気と心と宇宙法則

難病(難しい病気)の人たちの力になりたい、と思っています。

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やせこけたクマ

ヤフーの見出し(最初に出てくるページ)欄のトピックス欄に、「クリ拾い男性、クマ投げ飛ばす」という記事見出しがあったので、すごい奴がいたもんだと思って、本文を開いてみた。


その内容は、以下の通り。

「クリ拾いをしていた、山形県のSさん32歳と、その祖母80歳がクマに襲われた。Sさんが投げ飛ばして追っ払ったが、二人とも軽い怪我を負った。

Sさんは、後ろから、突然、クマに襲われ、右太ももと左腕をかまれた。Sさんが投げ飛ばすと、クマは祖母の右腕と顔を引っかいて逃げた。

約20分後、クマは現場から、約200Mはなれたところで、地元猟友会によって、射殺された。

推定8〜12歳、ツキノワグマ、身長1.2M、体重約70キロ、痩せこけていた。」


身長1.2Mとは、小学生くらいの大きさではないか。

食べる物がなかったのだろう、痩せこけていた、という。

人を襲ってみたが、投げ飛ばされたので、あわてて、近くにいた祖母を引っかいて、逃げたのだろう。

そのまま、逃げおおせたのならいいが、現場から僅か200Mしか離れていないところで、射殺されたという。


なんとなく、クマの方に、同情させられる記事であった。

福田首相の座右の銘は、老子の、光而不耀(光ありて、かがやかさず。聖人は光があっても外に出さない)というものらしい。

この言葉の意味は、孔子の、巧言令色鮮仁(こうげんれいしょく、じんすくなし)という言葉にも通じるものであると思う。

これは、言葉が巧みだったり、スタンドプレーをするような者は、あまり信用できない、という意味である。

確かに、両方とも、一理ある言葉である。


一方、俳優の森繁久弥は、こういうことも言っている。

「感動は、人と人の間で起きる。自分が舞台で演じながら、感動しなければ、観客も又、感動しない」と。

俳優とか、女優とか、或いは、政治家もそうだと思うが、それを、見たり、聴いたりしている聴衆と、心の一体感を感じたり、お互いが同じ思いを共有している、という感動を、一度でも、経験すると、その魅力のとりこになって、結局は、その仕事を、辞められなくなる、という話は、よく耳にするところである。


女優とか、俳優とかでなくても、松下電器(最近、社名を変更したそうであるが、それがどういうものであったか、いま、思い出せないでいる)の創業者である、松下幸之助氏は、こう言っている。

松下幸之助さんは、人事万華鏡という本の中で、指導者(会社では、管理職、或いは役員を指す)の条件を、次のように挙げている。即ち、
(1) 使命感
(2) 無私
(3) ロマン
(4) 現実処理能力
これらの4つを、要約すれば、それは、「情熱」とか、「熱意」とかいう言葉になるのであろうが、


事実、松下幸之助さんは、上の言葉を要約して、このように言っている。

「人の上に立つ、指導者、管理職としての要諦は、色々考えられるけど、その中でも、最も大切なものは、『情熱』ではないかと思う。」

「勿論上に立つ人として、何もかも人に優れていれば、これは、申し分ない事は言うまでもない。」

「知識もある、手腕もある、才能もある、人格も優れているという人が、一番好ましいことは当然である」

「しかし、実際にはそのように何もかも衆に抜きんでて、立派な人というものは、先ず、ありえないと言っていい」

「大体に人間というものは、ある一事に優れていれば、他の面では人よりも劣っているというのが、普通であり、指導者だからと言って、その例外を望むのは難しいと思う」

「だから、指導者として多くの面で部下に劣っていてもいいわけだが、ただ、一つ、熱意だけは他に優れたものを持たなければならない。知識なり才能なりは、必ずしも最高でなくてもいい、しかし、熱意だけは、最高のもでなくてはならない」と。


福田さんだって、政治に対する情熱は持っていたのだろうけど、日頃の、テレビ等で見る、何ごとにつけ、他人事のような、冷めたような口ぶりからは、その情熱の片鱗すら、覗えない。

松下さんからすれば、彼は、指導者として、一番もっていなければならないものを、持ち合わせていなかった、ということになる。


反対に、このことから、すぐに思い出すのは、小泉純一郎元総理の、郵政改革法案が参議院で否決され、衆議院を解散する前夜の、あの記者会見の様子である。

あの時の、あの小泉さんの、あの思いつめたような、髪振り乱した半狂乱、とでもいったような姿から、一種の殺気とか、鬼気とか、そういうものを感じ取ったのは、私一人ではなかった、はずだ。


