その名は不思議

「わたしの名は不思議です。どうしてあなたはそれをたずねるのですか。」(旧約・士師記13章18節)

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「まさか」へ飛躍の道

「こんなもんでしょう」から「まさか」へ

「まあ、こんなもんでしょう」が口癖の人がいた。
「きょうは猛暑ですね」「まあ、こんなもんでしょう」。「寒いね!」「まあ、こんなもんでしょう。
これではにべもない。感動がないからつまらない。
ただ暑さ寒さも喜怒哀楽さえも、ありのままに受け入れるガマン強さには感心した。」

この方は1945年夏の日本の敗戦時、
旧満州の兵営にいてソ連(ロシア)軍の捕虜になり、数年シベリアへ送られた。
60万人の日本兵・軍属が連行され、極寒と栄養不良と強制労働で5万人が死んだ。
巨木を切り出し凍土に鍬を撃ち込む。そのときの経験が「こんなもんでしょう」という
諦めになったのでないか。逃げられないし、逆らっても、どうなるでもないという現状肯定だ。

だから、その体験に裏打ちされて、何が起こっても動じない。あわてない。辛抱強い。
奴隷がそうだ。過酷な命令に反抗できないし、しない。
「まあ、こんなもんでしょう」は、一番低い生活を強いられた経験からの発言だ。

しかしキリスト信仰は、「まさか」という驚きから始まる。
神の子が人間の姿をとった、「まさか」。無罪のイエスが有罪になった、「まさか」。
そのおかげで、有罪の人間が無罪にされる、「まさか」。

修行を積んででなく、そのまま、イエスを信じるだけで、
罪ゆるされ、永遠のいのちが約束される、「まさか」。
「まあ、こんなもんでしょう」には驚きがない。「まさか」には新鮮な感動と喜びがある。

原始キリスト教会には、ローマ帝国で奴隷にされた人々が、多くクリスチャンになった。
なぜか。奴隷からクリスチャンへの転換は、「こんなもんでしょう」から「まさか」へ飛躍だ。
現状は変換クリックできないと諦めていたのに、
現在のあるがままの姿で、それを突破できる道があった。それがキリストの福音だ。
「まさか」と奴隷たちは喜び、教会に馳せ集まった。
社会の一番低いところに強制連行されていた人々が、
社会の一番低いところを歩かれたイエスに救い上げられたのだ。「まさか」と狂喜しながら。

「不信心な者を義(無罪)とされる方を信じる人は、
(修行努力の)働きがなくても、その信仰で義(無罪)と認められます」(ローマ4・5)


※《shirasagikaraの日記》からの引用


《shalomのコメント》

アラブの春と言われたエジプトの民主化への道が内戦の危機に直面している。
アベノミクスは日本に春の訪れとなるか、アベノリスクという破綻の危機へと続く道なのか。
人の道は一時的には春へと通じる道のように思われるが、必ず「寒いね!」へと続いている道である。

イエスは人の道を歩くことを期待した弟子たちやすべての人々に反して、
人の道の行きづまりである十字架の道を歩まれたのです。
人の道の行きづまりと破綻の中に「まさか」という驚きの道が開かれてくるのです。
生ける神による「まさか」のいのちの道なのです。


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