気と心と宇宙法則

難病(難しい病気)の人たちの力になりたい、と思っています。

瞑想日記

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天の声(2)

先ず、天風先生の本の中で、「天の声」について、書かれてあるところを、次に列挙してみた。
 
そして、次に、その列挙したことを元にして、「天の声」とは、具体的に、何を指すのか解説を、試みてみたい。
 
 
「盛大な人生」(P.398)
「この方法はね、インド山中の修業中にヒョイと悟ったの。それはね、深山の特有とするシーンとした声のない声をフーッと聞いているうちに、雑念、妄念が取れて三昧の境に入れたことにヒントを得たんであります。」
 
盛大な人生(P.412)
「この音のない世界、無声の境地、これが霊的境地。そして、音のない世界が宇宙の真実相で、それが宇宙本体のエネルギーの遍満存在している状態だ。何の感覚も、何の意識的な反応もない。慣れれば、シーンとした世界に、どんなうるさい場合でも、ヒョーイと心をのりかえることができるようになる。よしんば肉体に病がおころうと、精神的に何かの苦痛がおころうと、ヒョイとのりかえることができるが、いきなり初め、きょうからすぐというわけにはいかない。」
 
盛大な人生(P,221)
{これこれこうでもって、…『雲を見て、フーッと気がついたら無心でいたんですけど、無心でいたときに天の声聞こえませんでしたが』って言ったらね、
『ハッハッハッ、聞こえているのに聞こえないかい』
『えー?』
『それが天の声だよ』
『えっ!』
『天の声とは声なき声よ(abusolute stillness)』と英語で言ってくれました。
これは日本語でいうと『絶対のしじま』ってことね。なーんにも聞こえない、それが天の声だ。」
 
盛大な人生(P,212)
「『天に声があるんですか』
『ある』
『へえーこら初めて聞いた』
『そうだろうな。知らないようだ。知らなきゃ初めてだな』
『しかし、先生、それを聞いたことがあるんですか』
『のべつ聞いているよ、私は』
『のべつ聞いているんですか』
『のべつ聞いているよ。現にこうやって今お前と話してる間も聞いているよ』
『あれですか、先生がのべつ聞いている天の声というのはどこの国の言葉です?』
『どこの国の言葉という言葉じゃない。声だよ』
『声といって言葉の声じゃないんですか』
『音だよ』
 
 
結論から先にすると、上に引用した文の中でも、特に、「天の声」を理解する上において、キーワードとも言うべきものは、次のようなものである。
 
上から順に
1、「深山の特有とするシーンとした声のない声を聞いているうちに、雑念、妄念が取れて三昧の境に入れた」
2、「慣れれば、シーンとした世界」
3、「絶対のしじま」
4、「音だよ」
 
