気と心と宇宙法則

難病(難しい病気)の人たちの力になりたい、と思っています。

中村 天風

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無碍自在

単行本にもなっているから、天風先生の「運命を拓く」という本は、わかり易い本かというと、決してそうではない。
 
初心者にとっては、わかりにくいどころか、むしろ難解と言った方が良い、難しい本である。
 
なぜなら、それは、天風先生が、弟子たちに、最終的には、「無碍自在」ということをわからせようと思って、修練会の真理瞑想行の時の講話を、編集して創られた本だからである。
 
 
話は変わるが、私は、「成功の実現」という本のP、376〜378の、カリアッパ師が天風先生に言っている「そんな気持ちでしょちゅういたら、病なんか、どっかへ吹っ飛んでいちまうわい。いつも猛獣と相対峙していたようなーインドの先生の言った言葉はいまだに忘れないよー無邪気な気持ちになれ」って言ったんだ。
 
カリアッパ師が何故、天風先生にそう言ったか、その前置きが、少し長くなりますが、「成功の実現」P、377から引用します。(話は前後します)
 
「一挙手一動どんなささいな行動でも、みんなそれが自分の心の中の思い方や考え方の現れであると、ピッシャッと気がついた。どんなことで気がついたかっていうと、気がつく時はきわめて小さな動機でねえ、インドの山の中でした。
『もう死にやしないかしらん。ほんとうにこうやって毎日毎日、山の中で座っているだけで、俺はもう、親兄弟の顔も見ないで、このまま名も知れないこの山の中で死んじまうんだ』。
それでもう、一分一秒といえども、ああ、気持ちがいい、なんてことは感じないんだからね。フウーッと気がつけば、すぐ息苦しくなったり、脈が乱れたり。
そのときにだよ。フウッと膝頭のところに妙な感じを感じたの。何か軽石でこすられているかのような気持のね。ヒョイッと目を開けたら大きな豹がね、目の前に腰をすえて私をじっと見ているんだよ。
もう病の苦しさも、死にゃしないかという気持ちも何もなくなっちゃった。恐ろしいという気持ちもないんだよ。ただ、その爛々として光る豹の目をウッと見すえて、にらめっくらしたわけだなあ。にらっめくらという気持ちもないんだよ。ハッと思って、ハッと見ただけだ。そうしたら、スウーッと向こうへ行っちまいやがった。
無念無想に打たれたんだな、むこうが。おっかないと思ったら、パッと来るだろうけども。
こういう話をわかってくれる人が果たして何人あるか知らないけど、戦争にでも行って、もうどうにもしようがないときに、絶対の諦めがくると、そう言う気持ちになることがありますよ。何も考えない、ただ無我夢中。無我夢中というのも心だよ。やっぱり。心のいわゆる乱雑なる妄想が瞬間、止まったときなんだ。」
 
天風先生が、こう言った時、カリアッパ師が、上で紹介したような、「無邪気な気持ちになれよ、そんな気持ちでしょちゅういたら、病なんか、どっかへ吹っ飛んでいちまうわい。」と言ったんです。
 
 
貴方達わかります?
 
「無邪気な気持ちになったら、病なんかどっかへ吹っ飛んで行く」と言われて、無邪気な気持ちでいたら、何故、病が吹っ飛んで行くのか、その理由がわかります?
 
 
その前に、目の前に座っていた豹と「ハッ」と思って「ハッ」と、にらめっくらしたら、豹がスーッと向こうへ行っちまいやがった、と言っているが、なぜ向こうに行ってしまったのかわかりますか。
 
天風先生はその理由を、「無念無想に打たれたんだな、むこうが。おっかないと思ったら、パッと来るだろうけども」とか、「戦争にでも行って、もうどうにもしようがないときに、絶対の諦めがくると、そう言う気持ちになることがあります」と言ってますが、
 
