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天風先生の著書「安定打坐考抄」にある、「動中に静観を獲る」と言うのと、「盛大な人生」の中で言われている、「神人冥合」とは、全く、同じ意味の言葉である。
つまり、天風先生は、同じことを、「動中に静観を獲る」と言ったり、「神人冥合」と言ったりしている、ということである。
「安定打坐考抄」の中には、「動中の静観獲る」について、次のように書いている。
「然り而して、吾等の実修する『安定打座密法』は、身外寂滅境の無声の声と帰納的に同化する方法とて…換言すればこの帰納的に同化している間は、即ち、自己という現象個性の小生命に対する小動念から離れて、本体の大生命の大動中に期せずして没入することになる。従って、真乎動中静観の自在境を補足し、本当の『動』の大玄味透徹することになるものなのである。
かるが故に、この密法の実修を重ねれば、如何なる時と雖も、悠々自若煩悩即解脱大定盤石の妙境に達入し得るに至るのである。
というのは、縷々安定打坐して、動中静観大死一番の自覚心境に入る習性を作ると、不知不識の間に、誰に教わらずとも、『人間の本来』なるものが自然と自悟自覚せらるるに至るからである。」
一方「盛大な人生」の中で、天風先生は、「神人冥合」について、次のように言っている。
「霊的境地に心が入ると、いわゆる宇宙の根本主体と人間の生命が一体化するのであります。これを神人冥合と言うことは、すでに知っているね。心が霊的境地に入ると、宇宙本体の持っている万能的な英知が人間の心に受け入れられるのであります。受け入れられると、その結果どうなるかというと、だれに教わらなくても、いわゆる大悟徹底、宇宙真理が正しく悟られる、自覚せしめられるという境涯に入れる。
この境涯が、心身統一法でいう安定打坐法の目的であると同時に、それが非常に難しいと思われている坐禅の目的でもある。」
「安定打坐考抄」の中で、「動中に静観を獲る」と表現しているのは、「盛大な人生」の中で、「宇宙の根本主体と人間の生命とが一体化する」、つまり「神人冥合」、と同じことを言っているだけだ。
わかってしまえば、これまで、気が付かなかった、このようなことも、よくわかるようになるものである。
受け手が、未熟だから、違うことを言っているように、受け取っていただけだ。
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中村 天風
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天風先生の教えの中には、色々あるが、
中でも、これがわからなければ、何も分かったことにならない、という意味で、神人冥合が一番大切だと思う。
だから、天風先生を勉強する人は、すべからく、先ず、神人冥合とは、何かということをわからなければならない。
このことについて、更に言葉を重ねると、天風先生の教えが本当にわかっているかどうかは、神人冥合がわかっているかどうかを見ればわかる、ということでもある。
なぜならば、神人冥合がわからなかったら、その後の、三昧とか、霊性意識とか、或いは、本当の自分というものも、わかるのは難しいだろう、と思うからである。
天風先生は、神人冥合の大切さを、「盛大な人生」の中で、次のように言っている。
「霊的境地に心が入ると、いわゆる宇宙本体と人間の生命が一体化するのであります。これを神人冥合ということは、既に知っているね。心が霊的境地に入ると、宇宙本体の持っている万能的な英知が人間の心に受け入れられるのであります。受け入れられると、その結果どうなるかというと、だれに教わらなくても、いわゆる大悟徹底、宇宙真理が正しく悟られる、自覚せしめられるという境地に入れる。
この境涯が心身統一法でいう安定打座の目的であると同時に、それが非常に難しいと思われている座禅の目的でもある。」
先生が、霊的境地と言いっているのは、直截に言えば、ここでは、霊的境地とは、無念無想、つまり三昧の境地を指す。
つまり、上で、先生は、瞑想をして三昧の境地に入ると、神人が冥合する、というのである。
