|
通称「山頭火」さんは漂泊の俳人なんて言われている。(以下:敬称は略す)
正式には種田正一が本名で山頭火は俳号。山口県防府市(現)の酒屋に生まれ、思春期に母の死で心に大きな傷を負う。結局、この傷を持ち続け松山市でその生涯を閉じている。漂泊、放浪はいわば自分に課せられた「業(ごう)」ではなかったか?
山頭火の俳句は、五七五という従来の定型句から脱した自由率と呼ばれる句で、一見、乱調子ながらどこか人の心に触れるものがある。よって、彼のファン、また自由率を愛する人たちも多い。なかんずく放浪中に優れた句を残している。
彼の句に出会ったのは三十才代の前半だった。そのときは左程・・・という感じで終わってしまったが、三十才代の後半に再び出会ったのだ。当時、私はいわば放蕩無頼の毎日を送り、定職(といえるかどうかは別として)は夜の仕事に就いていた。そして夜半に仕事が終わると、同業と深夜喫茶(という業務形態もあった時代だ)で朝まで飲んだくれ、一般の勤め人が出勤する時間に下宿へと戻る生活が続いていた。
ある深夜、友人の店で顔見知りと出会った。その話のなかで山頭火が出て来た。
山頭火の本は、食うに困って売り払っていたが、ほろ酔いの中での会話でダレていた脳細胞が刺激されたらしい。数日後、古本屋で山頭火の本を見つけて買った。
だいたい山頭火のブームは、何年かのサイクルで出版元を喜ばせているらしい。私が再度著作を手にした時も、そんなサイクルの時だったのだろう。
この頃になって、ようやく放蕩無頼な毎日に飽きが来た。男の「厄払い」を済ませた一年後に夜の仕事から足を洗い、中途半端な年齢ながら雇ってくれた職業に就いたのだった。
島原市在住の友人も、山頭火ファンである。訪れ酒を飲みながら論じあったり、「もどき」の句をひねったり、という交誼をいまも続けさせて頂いている。
私が山頭火の足跡を追う『肥前路の山頭火』を書いたのは六十歳の時だった。宿泊関連の仕事を終え、比較的時間に余裕のある仕事に代わったのと、(とりあえずは肥前長崎から)山頭火が歩んだ往還と、彼が泊った宿、いわゆる木賃宿の場所を確定しようと試みたわけである。そこで取材に出始めた。長崎県内をくまなく歩き(ただし歩ける時間のないときは公共の乗り物を利用した)、ワ―ド・プロセッサに文字を打ち込み、印刷屋を値切り倒して本にした。自費出版で地元紙でも取り上げられ、どうやらかかった費用が取り戻せたのだった。この本の表題を島原の友人が書いてくれた。
(※これが六十歳のときで七十歳を迎えて書いたのが、このブログのタイトルにもなっている『哀愁の街にジャズが降る』である)
さて過日、老宅を訪れたのは初対面の男性だった。用向きは県央の市の端っこの町で、活性化のために一肌脱いで欲しいとのこと。この町にもかって山頭火が泊った宿があり、それを軸に句碑を考えているという。その折りに講話をお願いしますと。
だいたい人前で話すのが苦手なのでモノ書きになった私である。そんな話をしてお引き取り願ったが、一週間ほど経ってから町の活性化協議会会長と文化協会会長ほか一人と会食するハメになった。食事を奢られ手土産まで頂いたから、もう後には引けない。その期日は山頭火が泊った日に合わせるというのでまだ間がある。しかし厳寒期!これから何回か打ち合わせに出向くことになるが、「なあにまだ間があるさ」とタカをくくってはいるが・・・・・ま、ご指名なら避けて通れないね。
その町は、県内でも屈指の蕎麦粉の産地。いまはもう引退し闘病中の友人は、繁華街にあった有名な「蕎麦屋」の息子で、彼に”蕎麦粉はどこのを?”と聞いた時、この町の名が出た。出向いたとき旨い蕎麦と蕎麦湯が飲めればいいなと思っている。
|

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用






ご講演、日時が決まりましたら、是非ご公表を! 三神工房
2016/7/13(水) 午後 4:54 [ mik**ikou*ou ]