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熊沢蕃山翁の「憂きことのなおこの上につもれかし 限りある身の 力ためさん」という言葉の解釈を、これまで、私は
「つらいこと悲しいことは、自分を成長させる糧(試練)となるものだから、避けたり、逃げたり、してはいけない、試練に遭ったら、むしろ、心を奮い立たせて、向かって行くようでなければいけない」ということの教えとばかり、思っていた。
しかし、天風先生の「成功の実現」という本を読んでいると、必ずしも、そうではないようである。
「きよう教えたような、気を散らさないで心をはっきり使う練習をしていると、習いは性となって、求めず、期せず、努力しなくても精神が統一するようになる。そうすると、人間の最高級な霊性意識というものが、これ困難なく発動するようになるんです。
人間、この霊性意識が出るようになると、何と言ったら形容が適当かと思うほど、こりゃもう鬼に金棒以上ですよ。安心立命以上の安心した人生を生きられる。
自分の心を常に、はっきり使う習慣をつけることに努力すれば、三年、五年の後には自分でもびっくりするような霊性意識という、思ってもみなかった高級な意識状態が自分の心の中から発動するようになるんだよ。そうなると、どんな場合があろうと、自分の人生の出来事に心配することもなければ、懸念することもなくなる。」
「ただ、くれぐれも誤解しちゃいけないことは、有意注意と執着をごっちゃまぜにしちゃだめだよ。軽率に考えると、ちょいと似てるから。
有意注意力というのは、心のすべてが心の前にあらわれた事柄や問題に、その力の強弱にかかわらず同じ強さで、ちょうどサーチライトが暗やみの中のものを照らす時に、こっちだけ強く、こっちだけ弱くということではなく、同一の光度で照らすのと同じ状態なんだ。
執着というのは、心の前に生ずることや物に心がとらわれちゃって、その心を他の方面に円滑に振り向けることができない状態をいう。たとえば、病を持っていると病にばかり首っ引き、借金のあるやつは借金に首っ引き。欲がある奴は欲を何とか果たすことに首っ引き、とう風に。
そういうこだわりから離れなければいけないんだよ、心が。自分が嫌な運命の中に生きている場合でも、注意がもっと良い運命の方に振り向けられていれば、たとえどんな運命の中にいたってそれを気にしなくなる。
幸福を味わおうと思う秘訣はここにあることを考えなければだめだぜ。本当の幸福が味わいたいんだろ。」
「『憂きことのなおこの上に積もれかし。限りある身の力ためさん』と言った熊沢蕃山翁だって、憂き事が憂き事として受け取りたくないからこの歌ができているんだ。要するに、苦しみを楽しみにふりかえようとする気持ちがこの歌になっていることを考えてごらん。」
冒頭に書いた如く、私はこれまで、この熊沢蕃山の句を、「人生は修業の場である、苦しいこと、辛いことを乗り越え、我慢して、頑張って行くことによって、魂が磨かれていく」という風に受け取っていたが、
天風先生は、この句を、「辛いこと、悲しいことがあっても、それを嬉しい、楽しい方に、振り向けられるようになるのが、心身統一法であり、蕃山もそうなりたいと思ってそういったに違いない」と言っているようである。
何事、何物に対しても、常に、意識を明瞭にして対応するように、つまり、有意注意力を訓練すると、精神が統一するようになって、霊性意識というものが出てくる。
この霊性意識が出てくるようになると、天風先生の言葉をそのまま引用すれば、「どんな場合であろうと、自分の人生の出来事に心配することもなければ、懸念することもなくなる」
ということは、つまり、霊性意識が出てくるようになると、例え、悲しいことや辛いことがあっても、簡単に、嬉しい、楽しいことに、心を振り替えることが、できるようになる、と言っていることになる。
こういうことがわかるようになって、今、天風先生が事あるごとに言っている「たとえ身に病があっても、心まで病ますまい。たとえ運命に非なるものがあっても、心まで悩ますまい。否、一切の苦しみをも、なお楽しみとなす強さを心にもたせよう」という言葉の意味もよくわかるようになった。
これまで、この言葉に接するたびに、「身に病があった時、悩んだり、苦しんだり、つまり、心を悩ませないでいることができるだろうか、また、同じように運命に悪い時に、心を悩ませないでいることができるだろうか」と思っていたのだ。
