|
野球は巨人、新聞は、ここ数十年、読売新聞以外は、読んだことがない。
日頃私のブログを読んでくれている人は、この私の立場を、十分理解していただいてくれているものと思う。
そして、巨人フアンならずとも、多くの人が、小林誠司捕手が、今年、ドラフト1位で巨人に入団した、新人選手、いわゆるルーキーであることは、ご存知だと思う。
巨人は、昨日(4月18日)も、中日に勝ったが、巨人の勝利を賞賛する、読売新聞の記事の中には、次のような下りがあった。
「吉原バッテリーコーチは、(自分の)現役時代の経験を踏まえ『自分が打った直後だと、興奮状態になることもある。小林は打った直後も、落ち着いて守っている』と評価する」
私は、この記事に接し、直ぐに、天風先生のことを思い出し、この人(小林誠司)は、いずれ、巨人だけでなく、日本野球界を代表するような大選手になるだろう、と思った。
天風先生のことを思ったのは他でもない、「真理のひびき」という本の中にある、「人生に最も注意すべきことは得意の時にひとしお心の備えを緩めぬよう心がけることである」という箴言だった。
話は変わるが、つい最近までと言ったら、軽蔑されるかもしれないが、私は、ブッタリ気取ったりせず、心のままに、生きることが素直で、正しい生き方だと、思っていた。
「心のままに」とか、「心に従って素直に」などと言えば、なんとなく美しく、もっともらしく聞こえるが、心の命ずるままに、と言うことは、つまり、感情・感覚のままに、ということである。
感情・感覚のままにとは、悲しい時は悲しいと言い、気に入らぬことがあったら、直ぐに腹を立て、怖いことがあったら、正直に怖いと態度に表すのが、人間として正しい生き方だと思っていた。
天風先生の教えに出会うまで、そういう生きたをしてきたから、「こんなに心が揺れるのだったら、何も考えない牛や馬の方がましだ」とばかり、牛や馬がうらやましくなるほど、自分の揺れる心を、自分でどうしようもなくて、苦しんできたのだ。
私は、自分ののサラリーマン人生を、失敗だった、と思っている。
つまり、怒ることがあるから、怒るのだ、悲しいことがあるから悲しむのだ、嬉しいことがあるから喜ぶのだ、とばかり、我儘・勝手な生き方をしてきたから、失敗したと思うのだ。
それでも、サラリーマン人生は、失敗であってもいい、だが、ここまで71年間、生きて来て、世の為、人の為、何一つ大きなことをしてないことの方が、むしろ、残念でならない。
来し方を、振り返ってみて、ちょっとした小さなことにも、その都度に心を動かしていたから、結局、常に心が揺れ動くようになり、大きな仕事が何一つできなかったのではないか、と自責の念に胸が痛む。
大きな仕事をしようと思えば、日常茶飯事の小さな出来事に心を動かしていては、駄目だと分かったのは、つい、数年前からだ。
もっと早く気が付いていたら、もっとましな人生を送れたのではないか、などと思う。
今にして、思うのだが、天風先生が、「信念は人生の羅針盤」と言っているのも、結局は、日常の生活の中で、怒り、怖れ、悲しみといった、マイナス感情に身を任せたらいけない、ということを言いたかったのだ。
だから、「心に成功の炎を」という本で、天風先生は、信念について「とにかく、自分の人生を信念というもので支配することができる人、そういう人は、やたらと悲しいとか悩ましいとかというものを感じなくなるんです。価値のない悲しみや悩みを感じない。」と言ったのだ。
信念がある人は、人生に、やたら悲しいとか、悩ましいこととか感じなくなるんだ。
つまり、天風先生は、簡単に心が揺らぐことがないようにする為にも、強固な信念を造って置きなさい、と言っているのだ。
だから、そういう信念を造るために、天風先生は、「真理のひびき」という本の中で、
剣道でいうところの「残心」という言葉を使って、勝った、負けた、といって、その度に有頂天になったり、落ち込んだりしていては、いけない、と教えているのだ。
昔の武士は、勝ったと思った瞬間に、心に隙ができて、その心の隙を突かれて、勝ったと思った途端、勝者が敗者になって、命を失ってしまう危険性があったから、そういう教えが特に必要だったのだろう。
