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白澤(はくたく)―
黄帝東巡シ
白澤一見ス
怪ヲ避ケ害ヲ除キ
靡ク所偏ラズ
鳥山石燕『今昔百鬼拾遺―雨』
レイコさんが、さっきより大きなネルでアイス用珈琲を落としている。じんわりと黒い染みがネルに広がっていく。
このままではいけない。あのころから、私の心に少しずつ黒い影が広がっていった。
結局のところ、今の私は夢を追いかけながら、現実に妥協して生きている。契約社員で働いているのも、その産物だ。もちろん、現実との妥協を恥じてはいない。この国のシステムの中で、女が一人で生きていくということは、それなりの覚悟が必要なのだから。
就職してからも、変わらず彼は私のことを愛してくれている。昔のように激しい熱情を感じることは少なくなったけれども、彼が包んでくれる暖かさは昔よりも穏やかに、そして深くなっている。私への彼の想いは昔と変わらず、いや、前よりも遥かに強くなっている。当然ながら、その結果として彼が私との結婚を視野に入れてくれていることも、痛いほど伝わってくる。
そう、痛いのだ―。
彼の思いが「結婚」という現実を突きつけてくることに、私は少なからず痛みを感じている。
もしかしたら、私は、
結婚を恐れているのかもしれない―。
恋人が自分との結婚を考えてくれている。それは決して悪い話ではない。彼の人間性も社会的地位も、何の不満も無い。
なのに―
踏み切れない自分がいる。
結婚にも、仕事にも。
温くなった珈琲に目を落とし、ふと、自分の限界ということを思った。
限界について考える。それは、私の最近の癖となっていた。
三十歳という年齢を目の前に、学芸員の試験を受け続けては不合格という結果しか得られない自分に。夢も現実も、すべてが綯い交ぜになって、それらは私の目の前で混沌の渦を巻きながら、不安と臆病を連れてくるのだ。
彼のことを愛していない。
嘘だ―。
彼のことを愛している。
嘘だ―。
いったいどこに、本当があるのだろう。この自分の何が、本当なのだろう。
「のっぺらぼうって、なんだか悲しいですね」
レイコさんの柔らかな声が、私を思索の海から引き揚げた。
「顔がないっていうことは、そこに自分が無いってことでしょう。私はいやだなあ、そんなの。顔って、自分が自分であるための一番わかりやすいものなんじゃないかなと思うんです。それが無いってことは、自分というものがあやふやになっちゃうんじゃないか、って」
「そうかも、しれませんね・・・」
レイコさんの語るのっぺらぼうの悲しさが、わかる気がした。何処にもいけず、自分がどうしたいのかもわからない。今の私は、顔のないのっぺらぼうだった。
何も、無い―。
いや、のっぺらぼうにすらなれない、その前段階としての狢なのかもしれない。
彼を、愛して―
いるのだろうか。
狢なら、最後まで嘘をつかなければならないだろう。
たとえ一時でも気を抜けば、嘘が、醒めてしまっては、
凡てが―
嘘でなくなるときがくる。
現実が―
厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ。
何処にも行きたくない何も考えたくない誰も愛したくない何もしたくない。
それでも矢張り―
生きて、いかなくては。
ああ、そうだ。
凡て―
嘘なのだ。
それで、よかったのだ。
ならばこれからも、私は狢としてこの嘘を吐き続けよう。嘘が本当になるその日まで。決して、転寝に尻尾を出さぬように。
この今も、凡ては、
狢の嘘なのだから―。
「ごちそうさまでした」
珈琲を飲み干し、私は席を立つ。窓の外ではますます風が強くなり、白樺の枝が揺れ、葉が風に舞っていた。
ありがとうございました、と、レイコさんが優しく微笑みかける。
店のドアを開けると風が私の前髪を跳ね上げた。見上げた空は何処までも高い。
ああ、忘れてた。メール返さないと。
空を見上げながら、私の手は鞄の中のケータイのありかを探っていた。
<了>
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