気と心と宇宙法則

難病(難しい病気)の人たちの力になりたい、と思っています。

中村 天風

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天風先生の本「盛大な人生」の第五章は、「大事貫徹」となっていますが、この章は全て、天風先生が、禅でいうところの、十牛の図というものを、心身統一法でいえば、どう理解したいいかについて、説明されたものです。
 
 
ところで、「十牛の図」というものが、どういうものか、知らない人に、天風先生の「盛大な人生」からそのまま引用すると、(p、296)
 
「これから見せる十牛の図は一体だれがこしらえたものかというと、仔細かまわずいえば、今から八百年前に支那の今の常徳府の梁山というところにいた、廓庵師遠(かくあんしおん)という人がこしらえたと言われているものです。」ということになります。
 
 
なぜ、廓庵師遠という坊さんが、この十牛の図を作ったかというと、その目的について、天風さんは、同じ「盛大な人生」の中で、次のように言っています。
 
「このお集りにはそんな人は一人もいなかろうけど、牛とは何の牛だということから話をしようね。これから話す牛というのは、禅の言葉でいうと、『本然の自性』というものを、角の生えている牛にたとえて説明しようとするものなんだ。言い換えれば、これが『仏性』だと言うんですよ、仏様の方では。
これだけじゃわからないだろう。それを心身統一法でいうと、いいかい、『自我の本質』というんだよ。
人間の本当の正体というものが、いわゆる本然の自性。この本然の自性というものを非常に多くの人が、現在ややともすると、自分じゃ気がついてないんだよ。自分じゃ気がつかずに見失っている自我の本質というものを、はっきり悟らせて、そしてその本来の霊光を発揚させんがために、これはこしらえられた教えなんだ。」となる。
 
天風先生は、ここで「本然の自性』とか、「自我の本質」とかいった言葉を使っているが、これは、普通、先生が「本当の自分」と言ってるのと一緒、と言っていいと思う。
 
 
さて、前置きはこれぐらいにして、本題の、十牛の図の中の「忘牛存人」に入ろうと思う。
 
天風先生は、この「忘牛存人」のことを、次のように解説している。
 
「この絵を見て、一番最初に、皆さんが気がつくことは、今まで牧童と一緒にいた牛がいないでしょう。子供一人だ。
これはどういうわけか、考えてごらん。第六図では、求める人と求められた牛とが全く一体となって、いわゆる無心無我の境に没入している。ところがさらに、修業が進んで気がついてみると、今まで求めてた牛、いわゆる本然の自性、自我の本質、というものが、ほかのところにあるのではなく、またほかのものではなくて、自分自身であったということを暗示したのが第七図なんです。
牛がいなくなって、人のみがいるというので、忘牛存人と書いてありますが、もう少し詳しく言おう。
修養に一生懸命つとめる人が、今まで熱心に求めていた真実の人生が、今まさにその人と一体になった。チャーンと寝ても起きても一体となっているんだから、もうそれがあるもないもないんです。
したがって、あえて殊更に幸福な人生を考えたり、求めたりする必要がないんです。そのまんまなんだから、必要がないもん。あるんだからねえ。もうそんなものは思わない、考えない、忘れちまっている、というのがこの忘牛存人。」
 
 
なぜ、今日、私が、この忘牛存人を取り上げたかというと、それは、最近瞑想していると、日頃、私が、「気の組織」と言っているものだけになっているのだが、このことが、十牛の図の中の「忘牛存人」にそっくりだな、と思うようになったからである。
 
つまり、瞑想していると、最近は、肉体の意識とか、或いは、心の動きというものが、全くなくなって、あるのは、この「気の組織」一つだけがある、かのような感じになってきているからである。
 
言い換えれば、最近は、瞑想が深まるにしたがって、それまで、私の肉体の中で、盛んに暴れていた、この「気の組織」が、次第に、静かになって、今では、丹田から頭頂まで全身を貫いて、ただ一つあるかのように、感じているからである。
 
