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最近、毎週のように、休みになると、近くの温泉に行くことにしている。
幹線道路を折れて、川沿いの、くねくねと曲がった、車がやっと離行できる程度の、山道を上がって約5分、うっかりしていると、見過ごしてしまいそうな入り口を、右に曲がってしばらく行くと、いきなり視界が開けて、唐突にその温泉が出現する。我が家を出てから10分くらいの距離である。
中に入ったら、室内の浴槽群を、一目散に通り抜けて、外にある露天風呂に向かう。そこが私のお気に入りの場所だ。浴槽の脇には、椅子が三つ置いてあって、温泉に居る間の時間、殆どをその一つの上で過ごす。勿論、湯船にも何回か、入るには入る、が、入っている時間は非常に短く、直ぐに上がって来て、又、その椅子に座る。その繰返しである。それで、一時間ぐらいは、すぐに経つ。
露天風呂は、川が大きく蛇行する場所にある。川は大きく蛇行すると、当然そこには、広い川瀬が出来て、反対に川幅は狭くなる。そうなると、そこを流れる流れは速く、瀬音も大きい。
椅子に座って遠くを見やると、遠くの杉や檜の小高い山を背景にして、楠やその他の雑木が、うっそうと茂っている。
後ろに、川瀬の音を聞きながら、見るともなく、目の前の、楠の若葉に見入っていると、そよそよと川風が吹き渡って行く。それが又、濡れた体に、実に心地好い。
いつの間にか、瞑想の時の、三昧境の様な、うっとりとした気持ちになる。「ああ、こういう気持ちになれて、ありがたいなあ」とつくづくそう思う。その時、いつも想い出すのが、かつてサラリーマンをしていた時の、同僚との会話である。
あるとき、その男は僕に言った「もういやになったよ、一週間ぐらい仕事を離れて、どこか田舎の温泉にでも行ってのんびりしたい」と。
よく聞く話であるが、職場を離れて、遠くへ行ったら、のんびりできるかといったら、そうは行かないのである。それは、「心は、置いて行けない」からである。
皆さんも経験がないだろうか?静かな気持ちになろうと思って、田舎の、だれもいない所に行ったら、これまで以上に、雑念妄念が、次々と湧いてきて、困ったというような事は。
ストレスも、雑念妄念も、自分の心が創り出しているものである以上、環境をいくら変えても、心が変わらない以上、逃れようがないもなのである。
話は変わるが、かつて、私も、大学を出て、22年間位、サラリーマンをしていた。藤沢の自宅から、東京の職場まで、約一時間半位、満員電車に揺られて、通勤していた。
電車の中には、マナーを知らない、無神経なヤツが一杯いるもので、その頃、私が、気になったのが、ウォークマンの音漏れと、新聞であった。
どだい満員電車の中で新聞を読むのは無理があって迷惑なものだが、中でも、私が一番いやだったのが、朝の通勤ラッシュの電車の中で、吊り革につかまりながら新聞を読んでいるヤツだった。
満員電車の中は、自分の嫌なヤツが来ても、逃げ出すわけに行かない。吊り革につかまって新聞を読んでいるヤツは、最初のうちは、それなりに新聞が他に触るのを、気に使っているようにも見えたが、そのうち、夢中になって、新聞の裾が垂れて来て、他人に迷惑かけているのも、気が付かないようになる。
私は、背は162センチくらいしかなく、おまけに中年の頃には、頭髪が殆どなくなりかけていたので、そういうヤツが傍に来ると、もう最悪だった。電車が揺れるたびに、次第に新聞の裾が垂れてきて、触るか触らないか、微妙なタッチで触れてくるのが、実に嫌で、不愉快だった。自ら、逃れようがない環境だけに余計に腹が立った。
今でも、その気味は多少残っているが、その頃は、もっと短気で、結構喧嘩早かったので、随分、イザコザを起こしたものである。
それが、とあるところで、瞑想をするようになってから、気持ちが、変わり始めるのである。話は、こういうことである。
