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無念無想は、「本当の自分」がわかるための、手段に過ぎない。
つまり、瞑想や座禅をして、無念無想になるのは、「本当の自分」というものをわかるために、そうするのである。
だから天風先生も、「成功の実現」という本の中で、
「だから、禅の坊主も、これもインドのヨガから来ているんだけど、しばしば無我一念、純一無雑の境涯に魂を安住せしめる為に坐禅をくむだろ。つまり、雑念も妄念も取り除けて、本然の心の殿堂をつくってやると、そこへフウット霊魂が安住する状態になるという原理を応用してあの坐禅っていうものは始まった」
と言っている。
ご存知通り、天風先生は、「霊魂」と呼ばれる気体が、「本当の自分」だと言っているが、
これまでは、私は、「霊魂」と言われると、極めて小さく、光を放つようなものを想像していた。
が、天風先生が言っている「霊魂」というものも、実は、そんなに小さなものを言っているのではなく、
人間の頭から、ヘソの下、つまり、丹田まで貫いて存在する、大きな気の塊、のことをそう言っているのだろう、と思い始めた。
私は、以前から、このことを、「気で出来た組織」と言っている。
この「気の組織」とは、胸のある一部分だけとか、頭の一部にだけ存在するものではなく、頭部から下腹部まで、全身を貫いて(但し、両手、両足を除く)存在するものである。
天風先生が言うところの、「霊魂」というのも、先生の本など、よく調べてみると、必ずしも、胸の所にあったり、頭部にだけあるような、小さなものを指しているのでない、と思う。
つまり、天風先生の言う「霊魂」とは、私が日頃、言っている「気の組織」のことを指して、言っているように思える。
最近では、無念無想になるから、「本当の自分」というのが、現われるのか、「本当の自分」と呼ばれる気の組織が現れるから、無念無想になるのか、よくわからなくなった。
いずれにしても、「本当の自分」というものが、自分の体の内部に現れるようになると、特に、そうなろうと努力しなくても、心は、無念無想になっている。
瞑想の時、坐って、しばらくすれば、「本当の自分」というものが現れてくるから、
そして、「本当の自分」というものが現れさえすれば、自然に、心は、無念無想になるから、以前のように無念無想無念無想と、と努力する必要もなくなった。
最近では、黙って、坐るだけで、暫くすれば、自然に、「本当の自分」というのが、現れてくるから、
本当は、坐る前から(日常生活を送っている時から)、既に現れていて、坐って、心を落ち着かせると、その姿が、次第に、はっきりしてくるだけかなあ、などと思うようになった。
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瞑想日記
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よく、電話などで、呼吸法について聞かれることがある。
先日も、全く見知らぬ人が電話をかけてきて、「呼吸法はどうしているのですか?」と訊く。
「呼吸法は、何にもやっていません」と答えると、信じられない、というような趣旨の言葉を、電話の向こうで発していた。
この人、○○ヨガやっています、言っていたから、ヨガ或いは、ヨガにおける瞑想では、呼吸法は必須のもの、と思っていたのだろう。
私も、ヨガで、呼吸法の事をプラナヤーマ、ということは知っているが、それがどういうものなのか、つまり、その方法については、やったことがないから、全く、知らない。
知らないが、「気」の事をプラーナと呼ぶし、プラナヤーマとは、言葉からして、「気を取り入れる方法」と解釈できるから、
プラナヤーマが、呼吸することによって、「気」を体内に取り込もうとする方法であることは、容易に察することができる。
しかしながら、現実、プラナヤーマと称して、行なわれていることは、呼吸法なのである。
先日電話で問い合わせてきた人も、このことがよくわからなかったに違いない。
おそらく、現在、街中で、ヨガ道場を開いて、ヨガを専門に教えている先生方の中にも、その理由が、わかっている人は殆どいないのではなかろうか。
なぜ、そういう言うかというと、ヨガの専門家も含めて、「気」をわかっている人が極めて稀だからである。
おそらく、電話をして来た人を含めて、多くの人が、このことを、わからないのは、「気」がどこから入ってくるのか、わからないせいだろう。
実は、呼吸は、口から、空気を肺の中に取り入れるが、「気」は額の印堂という場所から、脳の中にある、松果体と言う所に取り入れるのである。
