国際刑事裁判所発足後の発展の歴史 (2006年上半期)
・18日: コンゴ民主共和国(DRC)の案件にて、ICC史上、そして国際刑事裁判史上初めて、犯罪の被害者が予審裁判の審理への参加を許される。
・10日: ICCが全世界103カ国から受け取った、国際犯罪が行われたと訴える1703件に及ぶ訴状について、検察官は回答を書面にて公開。イラクおよびベネズエラにおける犯罪を訴える訴状については、ICCの管轄権外であることを理由に訴追不可と判断。コートジボワールおよびコロンビアの案件については慎重な調査が必要であるという認識を表明し、両国の指導者および犯罪に関わっていると見られる者に明確なメッセージを送る。(イラクからの訴状に関する詳細)
・10日〜11日: オランダ、ハーグにて判事6名の宣誓就任式が執り行われる。6名の判事らは、第四回締約国会議において、全世界各地域の資格を有する法律家らの中から選ばれた。選出された6名を含めた18名の判事は会議でカナダのキルシュ判事を裁判所所長として再選。さらにガーナのクエニェヒア判事(Judge Akua Kuenyehia)と ボリビアのルネ・ブラットマン判事(Judge Ren?? Blattmann)がそれぞれ副所長として選ばれた。(選出された統括部の面々と選出方法) ・12日: 米国政府閣僚として初めて、コンドリーザ・ライス国務長官が冷え込むラテン・アメリカ諸国との関係修復を図るために、政府として反ICC政策の転換を検討するという表明があった。これは重大な情報だと思われるため、UPI通信の報道の全文を以下に翻訳・転載する。 米国、チリ、ボリビア両国への支援凍結を見直しか
【チリ/サンチアゴ 12日 UPI】米国の政府関係者は、国際刑事裁判所(ICC)に対する米国市民の免責を拒否したラテンアメリカ諸国について、一旦は凍結した軍事支援を再開する方法を検討している。 米ニューヨークタイムズ紙によると、チリに渡航中のコンドリーザ・ライス米国務長官は記者団に対し、テロや麻薬撲滅の戦いに臨んでいるチリやボリビアなどの国々に対する軍事支援を削減したり停止することは「自分の足元を銃で撃つようなものだ」と述べたという。 同紙によると、米国議会が施行した法律では、ICCに対する米国市民の免責を拒否する国に対する軍事支援の禁止が定められているが、少なくとも30カ国がこの免責を拒否しており、そのうち12カ国がラテンアメリカおよびカリブ海諸国だという。同法にはブッシュ大統領による軍事支援凍結の撤回を可能にする規定も定められているが、国務省関係者によると、ブッシュ政権の中には凍結撤回の前例を作ることで、他の国からも撤回の要請が相次ぐことを危惧する声があるという。 ・16日: トリニダード・トバゴの元大統領兼首相であり、元PGA(地球的規模問題に取組む国際議員連盟)メンバーでもあるロビンソン氏(Mr. A. N. R. Robinson)が、締約国会議事務局により国際犯罪に関する被害者信託基金(VPRS)の役員理事に選出される。同氏は、常設の国際刑事裁判所の設立に長きに渡って貢献し続けてきた最大の功労者といえる人物で、1989年12月の国連総会では、トリニダード・トバゴの首相として、国際刑事裁判所の設立を総会の議題として提案した。その後、ICCの実現のために多方面から支援を続け、ローマ規程発効のために尽力してきた。 ・17日〜20日: 武装勢力に児童を徴兵し強制的に戦争に参加させた疑いで、ICCはトマス・ルバンガ(Thomas Lubanga) 容疑者を逮捕。同容疑者は、ICCの要請による逮捕・引渡しが実現した初めての被告となった。ルバンガ容疑者は、コンゴ民主共和国(DRC)のイトゥーリ地区で暴力行為を繰り広げたとされる武装組織、コンゴ愛国者同盟(UPC)の指導者と見られている。国連コンゴ民主共和国ミッション(MONUC)によると、ルバンガ容疑者の逮捕は2005年3月21日、DRC当局により同国の国内法手続きに従って遅滞なく実行された。 同容疑者の引渡しを求める国際逮捕状は2006年1月、ICCによって交付された。キンシャサからハーグまでの移送にあたっては、フランス政府が協力した。ICC検察官は今回の逮捕の実現について、「これはDRCにおける最初のケースではあるが、これを最後とはしない」と語った。ICC第一予審法廷のクロード・ジョルダ判事(Presiding Judge Claude Jorda)は、バンガ容疑者が自身の罪状について把握し、諸手続きに慣れ、公正な姿勢で裁判に臨めるようにするには「3カ月の期間が必要」と述べ、ルバンガ被告に対する正式な罪状を説明するのは、次回2006年6月27日の審理の場においてになると説明した。