 
天風先生は、ここのところの解説の中で、「修養に一生懸命つとめる人が今まで熱心に求めていた真実の人生が、今まさにその人と一体になった」と言っているが、
 
私が「気の組織の外、何もなくなった」というのは、先生が「今まさにその人と一体になった」ということと、同じことを言っているのではないか、と思うのです。
 
 
つまり、先生が「今まで、求めていた真実の人生」というのは、私が言うところの、「気の組織」というのを指して言っているのではないかと、思うのです。
 
即ち、先生が「求めていた真実の人生」イコール、私が言うところの「気の組織」ということになるのではないかと、思うのです。
 
 
私が言うところの、「気の組織」即ち「真実の人生」であるとするなら、肉体とか心がなくなって、残っているのは「気の組織」だけということになると、もう外に向かって、「真実の人生」を求める必要もないわけです。
 
言い換えるなら、もうすっかり、「真実の人生」と「気の組織」が一つのものとなっているのだから、つまり、それしかないのだから、外に求める必要など、全くないと言うことになるのです。
 
 
そして、ここで、皆さんに理解してもらう為に、もう一つ付け加えておかなければならいことは、天風先生は「求める人」、と「求める牛」といって、言葉を使い分けています。
 
先ほど来、先生が、言うように、「求める牛」とは、「真実の人生」と言うことになりますが、
 
さて、反対に「求める人」とは何か?というと、それは、「真我」つまり、「本当の自分」と言うことになります。
 
 
十牛の図で、「忘牛存人」といって、「牛」がいなくなって、「人」しか残っていないということは、実は、人というのは、「本当の自分」と解釈していいのだと、思います。
 
つまり、牛がいなくなって、人だけが残っているということは、ここでの「人」とは「本当の自分」を指して言っているのであり、
 
そう考えると、「本当の自分」が、「真実の人生」と一体となったということは、「本当の自分」こそ、「真実の人生」ということになるのです。
 
即ち、この十牛の図を突き詰めて行けば、「本当の自分」イコール「真実の人生」と言うことになるのです。
 
 
そう言えば、天風先生は、あらゆる所で、あらゆる機会をとらえて、心身統一法の目的は「本当の自分」とは何か、ということを知ることだと、そう言っています。
 
 
 
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ブログを見るともなく見ていたら、「苦難は神様からの招待状」というタイトルが、目に入った。
 
そこに書かれた内容は、おおよそ、「苦難は、神様がもっと精神的に立派な人になりなさい、といって自分に与えてくれた試練だから、感謝しなければならない」というものであった。
 
熊沢蕃山が、「憂き事のなお積もれかし、限りある身の力ためさん」と言っているのと同じ意味なのだろう。
 
 
だから、そのブログを批判したり、内容にケチを付けようと気持ちなど、全くなく、言葉そのものには大いに賛成なのだが、
 
問題は、健康上のことでも、運命上のことであっても、何か、わが身に都合の悪いことが降りかかってきた時、普通は「ああ、神様が与えてくれた試練だ、ありがたい」と、思えないから厄介なのだ。
 
誤解がないように付け加えておきたいが、私が、「思えないから厄介」と言うのは、「そう思おうと努力しても」、そうできない、という意味である。
 
 
かつての、我が身に照らしてみても、
 
自分に都合の悪いことが起きているのに、「ああ、ありがたい」と感謝の気持ちでそのことを考えることが出来る人は、めったにいない、と思うのだが、どうだろうか。
 
 
なぜ、思いたくても、また、そう思わなければいけない、とわかっていても、そう思うことができないのだろうか?
 