ということは、神人が冥合するためには、先ず、心を無念無想、三昧の境地に置かねばならぬ、ということになる。
天風先生は、心が霊的境地に入り、神人冥合が果たせるようになると、「宇宙真理が正しく悟られる」とか言って、精神的なことだけを強調しているが、
神人冥合すると、一つ、精神的な事だけでなく、肉体的にも、大変な変化が起きる、つまり、どんな病気でも治る、と次のように言っている。
「それが、一月ぐらいたったあいだに、知らず知らずに有我一念から無我無念、無念無想になって、そして心が自然と霊的境地に入って、限りなき無限の力を持つ宇宙本体のエネルギーであるヴリルというものに、ヒョイヒョイと命が浸るように溶け込んでいった。その為に八年も続いていた熱も出なくなる。喀血はむろん止まってくる。第一、どんなに早足で歩いても動悸がしなくなる。身の内に、なーんともいえない元気が湧きかえるように溢れてくる。」*ブリルといいうのは、「気」と置き換えて読んでもいい。
天風先生は、ここでは、神人冥合という言葉は使ってないが、要は、神人冥合の結果、肉体の病気(つまり奔馬性結核)を治すことが出来た、と言っているのである。
貴方達だって、神人が冥号しさえすれば、どんな難しい病気だって治すことができるんですよ。
だって、人間の命(肉体も)というのはブリル、つまり「気」から出来ているもので、この「気」が不足するから病気になるのだから。
さてそれでは、霊性意識が出てくるようにするにはどうしたいいか、と言うと、天風先生は、本の中で次のように言っている。
「雑念妄念はね、神人冥合を直接に妨害する一大障害物なんだ。雑念妄念さえなきゃ、特別なことをしなくたって、人間の心と宇宙霊とは結びつくように出来ているんです。だから、悟りというものは、何も考えない時に、その心に生ずるぞと教えるのはその通りなんだ。これを哲学的に言うと、雑念妄念が出てない時に、霊性意識が発現するんであります。」
と言っていることからして、無念無想になれば、神人は冥合し、神人が冥号すれば、霊性意識が発現して来るのだとしたら、
霊性意識を発現させるためには、瞑想をして、心の中の、雑念妄念を心の中から取り除きさえすればいいわけだが、
しかし、ただ、瞑想しただけでは、心の中から、霊性意識というものは出てこない。
瞑想をして、心を雑念妄念が出ない状態、つまり、心を無念無想の状態にしなければ、霊性意識は出てこない。(無念無想の心の状態を霊的状態、とも言う)
心の中に、雑念妄念が、一切ない心の状態を、三昧とも言う。
心が、無念無想、つまり、三昧の状態にならないと、霊性意識は発現してこない。
この霊性意識が出てくるようになると、特別、無念無想、無念無想といって、心の中の雑念妄念をなくすよう、努力しなくても、黙って座りさえすれば、自然に、霊性意識が出て来て、雑念妄念を心の中から追い出し、神人冥合が果たせるようになる。
このことを、天風先生は、「盛大な人生」という本の中で、「霊性意識が発現して雑念妄念を除き去ってくれりゃ、もうしめたもんだ」と言っているが、
このことは、反対に、神人冥合が果たせるようになると、霊性意識が出て来て、その霊性意識が、さらに、雑念妄念を排除して、無念無想の境地を作ってくれる、ということである。
そして、心が無念無想になり、神人が冥合し、そして、霊性意識が出てくると、どうなるかというと、
霊性意識の中から、霊感とか第六感とかいうものが出てくる、と天風先生は次のように言っている。
「人生は、いま一段高級な意識で生きなきゃ……つまり、だれでも霊性意識から発生する自覚正念というものをもっている。これだよ、六感とか霊感と言うのはね。
このくらい尊いものはないんだぜ。一切のものに対する判断が、理性とは比較にならないほど絶対的な正確さをもっているんだ。だから、哲学者のベーコンがこの自覚正念を形容して、『魂のフラッシュライト』と言っています。何の推理作用を行う必要もない、刹那に迅速な断定が出てくるのであります。」
天風先生は、霊性意識の中から霊感とか第六感というものが出てくるようになると、何も、人生に思い煩うものがなくなると言っている。
