気と心と宇宙法則

難病(難しい病気)の人たちの力になりたい、と思っています。

瞑想日記

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霊魂の存在する場所

中村天風先生は、霊魂のある場所について、「成功の実現」という本の中で、次のように言っている。
 
「その時、一番最初に母の子宮の中でできるのは、いいか、体となるべき部分が先にできるのか、心のはたらきを行う部分が先にできるかというと、この気が肉体の中心となって存在する場所が一番先にこしらえられるんだ。これを生理科学でいう四畳体と言うのであります。四畳体の下に間脳というものがある。これはどんなに医者が研究しても、何のためにこれがあるかということを医科学的に説明することは出来ない、いまだに。しかも人間はこの間脳というものを毛筋でピッと突いても死んじまう。肉体の生命が絶えちまう。この間脳こそまことに人間というものの正体である。難しい言葉で言うと、自我の本質である。大根大本がこのなかに鎮座ましまして、これがいちばん先入れ物としてできる。」
 
要するに、天風先生は、霊魂(本当の自分)は、間脳の中にいる、と言っているのである。
 
 
私のブログを読んでくれている人は、私が、かなり以前から(ブログを開始当時から)「気」は、額の眉間から入ってくる、と言っていることを、承知してくれているはずだ。
 
最近では、眉間は、「気」が入ってくる通路には変わりないが、ただそれだけではなく、本当の自分(霊魂)、と外部の気の世界(空の世界)とを繋ぐ通路(入口)、ということを強く意識するようになっている。
 
つまり、眉間は、「気」の取り入れ口、というよりも、むしろ、神人冥合がなされる場所、という感じの方が強くなっている。
 
 
特に、瞑想中は、いわゆる空の世界と、自分の霊魂(本当の自分、真我)が、眉間を通じて結びつく様を、以前よりも強くはっきり感じるようになった。
 
このことを、更に説明を加えると、眉間を通じて、空の世界と霊魂との繋がりを密接に感じるようになればなるほど、自分の肉体の中に、霊魂と呼ばれる気で出来た組織があることを、ますます、はっきりと感じる。
 
そして、更には、空の世界と、霊魂とが密接に繋がれば繋がるほど、無念無想の度合いが、さらに増すのを感じる。
 
だから、近頃は、無念無想になるには、心の中の雑念妄念を、排除しようとすることではなく、空の世界と、自分の中の霊魂とが結びつくことだ、と考えるようになった。
 
つまり、無念無想になるというのは、神人瞑合することである、と考えるようになった。
 
 
そして、神人冥合を感じる度合いが増せばますほど、それにつれて、自分の中の気の組織(霊魂)も、大きく、強く、はっきり、感じれるようになった。
 
だから、最近では、瞑想の時は、初めから、肉体とか、心とかの感覚は、殆ど消えてなくなり、反対に、気の組織である、霊魂の存在感だけが、ますます、強くなった。
 
 
と言っても、神人冥合は、眉間を通じてなされるのだから、眉間に感じる気の感覚(圧迫感)は、さらに、強烈になっている。
 
 
さて、霊魂の存在する場所である。
 
上のように、天風先生は、霊魂は、間脳の中に、鎮座ましましている、と言っている。
 
神人冥合というのは、眉間を通じてなされ、その眉間から直進した所に間脳があるから、
 
「霊魂」というのは、天風先生言われる通り、間脳の中にある、と考えるのが妥当のようである。
 
 
もっとも、私の言うところの「気の組織」というのは、間脳の所だけに感じるものではなく、やや感覚が薄くなるにしても、胸部(心臓のあたり)にも、また、丹田にも、はっきり感じられるものである。
 