それは、一言で言えば、「まだ、心の中に雑念妄念が一杯詰まっていて、信念が強くなってないから」ということになる。
 
そう思えるようになるためには、先ず、消極的な雑念妄念を、潜在意識の中から、取り除かなければ駄目なのだ。
 
 
その潜在意識の中の、雑念妄念を取り除くために、天風先生の観念要素の更改法というのがあるんだろ。
 
観念要素の更改法を、毎日一生懸命やって、潜在意識の中から、雑念妄念がなくなってくると、自然に信念というものが出てきて、
 
そして、信念が出てきたら、
 
何か事が起きた時でも、これまでのように、心が、やたら動揺しないようになり、又、苦しいこと、悲しいことがあって、「ああ!これは神様がもっと立派な人間になれ、といって自分に与えてくれた試練だ」、「よし!頑張るぞ」と思うことができるようになるんだよ。
 
 
信念が出てきたら、「俺も、最近、信念が強くなったとか」或いは、「信念を強くして生きよう」などと、努力することもなくなるんだよ。
 
信念、信念と言って、努力しているうちは、未だ、信念が強くなっていないからなんだよ。
 
 
だって、信念が強くなったら、ことさら、心を強くしたとか、これまでのように直ぐに動揺しない心になりたい、とか考える必要ないもの。
 
つまり、自動車だって、道具だって、既に、手に入れて、日頃、使いこなしている物は、特別、欲しいと思ったりしないでしょ、信念だって、それと同じことだよ。
 
 
熊沢蕃山の「憂き事のなおこの身に積もれかし、限りある身の力ためさん」という言葉にしても、
 
蕃山自身が、既に、強い信念を作りえて、苦も楽にと、心を簡単に振り替えることができるようになっているから、そう言えるんだろ。
 
 
 
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本稿は、長くなりすぎたために、二つに分割して、投稿するするものです。先日掲載した(1)と合せてお読みください。
 
 
 
内村鑑三に「代表的日本人」という著書がある。
 
この本で、内村が、日本の代表として挙げているのが、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の5人だが、
 
その中の二人、上杉鷹山、二宮尊徳人は、倒れそうになっていた藩の財政を立て直した、いわゆる理財の人である。
 
 
上杉鷹山は出羽米沢藩(現山形県)の藩主である。
 
その鷹山が藩の財政を立て直すために、どんなことをしたか、「代表的日本人」の上杉鷹山には、次のように書かれている。
 
「東洋思想の一つの美点は、経済と道徳を分けない考え方であります。東洋の思想家たちは富は常に徳の結果であり、両者は木と実との相互の関係と同じであるとみます。『民を愛する』ならば富は当然もたらされるでしょう。『ゆえに賢者は木を考えて実をえる。小人は実を考えて実をえない』このような儒教の教えを、鷹山は、尊師細井平洲から授かりました。鷹山の産業改革の全体を通じて、とくにすぐれてる点は、産業改革の目的の中心に、家臣を有徳な人間に育てることを置いたところです。」
 
「しかし鷹山の率直で高潔な人格が、もっとも明らかにみられるのは、その家庭と家族関係であります。倹約ぶりは、すでに述べました。米沢の財政の信用が十分に回復し、豊かな暮らしを自由にできる時代になりましても、鷹山は、生涯を通じて、木綿の衣服と粗末な食事をとりつづけました。古い畳は、もう修理がきかなくなるまで取り替えることはせず、破れた畳に自分で紙をあてがっている光景がたびたび見られました。」
 
 
二宮尊徳と言えば、普通の人が、心の中に思い描く彼のイメージは、あの、薪を背負い、歩きながら本を読んでいる、昔の本などでみる、銅像の姿ではないでしょうか。
 
しかし、本当に、二宮尊徳の名声を不動のものにしたのは、いくつもの疲弊し、荒廃した集落を、立て直したことによる、つまり、村落の改革者としての実績でした。 
 
 
「代表的日本人」の二宮尊徳の項には、次のように書かれています。
 
「尊徳の一生の間に、広汎な領地をかかえるおよそ10人の大名が、荒廃した自領の改革の為に尊徳の力を借りました。同じく尊徳に助けられた村の数は数えきれないほどです。最晩年には、徳川幕府にも用いられるほど、尊徳の国家への貢献は重要になりました。」
 
