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毎日、早朝、1時間は瞑想することを日課としているが、近頃は、以前のように、意識して無念無想になろうと、務めたことがないし、また、長時間瞑想をしなければ、無念無想になれない、ということもなくなった。
心を無にしようと、強いて努めなくても、ただ、座っていれば、意識の中に「本当の自分」というものが見えてくるようになるから、その「本当の自分」を見つめているだけで、自然に無念無想になれるからである。
言葉でもって、私が見ている「本当の自分」とは、どんなものか説明できないのが残念だが、自分の肉体の中心に、陽炎のような、とでも言おうか、あるものがあるのは間違いない。
そして、最近、この陽炎のようなものは、次第次第に、その存在感も増しつつあるように思う。
天風先生の本によれば、「本当の自分」とは、心が無念無想にならなければ見えない、と言っている、ところからして、
本当は、見えるから、無念無想になるのではなくて、心が無念無想の状態になっているから、座った途端に、「本当の自分」が現れてくるのかもしれない。
心が、無念無想の状態になるのは、信念が強くなるからであって、その信念は霊性意識の中から出てくるものであることを思えば、
霊性意識が出て来ているから、意識してそうなろうと心がけなくても、無念無想になり、無念無想になっているから、「本当の自分」というものが見えてくるのかもしれない。
とにかく、最近の私の瞑想は、座った途端に見えてくる「本当に自分」に、意識を向けているだけで、直ぐに、無念無想になり、また、無念無想が深まるに従って、「本当の自分」もますます、その存在感を増してくるといった、図式になっている。
天風先生は、私たち人間が迷うのは、人間であればだれしも、その命の中には運命も健康も自分の思いのままにしてくれる、潜在勢力というものがある、と言うことをわかってないからだと言うが、
「本当の自分」というものが、わからないと、潜在勢力というものがあるということも、わからないから、
天風先生は、心身統一法の目的は、先ず、「本当自分」というものがわかることだ、と言っているようである。
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瞑想日記
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いつかも、このブログで書いたが、山田無文という臨済宗の禅のお坊さんが書いた、「自己を見つめる ほんとうの自分とは何か」(禅文化研究所刊)という本の中に、
臨済禅師の教えとして、次のような言葉が紹介されている。
「赤肉団上に一無位の真人あり。常に汝ら諸人の面門より出入す。未だ證拠せざるものは看よ看よ。」
山田無文さんは、この言葉を、次のようにわかりやすく解説してくれている。
「つまり、このお互いの肉体の中には、真実の人間が一人いるということです。その真実の人間とは、位のない、形のない、姿のない、色のない、名前のない、男でも、女でもない。形もなく姿もないから時間と空間を超越し、生まれたでもなく死ぬでもない。また、きれいでもなければ汚くもない。善でもなければ悪でもない。どういう人間の言葉をもってしても説明できない、絶対自由な創造的主体性であります」
(途中省略)
『未だ證拠せざるものは看よ看よ』とは、まだ、がわかっていない人はその真人を自覚しなさいとおっしゃっているのです。」
これは、禅の話ですが、中村天風先生も、「成功の実現」という本の中の、第6章のとっぱなで、次のように言っていますが、同じことなんです。
「ありていな話が、あなた方がこれまで聞かれた心身統一法という方法は、これからお話する『我とは何ぞや』を最初に正しく自覚させてから、組み立てられたものなんです。(話は、組み立てられるべきもの、という意味か?)だから、厳粛な意味から言えば『我とは何ぞや』を先に自覚せしめておいてから、(その後で)心身統一法を説くのが順序ですけれど、その正しい順序をふんでおりますと、とうていあなた方が順序どおりに私についてきません。」
と言っていますが、これを逆に言うと、「本当の自分とは何か」ということが、わかってからでないと、心身統一法の教えは、本当には、わからない、と言うことなのです。
ということは、又、心身統一法の教えというものは、「本当の自分とは何か」ということをわかるためにある、ということもできるのです。
だから、天風先生は、続いて次のように言うのです。
「けど、どこまでいっても、これは変則的なんです。厳格に言えば、『我とは何ぞや』がほんとうにわかってからでないと、人間の生命にからまる幽玄微妙の消息というものは、聞かされても、ハハーンとある程度まではわかったような気分になりますがほんとの自覚には至らない」