瞑想を始めて半年も経った頃だろうか?頭頂(百会)に軽く針で刺されるような痛みを伴って、何物かが頭の中に入ってくるのを、感じ始めた。
時を同じくして、それまでイライラしたりカリカリして怒っていたような事に出会っても、割と平気でいられるようになったのである。つまり「あれ!いつもならこんなことがあったら、直ぐに怒ったり、気にしてくよくよしていたのに、ちっともそうならない」と思うようになったのである。
ところで、私たちの思考というのは、どういうメカニズムの元に発生しているのだろうか?ということを考えてみたい。心理学的に言うと、我々人間の思考と言うものは、心の深部で行われるのではなく、実在意識と称される、心の表面で行なわれているものである。
ところが、この思考が、心の表面である実在意識領で行なわれる時、実在意識単独の働きで行なわれるのではなく、実在意識領が何らかの刺激なり、衝動を受けて、思考を行なおうとする時、とっさに、これに応じて心の深部にある、心の倉庫とも言うべき、潜在意識の中から、その思考を組み立てる材料を実在意識領に運び込んで、ここに、一つの思考形態が具体化する。そして、この思考の材料ともなるべきものを、観念要素と言うのである。
だから、人間の思考と言うのは、この観念要素次第ということにもなるのである。例えば、一つの問題に対して、10人の人がいれば、10通りの違った意見が出てくるのは、それぞれが持っている観念要素の違いによるものなのである。
また、こういう経験をしたことはないだろうか?ここで怒っちゃいけない、ここで悲しんじゃいけない、ここで動揺しちゃいけない、と思いつつ、自分で自分の心がどうにもならなくて、心ならずも怒ってみたり、悲しんだり、動揺したり。
あなた方は、偉いからそうことはあまりなかろうけど、つい5〜6年前の私など、それこそしょっちゅうだった。「心こそ、心迷わす心なれ、心に、心せよ」なんていい言葉だ、全くそのとおりだよ、と思っていた。
だから、この心の潜在意識の中にある観念要素を変えない限り、いくら実在意識で、人間はかくあるべしなどと、努力してみても、しょせん無理なのである。
それでは、潜在意識の観念要素はどのようにしてできるか?それは、先祖代々受け継いだものもあるが、その殆どは、この世にオギャーと、生を受けて以来、見たり、聞いたり、触ったり、嗅いだり、考えたり、したものが全て、人間が持つ暗示感受習性というものよって、潜在意識に貯えられて、観念要素となるのである。
私が、通勤の満員電車の中でウォークマンの音漏れを気にしたり、新聞の端が垂れてきて頭に触るのを気にしたりするのも、全て、自分の潜在意識の中にある、観念要素のせいだったのである。
言い換えれば、気になる原因は、外にあると思っていたが、それは全て、自分の心の中、つまり、内にあったのである。
又、私が友人に、「職場を遠く離れて静かな所に行けば、仕事も、煩わしい人間関係も忘れて、落ち着いた静かな気持ちになれるか、と思ったら大間違いだよ」、とそう言うのも、そのストレスの原因は全て、外にあるのではなく、内、つまり自分の心の中にあるからなのである。心だけを職場に置いて行ければいいが、心はどうして、そのままの状態で、自分の行く所へ、くっついて来るからである。
私は、今では、通勤電車の中でも、歩いていても、気療の仕事をしている最中でも、瞬時にして無念夢想の状態になれる。人が、心のことで苦しむのは、マイナス思考はいけないと思っていても、その不愉快でいやな思いを、断ち切れずにいつまでも、どこまでも、引きずってしまうしまうが為である。
うつ病とか、ノイローゼとか神経衰弱などという心の病は、このような連綿と続く、嫌な思いを断ち切れずに、どこまでも引きずってしまうため、遂には、心のボルテージが低下してしまうことから発生する病気なのである。