 
次は、本の中で、尊徳自身の言葉として、内村鑑三が引用しているものですが、これによって、彼が改革がどのようにして行ったか、その一端を窺い知ることができます。
 
「いったん人々が誠実の念を取り戻しさえすれば、あとは山をうがち岩をくだくことも望みのままになるでしょう。たとえまわり道のようにみえても、それが最短にしてもっとも効果的な道であります。植物の根には、花も実もことごとく含まれているではありませんか。最初に道徳があり、事業はその後にあるのです。後者を前者に先立ててはいけなせん。とあります。」
 
 
二宮尊徳については、京セラの創業者、稲盛和夫さんも、「生き方」という本の中で、次のように言っています。
 
これは、おそらく、稲盛さんが、内村鑑三の「代表的日本人」を、参考して言ったものではないか、と思います。
 
「たとえば、二宮尊徳は生まれも育ちも貧しく、学問もない一介の農民でありながら、鋤一本、鍬一本を元手に、朝は暗いうちから夜は天に星をいただくまで田畑に出て、ひたすら誠実、懸命に農作業に努め、働き続けました。そして、ただそれだけのことによって、疲弊した農村を、次々と豊かな村に変えて行くという偉業を成し遂げました。
その業績によってやがて徳川幕府に登用され、並み居る諸侯に交じって殿中へ招かれるまでになりますが、そのときの立ち居振る舞いは、一片の作法を習ったわけでもないのに、真に貴人のごとく威厳に満ちて、神色さえ漂っていたといいます。」
 
 
さて、今回のテーマは、後藤新平が、欧米歴訪に旅立つ際に、母利恵子が、わが子新平に餞(はなむけ)として送ったと言われる、「的つらぬくは心なりけり」という和歌であった。
 
そして、私は、この和歌は、天風先生が、「人生は心一つの置き所」と言うのと意味は一緒と考えてもいいのではないか、と言った。
 
 
それと言うのも、天風先生は、「成功の実現」という本で、次のように言っているからである。
 
「心の中で思ったり考えたりすることを、心のスクリーンに想像力を応用して描くと、それが期せずして強固な信念となる。信念となると、それがいつかは具体化するのが必然の神秘なんだ、ということが悟れたわけだ。これなんだよ。『思考は人生をつくる』という言葉の意味は。心はその人をつくりもし、また壊しもするという恐ろしいものなんだ。人生は、まこと、心ひとつのおきどころ。」
 
「もっと詳しく言おうね。想像力を十分に働かせて、実際に望み求めているものを実際の姿として完全に、いわばありありと目に見るように心の中に描くことなんだよ。
そうして、それをオリンピックの聖火のように、絶え間なく燃え続ける炎にしなければ駄目なんだ。絶えず。
すると強固な信念がこの方法で結集してきて、その結果、不思議以上の奇跡ともいうべきものとなって、心に描いた映像が事実化してくる。」
 
これを要約すると、私たちの人生というものは、心に描いた想像に、信念がくっついて、その心の中に描いた映像が信念となった時、想像が現実化して、そして、運命が形成されていく、と言っているのだ。
 
だから、実際に望み求めていることを、そのことが既に現実のものとなったように、ありありと、心の中に描き続けていれば、いつかは、それが信念となって現実化する、と言っているのだ。
 
 
と言っても、ただ、望み求めていることを心の中に、ただひたすら、思い描き続けてさえいれば、現実のものとなるかというと、そうではない。信念が強くなければ、そうはならない。
 
だから、天風先生は次のように言うのだ。
 
「境遇なり運命なり健康なりの出来事を、自分の心があらゆる力の源泉になっているがためにこういう結果がきたんだ、なんて気がついて反省する人はいないようだなあ。そういう人達は、人間の進歩とか完成とか発達というものは、何かに対する疑惑というものが解決された場合にできあがる事実のように考え違いしている。
かえって、その疑惑というようなものが、すべての完成を妨げるものだということは少しも考えていないんだよ」
 
