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久しぶりに読み応えのある記事に接した。
それというのも、読売新聞、6月6日(木)、5面、「論点」という.コラム記事のことである。
先ずは、筆者だが、舩橋晴雄と言う人である。
面白いのは、この人、名前からして、日本人だと思われるのに、
新聞のプロフィール紹介を見る限り、シリウス・インスティテュート代表、企業倫理など研究、とだけあって、これだけでは、どこで、何をしているのかさっぱりわからない。
少なくても、私にとっては、この人の書いたものを読むのは、初めてである。
私もよく知らない、そして世間的にもよく知られてない人だと思うが、書かれていることは、極めて面白いと言うか、初めに記したように、大変読み応えのあるものであった。
氏はこう言っている。
粗筋、次の通りである。
「アベノミックスの3本目の矢、成長戦略も具体的に固まってきたが、この中で、一つ欠けている視点がある。これらを担う主体である日本企業の基礎体力は大丈夫なのかということである。つまり、『世界で勝つ』ことが強調されているが、実は日本企業の求心力や戦闘力は弱体化しつつあるのではないか」
と言って、アベノミックスを担う、日本の企業の力が、近年、弱体化しているのではないか、と述べている。
なぜなら、と筆者は次のように言う。
「この10年余、デフレの中で、職場では人員削減や成果主義が吹き荒れ、即戦力や資格がもてはやされ、社員は会社に対する忠誠心を希薄化させてきた。経営者は四半期毎の決算に一喜一憂し、アクティビス(物言う株主)の恫喝に怯える毎日を送っている。これでは社員を長い目で育て、企業の長期的な成長を図るという余裕は生まれない。それで世界に勝つことができるだろうか」と。
その結果、「日本の企業戦士は、寸法の合わない鎧兜をまとって戦ってきたようなものである」と言うのである。
つまり、筆者は、会社の中にいてアベノミックスを現実に実行に移す役目の社員達が、これまで、このような、なじめない企業風土の中で、窮屈な思いをしながら、働いているのではないか、と言っているのである。
つまり、経営者は、グローバル化に対応する為、四半期という短い間に結果を出そうとして、人員削減を頻繁に行い、社員の評価制度も、成果主義といった目先のことにこだわりすぎた為、
それまで、終身雇用という制度の中で、長期的な視点から、社員の技術を磨き、蓄積し、一方、社員の人格を向上させる、といった、これまでの、いわゆる日本的な会社経営方式がき損した結果、
常に、社員は、自分に合わない他人の鎧兜を着て、窮屈な思いをしながら、戦わざるを得なくなったのではないかと、と言っているのである。
よく調べたわけではないから、正確さには欠けるかもしれないが、最近、ソニーの業績が振るわないのも、アメリカの経営方式を取り入れた結果ではないか、と言われている。
特に人事制度における、成果主義、実績主義が、社員のモチベーションを低下させているのではないかと、と噂されている。
つまり、最近のソニーの凋落は、経営者も、社員も、その人間性において、目先の利益にこだわる小粒な人が多くなったせいではないか、と言われているのである。
そう言えば、ここ数十年、ソニーが世界をリードするような画期的、創造的な製品を発売したという話を聞いたことがないが、それは、そういうこと原因だったのかもしれない。
だから、アベノミックスによって、外側だけ変えても、中にあって実際に働く社員たちがが、窮屈な思いをしながら働く職場環境では、アベノミックスの効果も、さして思ったように上がらないのじゃないか、と筆者は、心配しているのである。
結論として、この筆者は、これまで、日本の企業組織が持っていた強さ良さというものを復活させなければならないと言っているが、
そうだとすれば、問題になるのは、日本がこれまで持っていた伝統的、日本企業の経営方式の強さ・良さというのは何か?ということになる。