「残心」ということについて、天風先生は、「闘う前の心構えと、闘う最中の心構えと、闘い終わったときの心構えに、いささかの差別があってはならない」という教え、と言っている。
なぜなら、「(勝った!)という得意感を心が感得した際は、たいていの人がたちまち有頂天になり、その結果として心の構えを緩めがち」だからというのだ。
勝った!と思って、有頂天になったら、心が、勝ったということに捉われ、拘束されて、冷静さや、柔軟さを欠き、結果、集中力を失ってしまうというのである。
話を元に戻すが、巨人の小林は、捕手である。
バッテリーコーチの吉原が言いたかったことは、次のようなことだったに違いない。
「ヒットを打った後で、興奮していては、捕手は、その後、直ぐ、守りについて、投手をリードしなければならないが、その時、興奮した心では、冷静な判断ができない」、と。
野球の捕手ばかりではない、何の競技でも、大選手、名選手と言われるような人たちは、些細なことに興奮するような人は、ほとんどいない。
ある球団の、ある選手なんか、ホームランを打ったら、わざわざ、バットを2〜3メートル高々と空中に放り上げて、もろ手を中に突き上げて、派手に喜びを爆発させる選手がいたが、
日頃から、大した選手にはなるまいと、思って見ていたが、果たせるかな、最近では試合にも出たり、出なかったり、テレビなどでもあまりその姿を見ることがなくなった。
|
中村 天風
[ リスト | 詳細 ]
|
天風先生は、「心に成功の炎を」という本の中で、「信念とはこんなものだよ、と言って見せることはできない。およそ何が難しいかと言って、『信念ってなんですか?』と聞かれると一番難しいわ。」と言っている。
実を言うと、私もこの「信念」という言葉には、随分悩まされた。
その理由の一つとして、天風先生自身、色々な場所(本)で、この「信念」という言葉を使っていて、しかも、その意味が、場所によって、夫々違った意味に受け取れるように思えたからである。
先生自身は、十分承知しながら、使っているのだろうが、同じ信念という言葉を使っていても、その時々によって、受け取りようによって、全く別なことを言っているのではないか、と疑われるほど、意味が違って、見えたのである。
それは、自分が未熟なため、ということは十分承知しているが故に、
ある所で、使っている信念という言葉の意味と、別の場所で使っているそれと、意味が違っていると思われた場合、それこそ、四苦八苦、理解に苦しんだものである。
しかも、天風先生は、信念ということが、自分の教えの中で最も大切な言葉の一つだと、思っていたからだろう、この信念という言葉を、至る所で、しかも盛んに使っている。
だから、これまで、天風先生の教えを研究していて、何が苦労したかといえば、この信念という言葉の持つ意味であった。
長年の苦労のかいあって、最近、「信念というのは、こういう風に考えればいいんじゃないか」、という所にまで、やっと、到達することができた。
信念なんて、あんまり難しく考えることないんだよ。わかってしまえば、簡単なんだよ。悟りは、足下にあり、とでも言おうか。
「心に成功の炎を」(巻末、訓言二十)という本の中で天風先生は、信念という言葉の定義は難しいと言いながら、次のように言っているね。
「それは。毎晩毎晩自己暗示(お前は信念が強くなる等)を与えているうちに、『あこれか』といいことがわかってくるよ、言わず語らず。だから、それができて私の言っていることがわかるんで、『ああ、私は信念が出て来たな』ということが直観的にわからないと、今の言葉(信念という言葉)も皆目わからないんです。とにかく、自分の人生を、信念というもので支配することができる人、そういう人は、やたらと悲しいとか悩ましいとかというものを感じなくなるんです、価値のない悲しみや悩みを感じない。」
上の天風先生の言葉の中でも、特に、「信念」という言葉を説明したところとなると、後半の
「とにかく、自分の人生を、信念というもので支配することができる人、そういう人は、やたらと悲しいとか悩ましいとかというものを感じなくなるんです、価値のない悲しみや悩みを感じない。」ところなんです。