つまり、空気と「気」とは、取り入れる場所が違うのだが、口から空気を取り入れることと、額からも「気」が入ってくるようになっているのである。
つまり、口や鼻から空気を肺の中にと取り入れると同時に、額の印堂と言う所から、「気」も取り入れているのである。
私たちの体は、本来、そういう仕組みになっているのである。
先ほど私は、「多くの人が、プラナヤーマについてわからないのは、「気」の事がわかってないからだろう」と言ったのは、そういう意味なのである。
これまでも言っているように、私は、瞑想の時、意識して、呼吸法(つまり、プラナヤーマ)をやったことはない。
やったことはないが、「気」が額から入ってくることは、よく知っている。
なぜなら、「気」が体内には入って来て、体の中に、「気」が充満すると、究極の瞑想の状態、いわゆる三昧に入ることも、よく知っているからである。
だから、「気」を体の中に取り込みさえすれば(黙っていても、自然に入ってくる)三昧になれるから、特に、呼吸など考えなくてもいいのだ。
「気」が入って来て、体中を満たし、心が三昧に入ると同時に、息が、深かーく、長ーく、細ーく、静かーに、
しかも、途切れ途切れに、しているのか、してないのか、わからないような状態になっていることを、私は、知っている。
そのことによって、私は、呼吸と「気」が、明らかに、連動していることを、知るのである。
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「内展の世界」の世界とは、私たちの肉体の内側で展開されている世界、と言う意味です。
平たく言えば、精神世界のことを言います。
私は、このブログで、よく「肉体の内側にあって、肉体を支えている、気の組織」と言っていますが、そのことです。
なぜ、今日、こういう話をする気になったかと言うと、先日、ヨガの佐保田鶴治さんという人の書いた「ヨーガ根本経典」という本を開いたとき、
見開き部分に、ある写真が載っているのが目にとまったからです。
そこには、ヨガの修行僧が、虎の敷き革の上で、坐禅を組んでいて、その頭部と胸部に、丸い輪のようなものが描いてあって、その二つが、細い線のようなもので結ばれている。
そして、その絵の、欄外に、絵の解説とも言うべきコメントが記されてあって、「頭脳と心臓にある霊体」とあったのである。
話は変わるが、私は、長いこと、瞑想に関する記事を書いてなかった。
進歩がなかったわけではなく、あまりにも急速に進みすぎて、書いて発表することに、さして、意義を見出すことができないようになっていたからである。
以前は、額から気が入って来て、丹田で止まって、その気が全身を満たすようになると、無念無想、つまり、三昧になる、といったようなことを書いてきたように思う。
額から気が入って来るということは、その外側に、肉体があるから、額から入ってくることを意識するのだが、
それが、最近では、額から気が入ってくるという意識もなく、同時に、肉体の意識もなくなって、外も内も(肉体も、気も)その境界がなくなってしまっていた。
それと同時に、これまで、額の眉間の部分に感じていた、いわゆる気感(ある種の圧迫感)も消えてしまっていて、
そのかわり、額の部分に、先ほどから、内展の世界と言って紹介しているような、丸い輪状のものを感じるようになっていたのである。
そして、最近になって、頭部の外に、胸部にも、これまで、感じてこなかった、明らかに「気」で出来たある組織があって、それが、輪状になっているのが、わかるようになった。
と言っても、そういうのが目(肉眼)で、見えるわけではないんだよ。
ヨガ本にあるような、内展の世界が、確かに、自分の内側にもあることを、感じることができる、ということなんだよ。
お 知 ら せ
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従来、火曜日、木曜日、祝祭日を休業にしていましたが、平成24年10月1日より、土曜日、日曜日、祝祭日になりましたので、お知らせします。悪しからずご了承ください。
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天風先生を少し齧った人なら、
天風先生の教えというのは、究極的には、「本当の自分」(真我)とは、心でもなく、体でもなく、目には見えない霊魂という気体である、ということをわかるための教えであることを、よく知っています。
なぜなら、私たちを苦しませる、雑念・妄念というのは、本当の自分というものを、心か、体、と間違って考えているところから、発生するものだからであり、
そして、「本当の自分」というものが、火にも、水にも、否、如何なる物理的な力にもまけない、強い強い、永遠に滅びない「霊魂」という気体であるということを知ると、その心中に、確固不抜の人生観が確立し、完全な自己統御が可能になるからである。
