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気と瞑想と、何の関係があるか、と訝しく感じる向きもあるかもしれないが、気がわからなかったら、瞑想も深まることはないと思う。
つまり、気がわからなかったら、無念無想の究極である、三昧の境地に達することもないと思う。
それでは、気はどうしたらわかるかというと、神と人とが、冥号することによってわかるのである。これを神人冥合と言う。
神人冥合とは、神の世界、即ち、気だけが存在する世界、これを空とも言ったりするが、神と人間とが一体融合することである。
もともと、人間とは、本来、気で出来ているものである。
「気で出来ている」とは、肉体は気を材料にして造られている、ということは勿論だが、その肉体の中心には、気の組織が存在する、という意味でもある。
神人冥合とは、この人間の肉体の中心にある気の組織と、神の世界、つまり、気だけが存在する世界とが、一体化して溶け合うことを指す。
もともと、神の世界と、人間の肉体の中の気の組織と、心を通じて一体化するようになっている。
つまり、神人冥合は、心を通じてなされるように、自然に出来ている。
心の中の雑念妄念が少なくなりさえすれば、肉体の中の気の組織と、神の世界、つまり気だけが存在する世界とは、自然に、繋がるようになっている。
なぜならば、空の世界、つまり、気だけがある世界と、人間の肉体の中の気は、同じものだから、
「同じものは相引き合う」という原理によって、お互いが、合体融合するようになっているのである。
さてそれでは、神人冥合と、無念無想とはどんな関係があるかというと、
心の中に雑念妄念が少なくなくなると、神の世界、つまり空から、人間の心の中に気が流れ入って来て、
その流れ入って来た新しい気によって、それまで心の中にあった雑念妄念が、排除されてしまうからである。
もともと、心の中の雑念妄念が、無念無想を妨げているわけだから、それまであった雑念妄念が排除されてしまえば、無念無想になるのは、極めて自然のことである。
初めは、難しいかもしれないが、神人冥合も、慣れれば、簡単に出来るようになる。
神人冥合が、簡単に出来るようになれば、無念無想の究極の状態である三昧という心境にも、簡単に入れるようになる。
そうなれば、無理に、無念無想と思わなくても、つまり、努力しなくても、ただ、座っただけで、神の世界から気が入って来て、
心も体も、気で一杯に満たされ、無念無想になれるのである。
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瞑想日記
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安定打坐密法という言葉は、中村天風先生だけが使っているもので、形だけで言えば、瞑想とか坐禅と同じ意味である。
なぜ、天風先生が坐禅と言わず、瞑想とも言わず、安定打坐密法と言うかと言えば、それは、
一口で言えば、坐る目的が、神人冥合を目的としているから、ということができる。
そう言うことによって、禅における坐禅や、ヨガにおける瞑想とは、異なるものであることを、天風先生は、強調したかったに相違ない。
つまり、禅における坐禅や、ヨガにおける瞑想は、必ずしも、神人冥合を目的としたものではない、と言うことを言いたかったのだろう。
天風先生の本「安定打坐考抄」によれば、安定打坐の目的は、「動中に静観」を獲ることを目的としていることが、よくわかる。
だから、天風先生自身、「安定打坐考抄」の中で、「予が、諸子に御奨めする『安定打坐密法』」なるものは「動中の静」という一境涯に在って、活動本来の心性を寂修する一工夫なのである」と言っているのである。
動中にあって、というのは、直接的には、坐禅を組みながらと言うことであるが、広い意味では、こうして生きて生活しながら、と解釈してもいい。
静観の静とは、絶対の世界、或いは、空の世界のことを言う。
絶対の世界とか空の世界というのは、つまり、気が充満した、或いは、気しか存在しない世界を言うから、
「動中に静観を獲る」とは、この世で生活をしながら、つまり、坐禅をしながら、絶対の世界、或いは、空の世界に入る、ということを意味する。
絶対の世界とか空の世界とかを、「気が充満した世界」と言い換えるならば、「動中に静観を獲る」とは、坐禅を組んで、「気が充満した世界」に入る、ということができる。
この世、即、動中にあって、気が充満した世界に入る為には、心を仲介して、気の充満した世界と繋がなければならない。
気の世界と繋がるには、心の中に、雑念妄念があっては、繋がらないから、坐禅をして、心を無念無想にするのである。