ところで、天風先生を勉強している人は、天風先生が、「本当の自分」とは、「霊魂」という気体である、と言っていることは、よくご存じのことだと思います。
実は、天風先生が「霊魂」と言っているのは、上で、臨済禅師が「赤肉団上の一真人」と言っているものと、同じものなんです。
禅では、不立文字とかいって、一々、説明しないことを本分としているせいか、臨済禅師も、「未だ證拠せざるものは看よ看よ」、即ち「未だ見てないものは、早く見なさい」、とかいって、それ以上何も説明してないのですが、
天風さんは、臨済禅師がいうところの「赤肉団上の一真人」、つまり、天風さん流に言えば「霊魂」について、次のように説明しています。
「ねえ諸君。霊魂だとか霊気だとか、あなた方は、ただ抽象的にそれを考えているかもしれないけれど、これはね、科学的にはっきり、『ああ、そうか』って、うなずけるようになるから。
いいかい。あなた方は、自分一人だと思っている。ところが、もう一人の自分がいる。私は、それを、初め、インドで言われたときは、わからなかった。
『お前は、もう一人のお前が本当によく物を考えられるんだから、もう一人のお前に考えさせろ。もう一人のお前が、良い、悪い、はすべて天地見通しだ。お前でないものに、お前だと考えさせているから、いつまでたっても本当のお前の考えが出てこないのだ。もう一人のお前に頼めよ。頼んで、すべて考えてもらえ』。
さっぱりわからないんだ。雲をつかむようなことばかり言うと思った。ところがどういたしまして。わかってみればなるほど確かにそうだ。我々は情けないか。我々の感覚で認識しえる存在(つまり肉体のこと)を自分だと思い込んでいるという錯誤を、錯誤と思わないで生きているために、感覚で感じないところに本当の自分がいることを知らない。」
これを、私流に、少し解説を加えますと、
上で、心身統一法というのは、「本当の自分」とは、何かということを、わかる為にある、と言いましたが、
天風先生が、カリアッパさんの言葉を借りて、「お前は、もう一人のお前が本当によく物を考えられるんだから、もう一人のお前に考えさせろ」と言っているのは、霊性意識を発現させて、その霊性意識で判断するようにしなさい、ということなのです。
つまり、「本当の自分」は、霊性意識が出てこないと、分かり得ないものなんです。
だから、「本当の自分」がわかるということは、霊性意識が既に、出ているということになるのです。
そして、なぜ、「もう一人の(本当の)お前に、考えさせろ」と言うかというと、霊性意識というものは、「本当の自分」、つまり、「霊魂」から直接出てくるものだか、そう言っているのです。
だから、心身統一法の目的というのは、この霊性意識が発現して来るようになるためにある、と言っていいのです。
つまり、観念要素の更改法も、積極精神集中力養成法も、神経反射の調節法も、安定打坐も、すべて、この霊性意識が発現するようになるための手段・方法なのです。
なぜ、普通、私たちは、霊性意識が発現してないかというと、心の中の、雑念妄念が霊性意識の発現を邪魔しているからなんです。
心の中の雑念妄念がなくなって、心が、磨いた鏡のようにきれいになると、自然に霊性意識は出てくるのです。
そういう意味では、天風先生の心身統一法の教えというものは、心の雑念妄念をなくする為の方法とも言えるのです。
最後に、結論として、次の二点について、天風さんの「成功の実現から」引いて、この稿を終わることにします。
1、禅で「一無位の真人」といい、天風さんが「霊魂」と言っている「本当の自分」とは、どうしたらわかるようになるか、ということと。
2、心の中の雑念妄念が出なくなって、霊性意識が出てきたらどうなるか、ということ。
まず、「霊魂」について、天風先生は、次のように言っています。
「しかし、それがだんだんわかってくるようになるんですよ。自分の命のほんとうの主宰権をもっているのは肉体じゃなかった。心でもなかった。見えない気体が自分の命の主宰権をもっていることがわかる。この気体を日本語で霊魂と言っています。英語では、スピリットといいます。これが本当にフウッとわかるようになる。ちょうど夜明けがだんだん明るくなるように、自然に心の中にこの気持ちがはっきり自分でキャッチでいるようになります。」
と言っているが、私の場合、最初に、気が体の中に気が入ってくるようになった時から、体の中の、「気で出来た組織」が盛んに動くようになり、
そして、瞑想を続けているうちに、体の中の「気の組織」が、だんだん、私の肉体の中で、その勢力と存在感を増し、それに比例して、心と体の意識が次第に希薄になり、そのうち、自然に、この体の中の「気の組織」こそ、本当の自分、つまり、「霊魂」という意識が、確立するようになりました。
次いで、2について、天風先生は、次のように言っています。