ここで先生が、言いたいことは、信念が強くなければ、いくら望み求めていることを、心の中に思い描いても、現実化することはない、と言っている。
 
何故ならば、天風先生は「人間の進歩とか完成とか発達というものは、何かに対する疑惑というものが解決された場合にできあがる事実のように考え違いしている。」と言っているからである。
 
疑惑というものは、信念がないから、心の中に発生してくるものだからである。
 
つまり、信念が強い人というのは、心の中に、疑惑というものがなくなった人のことをいうからである。
 
 
だから天風先生も、次のように言うんだろ。
 
「それからもうひとつ、信念渙発に必要なことを注意しておく。それは『暗示の応用』(観念要素の更改法の中の自己暗示有誘導法のこと。つまり、夜寝る前に鏡を見て『お前は信念が強くなる』と言うこと)だ。
わかりやすく言えば、今教えた通り、心に映像をはっきり絶え間なく描くと同様に、自己暗示も絶え間なく連続的に反復する必要がある。それには、諸君はもういちばんいい方法を教わっているね。鏡に向かって、その鏡に映った自分の顔の眉間のところに新鮮な気分で自己暗示を与える」
 
言っていることは、要は、心に映像をはっきり絶え間なく描くと同時に、観念要素の中の自己暗示誘導法によって、心の中の雑念妄念を払って、信念を強くしなさい、と言っているのだ。
 
 
「思考は運命をつくる」といい、だから「人生は心ひとつのおきどころ」というのは、人の人生というのは、心の中で思っていることに、信念がくっついて、現実化するという、宇宙法則のことを言っているのである。
 
 
幕末幕末備中松山(現岡山県高梁市)板倉藩の山田方谷は、「それよく天下のことを制する者は、事の外に立って、事の内に屈せず」と言って、
 
窮乏した藩の財政を立て直すためには、お金、お金、とお金の事ばかり言っていてはダメだ、先ず、すさんだ領民の心を立て直さなければいけない、と説いた。
 
 
出羽米沢藩の藩主上杉鷹山は、「産業改革の目的の中心に、家臣を有徳な人間に育てること」によって、藩財政を立て直したという。
 
さらに、二宮尊徳は、「いったん人々が誠実の念を取り戻しさえすれば、あとは山をうがち岩をくだくことも望みのままになるでしょう。たとえまわり道のようにみえても、それが最短にしてもっとも効果的な道であります」と言って、次々と、破たんしかけた村落を再建した。
 
 
このように、財政に限らず、わが国で改革に成功した人は、皆、人の心を立て直すことによって、その目的を達成してきたのです。
 
 
もっとも、この人達は、天風先生が言うような、「思考が運命をつくる」とか「人生は心ひとつのおきどころ」といった、宇宙法則については、考えが、及んでいたかったようだが、
 
それでも、何事によらず、人の心こそ、物事が、成功するか失敗するかの鍵である、ということは、十分知っていたに相違ないのです。
 
 
後藤新平の母利恵子は、旅立つ息子に、「梓弓(あずさゆみ)引く手はいかにつよくとも 的つらぬくは心なりけり」という和歌一句を送って、餞(はなむけ)の言葉にしたという。
 
橋本五郎さんは、この歌を「事をなすにあたっては、大切なのは力にあらずして心である。人を動かすのは誠心なのである。」と解説しているが、
 
 
後藤の母は、或いは、天風先生が言うとことの「人生は心ひとつのおきどころ」といった、宇宙法則までわかっていて、「的をつらぬくのは心なりけり」と言ったのかもしれない、と私は、その時、思ったのである。
 
 
 
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本稿は、長くなりすぎたため、二つに分割して掲載するものです。次回と合せてお読みください。
 
