|
以前、このブログに、瞑想の事を書いたら、ある人から「その時、呼吸はどうしているのですか?」という質問があった。
おそらく、この質問の趣旨は、坐禅でも、ヨガでも、呼吸に意識を集中させることによって、無念無想になろうとするから、(これを凝念、ダーナラ、という)そのことを訊いてきたのだと思う。
つまり、吐く息、吸う息に意識を集中させることによって、他の想念、即ち雑念妄念を排除しつつ、無念無想になる方法のことを、言っているのだと、思った。
言い換えると、質問は、要は、「数は数えないのですか?」ということだったと思う。
どう答えたか、今、正確に思い出すことはできないが、初手から、数を数えて瞑想したことがないので、おそらく、そういう答え方をしたのだと、思う。
今でも、毎朝、長い時で、2時間くらい、短くても30分くらいは、瞑想をするが、最近では、どんな時でも、三昧になれなかったということは、ない。
つまり、瞑想すると、いつでも、三昧になれる。
今日も、朝、3:30〜5:00まで、1時間半、坐ったのだが、珍しく今日は、呼吸を意識した。
つまり、三昧という精神状態に入ってからであるが、鼻で、ふかーく、或いは、途切れ途切れに、息をしている自分に気が付いたのである。
「ふかーく、途切れ途切れに」に息をするということは、殆ど、息をしているか、してないか、自分でも、わからない状態、と言っていい。
それでも、息をしていることを意識したのは、特に、息を吸うとき、鼻が、少し、ズーズーと鳴るような気がしたからである。
それと思って、瞑想の後、呼吸数を測ってみると、1分間に、5〜6回しかしてないから、
三昧の時は、おそらく、1分間に1〜2回くらいしか、息をしてないのじゃないか、と思う。
普通、人の呼吸は、1分間に、15〜17回くらい、と言われているから、私の呼吸数は、静かにくつろいでいる時で、5~6回、三昧の時は、1~2回ということになる。
ここ数年間、呼吸数なんか、意識したことも、ましてや、測ったことなどなかったのだが、
今日、こうして、呼吸数を測ったりしたのは、
瞑想を始める時、数回クシャミが出て、その後、鼻水が出たりしたのだが、そのために、鼻の通りが悪くなっていて、呼吸がしずらくなっていたせいではないかと、思う。
ホームページアドレスが、下記のように、変更になりました。
http://www.psykiryou.comサイ気療研究会
遠隔治療無料体験のお知らせ
電話による遠隔治療無料体験:1回(10分間)のみ、「気」による遠隔治療を、無料で体験できます。
ご希望の方は、必ず、メール(アドレスは上記ホームページ中にあります)を使って、申し込んで下さい。(電話でのお問い合わせ等はご遠慮下さい)
施療時間については、双方の都合を調整の上、実施させて頂きます。
遠隔を受ける際の要領は、上記ホームページ中の、「電話による遠隔治療要領」にありますので、事前に、一読の上、無料体験をお受け下さい。
ただし、場合によっては、無料体験をお断りすることもありますので、予め、ご承知置き下さい。
|
瞑想日記
[ リスト | 詳細 ]
|
ヨガにおける瞑想は、凝念(ダーナラ)、静慮(ディアーナ)、三昧(サマディ)という過程を経て、無念無想の程度を深めて行く。
最初は、雑念妄念が、心の中を、ところ狭しと駆け巡っているから、ある特定の道具を用いて(ろうそく、木魚、鉦、ブザー等)、心を一つにまとめる工夫をする。
多くの雑念妄念を、一つのもの(例えばブザー)に集中させることから、これを凝念、サンスクリット語で、ダーナラと呼ぶ。
例えば、雑念妄念を排除する為にブザーを鳴らす。
雑念妄念がブザーの音に集中される為、他の雑念妄念が排除されて、心が落ち着いてくる、しかし、暫くすると、心の中がまた騒がしくなる。
すると、また、ブザーを鳴らす。
そういうことを繰り返しているうちに、時々、無念無想を経験するようになる。