又、天風先生は、天風教義の第一義的な目的は、心は「晴れてよし、曇りてもよし、富士の山」だとも言っているが、この意味も、これまで、よくわかっていなかったようだ。
この意味を、天風先生は「運命を拓く」という本の中で、「急行列車の中で、窓に写るいろんな景色を、フーッ、フーッと雲煙過眼する気持ちが、とらわれのな執着解脱の心境なのである」と説明してくれている。
つまり、天風教義の目的は、「見るもの、聞くもの、何にもとらわれない執着解脱」の心境になること、だというのだ。
そして、「何にもとらわれない執着解脱」の心境とはどういうことかというと、
「眼、これを見るといえどもこれをとらわれず、耳、これを聞くといえどもこれにとらわれず、いわゆる、不即不離、要らないことは、耳から入ってこようと、眼にふれようと、或いは感覚に感じようと、つかず、はなれずでいなければならない」ということだそうだ。
こういうことだって、霊性意識が出るようになって、心を簡単に切り替えられるようになると、できるようになるのである。
だから、「身に病があっても、心まで病ますまい……」といっていることと、「晴れてよし、曇りてもよし、不治の山」とは同じ意味のことを言っていると言っていい。
いずれにしても、有意注意力を訓練して、霊性意識が出てくるようになると、苦を楽にと、心を、簡単に切り替えることができるようになる。
熊沢蕃山翁の「憂き事のなおこの上に積もれかし、限りある身の力ためさん」という句も、「たとえ身に病があっても、心まで病ますまい。たとえ運命に非なるものがあっても、心まで悩ますまい」という句も、また、「晴れてよし曇りてもよし不治の山」という句も、その意味が一緒だという事がわからなかったのは、霊性意識が出てなかったせいなのだ。
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中村 天風
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いわゆる、社会(三面)記事が、新聞の一面トップを飾るのは、めったにないことなのだが、
7月29日(火)の読売新聞の、一面トップは、その三面記事、佐世保市の県立高校一年女子生徒殺害事件であった。
二面でも、その大半を費やして、これまで「命の尊さ」の教育に取り組んできたといわれる、文部科学省や、教育現場に与えた衝撃の強さ、次のように伝えている。
いわく、文科省の幹部は「自分や相手の命を大切にするという教育を一生懸命行っている最中で残念だ」と言い、
学校現場では、命の大切さを伝える授業に手応えを感じる意見もある一方、悔恨の声も上がっているとして、京都市内の中学校長の次のような声を紹介している。
「ひとごとではない。『なぜ人を殺したらいけないの』との問いに、我々教員はきちんと答えていなかったのではないか」とショックを受けた様子で話した」とし、
また、貝塚茂樹・武蔵野大学教授(道徳教育)が、「道徳の時間では、命を大切にしようと繰り返すばかりの傾向が強い」と指摘する。学校で実のある『命の教育』に踏み込めない現実もある」と述べたことなどいったことを紹介している。
ところで、文科相や教育現場が一生懸命取り組んできたという「命を大切にする教育」とは、何なのだろう?中でも、とりわけ、「命」とは何なのだろう。
また、教師は「なぜ人を殺したらいけないのか」ということを、子供たちに教えて来たというが、なら、改めて、その人達に問う、「なぜ人は人を殺してはいけない」のだろうか。
この日本に、人が、約1億2千いると聞く、上のように、「命」とは何か?また「なぜ人を殺してはいけないのか?」と訊かれて、きちんと、自信をもって、答えられる人が、果たして、何人いるのだろうか。
ましてや、小学校であれ、中学校であれ、高等学校であれ、教師に至っては、この質問にまともに答えられる人は、まず、皆無と言っていいだろう、と思う。
先日も、どこかの革新系の政党の宣伝車だろうが、「川内原発の再稼働に反対しましょう!命が一番!」と連呼しながら、家の近くを通り過ぎて行ったが、
勿論、こういう人達だって、「命」「命」と簡単に言うが、「命とは何ですか?」と訊かれて、きちんと答えられる人は、まず、一人として、いないだろうと思う。
結局、文科省の役人だって、小・中学校や高校の先生だって、そして、簡単に「命」という言葉を使いたがる、革新系の政治家だって、
自分ではわかりもしないのに、他人に対して、「命が大切」などと、わかったような顔をして言っているだけなんだよ。