つまり、信念が出てくると、人生をやたら、悲しいとか、悩ましい、などと考えない、ということなんです。
これが、信念という言葉の意味なんです。
逆に、信念がない人について、天風先生は、ゲーテの、次のような言葉を借りて「凡人というものは、何事も信念なく諸事に応接するために、自然に不可解な苦しみに悩んで、不安な生涯を送ることになる。」と言っているが、
ということは、信念がない人いうのは、「不可解な苦しみや悩みに不安な人生を送っている人」ということになる。
こう言ってみたところで、信念ということが、これだけでは終わらないのが、天風教義の難しさである。(だから、私も、これまで苦しんだのかもしれない)
というのも、次は、何故、この信念ということがこれほど、大事なものか、という問題が出てくる。
と言うことからすれば、たとえ、このように、信念という言葉の意味が分かったとしても、
その信念が、如何に大切なものかということがわからかったら、本当に信念と言うことが、わかったということにはならない、つまり、実際には役に立たない、ということになる。
このことについては、次回以降で、改めて、考えてみたい。
|
|
以前のブログにも書いたが、最近、瞑想の時、努力して、無念無想になろうとする必要がなくなった。
瞑想する時、ただ、座っただけで、無念無想になれるようになった。
座っただけというのは、天風会でするように、ブザーを使うこともなく、また、坐禅でするように、数を数えたり、呼吸を整えたりすることがない、という意味である。
そうなってから後の、自分の心を観察してみると、心の中に、以前よりも、怒り、怖れ、悲しみといった消極的な観念、つまり、雑念妄念が少なくなっているような気がする。
ということは、瞑想の時だけ、座った時、直ぐに、無念無想になれるではなくて、日頃から、心が無念無想に近い状態になっているものと、思われる。
そう思いつつ、天風先生の「盛大な人生」を読んでいたら、次のような文の一節(P.375)に出会った。
「霊性意識が発現して妄想念を除き去ってくれりゃ、もうしめたものだ」
ああ、そうか、瞑想の時だけでなく、日頃から、雑念妄念の出る割合が少なくなったのは、この、霊性意識が発現していたからだ、と気が付いた。
つまり、霊性意識が発現してくると、常日頃、霊性意識の中から、強い「信念」出てくるようになるから、その強い信念が、心の中の雑念妄念を排除してくれるからだと、とわかった。
そう言えば、「運命を拓く」P.202には、次のように書いていある。
「信念というものは、渙発しなければ出てこないのだ。自分の心の中に生まれながらにして、霊性意識の中に入っているものであるから、雑念妄念を除いて、心の正体を出しさえすれば、(信念は)グングン出てくるのだ」
そういうことがわかるようになって、これまでわからなかった、次のようなことも、わかるようになった。
それは、「研心抄」の中の(P,40)次のような一節である。
「古来悟りを開いた人のことを覚者とか又は哲人というが、これは要するにその種の人は、蓋し「われ」なるものの本体が何であるかを、特殊の心的修練を施して、その心をよく霊的境地に置く(三昧のこと)ことを得せしめ、この(霊性意識から発現する)信念的自覚念を発動して(我の本質、つまり、真我を)知得し得た人なのである。故に哲人覚者と称される人々は、一様に何事を思量する時と雖も、その心が霊的境地に置かれてあるために、断然凡庸の考えとその類を異にし、人事世事その他一切の事象に対する考察も推定も徹底している。従って、その種の人々の事を大悟徹底の人いうのである。」
どこがわからなかったというと、なぜ、「哲人覚者というのは、何事を思量する時も、その心が霊的境地に置かれている」ということだったのである。
霊性意識と言うことについて、みなさんの理解を助けるために、次のように順を追って整理してみた。
1、本当の自分(真我)というものは、信念的自覚念(信念)というものが、出てないと、わからない(自覚することが出来ない)。
2、信念というものは、心を無念無想(つまり三昧)の境地に置かない限り、出てこない。
3、信念が強くなると、「我とは何ぞ」ということがわかるようになる。
