彼の、自己中心的な、目立ちたがり屋の性格は、他の選手の誰もが感じていて、皆、心の中では、彼のことを、決して快く思ってないに違いないと思う。
 
つまり、彼には、人望がないのだと思う。
 
中心選手に人望がないことが、他の選手のモチベーションを低くし、延いては、チーム全体の、団結力を弱くし、決定力を弱くしているのだと、と思う。
 
 
 
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小さな幸せを集める

最近テレビを見ていると、お母さんとおぼしき人が、年頃の娘に、なにやらカードらしきものを渡しながら、「大きい幸せを掴むのは難しい、小さな幸せを集めればいい」と言っている、コンビニのコマーシャルの映像が、盛んに流れている。
 
渡されたカードらしきもので、好きなものを買って食べなさい、ということなのだろう。
 
 
コマーシャルでなくても、巷間、時々、「小さな幸せを集めて活きる」という言葉は、よく耳にする言葉である。
 
そして、この言葉を聞くと、なんとなく、小さな幸せだけをかき集めて生きれば、幸せな人生を活きられに思い込んでしまうから、不思議と言えば不思議な言葉である。
 
 
映像として作られたコマーシャルはあくまでも、虚構の世界(フィクション)だから、コマーシャルそのものにケチを付ける気は全くないが、
 
ふっと冷静になって考えてみると、現実に、小さな幸せだけを集めて生きていれば、本当に幸せな人生を送れるようになるのだろうか、と考え込んでしまう。
 
 
言葉そのものだけを聞いていれば、なんとなくわかったように気もするが、果たして、現実の問題として、具体的な「小さな幸せ」とは、一体どういうことを指して言うのだろうか。
 
 
例えば、コマーシャルのように、コンビに行って何か好きなものを買って来て、食べれば、それが「小さな幸せ」と言えるのだろうか。
 
確かに、日頃食べたいと思っていたものが、手に入って、それを食べて、おいしいと感じれば、なんとなく幸せになったような気がする。
 
 
しかし、食べたその時、一瞬の間か、或いは、一瞬の間ではなくても、それに近い、当座の間は、幸せな気分になるかもしれないが、それで、その先、何時間も、その幸せな気分がそのまま続くかと言われれば、そうはいかない。
 
 
とすれば、何か好きなものを買って食べて、おいしいと感じることは、あくまでも、食欲と言う本能を満たした時の、感覚的な喜びであって、少なくても、「幸せ」という言葉で表現するに値するようなものではなさそうである。
 
もともと、本能的な感覚という欲望は、それを追い求めれば求めるほど、際限なく膨らんでいうものであり、それが満たされない時の不満不平も、また際限なく膨らんで行くものである。
 
 
食べ物でなくても、金銭にしても、最初は、ちょっとした小金が手に入っただけでも、嬉しさを感じるのに、その嬉しさを追い求めて行けば、欲望はどんどん膨らんで行って、「もっと、もっと、欲しい」となって行く。
 
欲望が膨らんで行くに伴って、それが満たされない不平不満も際限なく広がって行く。
 
お金ばかりでなく、着るものだって、或いは住まいだって、最初は「小さな幸せを」を満足できればいいと思っていても、その内、もっといいものが欲しい、となって行く。
 
 
「小さな幸せ」で満足することを、「足るを知る」と言うのだが、「足る」を知って「小さな幸せ」に満足して生きている人のことを、真人とか、哲人とか言う。
 
「足るを知る」ということは、普通の凡人では、決してできない。
 
欲望や感覚をコントロールできる人にだけ出来ることである。
 
 
欲望という、当座の感覚を満たして行けば、その先に「小さな幸せを」が待っているかというと、そうはいかない。
 
なぜなら、欲望とか、感覚というものは、際限もなく膨らんで行くもので、そういったものを満たすことを「小さな幸せ」と勘違いしていると、やがてその先に、「大きな不幸」という落とし穴が待っているからである。
 
 
コマーシャルの「小さな幸せ集める」という言葉は、ただ単に「欲望や感覚を満たす」ことを、「小さな幸せを集める」、という言葉と、混同して用いられているだけのようである。
 
欲望や感覚を満たすことを、「小さな幸せ」と思っていると、その先には、「大きな不幸」が待っていることを、知るべきである。
 
 
 