一方、「命とは何?」ということを、生涯かけて、専門に勉強している人が、禅の坊さんなのだが、
その禅坊主にしたって、「命とは何?」と訊かれて、今の日本に、自信をもって答えることが出来る人は、千人に一人、万人に一人もいないだろうと思う。
もっとも、禅の坊さんたちが思っているのは、「命」というのは何?ということではなくて、「本当の自分」とは、何?ということなんだけど。
「本当の自分」が何かわかるようになると、必然的に「命」とは何?ということもわかるようになるんだよ。
これを逆にすれば、「本当の自分」とは何?ということがわからないと、「命」ということもわからない。
禅の坊さんにして、生涯かけて、しかも、家を捨て、世を捨て、山の中に入って難行苦行してすら、「本当の自分」、つまり、「命」がわかるのは、ごくごく、限られた人に過ぎない。
「いわんや、教師ごときが」、と、小・中学校、そして、高等学校にしても、「学校の教師ごときに「命」というものがわかるもんか」と言うのは、その為なんだ。
ところで、「本当の自分」というものがわかれば、なぜ、「命」が何であるかわかるかというと、
先ず、結論から言うね。
命というのは、「霊魂を中核として、精神と肉体とが密接不離一如の状態の下に結合されたもの」だからなんだよ。
このことについては、中村天風先生の「真人生の探求」という本の中に書いてある
本の中に「そもそも人間の生命(いのち)は、どういう内要素をもって作られているかというに、多く言うまでもなく、霊魂を中核として、精神と肉体とが密接不離一如の状態の下に結合されたもの」と書いてある。
さて、「命」とは何?と訊かれた時、だれでも、直ぐに、心に思い浮かぶのは、「体」、と「心」だよね。
だから、皆、「命」というと、「体」か「心」どちらかと思うんだ。
貴方達もそう思っていたでしょう。
しかし、「体」も「心」も、決して「命」そのものじゃないんだよ。
体も心も、命の一部には相違ないが、命には、もう一つ霊魂というものがあって、これが命の中心(根源)をなしていて、体とか心というものは、いわば、霊魂という幹から伸びた枝葉のようなものなんだ。
言葉を変えて言うならば、体や心というものは、この霊魂の命令に従って動く、いわば、使用人のようなものなんだ。
だから、命の中心にあって、体や心を従え、使用している主人、という意味で、霊魂のことを「本当の自分」とか「真我」とか言うんだよ。
話は変わるが、「なぜ人が人を殺すようになるか?」、その原因がわかりますか?
そして、「なぜ、人を殺してはいけないか」、その理由がわかりますか?
「なぜ人を殺すようになるか?」というと、
その原因は、「本当の自分」というものは、「霊魂」である、ということがわかっていないからなんだよ。
「霊魂」というものが「本当の自分」だとわからないと、勢い、目に見える「体」か「心」どちらかが本当の自分だと思うようになる。
本当の自分ではない、「体」や「心」を本当の自分と思い込んで、一生懸命、その為に働こうとするから、そこから、迷いとか、雑念・妄念というものが出て来て、延いては人殺しまでするようになるんだよ。
上で、雑念妄念とか言ったが、これは、実相とか仮相とか言う言葉で説明するのが、最も適しているように思われるが、
仮相というのは、言葉通り、仮のもの、つまり、幻ということなんだ。
体も心も仮相なんだよ、実相、つまり、本物じゃないんだよ。(実相は霊魂)
本物じゃないもの、つまり、幻のようなものを、本物と勘違いして、追い掛け回すから、追いかければ追いかけほど、ますます、わからなくなって、結局は、とんでもないことを、しでかしてしまうようになるんだよ。
つまり、幻を本物と勘違いして、追い掛け回すところから、雑念妄念が発生して来るんだよ。
幻を本物と思い違いして、追い掛け回した結果、佐世保の女子高校生のように、人を殺してしまう結果になるんだよ。
だから、そうならないために、ヨガでは、日常の生活の中で、やってはいけないこと、してはいけないことを、禁戒と定めて、次のように言っている。
非暴力:生き物を殺してはいけない
正直:ウソを言わない
不盗:盗みをしない
禁欲:異性との交わらない
不貪:貪らない
これは、仮相のものを本物、つまり実相と勘違いして追い掛け廻さないように、するために作られたものなんだ。
ということは、この戒律に反したようなことをしていると、雑念妄念が、心に中に、一杯になってしまうから、そうならないように、ということでもあるんだ。