いずれにしても、眉間から、間脳、そして、さらに胸部、丹田と続く気の組織は、最近、瞑想の度に、ますます、その姿を強くはっきり、現しつつある。

無念無想

よくわからないうちは、無念無想とは、心の中の雑念妄念を排除することだと、思っていた。
 
今は、勿論、無念無想とは、心の中の雑念妄念が排除されることには違いないが、
 
心の中に湧き起こる雑念妄念を、排除することではなくて、神人冥合することだと、思うようになった。
 
つまり、無念無想になるために、雑念妄念を排除しようと努力するのではなくて、神人が冥号しさえすれば、雑念妄念がなくなって、無念無想になることを知った。
 
 
以前は、心の中の雑念妄念を排除しようと努力しようとすればするほど、雑念妄念が湧いてきて困ったものだ。
 
 
ストレスも、同じことである。
 
ストレスを避けよう避けようとすればするほど、ストレスをなくそうとすればするほど、ストレスは、ますます多くなる。
 
これは、当然と言えば、当然のことだ。
 
 
雑念妄念でも、ストレスでも、無くそう、無くそう、避けよう避けようとすれば、すればするほど、
 
そのことを意識するのだから、雑念妄念や、ストレスが増してくるのは当たり前のことである。
 
 
だから、瞑想の時の雑念妄念でも、日常のストレスにしても、無理に排除しようとしないことだよ。
 
 
ストレスなんて言ったって、所詮、他人から見れば、自分に都合の悪いことが起きていることを、そう呼んでいるに過ぎない。
 
雑念妄念だって、雑念妄念があるから、無念無想も、意義あるものとなる。
 
つまり、無念無想になるために、雑念妄念を、与えてくれたんだよ、神が。
 
ストレスだって、何かあるのが人生じゃないか、何もない人生だったら、面白くもおかしくもない、無味乾燥、味気ない人生に終わってしまうじゃないか。
 
 
この世に起きることには、全て裏と表があって、自分にとって、全く、悪い、と言うこともないし、逆に、全く、良い、ということもない。
 
幸には、常に不幸の芽が潜んでいるし、反対に不幸には、必ず幸の兆しを含んでいる。
 
 
要は、そのことを、本人が、どう捉えるかである。どう解釈するかである。
 
 
例えば、東日本大震災のような災害に、出会った人は、「どうして俺たちだけがこんな苦しい目に遭わなければならなのだ」と考えずに。
 
「天は、その人に大任を与えようとするとき、必ず、先ず、その人の心と体に、苦しみを与える」という言葉にあるように、
 
「天が、これから、大きな成功と幸福を与えるために、特に、自分を選んでこのような試練を与えてくれたのだ」、と思えば、
 
苦労も苦労でなくなる、不幸も不幸でなくなる。
 
「ありがたい」、と心から思えるようになる。
 
 
ただ単に、自分に、都合が悪いことが起きているだけなのに、「神も仏もあるものか」などと思うから、不幸が不幸になり、不運が不運になるんだよ。
 
雑念妄念でも、ストレスでも、「しめた!神様がくれた試練だ」と思えば、雑念妄念も雑念妄念でなく、ストレスもストレスでなくなってしまう。
 
貴方が、成功する失敗するか、或いは、幸福になるか不幸になるかの境目は、現実に、そう思えるようになるかどうかに、かかっているんだよ。
 
 
偉い人が、そう思え!と言ったから、無理に、そう思おうと努力している、というのじゃ、まだ十分じゃない。
 
自然に、そう思えるようにならなければダメなんだよ。
 
天風先生の心身統一法の教えというのは、自然にそう思えるようになる方法、について教えてくれているんだ。
 
 
私も、瞑想して、無念無想、無念無想と叫んで、雑念妄念と戦っているうちは、決して、無念無想にはなれなかった。
 
最近では、無念無想になろうと思わなくても、ただ、印を組んで座っただけで、暫くしたら、外部の無の世界(気が充満した世界、空の世界ともいう)と、自分の命とが、「気」で結ばれるようになる。
 
これを、つまり、神人冥合と言うのだが、神人が冥合した途端に、空の世界から「気」が、自分の中に流れ入ってきて来て、自分の中の気の組織(天風先生は、「霊魂」と言っている)を、満たしてくれる。
 
外部の「気」が流れ入って来て、自分の中の気の組織を、満たすに従って、心は、自然に、無念無想になる。
 
 
だから、最近では、ことさら、無念無想になろうと思わなくても、神人冥合のことを思っただけで、無念無想になれる。
 
否、神人冥合のことを思わなくても、だた、座っているだけで、先のような現象が自然に起きて、そして、自然に無念無想になっている。
 
 
同時に、心が無念無想になるに従って、自分の肉体の中に、本当の自分(気の組織)が、あることを、はっきり自覚できるようになる。
 
即ち、「本当の自分」というものが、無念無想の程度に応じて、次第に、はっきり、その姿を現すようになる。
 
 
 