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「運命を拓く」という本に、「第一義的な活き方」(第9章)というのがあって、天風教義は第一義的な活き方を教えることが、目的である、と書いてある。
 
そして、「第一義的な活き方」とは、どういう活き方をいうのかと言うと、天風先生は、具体的に、さらに、次のような解説を加えてくれている。
 
 
「天風教義の目的は、どんな場合にも、たとえば身に病があろうが、なかろうが、運命が良かろうが、悪かろうが、その他の人生事情のいかんにかかわらず、いつも一切に対して、その心の力で苦を楽しむの境涯に活きる活き方をすることにある。」と。
 
天風教義の目的が、「第一義的な活き方」を教えることを目的とする、と言われて、そして、「第一義的な活き方」とはどういう活きかをいうのか、上のように解説されて、
 
それで、天風先生が何を言わんとしているのか、その意味を直ぐに理解できる人は、この中には、殆どいないと思う。
 
なぜなら、実際にそのような心境が身についてからでないと、わからないことだからです。
 
つまり、そういう心境にまだなり得てない、修業中のうちは、良くわからないのである。
 
 
天風先生は、「第一義的な活き方」が、出来るようになった時の心境を、
 
「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山」だとか、
 
ヨガ哲学からの引用だとして、「たとえ身に病があっても、心まで病ますまい。たとえ運命に非なるものがあっても、心まで悩ますまい」という言葉でもって説明されているが、
 
貴方達、この言葉の意味が分かりますか?わかる人がいますか?
 
このような言葉を用いて、これが「第一義的な活き方」だと言われても、ますますわからなくなってしまう、というのが本当じゃないでしょうか。
 
もっとも、そういうことが言えるのも、実は、これまでの私が、そうだったからなのですが。
 
 
そもそも、「第一義的な活き方」ができるようになる心境について、天風先生は次のような言葉でもって説明されている。
 
「楽しみは楽しみ、苦しみは苦しみ、と別々にしてしまうものだから、今の世の中は、苦しいことばかり、楽しいことなんてあるかい、と言う。その苦しみをなお、楽しみに振り替える心持というものが、人間として、ぜひ必要だからこそ、天風教義がこの点に主力を注いでいるのである。」
 
つまり、「第一義的活き方」というのは、「苦しみをなお、楽しみに振り替える方法」が身につくことをそう言っているのであり、また、そうなる方法を教えるのが、天風教義の目的である、と解釈できるのです。
 
 
苦を楽しみに振り替えることができるようになって初めて、「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山」という言葉がわかるようになるのです。
 
これは、わが身に、不運や不健康が降りかかって来たとしても、それを、苦しみと受け取らないで、楽しみの方に、心を振り替えることができるようになれば、人生に、苦もなく、楽もなくなる、ということを教えようとする言葉なのです。
 
 
そして、「たとえ身に病があっても、心まで病ますまい。たとえ運命に非なるものがあっても、心まで悩ますまい」という言葉だって、同じである。
 
これも、病があっても、不運に遭っても、苦と感じないで、楽の方に心を切り替えることができれば、病も、不運も、少しも問題とするに当たらない、ということを教えてくれている言葉ではないでしょうか。
 
「苦しみを楽しみ」に、心を振り替える方法を知らないから、これらの言葉の意味も、何を言っているのか、さっぱりわからない、のである。
 
 
天風先生が、頻りに引用する、熊沢蕃山の「憂きことのなおこの上につもれかし、限りある身のちからためさん」という言葉だって、
 
蕃山が、どんなつらいことがあっても、俺は、それに負けない、という自信があって初めて、言える言葉ではないでしょうか。
 
つまり、熊沢蕃山だって、苦を楽に振り替える方法を知っていたから、そういうことを言えたのだ、ということになるのです。
 
 
天風教義の目的は、「第一義的活き方」ができるようになること。つまり、苦しみをも楽しみに振り替える事が出来るような心を作ること、と言っているが、
 
そうなる為に、天風教義の各種の方法、観念要素の更改法があり、そして又、積極精神の養成法あり、神経反射の調節法があるのです。
 
つまり、天風教義というものは、「苦をも楽に」と心を切り替える方法を教えているものだと、言えるのです。
 
天風教義を実践して、心が積極的になれば、「苦をも楽に」振り替えることができるようになるのです。
 
 
貴方達が、「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山」だとか、「たとえ身に病があって、心まで病ますまい。たとえ運命に非なるものがあっても、心まで悩ますまい」と言われて、とても俺にはそんなことできそうにない、と思うのは。
 