絶対の世界とは、又、気が充満した世界でもあるから、心を無念無想にすれば、絶対の世界から、「気」が人間の命の中に流れ入って来て、絶対の世界と人間の命とが繋がる、ということになる。
ということは、人間の命と、絶対の世界を繋ぐものは、気と言うことになる。
なぜ絶対の世界と、人間の命が、気を通じて繋がるかと言うと、それは、人間の命というものも、気で出来ているからである。
同じものは、相引き合い、通じ合うからである。
さて、では、人間の命と絶対の世界が通じれば、どうなるかと言うと、天風先生が、「活動本来の心性を寂修する一工夫」と言っているように、
人間の命と絶対の世界が繋がれば、「(大宇宙の)活動本来の心性が、わかるようになる」ということになる。
「活動本来の心性」とは、どういうことかと言うと、それを、一言で表すならば、「宇宙の真理」とか、「この世の実相」とかいう言葉で、言い換えることができるであろう。
ならば、「宇宙の真理」とか、「この世の実相」とはいかなるものか、と聞かれれば、
残念ながら、ここから先は、私自身、よくわかってないから、天風先生の言葉をお借りして説明することになる。
天風先生は「安定打坐考抄」の中で、「宇宙真理」について、次のように述べている。
「煩悩即解脱の大真理は、この『動中の静』という大境地に立った自覚を基礎としなきゃ、実際において、判るものではない。
言い換えると、天地に宇宙万物の大生命がある。而して、この大生命とは、そも何?と言えば万物を活動せしめる力の本源である。即ち、力の本源―大生命あればこそ、宇宙の万物は夫々活動しているのである。であるから、万物の生死―示現壊滅は、これ皆、大生命の力が活動するからで……
かの『万物の流転は、宇宙の実相なり』という語も、またこの意味を言い表したものに相違ない。
然り而して、この真理を根拠として、顧みて人間の命なるものを達観すれば、曰く
『この大生命の中より、分派出現したる一小生命なのである。これあるが故に吾人の「生」といい、又「死」というものは、決して、唯物哲学者や科学者が相対現象だけで論定するような過程で示現するものではなく、宇宙の大生命―一切の万象を創造した力の本源の支配を受けて発動顕現した幽玄なる現象事実なのである。換言すれば、生死は力の本源の活動の経過に』過ぎないのである」
これを要約すれば、「この世の森羅万象、或いは、そして、これらの活動は、力の本源たる大生命の活動の結果として現れたもの」ということになる。
つまり、私たちの命というも、この大生命の中から派生した、いわば、小生命の小活動のようなものである。
従って、人間の生とか死とかいうものも、結局は、この大生命が活動した結果として現れる、つまり、大生命が活動する中で現れる、一過程に過ぎないものなのである。
だから、これらのことは、無念無想になり、気が充満した空の世界と一体、つまり、宇宙の大生命の中に、自分の命を没入させなければ、その本来の姿はわからいのである。
即ち、天風先生の安定打坐密法とは、神人冥合を果すことによって、動中に静観を獲て、私たちの命というものは、宇宙の本源である大宇宙が活動する一過程として生まれるものである、ということを悟る為にする、ということになる。
だから、天風先生は「予が、諸子に御奨めする『安定打坐密法』」なるものは「動中の静」という一境涯に在って、活動本来の心性を寂修する一工夫である」と言うのである。
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このところ、随分長いこと、瞑想について、書いてないような気がする。
なぜか、考えてみると、以前に比べて、瞑想というものに、あまり興味が無くなっているような気がする。
瞑想は、無念無想になる為にするものだから、瞑想に興味がなくなったということは、つまり、無念無想についてあまり興味がなくなった、ということを意味する。
また、近頃は、瞑想をしても、以前のように、意識して、無念無想、無念無想と思わなくなった。
要するに、無念無想ということに、あまり、こだわらなくなっているのだ。
よく考えてみると、
特に、無念無想などと、努力しなくても、座った途端、自然に、心は、無念無想になれているようである。
というより、立ったり、座ったり、食事をしたり、歯を磨いたり、読書したり、普段の生活をしている時と、瞑想して座っている時と、意識において、さして差がないような気がする。
つまり、瞑想して無念無想になっている時と、瞑想してない普段の生活をしている時と、意識の間に、さして、差がないような気がするのである。
ということは、普段、日常生活を営んでいる時も、その精神状態は、無念無想に近い状態になっているのだろう。