「人間、この霊性意識が出るようになると、何と言ったら形容が適当かと思うほど、こりゃもう鬼に金棒より以上ですよ。安心立命より以上安心した人生を生きられる」と。
なぜ、天風先生が「安心立命より以上安心した人生を生きられる」と言うかというと、第一に、霊性意識が出てきたら、その霊性意識が、雑念妄念を吹き払ってくれるから、思う患うことや、心配事がなくなる。
そして、何か事が起こったら、頭の中であれこれ考えず、ヒョイと思いついて、さっと、行動を起こしたことが、結果的に、これ以上最適で・最良な解決方法はなかった、というようなことになる。
ということは、先のことをあれこれ考えて、取り越し苦労などする必要もない、ということになる。
と言っても、私自身、決して、悟ったとは思っていない、悟ってない、と思う。
思わないが、最近になって、いずれ悟りが開けるようになるかもしれない、という淡い期待と言うか、予感と言うようなものは、持てるようになっている。
悟りが開けなくても、今のように、日常生活において、何も心配事がなくなったら、もうそれで十分だとも、思うのだが、悟れるのだとしたら、それに越したことはないと思ったりもする。
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山田無文という、臨済宗の禅の坊さんの「自己を見つめる」という本に、坐禅の仕方について次のように書いてあります。
1、最初に足を組みます。右足を左の腿の上にのせ、左足を右の腿の上にのせて組む、これが坐禅の正式な組み方で、結跏趺坐といいます。また左足だけを右の腿の上にもっていって組むのを半跏扶座と申します。慣れないうちは結跏はなかなかむずかしくてつらいものです。ですから初めは半跏でよろしい。こうして足を組みますと、少々突かれても押されても動きません。身体が一番安定した姿になるのです。
2、足が調いますと、腰をすえます。腰というのは、書いて字のごとく肉体の要であります。扇子の要は小さな一点、一本の釘にすぎませんが、その要がはずれてしまっては扇子としての役にたたん。人間の身体もそれと同じです。身体を前後左右に動かしてみて、動かない一点が腰という要。ですから、足がちゃんと組めましたら、その上にどかっと腰をすえてのせます。そしてグーッと力を入れて下腹を前に出す。
3、そのように腹が調いますと、次は脊椎をまっすぐにします。
4、脚が調い、その上に腰をのせ、下腹を前に出し、そして脊椎をまっすぐに立てますと、その上に首を置き、顎をやや引いて頭をのせて姿勢をまっすぐにします。頭のてっぺんから銅貨を落としますと、尻の穴へチャリンと落ちるような、そんな気持ちで坐っていただきたいと思います。
5、身体が調いますと、次は呼吸です。まず下腹まで空気を入れるような気持で、グーッと下腹に力を入れて吸い込みます。吸ったまましばらく息を止めて、そして静かに静かに吐いていきます。吸うときも吐くときも、下腹の力をゆるめてはいかん。こうして、きわめて自然に長く静かに呼吸ができるようになることが、呼吸を整えるということであります。
6、身体を調え、呼吸が調いますと、次に心を調えます。これが一番大切なことです。
(心を調える方法については、ここでは、省きます)
瞑想の仕方も、全く、この通りなんですが、私の場合、この順序の通りではなく、逆になっているように、思います。
つまり、別に、上のような順序を踏んで瞑想しなくても、自然に、身体が上の通りなって行く、ということです。
例えば、3では、背筋を真っ直ぐ伸ばしなさい、と言っているが、別にそういうことを意識しなくても、心が無念無想になれば、体の中にある「気」の組織が、丹田から頭頂に向かって伸びて行くから、それにつれて、背筋も自然に、ピンと真っ直ぐになります。
また、4で、「下腹を前に出し、背筋を立て、顎を引き、」「頭のてっぺんから銅貨を落としますと、尻の穴へチャリンと落ちるよう」に坐りなさいと言っていますが、そう意識しなくても、体の中の「気」の組織が伸びると同時に、身体も自然にそのようになります。
そして、呼吸ですが、5で、静かに大きく息を吸い、そして、吐くときも、大きく長く吐きなさい、と言っていますが、心が無念無想になり、三昧の境地入ると、静かに長く吸い、長く吐こうと思わなくても、自然にそのような呼吸になっています。
「自然にそのような呼吸になっている」というより、三昧になると、自分が呼吸しているのかどうか、すら忘れ去っています。
自分の呼吸がどうなっているか、わかるのは、気を付けて、呼吸をチェックするから、それとわかるのです。
さて、私が、どうして、上のような坐禅の作法の過程を経なくても、無念無想、三昧の境地に達するようになれたのか(坐禅の目的も結局は、三昧の境に達することです)、ということを次に説明してみたいと思います。