 
「梓弓(あずさゆみ)引く手はいかにつよくとも 的をつらぬくは心なりけり」
 
上の句は、後藤新平が大正8年、欧米歴訪に旅立つ際に、母利恵子が、わが子新平に餞(はなむけ)として送った和歌である、という。
 
8月9日(土)の読売新聞、五郎ワールドで知った。
 
 
私でさえ、佐賀の乱で刑死した、江藤新平と間違って考えることがあるくらいだから、後藤新平と言っても、知らない人も多かろう。
 
五郎ワールド、つまり、読売新聞特別編集委員の橋本五郎さんによれば、「後藤新平とは、満鉄総裁や東京市長などを務め、関東大震災時には内務大臣として復興につくし、今日の東京を作った人」、ということになる。
 
 
また、橋本さんによれば、その人となりは、「豪放磊落で時に激しい言葉を発して風刺揶揄して人を怒らせることがあった」、ということだが、
 
これは、あくまで、温和な橋本さんが遠慮しながら、言う言葉であって、それを言うなら、私の知る限り、後藤新平とは、「大法螺吹き」というのが、世間一般の、通り相場ではないか。
 
 
橋本さんは、上の和歌の意味を、「事をなすにあたっては、大切なのは力にあらずして心である。人を動かすのは誠心なのである。」と解説しているが、
 
これでも、決して、当を得てないとは思わないが、少し穿った見方をすれば、この一句は「全てのことは、人の心の中から生まれる」、と解釈してもいいように思う。
 
つまり、天風先生が言うところの「人生は心一つの置き所」という風に受け取ってもいいのではないか。
 
 
話は、まったく変わるが、私の若い頃の愛読書の一つに、安岡正篤先生の「陽明学十講」という著書がある。
 
この中に、山田方谷の理財論(理財論とは今日では財政論)というのがある。
 
 
山田方谷とは、幕末備中松山(現岡山県高梁市)板倉藩の人で、安岡先生の陽明学十講によると、
 
山田方谷とは「貧乏板倉と噂されるほど財政が窮乏していた貧乏藩を、徹底的に刷新して、経済的にも精神的にも大事業をやり遂げ、なにも知らない人でも、一度足を板倉領に踏み入れたら直ぐに、これが音に聞く板倉領だなと気が付くほど実績を挙げた」人ということになる。
 
 
山田方谷は、その理財論の中で「それよく天下のことを制する者は、事の外に立って、事の内に屈せず。しかるに今の理財を理むる者は、悉く財の内に屈す」と言っている。
 
直訳すれば、「天下を制する者は、事の外に立って、事の内に屈してはならない」ということであろうか。
 
 
ここで「事の内に屈している」というのは、わかりやすく言えば、今の理財者(財政を担当する者)は、算盤勘定、つまり、お金の多寡、つまり、目先の、お金が多くなったとか少なくなった、という事ばかりに論じている、ということである。
 
言葉を変えて言えば、どうやって収入(金)を多くして、出費を少なくするか、ということに汲々としている、ということである。
 
山田方谷は、そんな目先の算盤勘定ばかりやっていては、国や藩の財政を立て直すことはできない、というのである。
 
 
では、どうしなければならないか?方谷は言う。
 
「然れども管子の斉における、礼儀を尚んで、廉恥を重んず、商君の秦における、約信を固くして、刑賞を厳にす。これ皆別に立つ所あり。而して未だ財利に区々たらざるなり」と言いている。
 
何を言わんとしているかといえば、「然れども管子の斉における、礼儀を尚んで、廉恥を重んず、商君の秦における、約信を固くして、刑賞を厳にす」というのは、
 
中国の斉という国の、管仲という人は、礼儀を重んじて、恥を知る、という政治をやって、疲弊していた国の財政を立て直した。
 
又、同じように、秦という国の商という人は、国民との約束を守って、刑罰を厳しくすることによって、疲弊した国の財政を立て直した、ということになる。
 
 
「これ皆別に立つ所あり。而して未だ財利に区々たらざるなり」というのは、
 
これらは全て、財政の立て直しを、お金お金と言わずに、人の心を立て直すことによって、国の財政を立て直した、好例である、ということになる。
 
つまり、「事の外に立ち、事に内に屈し」なかった結果、だということである。
 
 
同じような言葉で、「利は義の和」というのがあるが、意味は、利益(つまりお金)というものは、正しいことを追求していれば、自然に、後からついてくるものである、という意味だが、
 