このことを天風先生は、「研心抄」という本の中で、次のように言っている。
「人間この世に活きるのに、『我とは何ぞや』ということを正しく理解してないと、人生を完全に活きるのに何よりも必要とされる人生観というものが、これ又正当に確立されない。
そして、その人生観というものが、正当に確立されないと、その当然の帰結として、実際生活に決定的に重要な自己統御という大切なことがどうしても完全に出来得ないことになる。
言い換えれれば、『我とは何ぞや』という事が正しく理解された時、初めてその正しい理解が、確固不抜の人生観を確立し、その確立された人生観が、一切の内的誘導力となって、自己を完全に統御し得るに至るのである。」
そして、なぜ、「本当の自分」とは、霊魂と呼ばれる気体であることがわかると、確固不抜の人生観が確立し、その人生観によって、完全な自己統御が出来るようになるか、ということについて、先生は、次のように言っている。
「研心抄」からの抜粋である。
「前節において真我=本当の自分というものの本体が何であるかを説明した。
そこで次に、特に正しい理解を必要とする事は、この真我というものに内在する力の消息と、同時にこの真我というものが絶対不滅のものであるという二つの重要な事柄である。
およそこの二つの事柄が確実に吾人の人生観となるならば、その人生観は期せずして確固不抜のものとなり、人生如何なる難局に立つ場合と雖も、いささかも逡巡忸怩たることなく悠然乎としてこれに対応する事を得るに至るのである。」
つまり、これは、「本当の自分」(真我)というものがわかるようになると、自分(真我)というものは、絶対的な力を持ち、永遠に滅びないものである、ということがわかるようになる、という意味である。
さらに、「真我のもつ絶対的な力」と「真我永遠不滅」ということに関して、天風先生は、「研心抄」の中で次のように述べている。
「然らば真我に内在する力とはどんなものであるかというに、曰く、絶対的不可犯のものである。
然るにこれに引き換えて肉体の有する力は、いわゆる相対的なもので、その証拠には火や水や大気等には物質的の法則として敵する事のできない場合が多い。
然しながら、真我というものは、全生命の本源的中枢をなすところの霊魂である。そして霊魂とは肉体のような形象を有しない無形の一実在である。故に、断じて火にも水にも否一切の何ものにも決して犯されない即ち絶対的不可犯のものである。そして絶対的のものには又、絶対的の力があるのは敢えて贅言を要しない当然のことである。
吾人がこの荘厳な消息に対して正しく信念することを得たならば、およそ従来その心に感じていた『恐怖』という観念の大部分のものは、あたかも、朝日の前の霜のように消え去り、かわりに勃々たる勇気が驚くべきほど、その心に漲り来るのは必然である。」
ということは、真我というものが霊魂と呼ばれる気体である、ということがわかれば、本当の自分は、火にも水にもそして、何者にも犯されない、つまり、絶対不可犯のもであり、絶対的な力を持つものである、ということがわかる、という意味である。
そして、「真我の持つ絶対の力」と「真我永遠不滅」ということがわかれば、その心の中から、恐怖観念がなくなるから、完全なる自己統御が可能になる、と言うのである。
さて、私達が瞑想をする目的は、「本当の自分」とは、何であるか、ということがわかるようになるためである。
なぜなら、「本当の自分」とは、自分の意識の中から、心も体も消えてなくなった、無念無想という心の状態にならないと、わからないからである。
心が、無念無想の状態になることを、天風先生は、「霊的状態」、と言っているが、
天風先生は、このことを、「研心抄」の中で、次のように言っている。
「要するに、『われ』なるものの本体たる実在のものを、わが意識の中に完全に把握思量し得る信念的自覚念というものは、心を霊的境地という特別の境地に置かぬ限りは、決して発動せしめる事ができないものなのである。」
つまり、心を霊的境地(三昧)の境地に置かないと、信念というものが発現してこないから、「本当の自分」というものはわからない、というのである。
「古来悟りを開いた人のことを覚者とか又は哲人というが、これは要するにその種の人は、蓋し、『われ』なるものの本体が何であるかを、特殊の心的修錬を施して、その心をよく霊的境地に置くことを得せしめ、この信念的自覚念を発動して智得した得た人なのである。
故に、哲人覚者と称される人々は、一様に何事を思量する時といえども、その心が霊的境地に置かれてあるために、断然凡庸の考えとその類を異にし、人事世事その他一切の事象に対する考察も正確で徹底している。従ってその種の人々の事を大悟徹底の人というのである。」