それは、まだ、そういった心境に達していないからなのです。つまり、心が積極的になっていないからなのです。
 
 
一生懸命、日々、天風教義を実践して、努力し続ければ、いつかは、この言葉の意味もはっきりわかるようになるでしょう。
 
わからないのは、まだ、修業が足りないからなのです。
 
 
今、わからないからといって、諦めてはいけません。
 
今わからなくても、一生懸命、天風先生が教えることを実践していれば、その内わかる時がきっと来ますよ。
 
 
 
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ホリエモン

見てはならない、醜悪なゲテモノでも目にしたような、或いは、かつて見た悪夢の記憶を呼び覚まされたような、そんな思いがして、慌てて、そのページを、閉じてしまった。
 
今度は「我が闘争」だって。
 
本のキャッチが、又、ふるっている。 
 
「生意気な拝金主義者というレッテルを貼られ、挙句の果てには刑務所に入ることになった男の赤裸々な自叙伝」ときた。
 
 
1月17日の読売新聞の記事下に、かつて、忌々しい思いで、眺めたことのある、ホリエモンこと堀江貴文氏の顔写真が、上記本の名前と共に、デカデカと載っていた。
 
 
さて、話は変わるが、長崎県諫早市のスーパーで、スナック菓子に、つま楊枝を混入させたとして、先日逮捕された19歳の少年は、警察で「発言力を増すため、有名になりたかった」と供述しているらしい。
 
今日、1月20日の読売新聞、一面、コラム「編集手帳」で、そのことを知った。
 
 
その編集手帳によれば、死期が近いことを知った、「長崎の鐘」の永井隆博士は、幼い二人の子供に、名前の売れることを戒めた、次のような一文を遺していたらしい。
 
「有名になるな!名前なんてものは、茶の間であめ玉がわりに一分間しゃぶられるだけのもの」と。
 
編集手帳の編集士は、永井博士に、かの少年を、「つまらぬ1分間の飴玉に終わるだけだ」、と叱って欲しいと言っていた。
 
 
まだ、この少年は19歳である。
 
「世間知らずの少年だから」、と多少許してあげたい気持ちもどこかに残る。
 
 
いわゆるライブドア事件で、ホリエモンこと、堀江貴文が逮捕されたのは、34歳だった。
 
とすれば、今年で、彼も、43歳になった筈である。
 
スナック菓子事件で逮捕された少年と違って、彼はもう、酸いも甘いも噛分けることができる、立派な大人の筈である。
 
 
「バカは死ななきゃ治らない」とか、「雀百まで歌を忘れず」という言葉は、「人の性格・習慣というものは、死ぬまで変わらない」、ということを言わんとしたものだと、言われる。
 
 
本を買って読んだわけではないが、本と共に写った彼の顔写真や、本のキャッチフレーズを見れば、読まずとも、本の内容まで、一目瞭然、はっきりしている。
 
本の中で、彼がどんなことを言おうが、また、どんな、屁理屈を捏ねようと、彼の意図は、要は、以前のように、有名になって、濡れ手で粟を掴むが如く、労せずして、大金を物にしたいだけなのだろう。
 
 
そもそも、一体、彼は、2年6ケ月の間、刑務所の中で、何を考え何を反省したのだろうか。
 
 
最近、ちょくちょく、テレビなど顔を見るようになった、と思っていたら、今度は、厚顔も無恥も何もなく、これまでの自分の醜い半生を、本にして世に出そうとしている。
 
ただ、有名になって、金にしたいだけなことは、誰が見ても、見え見えなのに。
 
 
それでも、初めの内は、刑務所の中で頭を冷やし、わが身に向けられた世間の冷たい風も知って、少しは利口になって出て来ることを期待したが、これでは、正に、「病、膏盲に入る」で、バカが、ますますバカになっただけではないか、と思う。
 
 
編集手帳の編集士には悪いが、 
 
永井博士が、「有名になるな!名前なんてものは、茶の間であめ玉がわりに一分間しゃぶられるだけのもの」と、いくら叱ったって、馬耳東風、全く、聞く耳を持たぬ者も、世の中にはいるようである。
 
 
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