上で、非暴力、つまり、生き物を殺していけない、と言っているのは、そういうこと、悪いことと思わないで、やっていると、次第に、心が荒れて来て、
つまり、心の中が雑念妄念でいっぱいになってしまうから、そうならないようにするために作られたものなんだ。
だから、「人を殺してはなぜいけないか」というのも、そいうことをしていると、心が荒んでくるから、つまり、雑念妄念で一杯になるから、というのがその理由なんだ。
逆に、上のような戒律を守って、心の中から雑念妄念が少なくなるようになると、自然に「本当の自分」というものもわかるようになって、延いては、「命」ということもわかるようになって、「人の命の大切さ」ということも、わかるようになる。
ここまで来ないと、つまり、「本当の自分」とは何か、ということがわかるようにならないと、「命」とか、「なぜ人を殺してはいけないか」ということも、よくわからないんだ。
簡単に、「命」「命」と言い、そして、「命の大切さを教える」とか、「なぜ人を殺してはいけないか教える」と言ったって、「命とは何?」ということがわからないと、教えようにも、教えられないでしょ。
そういうことからすると、文科省も、そして、小・中・高の教育現場も、根本的に、その考え方が間違っていて、だから、生徒に教える教え方も間違っている、と言わざるを得ないのかもしれない。
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天風先生の講演録「成功の実現」、P.244には、次のようなことが載っている。
「ねえ、諸君。霊魂だとか霊気だとか、あなた方はただ抽象的にそれを考えているかもしれないけど、これはね、科学的にはっきり、『ああ、そうか』ってことがうなずけるようになるから。
いいかい。あなた方は、自分ひとりだと思っている。ところが、もう一人の自分がいる。
私は、インドで初めて言われたときにわからなかった。
『お前は、もう一人のお前が本当によく物を考えられるんだから、もう一人のお前に考えさせろ。もう一人のお前が、良い、悪いはすべて天地見通しだ。お前でないものに、お前だと思って考えさせているから、いつまでたってもお前のほんとうの考え方は出てこないのだ。もう一人のお前に頼めよ。頼んですべて考えてもらえ』
さっぱりわからないんだ。雲をつかむようなことばかり言うと思った。ところが、どういたしまして。わかってみれば、なるほどたしかにそうだ。
我々は情けないかな、我々の感覚で認識しえる存在を自分だと思い込んでいるという錯覚を、錯覚と思わないで生きているために、感覚で感じないところに本当の自分がいることを知らない。
分光器で見ると、人間の肉体の回りを包んでいるひとつの気があることが発見されたんです。みんなあるんだ。七つの層をなして。七つの層というのは、色が七つになっている。
(途中略)
我々の体を包んでいる気は、太陽の光線と同じ原色。紫と藍と青と、黄色と橙色と桃色と赤、この七色が層をなしている。これは見えない。
これをアストラルボディ(非物質的な霊体)という。このなかに、いわゆる霊魂が存在して、その気が我々の肉体を守っている間は生きていられる。死というときは、この気と肉体が離れる。」
ここを読む度に、「本当に自分」というものが、わかっている人なら、そうは思わないだろうが、そうではない人は、誤解して受け取られかねない、などと心配になる。
というのも、七色の光の層、そのものが、霊魂、つまり、本当の自分と受け取られかねない、と思うからである。
何故なら、天風先生は、七色の光というのは、本当の自分(霊魂)が、発している光である、という事を、全然、言ってくれてないからである。
だから、そのまま、ここを読めば、七色の光の層、そのものが、本当の自分、つまり、霊魂だと誤解して受け取られる危険がある、と思うのである。
しかし、七色の光というものは、あくまでも、副次的、二次的なものであって、決して、本当の自分、そのものではないのである。
また、七色の光を説明する途中で、アストラルボディ(非物質的な霊体)の話をしているから、アストラルボディというのは、七色の光の層、そのものと受け取られないが、
そうではなく、私は、このアストラルボディこそ、七色の光を発している元、つまり、本当の自分、と考えた方が妥当だと思う。
といっても、ここで私は、七色の光の層を測る、分光器があることも、そして、そう言う光が私たちの肉体を取り巻いていることも、決して、否定しようとするものではない。