 
正直言って、長いこと私も、ここのところ、よくわからなかったのです。
 
つい最近になって、「無邪気な気持ち」とか、「無念無想」とか、「戦争にでも行って、絶対の諦めがきて、乱雑なる妄想が瞬間止まった時」とかの言葉が、ここを理解するキーワードであることにやっとy気がついた。
 
 
話は二転三転するが、修練会の時の、天風先生の真理瞑想行での講話集である「運命を拓く」という本のことである。
 
そもそも天風先生は、「真理瞑想行」の目的を、第二章「人生を支配する法則」、P、68で、「それまで人間の心の行う思い方や考え方が、人事の万事を良くも悪くもするものだということを知らなかった。知らないのも無理はない。人間の心こそ、宇宙一切の造り主である宇宙大霊と自分の生命の本体たる霊魂とを、交流結合させる回路であるということを知らなかったからである。これを正しく心のものとするために、『真理瞑想行』を行っているのである。」と言っている。
 
簡単に言えば、真理瞑想行は「人間の心こそ、宇宙一切の造り主である宇宙大霊と自分の生命の本体たる霊魂とを、交流結合させる回路であるということを」自覚させるために行っている、ということである。
 
では、「人間の心こそ、宇宙一切の造り主である宇宙大霊と自分の生命の本体たる霊魂とを、交流結合させる回路であるということを」正しく自覚できたらどうなるかというと、
 
 
「運命を拓く」序章、朝旦偈辞、P、38〜39で次のように言っている。
 
「人間の思ったり考えたりする『心』の作用というものは、『霊』の働きで動いているとすると、その霊という気は、宇宙を創っている創り主である宇宙本体が霊なのだから、やはりそれに通じている、ということである。
電灯に抵抗の強いものを当てると、ショックはたちまち変圧器にきて、すぐにヒューズが飛ぶ。それは結局、つながっているからである。そうすると、この宇宙霊という気の元が、一切の万物を創る力があるということである。この当然の連結関係を手繰っていくと、人間の心で思ったり考えたりするということが、あだや疎かにできないのだということに、すぐ気がつくはずである。
まことに、峻厳侵すべからざる宇宙真理である。だから、どんな場合があっても、消極的な方面から、物事を思ったり考えたりしてはいけないのである。
この法則を厳として自覚し、常に、この法則を乱さないように活きるならば、人生は、期せずして、大きな調和のもとに満たされる。そして、無限の強さと、生命の無限の自由というものが、自然的に出てくる。これが仏教でいう〝無碍自在〟である。」
 
 
やっと、ここで〝無碍自在〟という言葉が出てきました。

つまり、「人間の心が、人間の霊魂と宇宙大霊を結ぶ回路である」ということがわかるようになると、無碍自在という状況が現れる、というのである。
 

これが、カリアッパ師が、「無邪気な気持ちになれよ、そんな気持ちでしょちゅういたら、病なんか、どっかへ吹っ飛んでいちまうわい。」という言葉の意味なのである。
 
つまり、無邪気な気持ちでいたら、「無限の強さと、生命の無限の自由というものが、自然的に出てくる」、つまり、無碍自在の状況が生まれる、というのです。
 
 
同じように、目の前に座っていた豹と「ハッ」と思って「ハッ」と、にらめっくらしたら、豹がスーッと向こうへ行ってしまったのも、心が無念無想になっていたから、宇宙大霊と人間の霊魂とが繋がった結果、無碍自在という状況が生まれたせいなのです。
 
無碍自在という言葉、そのものを説明することは難しいが、少なくても、人間の霊魂とこの世を創っている宇宙大霊とが、繋がった結果、人間が、宇宙大霊そのものになってしまった、と解釈してもいいと思います。
 
宇宙大霊が、この世の出来事のすべてを差配しているのだから、つまり、この世は宇宙大霊の意志の元に動いているわけだから、豹も、宇宙大霊の意図に従って、スーッと向こうへ行ってしまった、と解釈していいのです。
 
 
天風先生が、平炭鉱の暴動を鎮めに行った時、炭鉱へ渡る橋のつり橋へ、片足を掛けた途端、向こうからパンパン鉄砲を撃ちかけて来たにもかかわらず、サッサッと渡って行った。
 