それは、人間と神の世界(空の世界)が繋がる神人冥合が、できるようになったせいだと、思います。
神人冥合ができるようになると、頭頂から、「気」が入って来て(神の世界から降りてくる)、それが喉を通り、胸を通り、腹を通って、丹田まで降りてくると、その「気」によって、心の中の雑念妄念が排除されるせいだろう、と思うが、努力しなくても、自然に、無念無想、三昧の境地に達するようになりました。
天風先生の座禅(瞑想)の仕方を、安定打坐密法と言うのですが、安定打坐密法というのは、突き詰めて言えば、結局、どうやって、神人冥合を果たせるようになるか、その方法を教えているもの、と言っていいのです。
だから、天風先生を勉強している人で、まだ、神人冥合がわからない人は、天風先生の教えが、何も分かってない人、と言っても言い過ぎではないのです。
神人冥合がわからない、ということは、つまり、「気」の何たるかがわかってない、と言うことでもあります。
そして、神人冥合がわからない、即ち、気がわからないということは、それは又。三昧の境地というものについても、わからない、ということになります。
私のいた頃の天風会は、その会幹部すら、「気」の何たるものか、わかってない人ばかりだったように思われたのは、残念と言うしかありません。
昔は、そうだったかもしれないが、現在の天風会は、少なくとも、一般会員を指導する、幹部、講師たちは、皆、神人冥合がわかり、「気」の何たるかがわかっている人ばかり、であろうことを、心から期待してやみません。
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最近瞑想について書かなかった理由(わけ)は、
私の身の上に、画期的な変化が起こりつつあり、その変化が、そのままずっと続くものなのか、或いは、一時的なもので、いずれ時間と共に消滅して行くものなのか、見極めがつかなかった、ためである。
私のブログを読んでいて下さる方は、こう言えば、ああ、あのことかと、思い出して下さる方も多いと思うが、
1〜2ケ月までは、瞑想している時、頭頂から棒状になった「気」の塊が、頭頂から入って来て、喉を通り、胸を通り、そして、へその下の丹田という所まで降りてくる、そしてそこに溜まっていた。
そして、そういった一連の運動が終われば、特別、無念無想になろうと努力しなくても、その入って来た「気」が、心の中の雑念妄念を排除してくれるからだろう、自然に無念無想になり、そして、三昧にまで至っていた。
そういうことを、何遍も、このブログでも書いて来た。
ところが、最近は、頭頂から「気」が降りてくるのではなく、逆に、丹田から頭頂まで、棒状になった気の塊が上がって行って、頭頂に達すると、そのまま、そこに止まると同時に、無念無想、三昧の境地に至る、ようになっているのである。
以前から、この棒状の気の塊については、これこそ、「本当の自分」つまり、「真我」ではないかと感じ、そうも書いてきたが、
丹田から、棒状の「気」の塊が、頭部まで上がってくるようになって、ますます、この棒状の気の塊こそ、本当の自分ではないか、と思うようになった。
というのも、この棒状の「気」の塊が、強くはっきり姿を現すにつれて、相対的に、肉体の存在感は薄くなっているからである。
つまり、だんだん、この棒状の「気」の塊が、肉体に取って代わって、「これが本当の自分だ」ばかり、存在感を増し、自己主張を強めつつあるからである。
「気」の塊が、棒状になって額から、降りていた時は、まだ、どこか心の隅に、一片の疑念のようなものがあって、これを「本当に自分」というものじゃないかしら、という程度だったが、
ところが、最近では、これが、確信というより、信念に近いものになって来ている。
と同時に、最近は、何があっても、と言っていいくらい、心が動揺することはなくなった。
つまり、怒り、怖れ、悲しみといった消極的な感情が、心の中に、殆ど、起こらなくなっている。
天風教義の面目(目的)は「晴れてよし、曇りてもよし、富士の山」の心境になることだという。
つい、1〜2年前までは、とても天風先生のようにはなれない、と思っていたが、最近では、俺も、ひょっとしたら、天風先生と同じようになれるかもしれない、と考えるようになっている。
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三昧というのは、無念無想の極致をいう。
瞑想は、三昧になることが目的だから、三昧の目的とは、即ち、瞑想の目的ともなる。
さて、三昧について、天風先生は「盛大な人生」という本の中で、「無念無想の状態とはどういう状態かというと、一口にわかりやすく説明すれば、こうなるんだ。心が命の一切を考えない時が無念無想なんだ。」
「命の一切」と言っているが、命とは、つまり、体と心、ということであるから、