上の文を総合し、「天の声」を要約すると、「天の声」とは、「深山の特有とするシーンとした音」と言うことになる。
 
 
誰もいない、静かな森の中に入った時など、「シーン」とか「ジーン」とかいった、中間の音のようなものを感じることがあるが、
 
感じるのだから、耳に聞こえる音ではない、言ってみれば、頭がい骨の中で、響く音とでもいうようなものであろうか。
 
 
しかし、耳鳴りとは、全く違う。
 
何が違うかというと、耳鳴りは、うるさくて、聞いている本人は、迷惑に感じるのだろうが、この頭がい骨の中で響く音というのは、全く、うるさく、感じることはない。
 
 
私は、この頭がい骨の中で響く音こそ、「天の声」であり、
 
「天の声」とはつまり、気が外部から、自分の体の中に入って時の音、或いは、自分の命と、天とが繋がった時(神人冥合)に感じる音だと思っている。
 
 
カリアッパさんが、「俺は、(天の声)をのべつ聞いているよ」と言っているのは、この頭がい骨の中で響く音のことを言っているのだと、思う。
 
この頭がい骨の中で響く音なら、私も、こうやって、パソコンのキーを叩いている時も、テレビを見ている時も、人と話をしている時でも、のべつ、聞こえている。
 
 
そして、自分の気の体験からして、この音が聞こえ始めたのは、「気」が、頭頂から、渦を巻いて頭の中に入って来るのを感じたのと、時を同じくしているように思う。
 
つまり、「気」が自分の頭の中に入っているのを感じたのと同時に、この音が聞こえ始めたように思う。
 
 
その時、私は、「天風先生が、天の声、と言っているのは、これだ!」と直観的に思ったのだが、その時のその印象は、十数年経った今でも、全く、変わることはない。
 
 
以来、今日まで、私は、瞑想の時、常に、この音に耳を傾けることによって、無念無想、三昧の境地に入って行ったように思う。
 
だから、私は、天風会で瞑想の時使うブザーは、ほんの入会当初、1〜2年の間くらいしか、使わなかったように思う。
 
以来、今日まで、十数年間、ブザーなしで、この頭がい骨の中で、ひっきりなしに響くこの音に耳を傾けることによって、無念無想になり、三昧の境地に入って行った。
 
つまり、この音を、ブザー代わりに、使って瞑想したのだ。
 
だから、いつでも、どこでも、瞬間的に、無念無想になることが出来た。
 
 
そして、天風さんが、ブザーを使いことを思いついたのも、ブザーの音が、頭がい骨の中で響く、この音に似ていたからだろうと、思っている。
 
 
しかし、考えてみれば、この「天の声」聞こえるか否かということは、天風先生を勉強する者にとって、その後の修業の成果を左右する、と言っていいくらい、重要な事である。
 
つまり、この「天の声」を聞くことができなかったら、その後、何十年、修業を積もうと、初期の目的を達すのは無理だろう、と思われるほど、ある意味、今後の修業を決定づける、分岐点になる出来事ではないかと思う。
 
 
先日のブログ(天の声、1)で、天風先生の心身統一法の原点はここのある、と言ったのも、そういう意味を含めてのことだったのである。
 
 
 
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悟りを開いた禅の高僧ともなると、怒り、怖れ、悲しみといった、喜怒哀楽の感情がなくなるかというと、そうではないらしい。
 
天風先生の「運命を拓く」という本にも、次のようなことが、載っている。
 
「今は会社の立派な社長になっている人が、入会して間もない学生時代に、『一日も早く先生のように成りたいです』というから、『成れるとも、わけないよ。一生懸命に心を積極的にして人生を活きなさい』と言うと、『ああやっているうちに先生のように成れますか』『ああ、成れるとも』『そうですか、先生のように何も感じないように…』というから、『ちょいと待ってくれよ。先生のように成れますかと言うから、成れるよ、と言ったが、今のお前の言葉は気に入らないねえ。何も感じなくなるという言葉、それは何かね』というと、『いやあ、怒ることがあっても怒らない。悲しいことがあっても悲しまない。つまり、喜怒哀楽の情を、先生はご自分の心が少しも感じられないのでしょう』というから、『冗談いっちゃいけない。俺はお前と同じ人間だぜ。裸にしてみれば臍は一つしかない。痛い時は痛い。悲しい時は悲しい。腹の立つときは腹が立つよと』と言ったら、『でも一遍もそういう風には見えません』というから、『俺はそれにこだわらないからだ。走る車の中で、窓外の景色を見ているのと同じで、列車がフルスピードで走っているときに、外の景色を気にしてはいないじゃないか。』外の景色があると思っても目に止まっただけで、スーッと行き過ぎてしまうじゃないか。それと同じようにするんだ。」
 
「腹の立つことがあろうと、悲しいことがあろうと、瞬時に心から外してしまえばいいんだ。自分の心を汚さないようにするには、気がついたらすぐそれを拭いてしまえばいいじゃないか。それをお前は、怒ったり、悲しんだり、痛いとか、憂いとかいう場合、それを感じると同時に、握ったら放さない。それがいけないのだ。感じるなというのではないのだ。感じない人間になりたかったら、墓に入ってしまいなさい。そうすればもう何も感じない、と言った。よくわかりました。私は間違って解釈していました。」
 
先生は、「悲しいことがあっても、腹の立つときがあっても、走る列車の中から、外の景色を見るように、瞬時に、心の中から外してしまえばいい」と言うが、
 
私たち凡人には、これができない。どうしたらいいのだろう?
 