しかし、無念無想になれた、と思う間もなく、暫くすると、また、雑念妄念が湧いてくる。
このように、静慮(ディアーナ)とは、無念無想が長続きせず、無念無想と、揺れ動く心が、短期間のうちに、交互に繰り返す状態、と考えたらいい。
そういう心の状態が続くうちに、突然、ある時点を境にして、これまでとは全く違った、異次元の世界に入ったような、無念無想の状態が延々と続く。
これが、三昧と言われる心境だと思う。
この三昧に入ったら、今、自分がどこに居るのか(空間)、また、どれほど時間の経過したのか、つまり、時空の意識が、全くなくなる。
時空の意識がなくなるというのは、つまり、眠っているのと同じ精神状態と考えていい。
こういう無念無想の、究極の状態を指して、三昧、つまり、サマディ、と呼ぶ。
私も、始めのうちは、天風会で使っている、ブザーの音に心を集中させ、心を整えた後、無念無想に入って行った。
しかし、ブザーを使って瞑想したのは、始めてから、せいぜい、2~3年の内だけだったように思う。
そのうち、ブザーを使わなくても、無念無想になれるようになったので、その後は、殆どブザーを使わなくなった。
おそらく、これは、人間の命の中に「気」が流れ込んでくる際の音と思うが、
頭の中で、特に、耳の周辺で、軽い「シーン」と「ジーン」との中間のような音が聞こえてくるようになった。
私は、これが、天風先生言うところの「空の声」ではないか、と思っている。
とにかく、この音は、ところ構わず、のべつまくなしに、聞こえてくるが、少しも気にならない。
ブザーが要らなくなったのは、座って、この音に耳を傾けてい、さえすれば、無念無想になれたからである。
つまり、この音(空の声)が、ブザーの役目を果たすようになったからである。
この頃は、雑念妄念で、散らかった心を、一つにまとめようとか、心の中から雑念妄念排除して、無念無想になろうとか、特別、意識することもなくなった。
ただ、足を半跏に組んで、黙って、坐っているだけで、自然に、無念無想になり、そして、暫くすると、三昧になる。
ただ、その時、私の場合、特徴的なことは、
額から、「気」が入って来て、丹田まで「気」が届くに従って、次第に、体内に、「気」が充満するようになり、それにつれて、無念無想の度合いが深まって行く、ということがある。
黙っていても、「気」は勝手に、額から入って来るから、気が丹田まで来て、体の中が、気で一杯になるまで、その経過を静かに観察しつつ、時を待つだけでいい。
こういうことを神人瞑合、つまり、神の世界と人間とが、完全に溶け合った状態、というのであろう。
天風さんは自分の瞑想法を、安定打坐(あんじょうだざ)と称している。
その安定打坐では、神人瞑合(しんじんめいごう)の何たるか、をわからないことには、瞑想が深くなることもないし、従って、三昧にいたることもない。
いずれにしても、最近では、瞑想をする時、殊更、無念無想なろうと努力する必要もなくなったが、それは、普段から、心の中の雑念妄念が少なくなって来ているせいもあると、思う。
ホームページアドレスが、下記のように、変更になりました。
http://www.psykiryou.comサイ気療研究会
遠隔治療無料体験のお知らせ
電話による遠隔治療無料体験:1回(10分間)のみ、「気」による遠隔治療を、無料で体験できます。
ご希望の方は、必ず、メール(アドレスは上記ホームページ中にあります)を使って、申し込んで下さい。(電話でのお問い合わせ等はご遠慮下さい)
施療時間については、双方の都合を調整の上、実施させて頂きます。
遠隔を受ける際の要領は、上記ホームページ中の、「電話による遠隔治療要領」にありますので、事前に、一読の上、無料体験をお受け下さい。
ただし、場合によっては、無料体験をお断りすることもありますので、予め、ご承知置き下さい。
|
|
最近は、瞑想の時、以前のように、無念無想になろうと努力することもなく、また、心の中から、雑念妄念を取り除こうと、一生懸命になることもなくなった。