これを言葉を変えて言うなら、国民のモラルを上げることが、ことが結局、国を富ませる、ことになる、という意味になる。
 
 
反対の方から見れば、国の財政が窮乏するのは、役人に贈収賄が横行したり、約束が守られなかったり、或いは、正義とか公平とかいわれることが、通用しなくなったりして、国民のモラルが低下した時に、起きるということになる。
 
国民の心が病んだ結果として、財政が窮乏しているのだから、いくらお金、お金と言って、国民に節約を説いても無駄で、そういう時は、国民のモラル・道徳を如何にして向上させるか、ということを考えなければいけない、と山田方谷は言っているのである。
今日(8月7日)の読売新聞は、先日長崎県佐世保市で、高校1年生の女子生徒が同級生を殺した事件に関連して、「なぜ人を殺してはいけないのか」という特集記事を載せている。
 
 
同新聞によると、「同市では10年前にも小学生による殺人事件が起き、市や県をあげた『命の教育』が行われてきたが、届かなかった。少年による凶悪事件は、私たち大人がある重要な問いかけに正面から答えていないという疑念を抱かせる」として
 
だから「なぜ人を殺してはいけないのか」について特集を組み、3人の識者にその考えを聞いた、と言っている。
 
 
3人の識者とは、元法務官魚住絹代氏、元高校教師水谷修氏、宗教学者山折哲雄の3氏である。(興味のある方は、8月7日の読売新聞15面を見てください)
 
確かに、夫々、言っていることに、一理ないわけではないが、かと言って、それで、人が人を殺すことについて、つまり、子供たちにそのことをどう教えるかについて、核心をついているかと言えば、そうとも言えない。むしろ的外れなことを言っている。
 
 
真理から言えば、言っていることは、所詮、「群盲象を撫でる」(全体の一部分しか見てないこと)或いは、「一知半解」(なまかじり、知ったかぶり)の例えの範囲の答えにしかなっていない、と思われる。
 
つまり、こんなことを子供たちにいくら説いてみたって、果たして、子供たちは理解し、心から納得してくれるだろうか、そして、延いては、これから、子供たちが人を殺さないようになるか、といえば、誠に、心もとない。
 
というよりも、こんなへ理屈を言ってみたって、所詮、「子供たちが人を殺す」ことはなくならない、と思うのである。
 
 
話は変わるが、8月6日は広島に、8月9日は長崎に、原爆が落とされて日を記念する、原爆記念の日である。
 
折しも、ある人から、なぜ、戦争はなくならないのだろう」と訊かれた。
 
私は、即座に、「人間の心の中に憎しみや、怨みといった感情がなくならない限り戦争はなくならないよ」と答えた。
 
そして、続けて、「そういう怨み、憎しみの感情がなくならない限り、いくら戦争反対を叫んでも、戦争は、決してなくならないよ」と続けた。
 
 
ご存知の通り、私は、中村天風氏の心身統一法の信奉者であり、ある意味、中村教の帰依者でもある。
 
だから、毎日、観念要素の更改法を始めとして、瞑想など、心身統一法の実践を欠かしたことがない。
 
そのお蔭か、最近では、殆ど、といっていいほど、心が揺らぐことがなくなった。
 
心が揺らぐことがなくなった、という事は、心の中から、怒り、怖れ、悲しみといった雑念妄念が、殆どなくなっていることを示す。
 
 
天風先生の心身統一法に限らず、禅もヨガも、心の中から、この雑念妄念をなくすことを目的として、作られている。
 
つまり、天風先生の教えばかりでなく、禅でも、ヨガでも、心の中に雑念妄念出てこないように、なるためにするんだよ。
 
 
なぜ、心の中に雑念妄念が生まれるか、というと、それは、「本当の自分」というものが、別にあるのに、心か体、どちらかを、本当の自分、と間違って考えるからなんだよ。
 
体や心を、本当の自分と間違って考えるから、勢い、体の要求や、心の要求(感覚など)を満たすことが、正しい生き方だと、思い込んでしまうんだよ。
 
 
体や心の要求を満たすことが正しい生き方だと考えるから、いい大学を出て、いい給料を得て、いい家に住まい、いい着物を着て、美味い料理を食べるのが、正しい生き方と思うようになるんだよ。
 