なぜなら、その時、最適・最高な解決策が、しかも、咄嗟刹那の間に、心の中に閃いてくるから、と言っているのである。これを、霊感と言ったり、第六感と言ったりする。
現実の問題、自分のことを言えば、神人冥合が先か、無念無想、即ち三昧が先か、或いは、霊性意識が先か、と訊かれると、よくわからない。
つまり、瞑想をしていて、無念無想になれたから、神人冥合があったのか、神人が冥合したから、三昧になれたのか、また、霊性意識が先に出て、神人冥合が後にあったのか、よくわからないのです。
それでも、自分の場合、神人冥合は、かなり以前から、つまり、瞑想を始めた頃から、あったように思う。
ただ、その程度は、瞑想を始めた頃より、現在に近づくに従って、だんだん、より深く、広く、強く、なっていることは確かである。
先に神人冥合があった、という意味で、私は、神人冥合がわからなければ、結果として、天風先生の教えについて何も分かったことにならない、と主張するのである。
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天風先生の誦句集の中の一つに、「信念の誦句」というものがある。
「信念、それは人生を動かす羅針盤のごとき尊いものである。
したがって信念なき人生は、ちょうど長途の航海の出来ないボロ船のようなものである。
かるがゆえに、私は真理に対してはいつも純真な気持ちで信じよう。
否、信ずることに努力しよう。
もしも疑うているような心持が少しでもあるならば、それは私の人生を汚そうとする悪魔
が、魔の手を延ばして、私の人生の土台石を盗もうとしているのだと、気をつけよう。」
中でも、私が、長いこと、その解釈に苦しんで来たところは、「信念、それは人生を動かす羅針盤のごとき尊いものである。」という箇所である。
平たく言えば、なぜ、信念が人生の羅針盤なのだろう、ということである。
話は前後するが、「信念」とは、何を指して言うのだろうか?
わかってみれば、そんなに難しいことではないのだが、わからない内は、それこそ四苦八苦。
天風先生も、「心に成功の炎を」という本の末尾(訓言二十)で、次のように言っている。
「信念とはこんなものだよ、と見せられない。およそ何がむずかしいかといって『信念て何ですか』と聞かれると一番むずかしいわ。
(途中略)
とにかく自分の人生を、信念というもので支配することのできる人、そういう人は、やたらと悲しいとか悩ましいとかというものを感じなくなるんです。価値のない悲しみや悩みを感じない」
ということは、言葉にして説明するのは難しいが、「やたらと悲しいとか悩ましいとかというものを感じなく」なったら、それは、信念がそうさせていると思ったらいい、ということである。
また、天風先生は、「運命を拓く」という本の、第八章「人生の羅針盤」の中でも、信念について次のように言っている。
「信念が渙発(出てくること)されると、『実際、これが本当に自分の心か』と思うほど、驚くべきありがたさが自分の心に生じてくる。信念が渙発されてくると、くだらないことは考えないし、神経は過敏にならないし、ことあるも常にことなきのようになれるのである。」
くだらないことを考えなくなったり、神経が過敏でなくなったり、ことあるもことなきいようになれたら、それは、信念が強くなった証拠だと思っていい。
逆に、信念のない人のことを、「ちょうど、薄い氷の上に、立っているようなものである。いつなんどき底知れない湖の中に落ち込んでしまうかもしれないような、危険な人生を送っているのが、信念のない人生である」と言っている。
また、信念のない人のことを、ゲーテの言葉を借りて、次のようにも言っている。
「凡人というものは、何事も信念なく諸事に応接するために、自然に不可解な苦しみに悩んで、不安な生涯を送ることになる」
これで、信念について殊更、説明しなくても、自分に信念があるか、ないかくらいは、大体、わかるでしょ。
とにかく、「信念」ということを言葉で以て、他人に説明するのは容易でないが、信念が出てきたら、「ああ、天風先生が言っている、信念というのは、このことだったのか」とわかるようになる。
出てない間は、どんなに考えても、よくわからない。