後で調べたら、外套の腰のところを五つ弾が抜いて、そして、ズボンの端を二つ抜いていたが、体には一つも中っていなかった。
 
という話は、天風先生を研究しておられる方、よくご存知の話だと思うが、
 
弾が中らなかった理由について、天風先生は、「成功の実現」、P、248で、次のように述べています。
 
「そうすると、例の平炭鉱に私が行ったときなんかも、こういう話を正しく理解してない人は、無謀だなあとか、あるいは無茶だなあとか、あれだけの胆力がなあ、と思うかもしれないが、胆力でも何でもないんだよ、これは。そうだろ。私は無邪気に入っていったんだもの。胆力で、『くそ、こんちくしょう、おっかなくあるもんか』なんて気分で入っていったんじゃないんだもの。」
 
と言って、鉄砲をパンパン撃ちかけられても、無邪気な気持ちで入って行った、と言っています。
 
無邪気な気持ちで入って行ったから、自在境というものがあらわれて、鉄砲の弾が、自分の身体に中らなかった、と次のように言うのです。
 
「何も考えないの。何も考えない、いわゆる無我無念のときに、自在境(無碍自在)というものがあらわれるものなんだ、ねえ」
 
 
だから、「無碍自在」とか、「自在境」というのは、心の中に、雑念妄念がなくなって、人間の霊魂と宇宙大霊とが結びついたとき、神様が自分を守ってくれる、と解釈してもいいのではないでしょうか。
 
反対を言えば、心に中に雑念妄念がいっぱいの時が、最も危ないんだ、自分の思う通りにことが運ばないのだ、ということができる、と思います。
 
 
さっきも言ったように、天風先生は、真理瞑想行というものは、「人間の心こそ、宇宙一切の造り主である宇宙大霊と自分の生命の本体たる霊魂とを、交流結合させる回路であるということを」自覚させるために行っている、と言っています。
 
「宇宙大霊と自分の生命の本体たる霊魂」が結合した結果、「無碍自在」と状況が現れるのだとしたら、真理瞑想行は、つまり、「無碍自在」という状況を自覚させるために行われる、と言っていいのです。
 
 
ただ、難しいのは、「人間の心が、宇宙一切の造り主である宇宙大霊と自分の生命の本体たる霊魂とを交流結合させる回路である」ということがわかるには、実際に、自分の霊魂と、宇宙大霊とが直結しているということを、身を以て体験できなければわからないだろう、ということです。
 
つまり、瞑想の時、霊魂と宇宙大霊が結びついている、ということを、身を以て実感できなければ、いくら理屈で考えても、そして、真理瞑想行で、天風先生の講和を、何回きいたところで、ただ聞いただけではわからないだろう、と思うことです。
 
 
真理瞑想行の時の、天風先生の講和を集めて作られたのが、「運命を拓く」という本であるとすれば、その内容を理解するのは、難しくないはずがないのです。



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「運命を拓く」という本に、「第一義的な活き方」(第9章)というのがあって、天風教義は第一義的な活き方を教えることが、目的である、と書いてある。
 
そして、「第一義的な活き方」とは、どういう活き方をいうのかと言うと、天風先生は、具体的に、さらに、次のような解説を加えてくれている。
 
 
「天風教義の目的は、どんな場合にも、たとえば身に病があろうが、なかろうが、運命が良かろうが、悪かろうが、その他の人生事情のいかんにかかわらず、いつも一切に対して、その心の力で苦を楽しむの境涯に活きる活き方をすることにある。」と。
 
天風教義の目的が、「第一義的な活き方」を教えることを目的とする、と言われて、そして、「第一義的な活き方」とはどういう活きかをいうのか、上のように解説されて、
 
それで、天風先生が何を言わんとしているのか、その意味を直ぐに理解できる人は、この中には、殆どいないと思う。
 
なぜなら、実際にそのような心境が身についてからでないと、わからないことだからです。
 
つまり、そういう心境にまだなり得てない、修業中のうちは、良くわからないのである。
 
 
天風先生は、「第一義的な活き方」が、出来るようになった時の心境を、
 
「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山」だとか、
 
ヨガ哲学からの引用だとして、「たとえ身に病があっても、心まで病ますまい。たとえ運命に非なるものがあっても、心まで悩ますまい」という言葉でもって説明されているが、
 
貴方達、この言葉の意味が分かりますか?わかる人がいますか?
 