 
「運命を拓く」の中で、天風先生は、次のように教えてくれている。
 
自分が教えるところの安定打坐密法は、そうなる為の、予行練習だと言うのだ。
 
「目を開き安定打坐!理想的な安定打坐というのは、目を開いていても、仕事をしていても、その刹那に、心耳を澄まし、空の声を聞けば、安定打坐をしたことになるのである。
目を閉じ、印を組んで、座らなければ、(安定打坐が)できないと思ったら大間違いなのだ。
何をしている時でも、どんな仕事をしている時でも、(無念無想に)なれるのでなければならない。もう刹那咄嗟に(無念無想に)なれるのでなければならない。(安定打坐は、仕事をしている時でも、何をしている時でも瞬時に、無念無想になれるようになるための)予行練習をしているようなものだから。その為に、静かに座禅を組み練習しているのだから。坐禅の本来の目的も、常住坐臥、人生を生活している刹那刹那に必要とするものなのである。」
 
 
「執着解脱、急行列車の中で、窓に映るいろんな景色を、フーッ、フーッと雲煙過眼する気持ちが、とらわれのない、執着解脱の心境なのである。眼、これを見るといえどもこれをとらえず、耳、これを聞くといえどもこれにとらわれず、いわゆる、不離不即、いらないことは、耳から入って来ようと、眼にふれようと、あるいは感覚に感じようと、つかず、はなれずでなければならない。
ところが、あなた方は見るもの、聞くもの、皆自分の人生に交渉を持つようにするからいけないのだ。できている人と、できてない人の相違は、ただこれだけの相違なのである。要らないことには、全然、心をおびやかされたり、関係させたりしないことである。
諸君でも、たまたま、そういう状況になることがある。ただ、意識的にはできないのだ。無意識的に出来たんでは駄目だ。意識的に出来なければいけない。自分の心なんだから、自分の心を自由に操縦出来なければいけない。」
 
 
ここで、天風先生は、坐禅も、安定打坐も、日常の生活(仕事の時など)の中で、瞬時に無念無想になれるようになる為の予行練習をしているようなものだ、と言っている。
 
なぜなら、坐禅も安定打坐も、先ず、無念無想になることを目的して、行われる。つまり、先ず、無念無想になることが出来なければならない。
 
無念無想になると言うことは、今現在、考えていることを、消し去ってしまわない限り、心が無念無想の状態になることはないから、予行練習というのである。
 
 
だから、天風先生は、上で、怒り、怖れ、悲しみといった感情が発生しても、安定打坐の時のように、無念無想になって、瞬時に、そういったマイナス感情を消し去ってしまいなさい、と言っているのである。
 
そうして、そういうことが(瞬時に無念無想になることが)、意識的にできるようにならなければいけない、と言っているのだ。
 
 
意識的に、自分の心を無念無想の状態に出来るようになる方法が、自分の教える安定打坐密法である、と天風先生は言うのだが、さて、その方法とは。
 
その方法なるものを、天風先生の著書「安定打坐考抄」から、次に摘記したい。
 
「故に吾人が本当の人生…即ち大定盤石の安心立命を獲得せる極楽境地とも言うべき…本当の人生を体得したくんば、須らく第一に、この吾人を常に絶え間なく、災いし又煩わす妄想念なるものを心の中から排除することに努めなければならぬ。」
 
大定盤石の人生、つまり、安心立命して人生に活きるには、先ず、第一に、心の中の雑念妄念を排除しなければならない。
 
 
「而して、吾等の行修する安定打坐密法なるものは、事実において、この妄雑念を完全に排除して自己『霊性の自覚』せしめる速達法なのである。」
 
自分の唱道する安定打坐密法は、心の中の雑念妄念を完全に排除して、「霊性を自覚」(本当の自分とは何か自覚させる)為の速達法である、というのである。
 
 
「今日吾人が、濁浪澎湃たる、浮世の荒波を打ち渡る時、自己の実相たる大我と、宇宙の実相とを身外『無声の声』(空の声)を利用して帰一的に同化統合せしめる方法である。」
 
安定打坐密法は、「空の声」(天の声とも言っている)を利用して、本当の自分たる霊魂と、この世を造った造物主である、宇宙霊とを同化統合せしめる方法である。
 
このことを、別の言い方をすれば、神人冥合ということになる。
 
 
「というのも、この密法を行うと、自然に帰一的一念状態にその心が純一無雑になるがために心の中の一切の雑念妄念が排除されるに至る」
 
空の声を利用して、この世を造った宇宙霊と、本当の自分である霊魂(真我)とが、一体統合される(神人冥合)と、自然に、心の中の雑念妄念が排除され、無念無想になる。
 
 
「実際この密法の特徴は、如何に忙しい時でも、また仕事をしながらでも、話をしながらでも、容易に錯雑に動乱する精神葛藤を収束して純一無雑の『三昧心境』に入り得る点である。これあるが故に、予はこの密法を『心に与える瞬間活法』と言っている。」
 