だから、私達は、「本当の自分」というものを、わかるために、瞑想をして、心を霊的境地に置かなければならないのである。
さて、天風先生は、「成功の実現」という本の中で、「本当の自分」、がわかってくる様子を、次のように語ってくれている。
「それが、段々わかってくるようになるんですよ。自分の命の本当の主宰権をもっているのは肉体じゃなかった。心でもなかった。見えない気体が自分の命の主宰権をもっていることがわかる。この気体を日本語では霊魂と言っています。英語ではスピリットと言います。これがほんとうにフウッとわかるようになる。ちょうど夜明けがだんだん明るくなるように、自然と心の中に、この気持ちがはっきり自分でキャッチすることができるようになります。」と言っている。
私の場合、
これまでは、額から「気」が入って来て、喉を通り、腹部を通過して、丹田に至ってそこで止まって溜まり、溜まった「気」が、次第に、全身を満たすに至って、精神的には無念無想の極地である三昧という境地に達し、そして内部と外部の気の世界が一体融合していた。
最近では、これまでの、この一連のプロセスがなくなって、つまり、結跏趺坐して座るなり、自分と外部とがつながって、自分の内部の「気」の世界と、外部の「気」の世界が融合合体するようになっている。
ということは、瞑想の始から、いきなり、三昧の境地に入れるようになった、ということである。
否、あるいは、瞑想を始める前から、というより、普段の日常の生活を送っているときから、三昧の境地にあるのかもしれない。(普段生活している時は、自分が、三昧の境地あるのかどうか、よくわからない)
三昧という境地は、無念無想の極地を言うのであるから、心という意識も、肉体についての意識もない。
三昧になると、心の動きも、体についての意識もなくなるが、だからと言って、何もなくなって、全くの無になってしまうのか、と言ったら、そうではない。
ちゃんと、体の中心部に、気の組織(天風先生はこのことを霊魂と言っている)が、存在しているのを感じるのである。
逆に言えば、心も体もなくなると、自然に、気の組織(霊魂)だけが残って、その姿が、わかるようになる、と言った方が正しいのかもしれない。
天風先生は、上で、「これがほんとうにフウッとわかるようになる。ちょうど夜明けがだんだん明るくなるように、自然と心の中に、この気持ちがはっきり自分でキャッチすることができるようになります。」と言って、
「気持ち」という言葉を使っているが、
自分の場合、
心や体の意識がなくなるに従って、気の組織(霊魂)が、次第に、その輪郭を、はっきり現すようになった、と表現した方が、よりスッキリする。
天風先生は「気持ち」と言い、私は、「気持ち」ではなく、「姿」だと思っているが、
いずれにしても、天風先生言われるとおり、「夜明けがだんだん明るくなるように」、霊魂というものを、具体的に、意識の中に捉えることが出来るようになったことだけは、間違いない。
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それは、1ケ月前からのことだろうか、或いは、2週間くらい前くらいからのことだろうか。
自分の中の「気」と、外部にある「気」の世界との境目がなくなった。
私のブログ、特に、「瞑想日記」を読んでくれている人は、おわかりだと思うが、
それまでは、「気」は印堂と呼ばれる額の一部からは入って来て、喉を通過し、腹部を通り、下腹部の丹田というところまで来て、止まる。
そうして、全身が「気」で一杯に満たされ後、外部の「気」の世界と、自分の内部にある「気」の世界とが一体となり、つまり、内と外との境目がなくなると同時に、心も、無念無想の極致、三昧に到達していた。
最近は、これまであった、これら一連のプロセスが、全く、なくなった。
つまり、瞑想に入った初から、自分の「気」の組織と、外部の「気」の組織(空の世界)との境界がなくなり、無念無想、三昧の境地に入れるようになった。
ということは、つまり、ことさら、結跏趺坐して、印を組んで座らなくても、
普段の生活をしている時でも、自分と、外部の世界の境界がなくなっていることを意味するものではないか。
自分の内部にある「気」の世界と、外部の「気」の世界(つまり空の世界)とが、融合合体することを神人瞑合というのだが、
ということは、普段の日常生活をしている最中でも、神人瞑合が行なわれている、ということにもなる。
瞑想は、「気」がわからないと、決して、前には進まないよ。
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