ただ、坐って、気が額から入って来て、体を完全に気で満たし、そして、自分と外の空の世界(気が充満した世界)とが融合一体化する時を待っていればよい。
気が額から入って来て、やがて、体の中が気で一杯になり、外の世界と融合一体化しさえすれば、黙っていても、無念無想になれる。
中村天風先生は、「真理のひびき」という本の中で、次のように言っている。
「安定打坐密法(先生唱導する独特の瞑想法)という密法が即座に妄想念を制御静止してたちどころに心境を払拭することによって、世人の多くが容易にできがたいと思い込んでいる無念無想=最高心境=三昧境=サマディにきわめて簡単容易に投入することができるからである。
いいかえれば、われわれの心境が無念無想という最高心境に到入すると、科学的にいえば宇宙創造の根本要素=PC・H(プランク常数H)と人間の生命とが融合一体化するからで、これをさらに哲学的に表現すれば、神人瞑合の現実化が具現して、神=大自然のもつ叡智が無条件にその心の中に流入するからである。
すなわち、かのヘーゲルの言った宇宙に偏在する妥当性という目に見えない、しかも絶対的に貴重なる実在と、完全に心が合一状態になるためである。」
これこそ、今日、私が、ここで、言いたかったことであり、私の言いたかったことは、全て、ここに尽きている。
神人瞑合、つまり、外部の空の世界(つまり気が充満した世界。天風先生は気のことを、宇宙の根本要素、常数Hと言い、ヘーゲルは宇宙に遍満する妥当性という目に見えない、絶対的な存在と言っている)と融合一体化すれば、
特に、無念無想になろうとか、心の中から雑念妄念を追い払おうと努力しなくても、自然に、無念無想の極地である、三昧の境地に到達できるのである。
おそらくこれは、心の中の雑念妄念を、新しく外部から流入してくる気が、追い出して、心の中が、純粋無垢の汚れのない新鮮な気だけになるためではないかと、私は、思っている。
そして、神人瞑合して、心が無念無想になれば、どうなるかというと。
天風先生は、「安定打坐考抄」という本の中で、次のように言っている。
「われらの実修する『安定打坐密法』は、身外寂滅境の無声の声と帰納的に同化する方法とて‥‥換言すれば其の帰納的に同化している間は、自己という現象個性の小生命の小動念から離れて、本体の大生命の大動中に期せずして没入することになる。」
ここで、「小生命の小動念から離れて、本体の大生命の大動中に期せずして没入することになる」、と言っているのは、神人瞑合、と同じことを、別の方面から言い直しただけで、意味するところは全く、同じである。
途中を、少し、飛ばすが、この後に、天風先生は、次のように言っている。
「というのはしばしば安定打坐をして、動中静感大死一番の自覚心境(三昧境)に入るの習性を作ると、知らず知らずの間に、誰に教わらずとも、『人間本来』なるものが、自然と自悟自覚せらるるに至るからである。」
瞑想をして、無念無想(三昧)に入る習慣がつくと、だれに教わることもなく、自然に、人間の本性がわかるようになる、と言っているのである。
これは、神人瞑合、神と人間とが一体融合して、神の叡智が人間の心の中に流入して来た結果である。
私も、最近では、雑念妄念とか、ストレスとか、マイナス思考とか言っても、決して、避けるべき、厭うべき、排除すべきことではない、と思えるようになっている。
ストレスとかマイナス思考とか言っても、生きている以上、この世に肉体というものがある以上、なくなってしまうものではなく、むしろ、肉体がこの世で生きていく上で必要とするから、これらのものがあるのだ、と考えるようになっている。
だから、瞑想の時も、むしろ、これらの雑念妄念が心の中で起こるのを、楽しみながら、これらの雑念妄念を、無理に追い払おうとせず、自然に心が無念無想になるのを待つようになった。