4、我とは何ぞやということがわかると、心が安心立命する(心が安定し動揺しなくなる)から、霊性意識というものが発現してくる。
5、霊性意識が発現して来ると、特に、瞑想をして、三昧の境地(つまり霊的境地)に心を置かなくても、日常生活をしながらでも、霊視意識の中から信念が出ていて、雑念妄念を排除してくれるから、常に、心は霊的境地(無念無想)の状態でいられる。
上の、「なぜ、哲人覚者というのは、何事を思量する時も、その心が霊的境地に置かれている」というのかという疑問に対する、結論は、5番ということであり、
それは又、「なぜ、私が、瞑想の時、殊更、無念無想になろうと努力しなくても、無念無想になれるようになったか」、ということに対する回答でもある。
このことを天風先生は、「盛大な人生」の中で(P、375)「霊性意識が発現して妄想念を除き去ってくれりゃ、もうしめたものだ」と言うのである。
6、霊性意識が出てくるとどうなるかというと、霊感、霊能というものが出てくるようになる。
7、霊性意識が出た人(つまり、霊感、霊能が出ている人)はどうなるか、というと、「研心抄」の中にあるトーマスカーライルの次の言葉(P.150)を引用して、説明を試みてみたい。
「ライオンは、事なき時は、黙々として従容自若たるも、事あれば直に蹶起し、変に応じ機に処し、或いは疾風、或いは悠々、遅速緩急極めて鮮やかに出所進退する。そしてこと止めば又、静かなること泰山の如し」
上のカーライルの言葉に付け加えると、霊性意識の出た人というのは、こういうことを、無意識のうちにやってのけてしまう、ということであろうか。
つまり、霊性意識が出ている人の行動というのは、理屈で、あれこれ考えてやるのではなくて、咄嗟刹那に起こした行動が、後で考えてみると、最良にして、最適の方法だった、そして、結果として、最良の結果だった、ということになるのだろう。
最近、私の身の上にも、こういうことが、何件か起きている。
つまり、咄嗟に起こした行動が、後で考えてみると、結果として最もいい方法だった、というようなことが。
先ほどから言うように、気が付いてみれば、最近、心の中に、消極的観念、つまり、雑念妄念が、あまり出なくなったように、思う。
ということは、消極的な観念、つまり、怒り、怖れ、悲しみといった感情が、心の中に出てくるのを、あまり感じなくなった、ということである。
つまり、そういう感情に、心が、あまり煩わされることがなくなった、ということである。
天風先生は、「盛大な人生」の中で(P.398)、「自覚正念が発現すると(自覚正念は霊性意識から出てくる)、何にも人に相談する必要もない、もう人生は坦々たること平ったい土地の上を行くと同じように、何の故障もトラブルも感じないで生きられるようになります。心を煩わすものが何もなくなるから」と言っているが。
私も、そういう心境になりつつあるのかもしれない。
特別、心配するようなことは、何も、ないもの。
お 知 ら せ
1、休業日、及び診療時間 変更について
平成24年10月1日より、休業を、土曜日、日曜日、祝祭日に変更いたします。
従って、今後は、月曜日から金曜日までのウィークデイが営業日となります。
又、上記営業日の、診療時間を13:00〜17:30の間と致します。
2、ホームページアドレスは 次ぎの通りです
http://www.psykiryou.comサイ気療研究会
3、遠隔治療無料体験(納得してから、正式な申し込みをしよう)
電話による遠隔治療無料体験:1回(10分間)のみ、「気」による遠隔治療を、無料で体験できます。
ご希望の方は、必ず、メール(アドレスは上記ホームページ中にあります)を使って、申し込んで下さい。(電話での申し込み、お問い合わせ等はご遠慮下さい)
無料体験は、原則、こちらの都合(空いている時間に)により、日時を指定して、実施させて頂きます。
要領は、私のホームページ中の「電話による遠隔治療要領」にありますので、まず一読の上、治療をお受け下さい。
場合によっては、無料体験をお断りすることもありますので、予め、ご承知置き下さい。
|
|
天風先生を勉強している人で、最も理解に苦しむことの一つが、「天の声」ではないかと思う。