この人は、「具体的には、道の達人を養成する宮本武蔵の知恵や求心力、戦闘力に抜きんでた組織を作る荻生徂徠の知恵、社会と共生して持続的な繁栄を期す日本長寿企業の知恵などがある」と言っているが、
これだけでは、少しも具体的ではなく、全く、要領を得ない。
私は、日本的経営方式の良さ・強さというのは、人事処遇制度において、人格・人徳によって処遇する人と、実績によって処遇する人を、二つに分けている点ではないかと思う。
そういうことからすると、欧米流の処遇制度というのは、実績主義・成果主義、一辺倒ということになる。
さて、西郷隆盛は、「南洲翁遺訓集」の中で、実績を挙げようとして、他人と盛んに競争するような人を、組織のトップにつけてはいけない、と次のように言っている。
「故に何程国家に勲功あるともその職にたえぬ人を官職をもって賞するのはよからぬことの第一なり。官はその人を選びこれを以て授け、功あるものには俸禄をもってこれを賞し、これを愛(めで)しおくものぞ。」
これは、要約すれば、どれほど国家に功績(実績)があっても、そういう人をトップに据えてはいけない、そういう人は、多くの給料と共に、立派な勲章をあげて、処遇するべきである、ということである。
この西郷さんが言っていることの原典を探れば、朱子という人が書いた「宋名臣言行録」という本に行き当たる。
朱子は、「宋名臣言行録」の中で次のように言っている。
原典に忠実に訳そうとすれば、言葉のもつ意味をわかるだけで、大変で、意味を理解することなど、至難の業、と思うから、
多少の誤訳は大目に見てもらって、次に、全く私個人の意訳を試みることにした。
「遠慮深い人は、潔くて、慎み深く、そして恥を知る。こういう人を挙げて役職(トップ)につけるなら、失敗することはない。反対に実績を挙げようとして猛烈に他人と競争したり、周囲に自分を認めさせようとして、スタンドプレーをするような人は、決してトップに就けてはいけない。なぜなら、そういう人は上にゴマすったり、媚びたりするから、こういう人をトップに据えたら、必ず、自分の才能を誇り、部下と才能争いをしたり、他人を押しのけたり、貶めたり、自分の利益になるようなことだけを、しようとするから、そういう人をトップに据えたら、ひいては、そういう人をトップに据えた人、その者にも害が及ぶようになる。」
実績を挙げようとして、スタンドプレーをしたり、上に媚びたり、ゴマすったりする人は、自分だけが利益を得ようとするならまだしも、こういう人は、得てして、自分の利益を思うあまり、下にいて、自分の地位を脅かしそうな実力のある人、才能のある人を、潰そうとする。
だからと言って、私は、自分の利益を求めて、実績を挙げようとする人を排除しなさい、と言ってる訳では決してない。
世の中には(会社には)こういう人達も、立派に必要なのである。
だから、こういう人達には、給料や勲章を沢山上げて、大事に処遇してあげなければならない、と言っているのである。
私が言うところの、伝統的日本式経営方式とは、人事処遇制度において、実績ある人と、多くの人が従いて行くような人格・人徳ある人を、区別して処遇.することだと、言うのは、上のような論拠によるものである。
今述べてきたようなこれら伝統的日本的経営方式は、私の考えのほんの一端を披歴しただけに過ぎない。
こういうことをさらに詰めていくと、結局は、人格とは何か、人徳とはどういうことを言うのかということに、行き当たる。
そういうこと言わせれば、いくらでも言うことができるが、紙数の関係もあって、ここでは、他の機会に譲ることにする。
さて、西郷隆盛のことだが、
今のパナソニック、かつての松下産業を起こした松下幸之助さんは、歴史上の人物で、最も敬愛(尊敬)し、その教えを経営に取り入れようとしたのが、西郷さんだった、と言われる。
ところで、最近では、現パナソニックについては、人員削減とか、連続して赤字だとか、暗いニュースばっかりである。
これも、松下幸之助さん亡き今、パンソニック社内に、松下さん当時の経営方針、人事制度を知る人が、少なくなっている為ではないかと思う。
私も、かつては、経営コンサルタントを標榜し、職業としたこともある身である。