しかし、ここで言う七層の光というものは、あくまでも、本当の自分というものが、光を発していて、その光が肉体の外にまで滲み出て、光って見える、と考えるべきだと思うのです。
自らの経験に照らしてみても、殊更、七色の光のことなんか言わなくても、本当の自分というものが、自分の肉体の中にあることを、はっきりと意識することができる。
瞑想をしていて、三昧の状態になった時、丹田から頭頂まで貫く、気体でできた、気の塊があることが、よくわかる。つまり、これが、本当の自分というものである。
このことが、わかるようになると、必然、これが本当の自分であり、この気の塊によって、肉体も生かされていることが、わかるようになる。
と言っても、私が悟りを開いたということではない。
相変わらず、つまらないことを気にしたり、怒ってみたり、する凡人には変わりない。
しかし、喜怒哀楽は、これまで通り、あることはあるが、それにこだわる(執着する)時間が、以前に比して、極端に短くなっているような気がする。
つまり、最近は、これまでのように、悪感情を、いつまでも、引きずらないようになっているのである。
そのせいだろうと思うが、健康は勿論、人事・世事についても、近頃は、心配とか、取り越し苦労とかいった、いわゆるストレスというものを、殆ど、感じなくなっている。
このままで行けば、悟りという境地にも、なんとか、辿りつけそうな気もするが、
今のように、健康についても、運命についても、何も、心配することがなければ、悟りを含めて、それ以上の何かを欲しがる必要もない、といった気持ちに、なったりもする時もある。
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暇のつれづれに、天風先生の「安定打坐考抄」を、久しぶりに、読んでみた。
いつかも、このブログで、天風先生の心身統一法の目的は、「本当の自分(真我)とは何」ということがわかることだと、言ったが、
その根拠として、「成功の実現」という本の中から、次のような一節を引いてきて、紹介した。
「ありていな話が、あなた方がこれまで聞かれた心身統一法という方法は、これからお話する『我とは何ぞや』を先にあなた方に正しく自覚せしめておいてから組み立てられたものなんです。
だから、厳粛な意味から言えば、『我とは何ぞや』を先にあなた方に正しく自覚せしめておいてから、心身統一法を説くのが順序ですけれども、その正しい順序をふんでおりますと、とうていあなた方がその順序通りに私についてきません。」
ここで、直截に、天風先生が、そう言っているわけではありませんが、これは、心身統一法というのは、「我とは何ぞや」ということが本当にわかってからでないと、わからない、という事を言わんとしているのです。
「我とは何ぞや」ということが、本当に、わかってからでないと、今、自分が説いている心身統一法の意味はわからない、と言っているのです。
と言うことは、つまり、心身統一法の目的は、「我とは何ぞや」ということを、わかることだ、ということにもなるのです。
同じことが、「安定打坐考抄」の中にも、出てくるのです。
「いずれにしても、平素予の所説する如く我々人間の生命なるものは、哲学的に言えば、『霊』なるもので保持されているので、従って、万人皆一様に尊い霊性を有しているのであるから、我人共に『自分の霊性のソモ如何なるものか』ということを知ると言うことは最も肝要な事柄なのである」
ここで、天風先生は、「本当の自分」とは、「霊」である、と言っているのです。
「本当の自分」とは「霊」だから、「我人共に『自分の霊性のソモ如何なるものか』ということを知ると言うことは最も肝要な事柄」と言うのです。
なぜ、「本当の自分」が「霊」であることを知ることが、我々の人生に、最も肝要なことなのか、というかというと、それは、そのことがわからないと、「自分を信じる信念」というものが、確固不抜のものにならないからなのです。
「何故?と言うと、吾人人間には兎角、物事に惑うという、即ち迷いやすい性がある。この迷いやすい性なるものが、結局自分というものを不明にしてしまう…と言うのは、この迷いやすい性なるものが、人生に一番大切な、自分を信ずる『信念』というものを極めて薄弱にするからである。実際の話が常に説いている通り、人間お互いが、万一自分を信ずる信念というものを弱めたが最後、人生は極めて悲惨なものになる」
なぜ、「本当の自分」というものが、「霊」であるとわかれば、「自分を信じる信念」が確固不抜のものになるかと言うと、「研心抄」という本の中で、天風先生は次のように言っています。