瞑想をするのは、無念無想になるためであるが、無念無想になるのは、神人冥合を果たすためにするのである。
神人冥合とは、気が充満した世界(気しか存在しない世界)を、空の世界と言うが、空の世界とは、言い換えれば又、神や仏の世界とも言える。
だから、神人冥合とは、気が充満した世界、つまり、神の世界に、自分の心を、浸し切ることを表す。
なぜ、無念無想になる為に、神人冥合を果たさなければいけないかというと、心が、神の世界と繋がった途端(これを神人冥合という)、
神の世界とは気が充満した世界でもあるから、気が充満した世界から、どんどん、気が心の中に流れ入って来て、それまで、心の中にあった、雑念妄念を排除してくれて、無念無想になれるからである。
そして又、心の中の雑念妄念が排除され、無念無想になるということは、つまり、心機が転換されることも意味する。
心機の転換とは、心を、消極的から、積極的に切り替えることを言う。
つまり、それまで心の中にあった、消極的な観念(雑念妄念)を、神の世界から入ってきた新しい気が、排除してくれるのである。
ということは、日頃、瞑想をして、神人冥合を果たし、無念無想になる訓練を積んでいれば、いつかは、簡単に、心の切り替えができるようになる、ということでもある。
天風さんは、「心は常に積極的に」という時、よく、熊沢蕃山の「憂きことのなおこの上に積もれかし、限りある身の力ためさん」という言葉を使う。
それは、天風さんの心身統一法の目的が、心機の転換、つまり、心の切り替えが簡単にできるようになるということを目的にして作られているからである。
人が、心の問題で苦しむのは、結局、心を切り替えられないからである。
怒り、悲しみ、怖れがというものが、いつまでも、消えずに、残っていているから、苦しいし、その苦しみが続くから、その内、心のパワーも次第に低下してくる。
心のパワーが、極端に、低下した状態を、うつ病とか、統合失調症とか呼ぶのだが、その原因は、元はと言えば、心を消極的から積極的へと、切り替えられないからである。
心を簡単に切り替えられるようになれば、熊沢蕃山のように、「辛いこと、悲しいこと、嫌なこと、何でもかかってこい、俺は絶対そういうものには負けないぞ」、という強い気持ちになるんだよ。
そう言えば、私も、最近、悩み事が、殆どなくなったような気がする。
そして、たとえば、これまで、ストレスと考え、「ああ、嫌だな」と思っていたことに出会っても、「よし、これは自分を鍛えるための絶好のチャンスだ、よし頑張るぞ!楽しみだ!」と考えられるようになっている。
こういうことを、心機の転換、つまり、心の切り替え、と言うんだよ。
いくら瞑想をしても、心が簡単に切り替えられないようじゃ、意味ないんだよ。
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8月3日(金)読売新聞、夕刊、コラム「よみうり寸評」に次のような記事が載っていた。
「怪談のような話だが『宇宙は暗黒物質や暗黒エネルギーといった未知のものに支配されている』らしい。
宇宙に関する科学解説書でベストセラーの著書もある東京大学カブリ数物連携宇宙研究機構の村山斉(ひとし)機構長が講演でそう話していた。
『暗黒』とは従来の技術では見えないこと。理屈上ではモノやエネルギーがあるはずだが、正体がわからない。
例えば宇宙は膨張している。しかも、最近の研究によれば膨張スピードは加速している。風船に息を吹き込んで膨らませる時と同じく多大なエネルギーが必要なはずだが、そのエネルギーが、どこから来るのか(わからない)」
暗黒物質とか、暗黒エネルギーとかいう時の「暗黒」とは、従来の技術では見えないもののことを言うらしい。
従来の技術と言っているのは、要は、我々の五感で感じられないから、そう言っているのだろう。
宇宙が膨張しているのは、科学的に立証されていて、宇宙を膨張させるには、膨大なエネルギーを必要とするはずだが、そのエネルギーがどこから来ているのかわからない、ということを言っているのである。
ここでは、エネルギーのことしか言ってないが、暗黒物質というのは、物質ができるには、その物質ができる元となる材料が存在するはずだが、それが、何であり、どこにあるかわからない、という話なのだろう。
コラムニスト氏は、「宇宙は未知のものに支配されているらしい」ことを、怪談のようだと、言っているが、
私に言わせれば、怪談でも不思議でも、何でも、ありゃしない。
「気」のことを、暗黒物質とか、暗黒エネルギーとか言っているだけなんだよ。
その事を、ここで、私が、説明するより、中村天風先生に、お願いした方がよさそうである。
その方が、少なくても、私よりも、わかりやすい。