ソニーであれ、パナソニックであれ、謙虚に私の言うことを聞く気があれば、こういった経営のコツといったことを、教えてやることもやぶさかではない。しかも、無償で。
ということは、何らかの形でアベノミックスに協力したい、という意思表示でもある。
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教育・政治
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現在放映中のNHKの大河ドラマ、「八重の桜」の中でも、盛んに、出てくるらしいのだが、会津藩には、「什のおきて」という、次のような教えがある、という。
1、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
2、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
3、ウソを言うことはなりませぬ
4、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
5、弱い者をいじめてはなりませぬ
6、戸外で物を食べてはなりませぬ
7、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
我が薩摩藩でも、当時、郷中(ごじゅう)教育と呼ばれる、次のような青少年教育が行われていた。
1、ウソを言うな
2、弱い者をいじめるな
3、負けるな
4、義(屁理屈)を言うな
ところで、最近の新聞は、監督が、女子柔道オリンピック強化選手に、暴力を振るった事件で、話題もちきりである。
今日も(2月9日)の読売新聞には、全日本柔道連盟、藤田弘明副会長の話として、次のような記事が載っていた。
「1996年アトランタ、2000年シドニーの両五輪で強化委員長を務めた藤田氏は『男性が女子選手に手を上げるなど、もってのほか。長く現場をみてきたがあり得ない』と暴力行為を批判。」
この記事によって、はっと、気づかされたことがある。
これは、「男子監督が、女子選手に暴力を振るった」事件である、ということである。
私も、若い頃、やんちゃだったから、殴り合いの喧嘩をしょっちゅうした。
社会人になってからは、しなくなったが、中学、高校、大学を通じて、年に2〜3度は、殴り合いの大きな喧嘩をした。
そういう時でも、常に心の中で思っていて、守り通して来たことは、「女子と、弱いものには絶対に手を上げない」ということだった。
そのことについて、特別、誰からか、教えられたわけでもないのに、私の中には、喧嘩の中で、絶対に守るべきルールとしてあった。
私が生まれたのが、昭和18年、昭和20年には、大東亜戦争が終わった。
何を言いたいかというと、私も、戦後の新しい教育を受けてきた人間の一人だ、ということである。
だから、薩摩の郷中教育と言っても、私達が義務教育を受けていた頃は、そんなことを言い出せるような雰囲気ではなかった。
つまり、薩摩の郷中教育を受けた者ではない、ということである。
今の方がずっといい、当時は、そういうことを、口にして言おうものなら、「反動」だとか「右翼」という批判の言葉が、直ぐに、跳ね返ってくるような時代だった。
だが、戦争に負けたと言っても、薩摩の人々の心の中には、それまでの郷中教育の教えが、社会の雰囲気として、色濃く残っていたのだろう。
例えば、私達子供が、何かの遊びをしている時、「お前は、エジ(ずるい)ぞ」言われたら、何かとんでもない悪いことをしかたのような、大きなショックを心に感じたものだった。
会津の「什のおきて」にも、薩摩の「郷中教育」にも、「弱い者をいじめるな」とある。
女にも、強い者がいて、「女、必ずしも、弱い者」とは限らないが、
一般的にいって、腕力という面からしたら、男の方が強くて、女が劣っていることは、明らかであろう。
会津の「什のおきて」や、薩摩の「郷中教育」を持ち出すまでもなく、「女に手を上げない」などということは、オリンピック柔道の指導者なら、
