今日の聖書の言葉です。
そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」 (新約・マタイ16:15〜16) 弟子たちがイエスに対して初めて信仰を告白した時の言葉です。 ところが、ご自分に対する信仰告白を聞かれたその時、 「そのとき、イエスは、自分がキリストであることをだれにも言ってはいけない」と、 弟子たちを戒められ、更に続けて 「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、 長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、 そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。」と言うのです。 弟子たちはイエスの言葉に驚きました。 弟子たちが信じているキリストはイスラエルをローマの支配から解放する救い主でした。 それが神が約束された救いだと信じていたのです。 ところがイエスの言葉はそのような弟子たちが信じていることではなく、 「イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえる」と言うのです。 イエスに死なれては弟子たちの信じていることは元も子もないのです。 イエスが「三日目によみがえる」と言われたことは理解できないばかりか、 弟子たちの耳にも心にも届かなかったのです。 そこで、「ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、 主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言ったのです。 (新約・マタイによる福音書16章21〜22節) イエスに「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」と信仰を告白しながら、 ペテロはイエスの言葉を退け、イエスをいさめて「主よ、とんでもないことです。 そんなことがあるはずはございません」と言ったのです。 このペテロの姿に私たちの神に対する私たちの姿を見ることができます。 それは神を自分の思いや期待に合わせて信じ、自分の都合や納得できなければ、 「そんなことがあるはずはございません」と言うのです。 これが神が食べてはならない、それを食べると死ぬでしょうと言われた 「善悪を知る木の実」を食べたアダムとエバの末裔である私たちの姿です。 そのようなペテロに対してイエスは振り向いて、 「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。 あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われたのです。 その善悪を知る木の実は今も 「それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい」と アダムとエバの末裔である私たちの心を誘うのです。 イエスは弟子たちをはじめ人々の、否、私たちの期待を知りながらも、 その期待が失望と怒りに変わってしまうことを知りながらも、 イエスは十字架の道を歩もうとしておられるのです。 なぜでしょうか? 私たちの前にはいつもいのちに至る道と死に至る道があります。 弟子たちはイエスがいのちに至る道を歩まれる方だと信じ、期待していたのです。 しかし、イエスは死の道を歩むと言われたのです。その道が命に至る道だからです。 なぜなら、弟子たちがいのちの道だと信じている道は死の道であるからです。 私たちの前には今も死の道といのちの道があります。 私たちにはどの道を選ぶか、選らぶことができます。 しかし、その結果を選ぶことはできません。 ですからイエスは次のように語っておられます。 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、 自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、 わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。 また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。 (新約・マタイ16:24〜27) 神の平安がありますように! |
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