「心が命の一切を考えない」とは、「心が肉体を思わない、また、さらに心が心を思わないときが無念無想なんです。」ということになる。
では、なぜ、無念無想、つまり、三昧になる必要があるかというと、心が無念無想になれば、心が霊的境地に入れるようになっているからである。
だから、天風先生は、「霊的境地というのが三昧境」と言っているのです。
これはつまり、三昧の境地と霊的境地は同じ、と言っていることにもなります。
そこで、霊的境地とは、何を指してそう言うか、と言うのかというと、
天風先生は、霊的境地とは、「音のない世界」と次のように言っている。
「この音のない世界、無声の境地、これ霊的境地。禅でいう三昧境。そして、音のない世界が宇宙の真実相でそれが宇宙本体のエネルギーが遍満存在している世界」
三昧という心境は、霊的境地と同じだから、「同じものは、お互いに引き合う」という真理から、心が三昧の状態になれば、自然に、心と霊的境地は繋がるようになっているのだ。
この場合、「繋がる」と言うより、「溶け合う」とか「融合」とか、言った方がいいか。
とにかく、天風先生が「神人冥合」と言っているのも、この、心と、霊的境地が溶け合った状態、と言うことができる。
このことから「天の声」というのは、音のない世界、つまり「気」が充満している、或いは、「気」だけしか存在しない世界ということだから、「天の声」を聞く、とは、「神人冥合」と同じと言っていい。
では、なぜ、心を無念無想にして、つまり、三昧になって、心を霊的境地に預け入れなければならないかと言うと、天風先生は
「妄想念が除き去られれば、霊性意識が招かずして発現してくる。霊性意識が発現すりゃ、そこに『自覚正念』というものがでてくるんだ。いわゆる霊感と言うのですが、学問的に言うと自覚正念。同じことなのよ、霊感も自覚正念も。」
つまり、「三昧になって、心が霊的境地に入れるようになると、霊性意識というのが発現して来る」言うのです。
だから、次のように言うのです。
「雑念妄念はね、神人冥合を直接に妨害する一大障害物なんだ。雑念妄念さえなけりゃ、特別なことをしなくても、人間の心と宇宙霊とは結びつくようにできているのです。」
「これを哲学的に言うと、雑念妄念のでてないときに、『霊性意識』が発現するのであります。」
それでは、霊性意識が出てくる、どんな、いいことがあるかと言うと、「さあそこでお喜びなさい。(霊性意識が発現してきて)自覚正念(霊感)が発現すると、何も人に相談する必要もない。もう人生は坦々たること、平ったい土地の上を行くのと同じように、何の故障もトラブルも感じない霊的境地に生きられるようになっちまうんです。心を煩わすものがなくなるから」
「人生は、いま一段高級な意識で生きなきゃ、つまり、だれでも霊性意識から発生する自覚正念というものをもっている。これだよ、六感とか霊感とかいうのはね。
このくらい尊いものはないんだぜ。一切に対する判断が、理性とはだんぜん比較ならない絶対的な正確さを持っているんだ。だから、哲学者のベーコンがこの自覚正念を形容して、『魂のフラッシュライト』と言っています。何の推理作用を行う必要もない、刹那に迅速な断定が出てくるのだから」
「たとえば、事業系の方面はもちろん、普通の生活を営む際においてもだ、今までのようにあれこれ苦心して考えることも何も必要としない。考える必要なくできるんだもん。なーんとなく自分がフーッと思ったことが、普通の場合だったら、考えて考え抜きゃなきゃならないようなことであった、ということが多くなりますよ。」等々。
話が、とんでもない遠くの方まで行ってしまったが、元に戻す、今日のテーマは「三昧と呼吸」だった。
天風先生は、三昧とは、「心が肉体を思わない、またさらに心が心を思わないとき」と言っているが、
正直、これでは、三昧という心境を実際に味わったことがない人は、わからないだろう。
だから、これに、私は、三昧とは「息をしているのか、してないのかわからない」状態、という条件を加えたい。
だから、自分が三昧になっているかどうか、よくわからない人は、瞑想の時、自分が息をしているかどうかを、チェックしてみたらいい。
チェックしてみて、息をしているのか、してないのか、よくわからないような状態になっていたら、三昧に入っている、と思ったらいい。
つまり、「息をしているか、どうか、わからない状態になっているか」どうかが、三昧に入っているかどうかを測るバロメーターということになる。
そして、なぜそうなのかを考えてみた。
これは確たる科学的根拠に基づいて言っている訳ではないが、おそらく、体の中で最も酸素を必要としている場所が、脳であり、
心が、無念無想になり、脳の動きが低下して、酸素をあまり必要としなくなると、呼吸も、あまりしなくても済むようになる為ではないかと、考える。
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