そして、一人間としても、常識的に、心得ておいてしかるべきことだろう、と思う。
なぜなら、男なら、誰もが、女に対するレスペクトの気持ちを、心の中のどこかに、必ず、持っているはず、と思うからである。
全日本柔道連盟の藤田副会長は、そういうことを言いたかったのだろうと、思う。
こういう立派な人が、全日本柔道連盟という組織の中にまだいる、というその一事を知っただけで、随分、心が軽くなるような気がした。
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日頃から、自分には「とちりの虫」の虫がついていると、言っていた、作家の安岡章太郎さんが、先日、亡くなったらしい。
その「とちり」について、1月31日の「よみうり寸評」は、次のように言っている。
「遠藤周作さんの入院している病室へ安岡章太郎さんが見舞いにあらわれた。見ると上着が何かで白くドロドロによごれている。『お前に食べさせようと思ってな』と安岡氏。抱えていた風呂敷をあけると、中には土鍋に入ったスープ。中国レストランで作らせて持ってきたが、途中でひっくりかえし、こうなった。『とちりの虫』がついていると自認していた安岡さんの優しさを遠藤さんがこう書いている。」
私は、安岡章太郎という名前ぐらいは知っていたが、これまで、一冊も、彼の書いた本を読んだことがない。
従って、本来から言うと、彼について、あれこれ、批評がましいことを言う資格はないのかもしれない。
元々、私は、安岡章太郎に限らず、小説を好んで読むことはない。
このことを、てっとりばやく言えば、私は、小説があまり好きではない、ということだ。
だから、芥川賞とか、直木賞だとか、受賞者やその作品について、新聞や雑誌でも、大きく報じられても、あんなもの、どこがいいんだ、わざわざお金出して、買って読む人の気がしれない、などと思ってしまう。
小説には、話しの筋だとか、レトリック(修辞学、言葉のあや)だとか、いわゆる娯楽として、読む楽しさ、読書の作法があることは、よく知っているつもりだが、
そういう面白さというものは、所詮、スポーツするとか、映画を見るとか、音楽を聴くなどといった、いわゆる、他の娯楽の類と、何ら変わらない、と思っているから、殊更、高いお金を出して、買って読むほどもない、と思っているのだ。
このことを、言葉を変えて言えば、暇つぶしのために、本を読んで、何の意味や価値があるんだ、と思っているということになる。
だからだろう、サラリーマンの頃は、主に、人事の仕事をしていたこともあって、読む本といえば、その殆どが、人物論に関する本ばかりであった。
従って、当時、何度も何度も、それこそ、むさぼるように読んだのは、安岡正篤が解説する論語とか、王陽明とかいったいわゆる、東洋哲学に類するものばかりだった。
中村天風先生を知って、天風先生の本しか読まなくなったのは、脱サラして経営コンサルタントの仕事を始めた、50才を過ぎてからのことである。
だから、今でも、私の書架にあるのは、安岡正篤さんか、中村天風先生か、或いは、ヨガに関する本だけである。
ところで、話を、安岡章太郎さんに戻す。
中村天風先生は、「とちり」について、次のように話している。
「成功の実現」(p、330)の中からの引用です。
「記憶力の鈍い人は、人間として価値がずうっと低い人間なんだ。世の中にはへんな人間がいて、物覚えの悪いのを自慢にしている奴があるね。『私はとても覚えが悪いですから、もういっぺん言ってください』って言うんだ。『私は、から馬鹿ですから、そのおつもりで』というのと同じじゃないか。もっとおかしな奴になると、『私はもの覚えが悪い上に、おまけにそそっかしいのです。』これじゃ、もう人間じゃありゃしないよ。」
同じことを「心に成功の炎を」(p、269)では、次のように言っている。
「勘の鈍いのを自慢にするわけじゃないだろうけども、はたから聞いていると、見栄(自慢)にしてんじゃないかと思うような人がいて、『私は、どうも物覚えが悪いんです』とか、もっとおかしな人になると、『私はどうも、どういうものですか、そそっかしいので』とか、『すぐ物を忘れてしまうんです』とか、平気で言っている人がいる。そういう人は、『私は大まぬけでございます』と書いた札を首からかけときなさい。」