・1日: ICCの要請により、国際刑事警察機構(ICPO)が初めて、5通の赤・国際手配書(Red Notice)を発行する。手配書にはICC発行の国際逮捕状に書かれた神の抵抗軍(LRA)の司令官ら5名が含まれた。手配されたのは、ジョセフ・コニー(Joseph Kony)、ヴィンセント・オッティ(Vincent Otti)、オコト・オディアンボ(Okot Odhiambo)、ラスカ・ルキーヤ(Raska Lukwiya)、ドミニック・オングウェン(Dominic Ongwen)ら5名。これら5名の逮捕・拘束を求める赤手配書は、全世界184カ国に送達された。(詳細) ・14日: 米国務省の主席法律顧問であるジョン・ベリンジャー氏(Mr. John Bellinger)が米ウォールストリート・ジャーナル誌とのインタビュー(英文)で、ICCに対する米国政府の方針の転換を伺わせる発言をする。米国が徐々に、ICCの正当性を認め、その国際正義における重要な役割を認め始めていることを示唆するものだった。同年5月の演説でベリンジャー氏は、「ICCに関する不協和音は、ジェノサイドや人道に対する罪との戦いのなかで、これら共通の目的を達成するために必要な我らの力を妨げることになる」と警告を発した。(演説の抜粋部分の和訳)
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ICCと世界の歩み
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ICC誕生の経緯から、その発足、そしてその後の現在に至るまでの経緯について説明するとともに、批准状況に関する最新の情報もお届けします。(ブログ設置者からの自己紹介もあり)
国際刑事裁判所発足後の発展の歴史 (2004年〜2005年)2004年
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国際刑事裁判所の発足と発展の歴史 (2002年〜2003年)2002年
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国際刑事裁判所発足までの経緯構想の誕生と低迷 2002年7月に条約が発効し、翌3月には開所した国際刑事裁判所(ICC)の設立構想は、半世紀以上も前、国際連合の設立当初から存在していました。第2次世界大戦後のニュルンべルク国際軍事裁判と極東国際軍事裁判の経験を踏まえ、国際社会が常設の国際法廷を設置して将来の大量虐殺や侵略の発生を抑止するのを目的に構想が着手されていたのです。しかし、東西冷戦によって数十年にわたりこの構想は凍結されることになります。
90年代に入り冷戦が終結すると、冷戦後に頻発した民族紛争に対処するために国際社会は新たな手段を必要としました。そして、旧ユーゴスラビアやルワンダの紛争における集団レイプや大量虐殺、人道に対する罪といった重大な国際犯罪を裁く臨時の国際犯罪法廷(旧ユーゴスラビアの戦争犯罪を裁くICTY、ルワンダ虐殺を扱うICTRなど)が設置されたことにより、常設の国際刑事裁判所設置の議論が復活し、急速に進展しました。非政府組織(NGO)もこの準備過程へ積極的に参加し、国連や各国政府に対して様々な働きかけを行いました。このときに誕生したのが、現在世界の2,000以上のNGOによって構成されるCICC『国際刑事裁判所を求めるNGO連合』(解説)です。
1998年7月、イタリアのローマで国際刑事裁判所設立のための国連全権外交会議が開かれ、1995年に発足したばかりのCICCもオブザーバー参加する中、120カ国の賛同(日本は当時未署名)を受けて国際刑事裁判所設立条約、通称「ローマ規程」(解説)が採択されました。このローマ規程が発効するには60ヵ国の批准が必要となります。しかし、ICCは国家主権の一部を国際機関に委譲するという側面をもつ可能性があり、各国とも国内法との調整の課題があったため、発効には20年は要するという見方もありました。しかし、冷戦後の国連や国際機関を中心とした新しい国際秩序(グローバルガバナンス)を求める世界的な機運と、CICCなど市民社会からの強い働きかけもあって批准は順調に進みました。
2002年3月までに、拡大前のEUのほぼ全加盟国を含めた56ヵ国が批准してるという状況になり、さらに同年4月11日にボスニア、ルーマニア、カンボジアなど一挙に10ヵ国が批准し条約発効の要件を満たしたため、ローマ会議からわずか4年後の2002年7月1日、ローマ規程は正式に発効し、翌年3月にはオランダのハーグに裁判所が設置されました。 こうして、国連創設から半世紀以上の時を経て、史上初の常設国際刑事裁判所の設立構想が遂に実を結び、2003年3月、ICCは正式に発足したのです。 今日は重大な日である。裁判所の設立は、画期的な進歩と言える。将来の世代は、国際社会がなぜこれほど長い時間を要したのか、不思議に思うことであろう。裁判所は、数百万人の人々を筆舌に尽くし難い惨禍から救うことになろう。 |







