その名は不思議

「わたしの名は不思議です。どうしてあなたはそれをたずねるのですか。」(旧約・士師記13章18節)

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今日の聖書の言葉です。

「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。
わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。
あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」(新約・ヨハネによる福音書14章27節)

わたしたちにとって必要なものはたくさんあるように思われます。
それを手に入れるために努力し、必要なもの、便利なものをたくさんもっています。
手に入れたときはなんとも嬉しいものです。

ところで心の平安はどのようにして手に入れることが出来るでしょうか?
次から次に何かほしいものを手に入れることが出来れば手に入るのでしょうか?
人間はいつもそのために努力し、進歩、発展をしてきたといえるでしょう。

でも正直に自分の心のなかを見るとき、そこには平安があるでしょうか?
一見、平和そうに、豊かそうに見えるのに、心には平安がなく、
恐れや不安、ストレスに苦しんでいるのではありませんか?

その不安や苦しみを否定し、目を背けて、一時しのぎの生き方をしていては、
いつか大きな付けが回ってくるのです。
連日報道される、多くの痛ましい事件、出来事は、そのツケだとは言えないでしょうか?

イエスは「わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。」と言われます。
その平安は無実の罪を着せられ、十字架を負わされ、その身を十字架に釘付けされるときにも、
失われることのない平安でした。

いったいそのような平安がどこにあると思われますか?
それをもっておられたイエスだけが、きっと私たちに与えることが出来る平安です。
人はその人がもっているものだけしか、他の人に与えることは出来ないからです。

その平安を私たちに与えるために、イエスはこの世に来られ、
その全生涯をもって、神のみこころと愛をあらわし、
イエスは十字架につけられ、よみがえられ、今も生きておられます!

そして、与えると約束された平安を与えるために、すべての状況の中で、いつも働いておられます。
決して変わることのない愛をもって、私たちを生かしておられる父なる神との交わりを
失っていることが、私たちのすべての恐れ、不安の原因であることを示し、
更に十字架の血潮によって、私たちの神を認めない、信じようとしないばかりか、
自らを神のような存在であるかのように生き、神の愛を退け、
神ならぬものを神として、自らに仕えさせ、神に敵対さえしている私たちの罪をあがない、
赦しを与え、失われた生ける神との関係を回復するために、十字架の上で死なれたのです。

それは私たちが罪の支配と力から解放され、私たちに平安を与えるためだったのです。
どんなに豊かそうでも、罪の支配するところに平安はないのです。
罪は死をもって、罪なき命をもって代価を払われなければならないのです。

バプテスマのヨハネはイエスを人々に次のように紹介しています。
その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(新約・ヨハネによる福音書1章29節)

私たちがイエスを心に信じ受け容れると、イエスは私たちの心を掃除し、
平安を少しずつ注ぎ込んでくださいます。
この平安はどのような出来事によっても失われることのないものです。

もちろんこの世にあっては試練も苦しみもありますが・・・
それさえも益としてくださるのです。

「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、
わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、
そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。
それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
そして、希望は失望に終ることはない。
なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、
神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」
(新約・ローマ人への手紙5章1〜5節)

神の平安がありますように!


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