自分じゃ、どう思っていたか知らないが、天風先生に言わせれば、安岡章太郎は、さだめし、「おおまぬけ」とか、「から馬鹿」ということになる。
つまり、天風先生に言わせれば、安岡章太郎は、心の力の弱い人、つまり、人間としての能力の低い人間ということになる。
なぜ、安岡みたいに、しょっちゅう「とちって」ばっかりいるかというと、それは、精神が統一されてないからであり、
なぜ精神が統一されないかと言うと、それは、心の中に、雑念妄念が、うんと溜まっているからだ、と天風先生は、次のように言う。
少し、断片的(お互いに脈絡、関連がないこと)になるが、天風先生の成功の実現(p、321〜329)から、次を引用する。
「はっきりした気持ちというのはね、気を散らさずに行なうこと(精神を統一して使うこと)がはっきりした気持ちなんだ。どうです?もう少しくわしく言えば、執着から解脱して、つまり、雑念、妄念、邪念から心を放して、気を使うのが気の散らない心なんだ。」
「人間が心を使うとき、気が散っていることぐらいいけないことはないんであります。なぜ気が散るといけないかというと、気が散れば心のまとまりがくずれてしまう。
ノイローゼにかかったり、神経衰弱にかかったり、精神病の一歩手前に入ってしまうのは、この気の散り過ぎが原因なんですぜ。」
「つねひごろ、気を散らさないで物事を行なう心がけを実行してますと、さっきも言った通り、習慣は第二の天性。習うより慣れろで、どんな複雑なことに出会っても、いつも澄み切った気持ちで何の渋滞もなく、片っ端からぱくぱくぱくぱく片付けていけるようになる。また、そういう気持ちをもっている人間には、どんなことがあっても面倒くさいってことはないんであります。つまり、トラブル、騒ぐという気持ちはどんなことがあっても感じません。」
「人間の多くが、とかくすれば気が散りやすいのは、自分じゃ気がつかないうちに、己の心の中に不必要な雑念妄念邪念がたくさんたまっているからなんです。」
「何かなしあなた方の心はとらわれているぜ。欲張りは金にとらわれているし、恋に狂っている人間は恋に心をとらわれている。そうすると、心は自分の生命を監督するために働かさなければならないのが、感情や感覚の奴隷になっちゃう。そうなったら、もう実に人間は惨め以上の哀れなものになっちゃう。」
「とにかく、『観念要素の更改』、『日常の心がけ』、『積極観念の養成法』、『神経反射の調節』というような方法を熱心にやっていると、自然と不必要な雑念や妄念や、その他の邪念は、別に自分が非常な努力をしなくても、心の中から消え失せるんですよ。それが自然現象なんだもの。」
「そうすると、心それ自体のもっている力と働き、心理学でいう可能率が非常に促進されてくる。だって、そういう気持ちになれば、改めて精神を統一しようと思わなくても、ひとりでに精神が統一されてくるもの。ところが、心に雑念や妄念がたまっていると、精神統一の根本条件となっている観念の集中ができなくなってしまう。」
「とちりの虫」安岡章太郎は、小説を書くという才能だけは、人よりも優れていて、一時、「第三の新人」とか呼ばれて、世にもてはやされたりしたが、
本人自身は、生きているあいだ中、あまり、幸福を感じながら、生きてなかったのではないかと、思う。
なぜなら、
「とちる」ということは、つまり、心の中に雑念妄念がうんと溜まっていることを表しており、その雑念妄念から、常に心を悩ませ、苦しませ、られながら、生きていたのではないか、と思うからである。
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今、大阪の桜宮高校のバスケットボールのキャプテンが、体罰を苦にして自殺した問題をめぐり、体罰の是否をめぐって、議論が紛糾している。
結論から先に言いたい。
私は、学校であろうが、家庭であろうが、どこであろうが、体罰には絶対反対である。