「心に与える瞬間活法」とは、瞬時に心を切り替える方法、という意味だが、
 
では、なぜ、「心に与える瞬間活法」というかについて、天風先生は次のように言っている。
 
 
「即ちこの密法は心の堂宇を(雑念妄念を)一掃すると同じ結果がくるからなので、元来人間の心力の弱るのは外界に存在する暗示事項に、心が感応するからなので、俗に言う心の垢汚れ(雑念妄念)とは、消極的暗示に心が感応して、その消極的の観念が心中に纏綿している(まつわりついている)事なのである。ところがこの『安定打坐密法』を行うと、心の垢や汚れを、自然に払拭する事になるから、その結果、心力が強くなるのである。」
 
安定打坐密法は、「宇宙の実相とを身外『無声の声』(空の声)を利用して帰一的に同化統合せしめる方法」である。
 
宇宙の実相と、自分の中の実相、いわゆる霊魂が、帰一的に同化すると(これを神人冥合ともいう)、自然に、心の中の雑念妄念が洗い流されて、無念無想(三昧)になる、と言うのである。
 
 
さて、ここで、話を、初めに戻す。
 
如何に、悟った人と言えども、怒り、怖れ、悲しみといった喜怒哀楽の感情は、出てくる。(有るから、腹が減った、という感情もあり、だから生きていられる)
 
従って、悟った人というのは、そういう感情がなくなった人のことを言うのではなく、そういう感情が出てきても、瞬間的に消し去ってしまうことが出来る人のことを言う。
 
 
一方、安定打坐密法というのは、「如何に忙しい時でも、また仕事をしながらでも、話をしながらでも、容易に錯雑に動乱する精神葛藤を収束して純一無雑の『三昧心境』に入り得る」方法である。
 
その為に(純一無雑の三昧心境になる為に)、安定打坐密法では、「自己の実相たる大我と、宇宙の実相とを身外『無声の声』(空の声)を利用して帰一的に同化統合せしめる」のである。
 
つまり、安定打坐密法とは、「自己の実相たる大我と、宇宙の実相とを身外『無声の声』(空の声)を利用して帰一的に同化統合せしめ」、無念無想になる為の方法、と言えるのである。
 
このことを、又、神人冥合、とも言う。
 
 
日常生活において、「急行列車の中で、窓に映るいろんな景色を、フーッ、フーッと雲煙過眼する気持ちが、とらわれのない、執着解脱の心境なのである。眼、これを見るといえどもこれをとらえず、耳、これを聞くといえどもこれにとらわれず、いわゆる、不離不即、いらないことは、耳から入って来ようと、眼にふれようと、あるいは感覚に感じようと、つかず、はなれずでなければならない」ようになるためには、
 