ところで、信念のある人、信念のない人の数を比較すると、圧倒的に信念のない人が多いのだが、
なぜ、信念のない人に、信念がないか、と言うと、それは、心の中の雑念妄念が、邪魔をして、心が積極的になってないからなんだよ。
だから、天風先生の心身統一法というのは、簡単に言えば、心の中の雑念妄念を除き去って、信念を強くする方法と言っても、いいんだよ。
つまり、観念要素の更改法とか、積極精神の養成法とか、神経反射の調節法、とかの各種心身統一法の方法は、雑念妄念を除き去って、心を積極的にして、信念を渙発する方法、と言うことができるんだよ。
では、なぜ、人生にとって信念が必要なのか、と言うと、それは、人間なら、老若男女を問わず、誰にでも与えられてある、健康も運命も自由にできる、潜在勢力というものを、発現するためには、信念を必要とするからなんだよ。
つまり、潜在勢力が、信念の力によって、潜在意識の中から、発現して来ると、健康も運命も、その人の思いのまま、になるんだ。
この他に、もう一つ信念を渙発するのに、極めて大切な、方法がある。
それを、安定打座と言う。
安定打座というのは、要は、心の中の雑念妄念を排除する為にするんだろ。
そうやって、心身統一法の各種の方法に励み、日々、瞑想を欠かさず、やっていれば、雑念妄念が、心の中に少なくなって、自然と、「本当の自分」というものが、わかるようになる。
「本当の自分(真我)」とは、如何なるものか、ということがわかって初めて、「自己人生に対する信念」が強固になるんだよ。
天風先生が、事あるごとに、「信念!」「信念!」と言っているのは、この「自己人生に対する信念」のことを、言っているのだと思っていい。
瞑想の中で、「本当の自分(真我)」というものを、はっきり捉えられるようになると、この「自己人生に対する信念」というものが、強固になってくる。
「自己人生に対する信念」が強固になれば、黙っていても、潜在意識の中にある、潜在勢力というものが、命の表面に発現して来る。
潜在勢力が発現して来ると、霊感・霊能というものが出てくるようになって、人生に、どういう事態が発生しても、これまでのように、理屈で考えて悩まなくても、とっさ刹那の間に、これ以上の解決策はない、といったような、名案工夫が心の中に、浮かび上がって来る。
天風先生が「信念は人生の羅針盤」というのは、信念が強くなると、その信念に誘導誘発されて、潜在意識の中から、潜在勢力が発現して来て、結果、霊感霊能が出て来るから、「信念は人生の羅針盤」と言うのだろう。
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従来、火曜日、木曜日、祝祭日を休業にしていましたが、平成24年10月1日より、土曜日、日曜日、祝祭日になりましたので、お知らせします。悪しからずご了承ください。
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正月休みを利用して、久しぶりに、天風先生の「信念は人生の羅針盤」というテープを聴いた。
その中で、天風先生は、「信念が強固になれば、いつかは信念の力で、潜在意識の中から、潜在勢力が貴重な働きを行ってくれるように発現してきます。そうなると、人生は何とも言えない、順風に帆を挙げたような安易な気持ちで生きられるようになります。そして、健康も運命も、これが自分であったかと思うほど、順調になって来ます。」と言っている。
同様、その著書「真人生の探求」でも、しかも、その冒頭で、潜在勢力について、「人間というものには、あえて老若男女の差別なく、その生命の中に健康も、運命も、自由に獲得し、また開拓し得るという真に感謝に値する偉大な力が与えられてあるのである。」と言っている。
だから、テープの中で、「信念を強くしなさい、信念を強くするためには①心を積極的にしなければならない②心を積極的にするために、観念要素の更改法とか、積極精神の集中力養成法とか、或いは神経反射の調節法とかいって、精神統御の各種の方法を、心身統一法と言って教えている。」と言っている。
ということは、天風先生の心身統一法の目的というのは、「潜在勢力」の発現にある、ということになる。