特に、学校の教師如きが、教育の為とか、本人の為とか称して、生徒に体罰を加えるのは、言語同断、と思っている。
なぜなら、教育の為、或いは、本人のため、罰を加えることができるのは、神様だけだ、と思っているからである。
逆に言えば、教師が体罰を加える時は、その殆の場合が、自分の怒りや憎しみの感情に任せ、或いは、自分の面子(利害損得)の為に、体罰を加えていることが、殆どだと思うからである。(そして、体罰を受ける方は、体罰を加える人がどんな感情を持ちながら、自分に、そうしているか、よく知っている)
心から、つまり、愛情の発露として、或いは、その子のためだけを思ってなされる体罰なんて、まず皆無だろう、と思う。
先に、私が、子供に体罰を加える権利は、神様にしかない、と言ったのは、そういう理由からである。
そういうことの前に、先ず、子供に体罰を加えるのは、卑怯者がすることだと、私は、思っている。
なぜなら、抵抗できないような環境で、しかも、自分より智慧や腕力の劣っている者に対して、体罰を加えるのは、極めて卑劣な者がすることだからである。
おそらく、子供に体罰を加える教師の殆どが、自分に刃向かってこないことを、或いはそういう力がないことを見越して、そうしているのだと思う。
その証拠に、体罰を行なう教師が、自分の子供(生徒)を守る為に、自分の身の危険をも省みず、暴力団に立ち向かったという話は、全く、と言っていい程、聞いたことがない。
それに、現実の問題として、現在の教育委員会制度においては、子供に体罰を加えても、法で罰せられることは極めて稀である。
そういう治外法権的特殊社会に身を置き、そういう閉鎖社会で、その地位身分を保護されならが、生徒に暴力を振るうことが、正当化されていいはずがない。
教師以外の一般社会においては、他人に一方的に暴力を振るったら、間違いなく、警察沙汰になり、間違えば、刑務所の厄介になることも覚悟しなければなるまい。
教師も、一般の社会人と同じように、生徒に暴力を振るった場合、間違えば、警察沙汰になり、刑務所に行くことも覚悟しつつ、そうするなら、体罰をも、あながち、間違いだと言えないかもしれない。
そういう覚悟もない、勇気もない、従って、人格もない人間が、しかも、閉鎖社会に身を守られながら、表面だけ聖職顔(ずら)して、抵抗のできない弱い者に暴力を振るうなんて、教育という面からしても、社会正義ということからしても、絶対にあってはならないことである。
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実は私、今を去ること30数年前、太平電業(株)という会社で、アルジェリアで石油精製プラント建設の仕事に携わったことがある。
約2年間、現地にいて、単身赴任だった。
事務の責任者で赴任したのだが、現地特有の労務管理事情(当時、アルジェリアは社会主義国家だったので、労働組合が強く、労働者の解雇も思うようにできなかった)やら、金銭の管理(銀行や、役所に対する、サインの届出は、私の名前でされていた)やらで、他に技術系の現地責任者がいたのだが、対外的には、私が会社の代表として、前面に立たざるを得ないことが多かった。
ご存知のように、現在、アルジェリアでは、イスラム武装勢力が、サハラ砂漠にある天然ガス関連施設を襲い、邦人を含む多数の人質を盾に施設を占拠、同国特殊部隊との間に、激しい銃撃戦が行なわれているようである。
今、なお、人質となった、多くの人たちの安否が気遣われているが、
そんな中、今日(1月20日)の読売新聞は、「海外展開の日本企業、危機管理策を再点検」というタイトルで、海外展開する日本企業の危機管理対策の見直しや、再点検を訴えている。
しかし、その具体策となると、「丸紅は常設の海外危機管理組織があり、マニュアルを随時更新し、海外赴任前に社員本人と家族に講習を義務付けている。」とか
「出光興産は緊急事態への対応部署を設けており、地震や事故などの多様なリスク対応をマニュアルにまとめている。」とか、