「自己の実相たる大我と、宇宙の実相とを身外『無声の声』(空の声)を利用して帰一的に同化統合せしめる」ことによって、
 
瞬時に心を切り替える方法である安定打坐密法を、時にふれ、折にふれて、実修することによって、
 
「如何に忙しい時でも、また仕事をしながらでも、話をしながらでも、容易に錯雑に動乱する精神葛藤を収束して純一無雑の『三昧心境』に入り得る」ようになれる。
 
その結果、「急行列車の中で、窓に映るいろんな景色を、フーッ、フーッと雲煙過眼する気持ち、即ち、とらわれのない、執着解脱の心境」になれるのである。
 
 
そうなる為の、手段方法として、安定打坐密法があるのである。

霊性意識が発現すると

以前、このブログに何回も書いたが、最近、瞑想の時、無念無想、無念無想とばかり、努力しなくても、座った途端に、すっと、無念無想になれるようになった。
 
それは、座る前から、無念無想だったのではないかと、思うほどである。
 
 
今日まで、どうしてそうなのか、その理由がよくわからなかったが、
 
先日、天風先生の「盛大な人生」を読んでいて、次のような一節に出会って、その謎が、やっと解けた。
 
 
「霊性意識が発現して、妄想念を除き去ってくれりゃ、もうしめたもんだ」と。
 
即ち、この一言で、霊性意識が出ていたから、無念無想になろうと努力しなくても、座っただけで無念無想になれた、ということがわかったのだ。
 
 
否、霊性意識というのは、瞑想の時だけ選んで、出てくるわけではないから、日頃、日常の生活をこなしている時でも、出ていると考えた方が自然である。
 
ということは、霊性意識は、座る前から、既に出ていたんだ、だから、座った途端に、無念無想になることができたんだ。
 
 
話は変わるが、天風先生の「研心抄」という本を読んでいて、いつも、わからなくて、なぜ、彼が、なぜ、そう言うのか不思議で仕方がない箇所があった。
 
それは、次の一節である。(研心抄40ページ)
 
「故に哲人覚者と称される人々は、一様に何事を思量する時と雖も、その心が霊的境地に置かれてあるために、断然凡庸の考えとその類を異にし、人事世事その他一切の事象に対する考察も推定も正確で徹底している。従ってその種の人を大悟徹底の人と言うのである。」
 
霊的境地というのは、無念無想の心境を指して言うことは、既に、知識として持っていたので、
 
上に書かれていることからすると、哲人覚者というのは、常日頃、いつでも、心が無念無想の状態にある、ということになるが、無念無想の心の状態で、日常の茶飯事がこなせるのだろうか、と思ったのである。
 
 
わかってしまえば簡単なことであるが、私たち凡人は、いわば雑念妄念という知識でもって、日常の生活に関わる出来事を処理している。
 
しかし、哲人覚者というのは、凡人とは異なり、霊性意識が発現していて、その霊性意識から出てくる霊感で判断し行動しているから、天風先生が言う通り、「人事世事その他一切の事象に対する考察も推定も正確で徹底している」のだ。
 
つまり、天風先生が「哲人覚者と称される人々は、一様に何事を思量する時と雖も、その心が霊的境地に置かれてある」と言ったのは、霊性意識で判断しているから、と理解すべきだったのだ。
 
「その心が霊的境地に置かれてある」というのは、日常、心を無念無想の状態に置く訓練をした結果、「霊性意識が出ているから」、と解釈すべきである、とこの度やっとわかったのだ。
 
こういうことからしても、私が、瞑想の時だけではなく、日常生活をしている時でも、霊性意識は出ているんじゃないか、だから、座った途端に、無念無想になれるんじゃないか、と思っていたのは、正に、その通りだったのである。
 
 
一瀉千里という言葉もあるが、ある一つのことがはっきりすると、他のこれまでわからなかったことも、あたかも、もつれた糸が、するする解けるように、何でも、わかるようになるものだ。
 
 
ついでだから、霊感について、天風先生の「研心抄」の中から(140頁)、次に摘記して置く。
 
「哲学者や宗教家がよく霊感ということを言う。一体その霊感とは何かというと、霊感とは即ち、前述の霊性意識から発現する『自覚正念』の別名である。
であるからせんじ詰めれば、霊性意識を発動させずに生きている人には、この霊感=自覚正念という峻厳犯すべからざる特殊の心的作用は容易に発現しないと言えるのである。
そして、この霊感=自覚正念なるものは、推理推測で物事を判断批判しようとする理性よりも、物事の判断に対して遥かに超越した正確さをもつ尊厳なものなのである。」
 
「かの有名なインドのヨーガの哲学者は、既に数千年の昔からこの消息を知っており、彼らの生涯を捧げての修業の目的は、その日常の生活が完全に霊性意識で生き得て、そして自由に霊感を発現し得る真人、もしくは哲人たらんとするにあるので、従ってあの深遠な哲理も煎じ詰めると悉くこの霊性意識の生活を根本理念とし、またそれを目的として組織されているものである。」
 