「この真我(本当の自分)というものに内在する力の消息と、同時にこの真我というものが絶対不滅のものであるという二つの重要な事柄である。
およそこの二つの事柄が、確実に吾人の人生信念となるならば、その人生観は期せずして確固不抜のものとなり、人生如何なる難局に立つ場合と雖も、些かも逡巡忸怩たることなく悠然乎としてこれに対応する事を得るに至ることは必然である。」
「則ち病難に対しても、又運命難に対しても、凡人が心の平静を失って狼狽焦心する時、真人は寧ろ平然としてこれに対応処置する。というのも、蓋し前述した通りその人生観が確固不抜であるからなのに起因する。しかもその根本基盤は真我の力とその不滅に対する信念というものが実に牢固として抜く能わざるものがあるためだということを見逃すことは出来ない」
つまり、「人生如何なる難局に立つ場合と雖も、些かも逡巡忸怩たることなく悠然乎としてこれに対応する事を得るに至る」のは、真我というものは、絶対不滅のもので、しかも、絶対的な力を有するものである、ということが信念となるからである、と言うのである。
ということは、「本当の自分」が霊魂だとわかるようになれば、つまり、真我不滅ということと、真我のもつ力が絶対に強いものだと、ということが信念できるようになる、ということでもある。
ここで、再び、「安定打坐考抄」に返る。
「故に吾人は、この人生に重大なる関係をもつ信念なるものを根強くするために、是非とも霊性の自覚を現実にして、疑惑の性から解脱しなければならない」と言っているが、
これは、つまり、信念を根強くするためには、「本当の自分」とは、目に見えない気体の「霊」である、と言うことがわからなければならない、と言っているのである。
つまり、「本当の自分」というものが「霊」であるとわかれば、自分というものは、物質ではないが故に、絶対不滅、つまり、永遠に滅びることはなく、しかも、絶対のものには絶対の力が宿っている、ということが信念となって、
延いては、人生観が確固不抜となり、人生、如何なる難局に立つ場合と雖も、些かも逡巡忸怩たることなく悠然乎としてこれに対応する事が出来るようになる、と天風先生は、言うのである。
だから、「我らの心身統一法の教義の全部が理入行入の各種の方法を示教しつつあるのも煎じ詰めればこの『霊性の自覚』ということを現実になさしめんがために外ならないのである」
つまり、心身統一法の教えの全ては、つまり、心身統一法の目的は、「本当の自分」とは、「霊魂」という気体である、と言うことをわからせるために、ある、と言っているのである。
「本当の自分」とは、霊魂である、とういことをわかるためにはどうしたらいいかというと、天風先生は、
「安定打坐密法は、換言すれば『霊性の自覚法』として最も適切で効果ある方法であり、同時に疑惑迷妄の我性を解脱し、信念力を増進せしむる方法なのである」と言っている。
つまり、自己の霊性を自覚する為には(本当の自分とは霊魂であるとわかるためには)、自分が教える安定打坐密法が最も適切な方法である、と言っているのである。
もっとも、天風先生ばかりでなく、ヨガでも、禅でも、「本当の自分」をわかる為に、瞑想や、坐禅をしなさい、と言っているのだけれど。
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かつて、数年前、このブログで、霊魂の存在する場所がどこかわからない、と書いたら、ある読者から「それは、左胸、つまり、心臓の存在する辺りだろう、何故なら、『俺』とか言う場合、右手で、胸の辺りを指す」といった趣旨のコメントを頂いたことがある。
その後、そのことについては、長いことわからずじまいだったが、近頃は、それは間違いなく、胸の辺りではなく、額(印堂)から真っ直ぐに入った、脳の中にある、と思うようになった。
その理由は、勿論、自分自身の体験(感覚)から、導き出されたものだが、自分でわかっていても、それを他人に語るとなると、簡単にというわけにはいかない。
霊魂のありかについては、幸い、既に、天風先生が、「成功の実現」という本の中の中で、盛んに言っておられるので、それらに、自分の経験も加えて、霊魂の居場所について、論じてみたい。
天風先生は「成功の実現」の中で、次のように述べている。
「その気を、あなた方のおとっつあんなるものが感じて、感じると同時に、肉体機構の中に受け入れる。この機構を男性の睾丸という。その中で子となるべきものが成長するだけ成長すると、要するに性欲念というものが起こって、これが子をこしらえる機械設備の完全に用意されているご婦人の方へと移されるのであります。」