このような言葉を用いて、これが「第一義的な活き方」だと言われても、ますますわからなくなってしまう、というのが本当じゃないでしょうか。
 
もっとも、そういうことが言えるのも、実は、これまでの私が、そうだったからなのですが。
 
 
そもそも、「第一義的な活き方」ができるようになる心境について、天風先生は次のような言葉でもって説明されている。
 
「楽しみは楽しみ、苦しみは苦しみ、と別々にしてしまうものだから、今の世の中は、苦しいことばかり、楽しいことなんてあるかい、と言う。その苦しみをなお、楽しみに振り替える心持というものが、人間として、ぜひ必要だからこそ、天風教義がこの点に主力を注いでいるのである。」
 
つまり、「第一義的活き方」というのは、「苦しみをなお、楽しみに振り替える方法」が身につくことをそう言っているのであり、また、そうなる方法を教えるのが、天風教義の目的である、と解釈できるのです。
 
 
苦を楽しみに振り替えることができるようになって初めて、「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山」という言葉がわかるようになるのです。
 
これは、わが身に、不運や不健康が降りかかって来たとしても、それを、苦しみと受け取らないで、楽しみの方に、心を振り替えることができるようになれば、人生に、苦もなく、楽もなくなる、ということを教えようとする言葉なのです。
 
 
そして、「たとえ身に病があっても、心まで病ますまい。たとえ運命に非なるものがあっても、心まで悩ますまい」という言葉だって、同じである。
 
これも、病があっても、不運に遭っても、苦と感じないで、楽の方に心を切り替えることができれば、病も、不運も、少しも問題とするに当たらない、ということを教えてくれている言葉ではないでしょうか。
 
「苦しみを楽しみ」に、心を振り替える方法を知らないから、これらの言葉の意味も、何を言っているのか、さっぱりわからない、のである。
 
 
天風先生が、頻りに引用する、熊沢蕃山の「憂きことのなおこの上につもれかし、限りある身のちからためさん」という言葉だって、
 
蕃山が、どんなつらいことがあっても、俺は、それに負けない、という自信があって初めて、言える言葉ではないでしょうか。
 
つまり、熊沢蕃山だって、苦を楽に振り替える方法を知っていたから、そういうことを言えたのだ、ということになるのです。
 
 
天風教義の目的は、「第一義的活き方」ができるようになること。つまり、苦しみをも楽しみに振り替える事が出来るような心を作ること、と言っているが、
 
そうなる為に、天風教義の各種の方法、観念要素の更改法があり、そして又、積極精神の養成法あり、神経反射の調節法があるのです。
 
つまり、天風教義というものは、「苦をも楽に」と心を切り替える方法を教えているものだと、言えるのです。
 
天風教義を実践して、心が積極的になれば、「苦をも楽に」振り替えることができるようになるのです。
 
 
貴方達が、「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山」だとか、「たとえ身に病があって、心まで病ますまい。たとえ運命に非なるものがあっても、心まで悩ますまい」と言われて、とても俺にはそんなことできそうにない、と思うのは。
 
それは、まだ、そういった心境に達していないからなのです。つまり、心が積極的になっていないからなのです。
 
 
一生懸命、日々、天風教義を実践して、努力し続ければ、いつかは、この言葉の意味もはっきりわかるようになるでしょう。
 
わからないのは、まだ、修業が足りないからなのです。
 
 
今、わからないからといって、諦めてはいけません。
 
今わからなくても、一生懸命、天風先生が教えることを実践していれば、その内わかる時がきっと来ますよ。
 
 
 