以前は、瞑想の時、シャカリキになって、心の中からマイナス思考を追い出そう、追い出そう、必死になっていたから
余計、ますます、マイナス思考にかまうことになって、結果、無念無想になることが難しかったのだ、ということに気がついたのである。
こういうことも、別に、必死に考えたり、本など読み漁って気がついたことではなく、
瞑想をして、無念無想になる機会が多くなったことによって、天風先生言われる如く、「知らず知らずの間に、誰に教わらずとも、『人間本来』なるものが、自然と自悟自覚せらるるに」至ったのではないか、と思われる。
それを、ストレスと言おうが、マイナス思考と言おうが、何と言おうが、必要だからあるのであって、そういう意味で決して排除すべきものでも、厭うべきものでもないのである。
要は、これらのことに執着しないことである。
執着しない為には、排除しようとせず、心を瞬時に、無念無想の状態にすればいいのである。
無念無想、何も考えないことが、結局は、ストレスやマイナス思考に囚われないことになる。
ホームページアドレスが、下記のように、変更になりました。
http://www.psykiryou.comサイ気療研究会
遠隔治療無料体験のお知らせ
電話による遠隔治療無料体験:1回(10分間)のみ、「気」による遠隔治療を、無料で体験できます。
ご希望の方は、必ず、メール(アドレスは上記ホームページ中にあります)を使って、申し込んで下さい。(電話でのお問い合わせ等はご遠慮下さい)
施療時間については、双方の都合を調整の上、実施させて頂きます。
遠隔を受ける際の要領は、上記ホームページ中の、「電話による遠隔治療要領」にありますので、事前に、一読の上、無料体験をお受け下さい。
ただし、場合によっては、無料体験をお断りすることもありますので、予め、ご承知置き下さい。
|
|
「怪力乱心を語らず」(理窟に合わないことは言わない)と言ったのは、論語の孔子様だが、
この人は、その怪力乱神を、次ぎのように語っている。
著者は、本の追記に、昭和43年初秋、大森曹玄と書いてある。
剣の達人にして、有名な臨在禅のお坊さんでもあった、大森曹玄さんは、「山岡鉄舟」と題した本の中で、鉄舟の死期について、次のように語っている。
鉄舟は、7月19日には亡くなっているから、それは、死から10日ほど前の事になる。
「やがて七月に入ると、病勢が好転して少し持ち直したかのように見えた。人々はホット愁眉を開いたが、鉄舟自身はそれをかえって死期が近づいたと感じたのか、八日には門人全員に道場に集まるように命じた。
『今日は一人一人に稽古をつける。もし今日の稽古がいつもとちがっていたら、無剣流はおれの死んだあとでぶっつぶせ』こう言って胴をつけたが、その紐を自分で結べないほどの衰弱ぶりだったという。
その日の状を高弟の一人佐野治三郎が語ったところのよると、佐野が『よし、今日こそ一つやっつけてやろう』という意気込みで、立ち上がるや否や面から体当たりに行った。
ところが、まだ鉄舟の体に触れない前に、何かものすごい力で圧しつぶされるような感じがしたと思ったら、自身の方がひっくり返っていた。『なに糞っ』と立ち上がって諸手突きに行くと、ヒョイと頭を抑えて股の間に挟まれてしまった。若い自分が遠慮会釈なく力一杯かかったのにどうしたことか、その時の具合は今も合点がいかぬ、人に話しても信じてくれぬ、と後年よく語っていたそうである。」
日頃、胃を病んでいて、死期が10日ほど前に迫って、しかも、剣道の稽古の時に着ける胴の紐を結べない程衰弱してしまった人が、
若い門弟が、ぶっ飛ばそうと思って、体当たりをして行っても、反対に、自分の方が、何か物凄い力で押しつぶされたように感じて、ひっくり返ってしまったり、
「なに糞っ」と思い返して、今度は、諸手突きで突進して行ったところ、鉄舟に、頭をヒョイと抑えられて、そして股間に挟まれてしまった、と言う。
果して、こういうことが、実際にあり得るのだろうか?