だけど、潜在勢力があると言われても、現実にそういうものが出てこないと、それがどんなものか、わからないんだよ。
私も、長いこと、天風先生言われる、潜在勢力というものが、具体的に何を指して言っているのか、よく分からなかった。
一方で、天風先生は、「研心抄」という本の中で、これ又、冒頭において、
「人間この世に活きるのに、『我とは何ぞや』という事を正しく理解してないと、人生を完全に活きるのに何よりも必要とされる人生観というものがこれ又正当に確立されない。そして、人生観というものが、正当に確立されないと、その当然の帰結として、実際生活に先決的に重要な自己統御という大切なことが、どうしても完全に出来得ないことになる。」と言っている。
そして、「『我とは何ぞや』」ということが分からず、自己統御が完全に出来ないと、複雑な人生事情や、実際生活に纏綿する各種の事実現象に、知らず知らずに引きずり回されて、価値なく生きねばならぬ、という状態に陥る」と言っている。
だから、「どうしても人生を完全に活きるのに第一に必要とされるものは、『我』の本質の自覚ということなのである。」と言う。
そして、この「我」の本質がわかる為には、信念というものが不可欠、と「研心抄」の中で、次のように言っている。
しかし、「この信念的自覚念というものは、ただ単なる理性の力のみでは何としても獲得することが不可能なもので、…… 由来、理性の力というものは心を理性的境地に置いた時に発動するものなので、この自覚念に最も必要とされる肝心の信念というものは、心を理性的境地に置いたのでは、発動してこない。」
「要するに、『我』なるものの本体たる実在のものを、わが意識の中に完全に把握思量し得る信念的自覚念というものは、心を霊的境地(瞑想で言えば、無念無想、三昧の境地を言う)という特別の境地に置かぬ限りは発動せしめることができないものである。」と。
ということは、潜在勢力を発現させる為ばかりでなく、「我とは何ぞや」ということが分かる為にも、又、信念というものを必要とする、ということになる。
一体、信念を必要とするのは、どっちなんだい、ということになる。
恥ずかしながら、これまで、私は、信念というものは、「我」の本質、つまり、「我とは何ぞや」ということを自覚する為だけに、必要なものだとばかり思っていた。
だから、天風先生のように、「信念が強くなると、潜在意識の中から潜在勢力が、貴重な働きを行ってくれるようになります」と言われても、
では、「我」の本質を自覚することと、潜在勢力が発現してくることと、どんな関係があるんだい、と思っていた。
ところで、
日頃、私のブログを読んでいて下さる方は、よくご存じと思うが、
これまで、私は、「本当の自分」とは、瞑想の時、前頭部から「気」が入って来て、丹田まで降りてくるが、その時、棒状に感じる「気」の塊が、そうではないかと書いて来た。
ところが、最近
瞑想の時、その棒状の「気」の塊が、体全体に広がって、つまり、体全体が「気」の塊のようになってきた。
つまり、棒状の「気」の塊が、メルトダウン(溶けて崩れて)して、棒状じゃなくなり、体全体に広がり、体全体が「気」の塊のようになって来たのである。
このことは又、次のようにも言える。
体全体が、「気」の塊のようになったばかりでなく、内側の「気」の塊と、外側の「気」の世界と繋がり、溶け合って、どこまでが内側の「気」の塊で、どこまでが外部の「気」の塊(空の世界、気だけが存在する世界)なのか、その境界がわからくなっている。
最近、こういう感じになって来て初めて、「我」の本質、つまり、「本当の自分」と、「潜在勢力」と天風先生が言っているのは、同じものを、言葉を変えて、そう言っているのではないか、と思うようになった。
何故なら、体全体に広がったいわゆる「気の塊」なるものは、「本当の自分」が変形したもののようであり、また、上から降りてくるのではなく、体の中のどこからか湧き上がってくるようにも感じるからである。
こんな事に気がついてから、潜在勢力と「本当の自分」とは、同じものではないかと、思うようになり、以来、これまで思っていた、潜在勢力についての疑問が、一気に、氷解するように感じた。