「何れにしても事実において人間としての最高理想は、この霊感発現の人たるにあるということは何ら疑いのないところである。そしてこの霊感というものを自由に発現し得る人は、いわゆる霊格者として称し、普通の人格者よりも一段超越した神に近い人といえるのである。要するに吾人の修養の目的も又、この点にあるので、実際においてもしも修養練磨し、この境地に達することを得れば、いわゆる真の安心立命を獲得し、一切の疑惑も不満もなく、又毀誉褒貶も心にかからず、常に恬淡明朗という輝かしい歓喜の世界に活きられるようになるというのも、つまり強固な信念が期せずして作為され、それが又自己統御の基盤となるからである。」
 
 
延々と、霊感について引いたが、これは、読者のためというより、自分自身の、現在の立ち位置を確認する為に必要だったから、そうしたのかもしれない。
 
つまり、自分も、こういうができるようになった、ということを、言いたかったが為かもしれない。

悟りとは

悟りとは、簡単に言えば、天風先生の「力の誦句」、
 
「私は、力だ。
 
力の結晶だ。
 
何ものにも打ち克つ力の結晶だ。
 
だから何ものにも負けないのだ。
 
病にも、運命にも、
 
否、あらゆるすべてのものに打ち克つ力だ。
 
そうだ!
 
強い、強い、力の結晶だ。」
 
 
ということを、正しく自覚することなのだ。
 
これを、言葉を変えて言えば、「本当の自分」とは、体でもなく、心でもない、ということを正しく自覚するということなのだ。
 
 
「病にも、運命にも、否、あらゆるすべてのものに打ち克つ力だ。」ということがわかるのは、「本当の自分」とは、体でもなく、心でもない、ということがわからければならない。
 
「本当の自分」が何者か、はっきりわかるから、自分は、体でもなく、心でもないと思えるようになるのだ。
 
ということは、「本当の自分」とは、体でもなく、心でもない、とわかるから、「病にも、運命にも、否、あらゆるすべてのものに打ち克つ力だ」と、思えるのだ。
 
 
そして、その「本当の自分」とは、もともと、そこにあったものなのだ。
 
生まれる前も、生まれてからも、そこにあったのだけど、生まれて以後は、雑念妄念に邪魔されて、あることが、からなかっただけなのだ。
 
 
瞑想していると、初めに、身体の自覚が無くなる、次に心の自覚が無くなる、心の自覚が無くなると、そこに、「本当の自分」というものが、浮かび上がってくる。
 
だから、「本当の自分」とは、元々、そこにあったものであり、あったものをわからなかったのは、体と、心からくる雑念妄念に邪魔されていたからなのだ。

丹田が痛い

痛いと言っても、別に、病気ではない。
 
 
瞑想の時、「気」が印堂(印堂と言っても、最近は、限られた狭い一部分ではなく、前頭部全体から気が入ってくるように感じる)から入って、喉を通り、丹田まで降りて来て、来てそこで止まるから、痛いのである。
 
言うならば、棒状の気の塊が、丹田の底を突っつくようにするから、痛いのである。
 
 
痛いばかりでなく、その時、丹田は、硬く、パンパンに張ったようになる。
 
 
以前、天風先生が、裸で瞑想をしている写真を見たことがあるが、いずれ、俺の下腹も、あのように張って来るのではないかと思う。(いや、もう既に、少し張っているかもしれない)
 
 
天風先生は、本当の自分とは、肉体でもなく、心でもなく、霊魂と呼ばれる気体である、と言っているが、
 
霊魂と言えば、いかにも、小さな、数ミリ程度の塊を連想させるが、
 
私の感じるそれは、まるで、頭部から丹田を貫く、15〜20センチの棒状の何かを思わせる。
 
 
しかも、棒状のそれは、私の頭部をつつぬけ、外部に広がっているように感じる。
 
しかし、頭部を過ぎたあたりから、後、どうなっているのかよくわからない。
 
 
天風さんは、この棒状の気の塊を総称して、霊魂と言っているのか、この棒状の塊のどこかに霊魂という特別なものが存在しているのか、私にもよくわからない。
 
今のところ、棒状の気の塊の中の、別の箇所に、何か、特別なものを感じることはないから、天風先生は、この棒状の気の塊を、霊魂、つまり、本当の自分、と言ったのだろう、と解釈している。
 
 
この棒状の気の塊は、薄い靄か霧のような形をしている。
 
と言っても、肉眼で見えるわけではない。
 
しかし、目に見えるようにして、はっきりわかるのだから、霊感で見ているのだろう。
 
つまり、霊視によって、見ているのだろう。

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