本をいくら読んだって、テンでわからない、という人が、殆どじゃないか。
今日は、殆どの人がわからない、「天の声」について、「盛大な人生」という本を使って、少しく、解説を試みてみたいと思う。
「盛大な人生」、220Pには、次のようにあるね。(ここが、心身統一法の原点ともいうべきところだよ)
「またじつに愉快な形をするんですよ、曇ってやつはね。その形のさまざまに、思わず興味を感じて見入っているうちフッと気づいてみると、耳にいろいろの鳥、獣、土、風、そらまあいろんな音が絶え間なく聞こえていても、心がなんと全くそれから離れて、雲の漂いの中に入って無心でいる自分に気づいた。『あっ、これだ!』と、刹那の悟りともいうべきものを心に感じたんですよ。」
「が、同時に、こういう心もちのときに天の声が聞こえると言われていたが、待てよ、何も聞こえないじゃないか、まだ。おかしいなあ。心に使われない、心も使わないでいて、空の心になっているときに天の声が聞こえるって言うけど、聞こえないじゃないか。あの先生、嘘を言ったのかしら。」
天風先生は、初めて「天の声」が聞こえ始めた頃のことを、そのキッカケについて説明しようと思うから、こういう風な話を持ち出しているのだが、受け取りようによっては、話を却って難しくしている。
簡単に言えば、「天の声」が聞こえるようになったのは、心が無念無想、つまり、三昧になると、自分の心と、天とが繋がるようになるということを、ことを天の声が聞こえるようになる、と言っているのである。
だから、瞑想をしていて、心の中に雑念妄念が少なくなって、無念無想、三昧の境地に入ると、天(空の世界)と人間の心が、繋がるようになるが(これを神人冥合と言う)、そのことと、ここで「天の声」が聞こえるようになった、と言っているのとは、全く同じことなのである。
天と人間との心が繋がるようになり、天から「気」が、人間の心の中に入ってくると、心がうっとりとなるから、天風先生は、次のように言うのである。
「どうだね、その雲に見入って、ウットリとなったときだな、ふだん、おまえさんの心に張り付いている、死に対する恐怖念や、病からくるいろいろの苦痛、しょっちゅうおまえが私に息苦しいの、今にも息がとまりそうだの、それからもう何ともやるせない寂しさを感じますとか言ったあれ、あれを、おまえ、心に考えたかい」
貴方達だって、「天の声」が聞こえるようになると、心がウットリするようになるんだよ。(心がウットリなるのは、天の声が聞こえているかどうかの、物差しともなるものである)
それには、心が、無念無想になればいいんだよ。
だから、何も、天風さんのように、昼なお暗い山奥の、滝つぼの脇に座って、地の声に耳を傾けてなくたって、家にいて、安定打座をして、無念無想になれば、天の声は聞こえてくるんだよ。
つまり、瞑想をしていて、無念無想になり、心がウットリなった人は、「天の声」が聞こえるようになった、と思っていいんだよ。
それでは、なぜ、天の声が聞こえるようになったら、言われるように、「しばしば無心になるにしたがって、グングン体の調子が良くなって来た」のかというと、
カリアッパさんは、次のように言っている。
「だから、肉体の病は肉体のものにして、心まで迷惑をかけるな。心に迷惑をかけたくなけりゃ、時にふれ、折にふれて、心に天の声を聞かせるようにしろ、つまり、声なき声のあるところこそ、心の本当のやすらぎの場所だ。たまには心をやすめてやれ、そこに心をやすませてやると、いっさいの迷惑が心にかからない。すると、心はすぐ本然の力が命の中で働き出すようにしてくれる。わかったか。」
時にふれ折にふれて、心に天の声を聞かせてやれ、心をやすませてやると、「心は本然の力が命の中で働きだすようにしてくれる」と、なぜ、言うのかというと、
天とは又、気だけしか存在しない世界、つまり、空の世界のことをいうから、心が空の世界と繋がると、空の世界から、「気」が、命の中にどんどん流れ入っているから、病気は治る、と言いたいのである。
というのも、人間の肉体というのは、元々、気から出来ていて、その気が不足するから病気になるのであり、不足していた気が、ふんだんに命の中に入ってくるようになれば、病気が、たちまち、快復するのは、当然のことである。