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現在の心境

今の心境を、皆さんにお知らせしようと思っても、どういう風に表現したらいいかわからないのですよ。
 
強いて言えば、最近は、殆ど、心の中に心配事がなくなった、ということだろうか。
 
心配事ばかりでなく、最近では、怒り、悲しみ、怖れといったマイナス感情が、めったに出てこなくなっている。
 
 
そうは言っても、私も人間だし、生きているんだから、出るべき時には、出てくるんだろうけど、少なくとも、以前のように、雑念妄念が頻繁に心に湧いてきて、始末に困るということはなくなった。
 
 
瞑想だって、以前は、特に出だしは、盛んに雑念妄念が出て来て、それと格闘するうちに、次第に、心が穏やかになってき、しばらく時間が経過してから、やっと、無念無想、即ち三昧の境地に到っていたのだが、
 
最近はそういうこともなくなった、つまり、最初から、殆ど、雑念妄念が出て来なくなっているのである。
 
 
何故だろうと思っても、いくら考えても、自分の力だけでは、その理由を見つけ出すことができなかった。
 
ああ、そうなのかと、その理由について、気づいたのは、天風先生の「盛大な人生」という本の中で、次のようなことを見つけてからだった。
 
盛大な人生P、375、に次のようにある。
 
「だから、心のおおらかな、やすらかーなものになりたけりゃあ、一刻も早く、この妄想念という自分を苦しめるものを処置しなきゃいけないんだ。すなわち、霊性意識が発現して妄念を除き去ってくれりゃ、もうしめたもんだ。」
 
「だから、妄想念が除き去られれば、霊性意識が招かずして発現して来る。霊性意識が発現すりゃ、そこに『自覚正念』というものが出てくるんだ。いわゆる霊感というんですが、学問的に言うと自覚正念。同じことなのよ。霊感も自覚正念も。」
 
天風先生は、上で「霊性意識が発現して妄念を除き去ってくれりゃ、もうしめたもんだ」と言っているから、
 
私の場合も、日頃から、霊性意識が発現していて、雑念妄念を除き去ってくれているからしているから、瞑想の時、初めから無念無想の状態になっていて、直ぐに、三昧の境地に入れるのだ、ということがわかった。
 
 
また「妄想念が除き去られれば、霊性意識が招かずして発現して来る。霊性意識が発現すりゃ、そこに『自覚正念』というものが出てくるんだ。」と天風先生は言っているが、
 
最近は、日頃から、何も考えずに、パッと考えて、パッと行動したことが、後から考えて、最も適切な考えであり、行動であったということが、度々あるが、これも、自覚正念、つまり、霊感が出て来て、それに従って行動しているからなのだろう、と思う。
 
「成功の実現」(P、342)という本の中でも、天風先生は、「霊性意識が心の中から出るようになると、諸事万事、自分でも不思議なぐらいフーッと名案工夫が出てくるんですよ。」と言っている。
 
 
また、「心に成功の炎を」という本のP、294には「第六感以上の精神力が出てくると、その人の生命の全体からオーラの力が非常に旺盛に出てくるようになるんだ。だから、そういう人の力を受けたものは、病でも、性格でもドンドン治っちまう。私が手を乗せると、医者が見捨てたような病人でも、グングン治っちまうだろう。」と天風先生は言っているが、
 
最近では、私も、肉体的な病気ばかりでなく、特に、うつ病などといった、精神的な病気まで治せるようになっているのは、霊性意識の中から、第六感以上の精神力が出ている為だろうと思う。
 
 
書き出しで、私は、「最近では、殆ど、心配事、悩み事がなくなっている」と言ったが、これも、自分ではなぜそうなったのか、その理由がよくわからなかった。
 
「心に成功の炎を」という本のP、254で天風先生が、「いあや、自分がだいぶよくなったと思った時は、まだ、本当に良くなっちゃいないんだよ。本当によくなっちまえば、おれもできてきたなあなんて思いやしませんよ。そんな己惚れなんか考えないんだから」と言っているのを見て、
 