そして、結論的に、「それでも、米大手リスクコンサルティング会社クロールの影山正日本法人代表は、『日本企業は欧米企業と比べて危機管理対策にかける予算も人も少ない。有事に対応できる専門家を社内に持つべきだ』と警鐘を鳴らしている。」とか言っているに過ぎない。
ところで、私が携わったアルジェリアの石油精製プラント建設の元請は、土木建築はゼネコンの鹿島建設、プラントの設計施工はIHIと日本を代表するような企業だった。
私が勤めていた太平電業という会社は、IHIの下請けで、現地での配管プラント等の施行を請け負っていた。
下請けと言っても、最盛期には、現地労働者も含めて、500人からの従業員を抱えていたのだから、お金の遣り繰り、特に、現地労働者の労務管理は、それなりに苦労した。
元請の鹿島やIHIにして、現地労働者の管理理には手を焼いていたようだったから、多くの下請け企業は、押して知るべし、という有り様だった。
たとえば、現地人の給与を、銀行から車で運搬途中、強盗団に襲われて、盗まれたり、現地人労務者の管理責任者が暴行を受けたり、ストライキなどは、それこそ、日常茶飯事のごとく行なわれた。
自慢話のように聞こえるかもしれないが、
そんな中、私の現地事務所だけは、私が記憶する限り、ストライキはおろか、暴行事件など一件も起きてない。
さて、話を、先ほどの新聞記事、「危機管理策」のことに戻す。
アリジェリア事件を伝える、今日の読売新聞の中に、気になる、次のような記事を発見した。
タイトルが大きく「プラントに内通者」とあったから、直ぐ、目についたが、内容は次のようなものだった。
「テロリスト達は施設を熟知しているに見えた。どこに何があるか、知っているようだった。」とか
「武装勢力側は施設内の配食を担当するアルジェリア人従業員の間でストライキの計画があったことも事前に知っていた」とか、
「武装勢力の指導者ベルモフタル容疑者の配下には、プラント操業に加わる英石油大手BPの契約社員になり、施設付の運転手や料理人として勤務している者もいた。そうしたスパイが襲撃に加わったという。」というものだった。
ところで、当時、軒並みに現地日本企業が、特に、労務管理で苦労する中、私のところだけが、ストライキなど、一件の事件も起きなかったのは、
紙数の関係もあって、多くは語れないが、
現地人労務管理者との間に、信頼関係ができていたことが、最大の要因ではないかと、思う。
反対に、労務管理に失敗した会社は、その要因として、現地労働者、特に現地人管理者を、日本式管理方法で管理しようとしたことにあったように、思う。
つまり、現地の人たちと信頼関係を結べなかった、ということに、うまく行かなかった、つまり、事件が頻発した最大の原因があったように思う。
さて、今回の事件が起きた、サハラ砂漠の真ん中の、天然ガス関連施設を、どこの国の、どのような会社が、管理していたかは知らないが、
私には、内部にテロリスト内通するスパイがいたということは、現地アルジェリア人との間に、信頼関係が、全くできてなかった、という明らかな証拠ではないか、と思う。
アルジェリアという国は、警察も、隣近所をお互いに監視させ、そして、その内報者の通報によって犯罪を取り締まる、密告組織が張り巡らされている、いわゆるスパイ社会でもある。
それに、良かれ悪しかれ、口コミによって、一晩で、噂が、あっという間にその地域全体、に広まる口コミ社会でもある。
前出の危機管理のコンサルタント会社が言うように、事件が起きた時のことを考えて、対策室を設けたり、マニュアルなど作ることも、大切なことには違いないが、
それよりも、事件が起きる前に、即ち、事件が起きないような対策を、事前に、立てておくことの方が、より大切なことではないか、と思う。
それには、かの国の人たちを管理するのに、自国の管理手法を、そのまま、押し付けるのではなく、
努めて、現地人と心を通わせ、信頼関係を築き、現地人の手で、現地の手法で、現地人労務者を管理し、犯罪や事件が起きるのを、未然に防ぐことの方が、より的確な、危機管理の手法ではないかと思う。
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