天風先生は、「運命を拓く」という本の中で次のように言っている。
「この世のすべてのものというものは、動物、植物、鉱物の三つに分けられるが、これらはすべて一つのものから生み出されている。すなわち万物創造の根源であり、絶大な力を持つ霊妙な『気』がこの一切を作る根拠をなしているのである。その気が作ったもの一切を包んでいる。というよりもむしろ、その気の中に作られたもの(動物、植物、鉱物)が存在している、と言う方がよいであろう。全てのものが、この霊妙な気の中に終始いかなるときでも存在しているのである。
ちょうど、水の中に住む魚のように、水がなければ魚は生きていけないが、魚自身は水の中にいることを忘れているであろう。人間も、この霊妙な気の持つ力の中にいるからこそ生きてられるのである。
(人間は)空気の中にいるから生きているのではない。万物創造の霊妙な働きをなす気が空気を作り、この気の中に空気が作られているのである。そして空気の中にある酸素、窒素などが我々の肉体生命の新陳代謝を行うために命の火を燃やしているのである。空気の中に気があるのではない。作られたもの作ったものではないことを忘れてはいけない。」
そして、又、別の項で、次のようにも言っている。
「さきほど、形のある宇宙が出来る前に、すでに、形のない宇宙があった、と言ったが、形のない宇宙とは何か、まず、科学的に考えてみよう。この宇宙の中に、我々が感覚できる色々な森羅万象がある。この森羅万象も一番初めはいったい何から出来たんだろう、ということを、突き詰めて考えてみよう。
一番根本は何か、というと、ただ一つの実在から産み出されたものである。その実在とは何であろう。哲学では、根本的本源実在、と呼び、科学ではこれを極微粒子的なものとして、エーテルと名づけている。哲学の方では、人間の感覚では、捉えることのできない、茫漠たる見えざる、一つの『気』であると言っている。
(途中略)
いずれにしても、このただ一つのエネルギーを生み出す元が、宇宙を創り出したのである。
とにかく、一番いけないのは、我々の五感が感覚しないものは、存在しない、と思うことである。」
さて、ここで、先ほどのコラム「よみうり寸評」に帰る。
コラム氏は、東京大学カブリ数物連携宇宙研究機構の村山斉(ひとし)機構長の話として、この一文を次のように結んでいる。
「ナゾ解明のため国立天文台や村山さんたちが詳細な宇宙地図作りを進めている。それに使う新型の望遠鏡用カメラも開発した。
全長3メートル重さ3トンの巨大デジタルカメラ。米ハワイ島の『すばる望遠鏡』に設置されている。初撮影の成果として今週、アンドロメダ銀河の画像が公開された。
1回の撮影で銀河全体が写った。拡大すれば星々もくっきり見える。宇宙の怪談は、さて解けるか。」と。
「宇宙の怪談は、さて、解けるか」と言っているが。
解けるもんか。絶対に解けることはない。未来永劫にわたって、この方法で、宇宙の謎が解けることはない。
なぜなら、この宇宙そのものが、私たちの五感に感じることのできない、極微粒子を元にして(原料にして)できているのに、望遠鏡という物質だけしか見えないものを使って、宇宙と言う物質(宇宙)だけを見て、その物質を作った元を見ようというのだから、土台、無理な話というものである。
宇宙の森羅万象を作った元を、わかる方法が一つだけある。
それは、瞑想をして、「本当の自分」とは、何かということを知ることである。
瞑想によって、「本当の自分」とは、心でもなく、肉体でもなく霊魂と呼ばれる『気』であるということがわかることによってしか、
宇宙を作っている元もまた、「気」であるということを、知ることはできない。
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無念無想とは、意識が、全て、なくなって、眠ったような心の状態を言うのではない。
無念無想になっても、ちゃんと、霊性意識という意識は働いている。
でなかったら、自分が無念無想という精神状態になっている、ということすら、わからないわけじゃないか。
霊性心について、天風先生は「研心抄」という本の中で、次のように言っている。
「そもそもこの心は吾人人類が万物の霊長である点を現実に具象する心なので、この心が吾人人類に実在すればこそ、自己とは何かというような他の一切の生物が断然なし得ない、自我の本質を悟入自覚することができるのである」
つまり、霊性心という心があればこそ、自我の本質、つまり本当の自分とは何かということを悟ることができる、と言っているのである。
私が上で、今、自分が無念無想という精神状態になっているということがわかるのも、霊性意識あるから、と言っているのも、これと同じことである。