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霊魂と神人冥合

神人冥合がなかったら、霊魂の存在もわからないだろう、と思う。
 
「霊魂の存在がわからない」、ということは、「本当の自分」がわからない、という意味である。
 
なぜなら、神人冥合があって初めて、「霊魂」の存在も、はっきり意識できるようになるからである。
 
 
神人冥合とは、気の充満した世界(神の世界とか、空の世界とか、絶対の世界とか、言ったりもする)と、人間の霊魂とが繋がることを言う。
 
気が充満した世界と霊魂(私は気の組織と言っている)とが繋がって、初めて、自分の肉体の内部に、霊魂と言われる気体が存在することを、意識できるようになる。
 
 
神人が冥合するためには、心が無念無想にならなければならないが、心が無念無想になって、ひとたび、神の世界と繋がること(神人冥合)を経験すると、
 
無念無想になるから、神の世界と繋がるのか、神の世界と繋がるから、無念無想になるのか、どちらともわからなくなる。
 
 
こうなれば、殊更、瞑想して無念無想になろうと努力しなくても、瞬時に、無念無想になることができる。
 
なぜなら、特別努力しなくても、神の世界と、瞬時に繋がるようになるし、神の世界と繋がった途端(神人冥合した途端)、心は、無念無想になるからである。
 
 
このことを、天風先生は、安定打座考抄の中で、
 
「而して、この妄雑念を、完全に排除し得れば、期せず、求めずして、吾人の霊性は悠然乎として現れ来たり、同時に、尊き神人冥合の、妙境歓地を現顕するに至るのである。」とか
 
「而して、吾等の行修する安定打座密法なるものは、事実においてこの妄想念を完全に排除して、自己『霊性を自覚』せしむる速達法なのである。」とか
 
「実際、この密法の特徴は、如何に忙しい時でも又仕事をしながらでも、話をしながらでも、容易に錯雑に動乱する精神的葛藤を収束して、純一無雑の『三昧心境』に入り得る点である。是あるが故に、予は、この密法を『心に与える瞬間活法』と云うておる…」
 
等と、言っているのだろう。
 

霊魂の実態

天風先生の教えの目的は、本当の自分、即ち、真我とは、霊魂と いう気体である、ということを信念する、ということである。
 
これを逆にすれば、人間の雑念妄念、というものは、本当の自分を肉体か、そうでなかったら、心である、と勘違いするところから生まれる。
 
間違っているものを、正しい、勘違いするから、生き方を間違う。
 
生き方を間違うから、結局、神の意志にそぐわない、生き方をして、病気になったり、不運にであったりするということになる。
 
 
だから私たちは、本当の自分とは霊魂という気体である、ということを信念(理解ではない)して、正しい生き方をしなければならない。
 
これに、少し、言葉を継ぎ足して言うなら、
 
本当の自分とは、霊魂と言われる気体であることが、信念できるようになると、正しい人生観が確立し(これを「自己人生に対する信念」という)、神の意志に沿ったような、間違いのない、正しい生き方ができるようになる。
 
 
とするなら、何を差し置いても、私たちが悟るべきことは、本当の自分、つまり、真我とは「霊魂」という気体である、ということになる。
 
 
ところで、天風先生言うところの、「霊魂」ということであるが、これが、気体であるということについては問題ないとして、
 
「霊魂」という言葉からして、これまで、私は、脳の一部か、或いは、心臓の近くにある、小さな塊(勿論、気体の)のようなものを想像していたが、
 
最近、そうではなくて、それは、頭頂から下腹部の丹田まで貫いて存在する、いわば、肉体に沿った「気の組織」とも言うべきものであることを確信するようになった。
 
これは、天風先生が間違って言っているわけではなくて、私が、天風先生が言っていることを、勝手に、そう解釈していたにすぎない、
 
実際にこの目で見てないものだから。
 
 
そして、天風先生も、その霊魂と称されるものが、どうのような過程を経て、見えてくるものなのかについては、具体的にはどの本でも言っていないが、
 
結論から先に、かつ、簡単に言うなら、この霊魂と言われるものは、肉体や心に対する意識が消える同時に、自然に、表面に、現れてくるもののようである。
 
あたかも、霧に包まれて見えなかった山が、霧が晴れるに従って、その山容が、はっきりとしてくるように。
 
 
だから、私たちは、瞑想して、無念無想にならなければならないのである。
 
つまり、無念無想とは、肉体から発される感覚にも、心の動きにも囚われなくなることである。
 
つまり、瞑想をして、無念無想になり、肉体や心に対する意識がなくなると、あたかも「霧晴れて、山骨現る」ように、気で出来た組織(本当の自分)が、次第に、自分の肉体の中心部に存在することが意識できる(見える)ようになるのである。
 
 
天風先生は、研心抄という本の中で、本当の自分がわかるようになると、その本当の自分というものは、絶対の力を持ち、絶対に不滅なもの、でるということが信念できるようになる、と言っている。
 