ところで、政治家になって、総理大臣を夢に見ない人は、一人もいない、と言われる。

私自身、学生の頃、出身学部が、政治学科だけに、政治家を目指して、国会議員会館に日参していたあの頃の、経験からして、

少なくとも、政治家というものは、権力欲の塊のような人が入る世界であり、自己顕示欲の希薄な者は、なれない世界でもある、ということである。


私に言わしむれば、福田さんのように、「光、耀かさず」などと思っている人が、決して、立ち入ってはならない世界なのである。

また、君子だったら、そういう、権力欲、金銭欲などが渦巻いているような、世界には、決して、自ら近付かないはずである。

私は、君子ではなかったが、そういう世界は自分の性に合ってないと思ったので、結局、政治の世界に立ち入ることはなかった。


それに、世の中には、全て、時流というものがある。

少なくとも、普通の人事世事に関して言えば、今日正しい、とされたことでも、明日は、悪、となるのが一般的である。

つまり、孔子や、老子の時代には、正しいとされたことでも、時代が大きく変わった今日では、正しくない、とされる事もある。


また、その人の置かれた、立場・持ち場によっても、正しかったり、正しくなかったりする事もある。

つまり、役人の世界だったら、正しいことも、民間の企業においては正しくないこともあるし、技術者だったらいいが、セールスマンとしては、取っちゃいけない態度もある。

ましてや、政治家という特殊の人たちがなる世界においては、なおさらのことである。


そんなこんなで、つらつら考えるに、福田さんの、あの「光而不耀」という言葉は、

本来、彼の性格は、派手なことを嫌うものがあり、その性格を糊塗するために、無理に、自分の身丈に合うものとして、引っ張ってきた言葉なのか、

或いは、彼は、心からそう信じていたのだけれども、彼の置かれた立場や、時流が、その言葉や生き方と、合致してなかったのではないかと、思うものである。

こぶし(辛夷)

大木惇夫さんという人の詩に、こういうのがある。
      
    こぶしの花

  こぶしは 白き花ながら
  つくづく見れば 影もありけり
  影と見えつつ こうごうしくも
  寂び 明かりけり

無粋と思いつつ、私流の解説を、下に、加える。

『こぶしの花は、白一色のようにも見えるが
よく見れば、暗い影のようなところもある
一口に、影と言っても
その影は、普通、太陽が造っているような、物の影ではない
神様か何かが、自ら光を放っているような、それを、寂光とでも言うような
そんな、神秘的な、影とも、明かりともつかぬ、何かが、
こぶしの花には、ある』

以前、鎌倉に住んでいたことがあった。

家の前が、公園になっていて、その公園には、一本だけ、4〜5Mはありそうな、桜の大木が植わっていた。

そのころ、まだ中学生だった次男が、夜遅く、部活から帰ってきて、母親に、こう言ったらしい「お母さん、あの桜の木、気味が悪いよ」と。

春、三月、季節になると、その桜の木は、白い花を、いっぱいつけ、薄闇の中に、亭々と聳え立っていたが、

あたかも、それは、桜の木そのものが、寂光を放ちつつ、そこに立っているような、そんな感じがしたりした。

子供は、「気味が悪い」と言ったが、「気味が悪い」と言えば、そう言える雰囲気でも、あったのだ。



今では、そういうこともなくなったが、会社勤めしていた若い頃、会社が、九段下にあって、春になると、いつも靖国神社の境内で、花見会を催した。

例によって、桜の花の下で、花に浮かれて、飲めや歌えやと、大騒ぎして、何気なく、ひょいと、天を仰いだ時、

あたかも、真っ白いテントの中か、トンネルにいるような錯覚を、起こしそうになったが、

同時に、無数の、花の精霊達に、見つめられているような、そんな気がしたりした。

あれは、桜も、こぶしと一緒で、白一色のように見えて、その実、影のようなものがあって、それが「寂び、明かって」いた、せいなのかもしれない。



寂光とは、神、自らが放つ、光のことを言う。

寂び(さび)とは、神の世界と一体化して、自己主張のない美しさをいう。

「古池や、蛙、とび込む、水の音」

松尾芭蕉の世界を、寂び(さび)という。

私達日本人は、花にしても、侘び寂びを、求めるているのだろうか。

ソメイヨシノという花は駄花らしい。

駄花という意味は、格が低いとか、せいぜい中くらい、という程の意味らしい。

私が言っているのではなく、小林秀雄という人の、「考えるヒント」という本に、そう書いてある。

ところで、「しき島の、大和心を、ひととはば、朝日に、におう、山桜花」という歌は、本居宣長という人が、作ったものである。

江戸時代中期(1801年に、没)の人であるが、その頃は、桜と言えば、山桜のことを言ったらしい。

そう言えば、高校時代、「山桜」という、あだ名の先生がいた。

山桜は、葉が先に出るから、そう言ったらしいが、

山桜にも、やたら、葉ばっかり目立って、その葉の陰に隠れるように、ちらほら、遠慮がちに、花が咲いているような、山桜もあるが、

そんな、例の、高校の先生のような、山桜ばかりでは、ないようだ。

本居宣長が、「朝日ににおう、山桜花」と詠んだ、山桜は、「葉あかく照りて、細きが、まばらにまじりて、花しげく咲きたる」ような山桜のこと、と小林秀雄の本に書いてある。