最近、心配事や、悩み事がなくなったのは、本当に、信念」が強くなった為だとわかった。
 
 
というのも、これまでのように、「信念!信念!」と、信念を強くしようとさえ、思わなくっていることからも、そのことが察せられる。
 
つまり、「信念」なんて、もう、どうでもよくなっているのである。
 
 
天風先生は、「成功の実現」の中で(P、273)、「幸福だとかね、健康だとかってことは、相手の方に不幸福だ、不健康だっていう事実があるから、そういうことが生まれるんだよ。わかるかい。」と言っているが、
 
信念だって、そうなってしまえば、もうどうでもいいのである。
 
極端なことを言えば、信念なんて、あってもなくても、そんなことは、どうでもいいのである。
 
でも、そういうことを意識しなくなってはじめて、信念が強くなったと言えるのではないだろうか。
 
 
意識に上がらない事を、話したり、書いたりするのは、とても、難しいことである。
 
だから、側で見ていて、指導してくれるお師匠が必要なのかもしれない。
 
 
 
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霊性の自覚

天風先生の「安定打座考抄」には、「霊性の自覚」という言葉が出てくる。
 
例えば、P、19〜20には次のように書いてある。
 
「いずれにしても、平素予の所説する如く我々人間の生命なるものは、哲学的に言えば『霊』なるもので保持されているので、従って、万人皆一様に尊い霊性を有しているのだから、我人共に『自分の霊性ソモ如何なるものか』ということを知るという事は最も肝要な事柄なのである」と。
 
「霊性の自覚」など言われると、言葉に惑わされて、その真意がよく汲み取れないと思うが、「霊性の自覚」というのは、要は、「本当の自分とは何か」ということがわかること、と同義語なのである。
 
だから、上の、安定打座考抄の中の「『自分の霊性ソモ如何なるものか』ということを知るという事は最も肝要な事柄なのである」と言っていることは、つまり、「本当の自分とは何かと言うことを知ることは、最も大切なことである」と言い換えることができる。
 
 
それでは何故、「霊性の自覚」つまり、「本当の自分とは何か」ということを知ることが、最も大切なことかというと、天風先生は次のように言っている。
 
「吾人人間にはとかく物事に惑うという、即ち迷いやすい性がある。この迷いやすい性なるものが、結局自分というものを不明にしてしまう……というのは、この迷いやすい性なるものが、人生に一番大切な、自分を信じる『信念』というものを極めて薄弱にするからである。実際の話が常に説いている通り、人間お互いが、万一自分を信ずる『信念』というものを弱めたが最後、人生は極めて悲惨なものになる」と。
 
これは、「霊性の自覚」つまり、「本当の自分」というものがわからないと、人生に一番大切な自分を信じる信念というものが極めて薄弱になる、と言っているのである。
 
人間は、自分を信じる信念が強くならないと、生来持っている迷いやすい性質というものに煩わされて、不安で落ち着かない人生、つまり、信念のない生活、を送らねばならない。
 
そうならない為には、「霊性の自覚」を現実のものとしなければならない、というのである。
 
何故なら、「本当の自分」がわかれば、つまり、「霊性を自覚」できれば、信念が強くなるからである。
 
つまり、ここで、天風先生は、「霊性の自覚」つまり、「本当の自分がわかれば」信念が強くなる、言っているのである。
 
 
だから続けて次のように言うのである。
 
「故に吾人は、この人生に重大なる関係をもつ信念なるものを根強くする為に、是非とも霊性の自覚を現実にして疑惑の性から解脱しなければならない。」
 
 
そして心身統一法の目的は、この「霊性の自覚」にある、と次のように言うのである。
 
「吾らの心身統一法の教義の全部が理入行入の各種の方法を示教しつつあるのも、煎じ詰めればこの『霊性の自覚』ということを現実になさしめんがために外ならない」
 
 
これまでを要約すれば、心身統一法の目的は、「本当の自分」がわかる為にある。
 
なぜなら、「本当の自分」というものがわかれば、信念が強くなるからである。
 
ということは、心身統一法の目的は、結局、信念を強くして、疑惑迷妄の性から解脱して、安心立命の生活を送れるようにするためにある、と言っていいのである。
 
 
 