こういうものは、いわば幻のようなもので、掴まえようと思って、追いかければ追いかけるほど、あたかも、塩水を飲めば飲むほど、ますます水が欲しくなるようなもので、ますます欲望が募って、心の中は、雑念妄念で一杯、と言う結果になってしまうんだよ。
 
 
だから、ヨガで、非暴力、正直、不盗、禁欲、不貪、などの五つ戒律を定めているのは、日常生活の中で、こういうことをしていれば、心が荒れる、つまり、心の中に雑念妄念が多くなってくるからだろ。
 
ヨガばかりではない、天風先生の心身統一法だって、禅だって、似たような戒律を決めてあるんだが、それは、偏に、心の中の雑念妄念を少なくするために、そういうことを決めているんだよ。
 
 
ここまで来ると、もう、宗教に近いから、そういうことにおいては素人の、高校の教師などの手におえるものじゃなくなる。
 
だから、宗教学者の山折哲雄氏が言っていることは、魚住絹代、水谷修、両氏の意見とは少し異なる。
 
 
参考までに、山折哲雄氏の言っていることを、下に記してみたい。
 
「時代の流れの中で、人知を超える存在が失われた結果、我々は人間を理解したと錯覚した。何らかの分析、思考によって必ず人間を理解する答えが求められると誤って思うようになった。(科学で人間の心がわかるようになる、ということ)
今回のような事件が起きる度に、報道や研究の世界で使われる手法が、その象徴だ。まず社会背景を分析し、次に容疑者の心理的動機の解明に進む。捜査や取り調べての過程で、常軌を逸した、理解できない事が現れると、精神病理的な面からの追求が始まる。
この三つの手法で異常行動の意味がつかめるというのだが、根底には、人間は社会的に科学的に理解できるものだ、という傲慢さが透けて見える」
 
 
山折氏にしても、だから学校現場で、「人を殺してはいけない」ということをどう教えるかについて、具体的な方法論について、言及してないのは残念だが、
 
 
記事にある「市や県をあげた『命の教育』が行われてきたが、子供たちの心に届いてなかったのではないか」という問いかけに対する回答に、十分なり得ているように思う。
 
それは、氏が、言っている、次のような点からわかる。
 
「今回のような事件が起きる度に、報道や研究の世界で使われる手法が、その象徴だ。まず社会背景を分析し、次に容疑者の心理的動機の解明に進む。捜査や取り調べての過程で、常軌を逸した、理解できない事が現れると、精神病理的な面からの追求が始まる。
この三つの手法で異常行動の意味がつかめるというのだが、根底には、人間は社会的に科学的に理解できるものだ、という傲慢さが透けて見える」
 
山折氏以外の他の二人、つまり、元法務官の魚住絹代氏、並びに、元高校教師水谷修の言っていることは、私の心に、全く響いてこない、むしろ、屁理屈を捏ねているように感じられるのも、山折氏が上で言っていることのせいではないか。
 
 
戦争も、殺人も、人の心の中の、「憎しみ、怨み」といった感情、つまり、雑念妄念から生まれる。
 
その人の心というものを、どう捉えるか、そこが勝負の分かれ道である。
 
人間の心がどういうものかがわかれば、必然、どうしたいいか、その方法も、見つかる。
 
 
人の心が、科学なんかで解明できるもんか。
 
できないことを、できるように思ってやっているから、出てくる答えも、また、トンチンカンなものになって出てくるのは、当たり前のことじゃないか。

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