確かに、葉が、先に、出るには出るが、小さな目立たない、赤い芽のような、葉っぱの、山桜もある。

そういった葉っぱの中に、「花しげく」と宣長が言ったのは、「しげく」でも、わんさか、団体で、群れをなしたように咲く、花ではない。駄花といわれる、ソメイヨシノの事である。

「花しげく咲きたる」、と宣長が言ったのは、一つ一つの花びらが、それとはっきりわかる花を、たくさんつけた木、のことを言っているのである。

その花びらは、赤系の、かわいらしい花びらをしている。

昔の、海軍の、戦闘機の翼か、どこかに書かれていたような、或いは、特攻隊の服の腕かどこかに書かれていたような、あんな赤系を想像していただけばいい。

今風に言えば、ピンクと赤の中間くらいの色だろうか。

葉っぱも、赤、花びらも赤、一つ一つがはっきりとした、かわいらしい花びらを、いっぱいつけた桜の木が、これも又、赤系の朝日に、照らされているのを見たら、清清しい気持ちになるのは、宣長だけじゃあるまい。

宣長が「匂う」と言ったのは、そういう清清しい気持のことを、表現したものと、私は思う。

ところで、ソメイヨシノの、鹿児島の開花日の予想は、3月31日、とか言っている。全国でも、一番遅い方らしい。

先の火曜日(13日)は、福岡出張の日であった。高速バスで、山の中のを、4時間、走って福岡に着く。

遅いか、早いかは、知らないが、鹿児島の、高速道の脇の、山の中には、もう、桜が咲いていた。

料金所の隅に、一本だけ、ぽつんと、立っている木であったが、それでも、朝日に照らされた、その山桜は、宣長が言ったように、それこそ「匂う」ように美しかった。

それにしても、ソメイヨシノが、それほど悪い花だとも、思えないが、

本居宣長に、そう言われてみれば、やたら、ガチャ、ガチャ、賑やかに、大仰に、群れて咲く、花の姿は、安キャバレーのネオンサインのように、見えないこともない。

松山 千春

先日、久しぶりに、車で遠出をした。一度行ってみたいと思っていた、笠沙へ行ったのだ。

家内が、実家の用で、一緒できなかったので、一人で行った。

一人だったので、途中さびしいだろうと思って、CDを持参した。聴きながら行こうと思ったのだ。

勿論、CDは、表題の松山千春である。

「悲しい歌は、楽しそうに。楽しい歌は、悲しそうに」歌え、と言ったのは、故藤山一郎であった、と思う。

以前より、ファンと言うほどでもないが、なんとなく、松山千春が気になっていた。

二月の私の誕生日に、藤沢にいる、私の長男が、誕生日プレゼントに、松山千春のCDを送ってくれた。2枚、全32曲である。

正月に、こちらへ来てくれたが、その時、私がブログで松山千春を聞いていたのを、見たのか、それとも、私が何かのついでに、千春が好きだと言ったのかもしれない。

4時間か五時間、車に乗りっぱなしで、その間CDかけっ放しだったから、十分堪能できた。

感想は、やっぱり千春は、歌がうまい、ということであった。

かなり以前であったが、本人が、自慢げに、「俺の次に、歌がうまいのは、森進一だろう」、と言っていたのを思い出した。勿論、一番は「自分」だと。

かつて、森田たまという女流作家がいた。

この人の詩に、こういうのがある。

「雨降り出でぬ、雨のまま、夕べとなりぬ、雨の音、夜もすがら、わが思い、夜もすがら」

愛だとか、恋だとか、遭いたいとか、恋しいだとか、一言も、言ってないにもかかわらず、一晩中、愛しい男の事を、思い続けている、恋する女の姿が、ありありと、目に浮かんでくる。

こういう、句もある。詩人三好達治の愛した句、というだけで、誰が作ったものかは、私も知らない。

「山並み遠に、春は来て、こぶしの花は天上に」

以前、若い頃、仕事で、奥州仙台に、いたことがあった。

厳しい冬が去って、やっと、少し暖かくなったかな、思うような頃、

はるか遠くの、枯れたような、山並の向こうに、白い、雲か霞のように、うっすらと、しかも、点々と、あちこちに、こぶしが咲いているのが、望まれた。

それを、この句の作者は、「天上に咲く花」のように、思ったのだろう。

「こぶしの花は天上に」というのは、春まだ遠い北国の、あの頃の、あの山の、あのこぶしの花にピッタリの表現である。

森田たま、の詩でもそうであるが、優れた詩とか、句とかは、そのものズバリの表現をしないで、

全然違ったことを言いながら、その情景をピッタと、思わせてくれるものを、そう言うらしい。

歌も、そうなのだろう。

松山千春の、感情移入を、つとめて避けたような、抑揚のない、かん高い声を聴きながら、

「楽しい歌は、悲しそうに、悲しい歌は、楽しそうに、歌え」か、と、そういうことを、考えていた。


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