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中村天風先生のお師匠さんは、頭山満翁であることは、今や、周知の事実である。
 
 
頭山満さんは、よく「独りでいても淋しくない人間たれ」と言ったと、「図解 中村天風」(海鳥社刊)の中で、紹介されている。
 
同じように、言葉の意味も、解説されていて、この言葉を紹介した井上安正という人は、次のように言っている。
 
字面で考えれば、孤独に耐えられる人間になれ、と読み取れますが、ただ単にそれだけではない。自らの内部に太陽のような強い火種をもちなさい、何か自分の胸の内に強く燃えるような志をもてば、独りでいても淋しくないし、何でもやり遂げることができると(頭山)は言っているのです」
 
暫くの間、私も、同じように考えていたのだが、最近になって、「ちょっと!待てよ」と思うようになってきている。
 
 
いかにも、心の中に、燃えるような志を持っていたら、独りでいても淋しくなさそうに思えるが、果たしてそうなのだろうか?と。
 
 
現実の問題、心の中に「燃えるような志を持て」と言われても、「心の中に燃えるような志」を持ちながら、その理想に向かって日々、精進している人が、果たして、何人いるのだろうか。
 
というよりも、普通の人にとっては、先ず、「燃えるような志」を探し見つけ出すことすら、難しいというのが現実ではないのではなかろうか。
 
 
よしんば、そういった「燃えるような志」を見いだし得た、としても、そういう志を持っただけで、毎日の生活が淋しくなくなるのだろうか?という疑問は依然として残る。
 
言い換えるなら、「燃えるような志」を持ったにしても、やはり、それだけでは、淋しさは、心の中を駆け巡って、止まないのじゃないか、と思うのである。
 
 
さて、ここで、なぜ、人は淋しくなって、独りでいられなくなって、淋しさを紛らわすため、人と交わることを求めたり、物によってストレスを解消しようとしたり、或いは、動物や自然に、慰めを求めたりするのだろうか?ということを考えてみよう。
 
それは、怒り、怖れ、悲しみといった、いわゆる雑念妄念というものは、その人の、好むと好まざるとを問わず、心の中に湧いてきて、その人、を苦しめ、疲れ果てさせるからではないだろうか。
 
つまり、人は、心の中の雑念妄念に悩まされて、心が、疲れ果てる結果、独りでいられなくなるのではないだろうか。
 
 
とするなら、頭山さんが「独りでいても淋しくない人間たれ」と言ったのは、独りでいても、雑念妄念に悩まされないような人間になれ、と言わんとしたのではないか、と思うのである。
 
 
心の中の雑念妄念というものは、人や、物によって、決して解消できるものではなく、ましてや、ただ、崇高な志を持っただけで、解消できる生易しいものではなさそうである。
 
 
いささか、我田引水、牽強付会めくが、中村天風先生の心身統一法というものは、ひっくるめて短く言うなら、心の中の雑念妄念をなくす方法だから、
 
頭山満翁も、天風先生の心身統一法によって、心の中の雑念妄念を無くし、信念が強い人になりなさい、ということを言いたいがために、「独りでいても、淋しくない……」と言ったのかもしれない、と思うのである。
 
 
実際、信念が強くなって、心の中に、霊性意識が発現してくると、独りでいても、心の中に、雑念妄念が出てくることが、殆どなくなるから、結果、人や、物や、自然によって、淋しさを紛らわす必要も、全く、なくなるのである。
 
 
ところで、「小人閑居して不善をなす」という言葉がある。
 
これは、人の中に立ち交じって忙しく働いている時よりも、独りでいる方が、余計、雑念妄念が出て来て困る、という事実を表した言葉でもある。
 
 
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