中村天風先生は、「成功の実現」という本の中で、「およそ、人間の心の中の思い方、考え方というもの、いわゆる『思念力』というものは、それはそれはものすごい魔力のような力をもっていることを知っていなければだめだよ。」と言っているが、
「それはそれは物凄い魔力のような力」とは、「神様と同じような力」と、勝手に言い換えても、天風先生から、格別の小言はないだろうと、思う。
どこでそう言っているのかについて、私が、今、思い出せないだけで、至る所で、天風先生は、これに似たようなことを言っている。
人間には、その肉体の中に、目には見えない気体で出来た、組織がある。
その目に見えない気体の組織こそ、本当の自分であり、肉体や心は、その気の組織の働きによって、動かされているだけだ、ということがわかると、
自然に、人間には神と同じような能力が宿っているのだ、ということが推測できるようになる。
そして、神と同じようなことができないのは、心の中の雑念妄念が、できないようにさせているのだということも、これも又、推測によって、理解できるようになる。
大森曹玄さんの「山岡鉄舟」を読んで、その死際について知って、
1~2年前の私だったら、「人として、そんなバカなことがあり得るだろうか?」くらいのことで、済ましていただろうと、思うが、
今はそうではない、
間違いなく、人間の中には、そういう、神に似た力が宿っていて、実際に、鉄舟さんの死際のようなことがあったのだろう、と考えるようになっている。
孔子さんには悪いが、この世には、「怪力乱神」も存在し得る、と思うようになった。
ホームページアドレスが、下記のように、変更になりました。
http://www.psykiryou.comサイ気療研究会
遠隔治療無料体験のお知らせ
電話による遠隔治療無料体験:1回(10分間)のみ、「気」による遠隔治療を、無料で体験できます。
ご希望の方は、必ず、メール(アドレスは上記ホームページ中にあります)を使って、申し込んで下さい。(電話でのお問い合わせ等はご遠慮下さい)
施療時間については、双方の都合を調整の上、実施させて頂きます。
遠隔を受ける際の要領は、上記ホームページ中の、「電話による遠隔治療要領」にありますので、事前に、一読の上、無料体験をお受け下さい。
ただし、場合によっては、無料体験をお断りすることもありますので、予め、ご承知置き下さい。
|
|
お相撲の琴奨菊は、昨日、大関昇進を伝える使者に対し、「万理一空」の境地を求めて、日々、努力、精進致します、と答えたらしい。
今日の新聞は、一斉に、この琴奨菊の大関伝達式の様子を伝えている。
これを知った時の、私の第一印象は、「琴奨菊よ、ど偉い事を言ってしまったなあ!」と言うものであった。
この言葉は、宮本武蔵が五輪の書に書いた「万理一空の所、書きあらわしがたく候へば、おのずから御工夫なさるべきものなり」、に由来するものらしい。
直訳すれば、「万理一空という事の意味は、説明が難しいから、自分で身をもって体験するようにしなさい」という意味である。
ということは「万理一空」という言葉の意味は、自分で悟りを開いたものでなければわからないよ、ということでもある。
であるとすれば、琴奨菊は、今回のことで、「私は、悟りを開くべく、相撲道に精進致します」と言ったことになる。
これまで、数々の大関や横綱が昇進の時の口上で、色々、立派な言葉を述べているが、「悟りを開くよう努力します」とまで言い切った相撲取りは、おそらく、琴奨菊一人だろう。
私が、「琴奨菊よ、ど偉い事を言ってしまったなあ!」と思ったのは、そういう事情があっての事であった。
さて、肝心の、その「万理一空」ということであるが、
私は、この言葉は、この世というものは、全て、「気」出で来ていて、「気」以外に何もない、と解釈すべき、と思っている。
つまり、この世の森羅万象、「気」から生まれ、「気」に帰って行く、ものだよ、という意味である。
さらに、言葉を変えていうなら、この世は、「気」しかなく、「気」が全てなんだよ、という意味である。
武蔵が、五輪の書で「万理」と言っているのは、「この世の森羅万象全て」と解釈できるし、「一空」と言っているのは、「気」と読み替えて解釈することが出来る。
瞑想をしていて、心が無念無想になるに従って、「気」が外部から入って来て、体の全てを満たし、
また逆に、瞑想をしていて、「気」が外部から入って来て、体を満たすに比例して、心は無念無想になり、そして、体全部が「気」で満たされて、自分と外部との境がなくなった時に、三昧という無念無想の極地に達することを、考える時、
宮本武蔵が「空」と言ったのは、「気」が充満した世界、つまり、「気」しか存在しない世界、と解釈してもいいようにも思えるのだ。
ホームページアドレスが、下記のように、変更になりました。
http://www.psykiryou.comサイ気療研究会
遠隔治療無料体験のお知らせ
電話による遠隔治療無料体験:1回(10分間)のみ、「気」による遠隔治療を、無料で体験できます。
ご希望の方は、必ず、メール(アドレスは上記ホームページ中にあります)を使って、申し込んで下さい。(電話でのお問い合わせ等はご遠慮下さい)
施療時間については、双方の都合を調整の上、実施させて頂きます。
遠隔を受ける際の要領は、上記ホームページ中の、「電話による遠隔治療要領」にありますので、事前に、一読の上、無料体験をお受け下さい。
ただし、場合によっては、無料体験をお断りすることもありますので、予め、ご承知置き下さい。
|