だから、「そうですとわかったら、これからできるだけそういうふうに、心を、病からも、あらゆるものから離しなさい」と言うのである。
これを逆に言えば、心が病気や運命にこだわっているから、「空の世界」から流れ入ってくる「気」が不足するようになって、病気になるのだ、と言うのだ。
蛇足(老婆心か?)かもしれないが、心が、病気にも運命にもこだわらなければ、自然と、心は、「空の世界」と繋がって、空の世界から、ふんだんに「気」が命の中に流れ入って来て、運命も健康も、思い通り、ということになる。
だが、心を、病にも運命にもこだわらせないようにしろ、と言われたって、普通の人には、これは、難しいのだよ。
その難しいことを、こうやれば、出来るようになるよ、とその手段方法について、具体的に教えてくれているのが、天風先生の心身統一法と思えばよい。
だから、初めからわかろうとしないで(初めから、わかる筈がないのだよ)、ただ、言われた方法をそのまま、一生懸命、実践することを心がけたらいい。
理屈なら、その内、「あっ!これは、こういうことだったのか」と、わかるようになるから。
お 知 ら せ
1、休業日、及び診療時間 変更について
平成24年10月1日より、休業を、土曜日、日曜日、祝祭日に変更いたします。
従って、今後は、月曜日から金曜日までのウィークデイが営業日となります。
又、上記営業日の、診療時間を13:00〜17:30の間と致します。
2、ホームページアドレスは 次ぎの通りです
http://www.psykiryou.comサイ気療研究会
3、遠隔治療無料体験について
電話による遠隔治療無料体験:1回(10分間)のみ、「気」による遠隔治療を、無料で体験できます。
ご希望の方は、必ず、メール(アドレスは上記ホームページ中にあります)を使って、申し込んで下さい。(電話での申し込み、お問い合わせ等はご遠慮下さい)
無料体験は、原則、こちらの都合(空いている時間に)により、日時を指定して、実施させて頂きます。
要領は、私のホームページ中の「電話による遠隔治療要領」にありますので、まず一読の上、治療をお受け下さい。
場合によっては、無料体験をお断りすることもありますので、予め、ご承知置き下さい。
|
|
私は、真央ちゃんが好きだから、森元総理大臣のように、本人が聞いたら、ひどく傷つくようなことを、言うつもりなどない。
是非、この機会に、天風先生を研究している人たちにも、覚えておいてほしい、と思うから、敢えて言うのである。
「真央ちゃんが負けたのは、心に信念というものがなかった」からである。
つまり、真央ちゃんは、敵に負けたのではなく、自分自身に負けたのだ。
自分自身の心の中に、「信念」というものがなかったから、負けたのである。
「信念」とは、何か、と訊かれれば、答えるのは難しいが、「信念」のない人とは、具体的に、どんな人のことを指して言うかは、さして、難しいことではない。
「信念のない人とは」一言で言えば、何事でも、マイナス思考ばかりしている人のことを言う。
天風先生流に言えば、消極的なことばかり、考えている人のことを言う。
消極的思考とは、つまり、怒り・怖れ・悲しみといった感情が、心の中をグルグル、駆け巡っている人のことを言う。
だから、天風先生は言うでしょ。
「凡人というものは、何事も信念なく諸事に応接する為に、自然に不可解な苦しみに悩んで、不安な生涯を送ることになる」…ゲーテ
信念のない人というのは「ちょうど、薄い氷の上に、立っているようなものである。いつなんどき底知れない湖の中に落ち込んでしまうかもしれないような、危険な人生を生きているのが信念のない人生だ」
「いずれにしても、信念の重大性は早くから、人生を考える学者や、識者には、感じられていたのである。それほど重要なことが、先ほども言った通り、現代の人間は情けないほどそれをそうと考えず、何でも、まず疑いから考えようとする。そうすることが正しい考え方のように思っている人が多い。」
…あなた方の中にも、何事も、先ず、疑って考えることが正しい、生き方、考えの方、と思っている人がいやしませんか?