「そのときに、いちばん最初に母の子宮の中でできるのは、いいか、体となるべき部分ができるのか、心の働きを行う部分ができるのかというと、この気が肉体の中心となって存在する場所がいちばん先にこしらえられるんだ。これを生理科学でいう四畳体というのであります。四畳体の下に間脳というものがある。これはどんなに医者が研究しても、何のためにこれがあるかということを医科学的に説明することはできない、いまだに。しかも人間は、この間脳というものを毛筋でピッと突いても死んじまう。肉体の生命が絶えちまう。この間脳こそ、まことに人間というものの正体である。難しい言葉でいうと、自我の本質である。大根大本がこのなかに鎮座ましまして、これがいちばん先、入れ物としてできる。」
天風さんは、霊魂は、脳髄の中の、間脳の中に居る、と言っているのである。
次に、天風先生は、「気」というものは、どこから入ってくるか、ということを論じているのだが、
神人冥合という言葉もあるが、外部の気が充満した世界(神の世界)と人間とが、直接、繋がる所は、間違いなく霊魂に違いないから、つまり、「気」が入って来る場所も、又、霊魂か、或いは、霊魂と極めて近い場所と考えなければならない。
天風さんは必ずしも、そうは言ってないのだが、私自身は、神と人とが冥合する場所も、外部から「気」が入って来る場所も、同じ、額から真っ直ぐ入った、脳の中の、霊魂の居る場所(天風さんが言われる間脳)、と考えている。
天風先生は、肉体の中の「気」の受け入れ場所として、「成功の実現」の中で、次のように言うのである。
「造物主の無限の力というものが、よろしいか、科学的に言うと眉間から入ってくるんですよ。それが(気が)大脳の中に受け入れられてから、大脳髄の中にある松果体にとどまって、こんど神経系統のいちばん大事なみぞおちのソーラ・プレキサスというのに受け入れられて、それから体じゅうの急所というところへ配分されるようにできているんだぜ。」
さて、話は変わるが、霊性意識というのは、霊魂から直接出てくるものだということは、かねて私のブログを読んでくれている人は、良く知っていることと思う。
天風さんは「インドの仏像には必ず額に星がついています。これを第三の目という。第三の目というのはね、顔に二つある目のほかに、心の中にもう一つの目がある。つまり、霊性意識の出たものは、みんな第三の目をつけなければいけないということが、ヨガの哲学の何千年来の習慣なんです」、と言っているが、
「霊性意識が出ているものは、額に星印をつけねばならない」、ということは、霊性意識の発現する元、つまり、霊魂の場所を明示すために、そうするのだと思う。
額の奥に霊魂がいて、そこから、霊性意識が発されているのに、へその下や、足の裏に星マークをつけも意味がないと思う。
何遍も言うが、私は、今から、14〜15年前、天風会で瞑想を始めて6ケ月ほど経った頃、額の印堂という所に、「気」による波打つような、強い圧迫感を感じ始めた。
その後も、そういった、額の圧迫感というものは、一貫して、次第に、強まりこそすれ、決して弱まることはなかった。
初めは、「気」は額から入って来て、喉を通り、胸を通り、腹部を通って、丹田まで来て、そこに止まると、体の中に、太い、気で出来た棒状のものを、感じたが、
今度は、上から降りてくるのではなくて、下から、つまり、丹田の方から、太い棒状の物(気)が、上に伸びて行って、額まで上がってくるようになった。
このことは、何回も、このブログで、既に述べている。
このように、最近では、額だけではなく、私の肉体の中に、丹田から額までを貫いて、硬くて太い棒状の、気の組織があることを、強く意識するようになったが、
こういうことから判断して、霊魂というものは、この気の組織の中のどこかに、あるのだろう、ぐらいには思っていたが、
最近では、この棒状の気の組織の中でも、特に、額の場所が、他の場所に比して、圧倒的な存在感(圧迫感)を主張するようになった。(こういう表現しかできないのは残念である)
これは、おそらく、霊魂が、「俺はここにいるぞ」、と自分の居場所教えてくれているではないか、と思う。
残念ながら、かつて、コメントをくださった方が教えてくれた、左の胸の、心臓の辺りには、今も昔も、殆ど、何も、感じることはない。
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