そして、最近では、いかなる困難なことに遭遇しても、殆ど心が揺れ動かなくなっている。
つまり、何があっても、心が動揺しなくなっている。
これは、信念が強くなった証拠である。
それどころか、これまで、散々、頭の中で弄繰り回していたことも、今は、理屈で考えることなく、とっさに取った行動が、結果として、最も適切、かつ、最良の方法だった、ということが多くなっている。
これらの事実が、「本当の自分」と「潜在勢力」とは同一のものではないかと、私が、考える有力な根拠となっていた。
などと、思い巡らしながら、本文を、書き進めているうちに、
思いついて、「研心抄」を見るともなく、見ていたら、天風先生の、次のような言葉が目に飛び込んで来た。
「私が別著『真人生の探求』の記述中にも言及したとおり、現代人が人間の生命の奥に、運命を健康を確保する潜勢力なるものが内在するという偉大な消息を自覚している人が少ないのも、蓋し、その理由は又この自我の本質に対する無自覚ということがその根本主因なのである。というのは、その潜勢力なるものこそは、真我ある本源的中枢の固有する力の発露であるが為である。」
潜在勢力というものが、真我から発露してくるものだとすれば、真我と潜在勢力とは、同じものであり、真我とは、いかなるものかということがわかれば、自然に、潜在勢力というものが、どういうものかということも、また、わかるようになる、ということではないだろうか。
このように、天風先生は、潜在勢力と「本当の自分」(真我)との関係についても、ちゃんと、示しておいてくれたのだ。
これは、果たして、天風先生のお導きによるものなのか、或いは、私の霊感が、しからしめたものか、
とにかく、今、「案ずるより産むがやすし」とか、「真理は足下にあり」などという言葉が、心の中に、思い浮かんでくる。
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一般には、プラナヤーマのことは、「呼吸法」と称されるらしい。
プラーナとは、いわゆる「気」のことを言い、ヤーマとは制御という意味を持つらしいから、プラナヤーマをそのまま訳せば、「気の制御法」とでも言えるだろうか。
そういうことからすると、プラナヤーマを「呼吸法」と呼ぶのは、厳密な意味からしたら正しくない。
ただ、ヨガでいうところのプラナヤーマは、実際にやっていることは、呼吸法には違いなく、呼吸に深く関わっていることでは、あるいは「呼吸法」と訳しても、あながち間違いではなさそうだ。
(財)天風会でも、行事の一環として、プラナヤーマというのをやっていて、実際にやっていることは、「深呼吸」と、ほぼ変わりない。
長年、私は、プラナヤーマというのは、「気」を体内に取り入れる方法なのに、どうして、「呼吸法」といい、そして実際に教えられることも呼吸の仕方なのか、その真意が、よくわからないでいた。
ところが最近、
瞑想をしていて、特に、三昧の境地(最近は、座っている間の大半が三昧なのだが)に入った時、
呼吸が長く深くなり、或いは、しているのかしていないのか、よくわからないような状態になった時、息を吐いている時に、「気」が入って来るのを、はっきり意識するようになった。
そうことからして、呼吸することによって、空気を吸い込む時に、酸素を肺の中に取り入れ、吐く時に、炭酸ガスを吐き出すと同時に、印堂又は頭頂といった、別の気の取り入れ口から、「気」を取り入れているのではないか、と思うようになった。
今、天風会では、呼吸は吸う時よりも、吐く時に、大量に、長く息を吐き出せ、多く吐き出せば、その分、又、入っている空気の量も多くなる、と教えるが、
往時、天風先生が(ヨガも同じ)考えたことは、空気の量もさることながら、プラナヤーマをすることによって、「気」をできるだけ多く体内に取り込む、ということに、その真意があったに違いない、と思う。
でなかったら、空気を肺の中に、できるだけ多く取り込むことが、本来の目的だったら、何も、特別、「プラーナ」(気)という言葉を使うことはないだろ、と思う。
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