「ではなぜ疑いがいけないのか。それは疑いだしたら、何事も安心ができないからである。」
「不安」とか、「疑い」、とか言ったことも、また、信念のない心から生まれる。
反対に、「信念」が心の中に出てくると、どうなるかというと、天風先生は次のように言っている。
「信念が本当に渙発(出てくる)されると、『実際これが本当に自分の心か』と思うほど、驚くべきありがたさが自分の心に生じてくる。信念が渙発されてくると、くだらないことは考えないし、神経は過敏にならないし、ことあるも常に事なきのようになれるのである。」
つまり、信念が強くなった人は、人生にどんなことが起きても、少しも、心が動揺しないのである。
続いて、信念が渙発され、心が積極的になるとどうなるかというと、天風先生は次のように言っている。
「人間は、健康でも、運命でも、心がそれを、断然乗り越えて行くところに生命の価値があるのだ」
「それまでは、組み敷かれていたから、乗り越えられなかったのだ。」
「気持ちが、健康や運命を乗り越えて行く」とはどういうことかというと、天風先生いわく
「竹一つ切るんだって、そうだ。気持ちが乗り越えていれば、パサッと切れるじゃないか。切れるかしら?と思ったらもう駄目だ。」
「断じて行えば、鬼神もこれを避く」
「陽気の発するところ、金石もまた透る」
これらの言葉を、簡単にして言うなら、人生にどんなことが起きても、常に、事態を、「飲んでかかれ」、と言うことなんだよ。つまり、「向かって行け」、ということだよ。
真央ちゃんが、負けたのは、反対に、運命に組み敷かれていたからである。
つまり、常に負けた時のことを考えて、びくびく、恐る恐る、演技をしていたから、負けるべきして負けたのである。
つまり、こけたらどうしよう、と心配ばかりしていたから、こけたのである。
森元総理じゃないけれど、今回の責任を、敢えて問うなら、真央ちゃん、と言うよりも、真央ちゃんの指導者の責任じゃないかと思う。
勝負のことを考えたら、技術的なことよりも、先ず、事に臨んで、心をどうやって安定させるかについて、教えなきゃ。
監督やコーチは、ただ、技術的なことだけを教えれば、心の問題は、本人の問題だ、と思っていやしなかったか?今回の真央ちゃんのコーチは。
「人生は、心、一つの置き所」というじゃないか。
人生のことは、全ては、心の持ち方、心の在り様で、決まってくるんだよ。
お 知 ら せ
1、休業日、及び診療時間 変更について
平成24年10月1日より、休業を、土曜日、日曜日、祝祭日に変更いたします。
従って、今後は、月曜日から金曜日までのウィークデイが営業日となります。
又、上記営業日の、診療時間を13:00〜17:30の間と致します。
2、ホームページアドレスは 次ぎの通りです
http://www.psykiryou.comサイ気療研究会
3、遠隔治療無料体験について
電話による遠隔治療無料体験:1回(10分間)のみ、「気」による遠隔治療を、無料で体験できます。
ご希望の方は、必ず、メール(アドレスは上記ホームページ中にあります)を使って、申し込んで下さい。(電話での申し込み、お問い合わせ等はご遠慮下さい)
無料体験は、原則、こちらの都合(空いている時間に)により、日時を指定して、実施させて頂きます。
要領は、私のホームページ中の「電話による遠隔治療要領」にありますので、まず一読の上、治療をお受け下さい。
場合によっては、無料体験をお断りすることもありますので、予め、ご承知置き下さい。
|