つまり、次のように言っている。
 
「およそ、この二つ(絶対的な力、絶対不滅)の事柄が、確実に吾人の人生信念となるならば、その人生観は期せずして確固不抜のものとなり(人生観が確立し)、人生如何なる難局に立つ場合と雖も、些かも逡巡忸怩たることなく悠然乎としてこれに対応する事を得るに至ることは必然である。」
 
これは、いわば、「お前、明日、死ぬよ」と言われても、少しも取り乱すことなく、平然としていられる、という意味である。
 
 
ところが、ここで、問題となるのは、
 
天風先生も、このことについては、具体的には、何も言っていないのだが、
 
なぜ、「本当の自分」というものが、霊魂(私は「気の組織」と言っている)だとわかると、自分は絶対的な力を持ち、そして絶対不滅ということが信念になるのか、ということである。
 
 
私は、霊魂(気の組織)というものが、具体的に意識(見える)できるようになると、それと同時に、この霊魂というものは、絶対的な力を持ち、そして、絶対に滅びることがないものである、と思えるようになるのだ、と思っている。
 
それは、あたかも、私たちが、火に触れば熱く、氷に触れば冷たい、と、敢えて、触らなくても、わかっているように。
 
 

忘牛存人

禅の教えに、十牛の図というのがある。
 
その十牛の図について、天風先生は、「盛大な人生」(p、245)という本の中で、自分の心身統一法の教えの方からみて、どう解釈できるかについて述べている。
 
 
この十牛の図というのは、本然の自性(本当の自分、真我)というものを、牛に例えて、解説しているものだ。
 
つまり、人間が悟りに至る修行の段階を、十段階に分けて、牛を用いて説明しているものなんだ。
 
だから、私は、牛の事を、禅でいえば「本然の自性」、ヨガで言えば、「本当の自分」、つまり「真我」に例えたものだと、と思っている。
 
 
私は、これまでは、自分の肉体の中にあって、盛んに動き回っている、「気の組織」のことを、本当の自分、つまり、真我だと思ってきた。
 
自分の中で動き回っている「気の組織」が、外部の「気の組織」とつながった時、無念無想になれるし、無念無想になれば、さらに体が盛んに動くから、そう思っていた。 
 
外部からの「気」は、最初、額から入って来て、次第に下に降りて行って、丹田のところまで行って、そこで止まる。
 
丹田まで降りて行った時点で、心は無念無想になる。
 
 
或いは、逆かもしれない。
 
「無念無想になると、気、が額から入って来て、喉を通り、腹部を通って丹田まで降りて来る」というのが、本当かもしれない。
 
 
ところが最近、瞑想していると、いきなり、体全体が「気の組織」のようになって、即ち、肉体というものがなくなって、初めから、無念無想になるようになった。
 
ということは、これまでは、肉体があって、その一部に、「気の組織」があると思っていたのに、最近では、いきなり、肉体がなくなって、「気の組織」だけなる、と言ったような感じなのである。
 
 
十牛の図の第七は、「忘牛存人」である。
 
「忘牛存人」とは、天風先生によれば(盛大な人生、p、298)次のようになる。
 
「この絵を見て、一番最初に皆さんが気がつくことは、今まで牧童と一緒にいた牛がいないでしょ。
これはどういうわけか、考えてごらん。第六図では、求める人と求められる牛とが全く一体となって、いわゆる無心無我の境に没入した。
ところがさらに、修行が進んで気がついてみると、今まで求めていた牛、いわゆる本然の自性、自我の本質(真我のこと)、その中に存在する本心というものが、ほかのところにあるのではなく、またほかのものではなく、自分自身であったことを暗示したのが第七図なんです。
牛がいなくなって、人のみいるというので、忘牛存人と書いてありますが、もう少し詳しく言おう。
修養に一生懸命つとめていた人が、今まで熱心に求めていた真実の人生が、今まさにその人と一体になった。チャーンと寝ても起きても一体となっているんだから、もうそれがあるもないもないんです。」と。
 
 
上で天風先生が言っている、「真実の人生がわかる」という意味が、本当の自分(真我)というのは、「気の組織」(天風先生は霊魂と呼ばれる気体、と言っています)である、ということがわかる、ということであり、
 
そして、「忘牛存人」の意味が、「求める人と、求められる牛とが全く一体となって、いわゆる無心無我の境に没入した」ということであれば、
 
 
私が言っている、瞑想の時、「肉体というものがなくなって、「気の組織」だけが、存在していて、そうなれば、心は、無念無想になる」、というのも、天風先生と、本質的には、同じことになるのではないか、と思う。
 
 
 
 
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