では、この霊性意識はどのような条件下で発現するか、ということであるが、天風先生は、「研心抄」の中で次のように言っている。
「要するに、『われ』なるものの本体たる実在のものを(霊魂のこと)、わが意識の中に完全に把握思量し得る信念的自覚念というものは、心を霊的境地という特別の境地に置かぬ限りは発動せしむることが出来ないものである。」
つまり、ここで天風先生は、本当の自分(真我)とは、霊魂という気体である、ということがわかるためには、信念というものが必要である。
その信念というものは、霊性意識の中から出てくるものだが、その霊性意識とは、心を霊的境地に置かぬ限りは発動してこない。
しかるに、霊性意識が発動すると言われる、霊的境地とはどういうものかというと、それが無念無想という心の状態である、と言っているのである。
要は、無念無想にならないと、霊性意識は出てこない、霊性意識が出てこないと、本当の自分とは何か、ということもわからない、
なぜなら、本当の自分というものがわかる、信念的自覚念というものは、霊性意識から出てくる、と言っているのである。
繰り返すが、無念無想の精神状態とは、眠ったようになって、全く意識がなくなることではない。
無念無想の状態でも、霊性意識という意識が働いている。
ただ、無念無想とは、雑念妄念を発生させる、本能心とか、理性心とかが、全く、働かなくなった心の状態を言う。
ところで、本能心、理性心について簡単に説明すると、次のようになる。天風先生の「研心抄」からの摘記である。
「そもそも本能心と称される心は、吾人の肉体生命の生存を確保するために存在しているものなので、従って人類生命中の動物的方面の生活と生存を現実にするに必要とする各種の作用や職分を、この心がその元となって司っているものなのである。」
「たとえば食欲とか、性欲とか、その他の肉体の欲求から発生する各種の欲望又は、一切の感覚情念等の如きものがそれである。」
「が特に注意すべき問題は、一般の動物的感情情念、即ち闘争心、復讐心、憎悪心、猜疑心乃至は嫉妬心などというような、いわゆる動物本来特有の低級心性も、この本能心から発露されているということである。」
理性心については、次のように言っている。
「この心はいわゆる事物事象に対する推理推考を司る心なので、俗に理性というのは、この心の活動現象に対する名称なのである。」
「しかし、理性心には完全に本能心を統御するする力がない。即ち理性心というものは、前述したとおり事物事象に対する推理推考を司る心で、従って事物に対する是非、善悪
曲直、正邪という事を批判分別働きのみを有する心で、従って絶対的の統御力は有していない、所詮は相対的なものなのである。」
霊性心については、
「この心は、吾人人類の精神のみに特有された極めて優秀性を有する最高級なもので
普通人には容易に発現し得ないと言われる、かの霊感とか霊智とかいうような特殊のものは、何れもこの心から発露するものなので、いわゆる神秘的の偉大な思索や崇高な思想というようなものは、一切この心を本源として形成されるものである。」と言いつつ、
「就中、特に深重な注意をもって考慮しなければならないことは肉体生命に属する本能心に対する統御である。」と言っている。
「というのは多くの場合、人間の心というものは、何等の訓練も啓発も施さず、漫然とそのまま打ち捨てて置くと、この本能心が精神領域の大部分を占拠して活動するものなのである。ところが、この本能心というものは、元来肉体生命に付属する心なのであるから、常に肉体生命の欲求だけを満たすべく然も極めて無遠慮に、その欲するままに振る舞おうとする。さながら手の付けられない野獣を檻の中から出したように、…そこでこれを適宜に統御しないで打ち捨てて置けばそれこそ大変なので、人間をやれ病だ、煩悶だ、苦労だ、という悲劇の舞台に引き入れてしまう。」
読者の中に、「無念無想」について聞いてくる人がいる。
先ほどから繰り返し言っているように、無念無想になるということは、全く、意識がなくなることではない。
無念無想といっても、霊性意識という意識は、働いている。
霊性意識が働いているということからすれば、無念無想と言っても、厳密な意味からすれば無念無想とは言えないかもしれないが、
霊性意識の何たるかのわからない人には、本能意識や理性意識が出なくなっていることを以て、無念無想、と説明した方が、わかりやすいのかもしれない。
つまり、雑念妄念が、時々出てくるような心の状態は、まだ、無念無想の極地、即ち三昧とは言わないのだよ。
三昧になって、霊性意識が発現してきて、本当の自分というものがわかるまではね。
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