と考えていくと、このような心の病に対処する方法も、自ずと見えてくる。連綿と続くマイナス思考を、どこかで断ち切りさえすればいいのである。
お前は簡単にそういうことを言うが、心というのはそのように簡単に変えられるものではないよ、と言う人が大多数ではないかと思うが、それは、心を変える具体的な方法を知らないからそう言うのである。
その具体的な方法をここで述べるには、あまりにも、このブログの紙数は限られているので、少しだけ、しかも結論だけを先に述べておく。
後は、ご自分で、考えたり、勉強されたりしたい。私も望まれるなら、そのお手伝いぐらいするのは、少しもやぶさかではないのだが、「求めよ、さらば開かれん」である、少なくとも、扉く押し開こうとする努力ぐらいは、ご自分でされなければいけない。
先程来言うように、人間の思考と言うものが、潜在意識の中の観念要素に左右されていて、その観念要素は、この世に生を受けてこの方、見たり、聞いたり、触ったり、考えたり、することから発生するものであるとするなら、今後、見たり、聞いたり、考えたりすることを、意識的に変えればいいだけの事である。
病気の人、それも特に、心の病で苦しむ人に、言いたい。毎日毎日、来る日も来る日も、寝ても覚めても、病気の事ばかっり、心配したり、気にしたり、怖れたりしていませんか?そいうことをやって気持ちいいですか?それはプラス思考だと思いますか、マイナス思考だと思いますか?
そういう風に、恐れたり、心配したり、したマイナス思考が、潜在意識の中に、観念要素としてインプットされ、事あるたびに、実在意識の表面に現れてきて、貴方を悩ませ苦しませていると思いませんか?
そういマイナス思考が、気持ちよくて、楽しいならまだしも、そいう嫌で、不愉快な感情が、とつおいつ、昼も夜も、のべつまくなしに、心に現れてきたら、どんなに心が強くて、毛が生えているような強心臓の人でも、心のパワーが落っこって、うつ病にもノイローゼにもなると思いませんか?自分で自分の首を絞めるようなことをしていると思いませんか?
とは言っても、私だって、若い頃、高校受験に失敗して、ノイローゼになったことがあるんです。だから、あまり偉そうなことは言えないんです。私だって、生まれ付いての強心臓だったのではないんです。私もやはり、元は、あなた達と同じように、弱い人間の人間なんです。
悟った人というのは、心の中に、怒りや、悲しみや、怖れ、といったマイナス思考が心の中に起こらない人を言うのではないのです。どんなに悟った人でも、そういう感情はあるんです、心の中に発生するのです。
では、そういう人たちというのは、我々と、どこが違うかと言うと、そういうマイナス思考が発生しても、直ぐにその感情や感覚を断ち切って、プラス思考に心を転換させるテクニックをを持っているだけなんです。ただ、それだけなんです。つまり、貴方達のように、マイナス思考をいつまでも引きづらないだけなんです。
私は、自分自身、悟っているとは思いませんが、それでも、いつどこでも、瞬時に(少し時間がかかることもありますが)、無念無想の心境になることが出来ます。私が、先程のように、露天風呂で、川風に吹かれつつ、遠くの山々を眺め、「ああありがたいなあ!」とつくづく思うのは、心を瞬時に切り替える方法を、体得しているからなんです。
その心を瞬時に切り替える方法は、「気」と断然関係があるのです。だから、私は、「気」がわからない人は、どんなに名が売れた学者であろうと、どんなに大きくて、名の知れたお寺の住職であろうと、おそらく、きっと、偽者に違いない、とそう思っているのです。
不思議なことに、書けば書くほど書きたいことが一杯出てきて、もう止めようもなく、文章が長くなってしまうんです。だから、この後は、いずれ又の機会を、お楽しみに。と言って、終わらせなければ、終わらせようがないんです。
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