その名は不思議

「わたしの名は不思議です。どうしてあなたはそれをたずねるのですか。」(旧約・士師記13章18節)

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カインの末裔

今日の聖書の言葉です。

「人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、
「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。
彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。
アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。
主はアベルとその供え物とを顧みられた。
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。
もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。
それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません。」
(旧約・創世記4章1〜7節)

今は痛ましいことが日常茶飯事になっていますが、
聖書の初めに人類史上はじめての殺人事件が記録されています。
聖書は古い書物であるが、そこに記録されている人の姿は今の私たちと少しも変わらないようです。

今日はカインとアベルについて書いてみます。
アダムとエバの長男カインは、最初の殺人者として記録されています。
罪がアダムとエバの間に入り込んだとき、罪の結果はアダムとエバの不和を生み、
その不和はアダムとエバのふたりが神との関係を失ったことによって起こりました。

カインはなぜ弟アベルを殺したのでしょうか?農夫であったカインは最上の作物をささげ、
羊飼いアベルは最良の羊を神にささげましたが、神はアベルのささげ物を受け容れ、
カインのささげものを退けられたと書かれています。

なぜ神はそのようなことをされたのでしょうか?
聖書にはその説明がありませんが、
なぜアベルのささげ物が神の目に良いものであったかは明らかです。
それはカインのささげ物は自分の汗の結晶、手のわざであり、
アベルのささげ物は信仰のささげ物だったからです。

アベルは神の前に自分の罪に気づいていましたので、
自分の努力と汗の結晶である手のわざである最上のささげ物をもってしても、
神のみ前に立つことが出来ない罪人であることを知っていました。

アベルは神の心にかなう献げ物は何よりも自分の罪を認め悔い改めの心を表す
献げ物であるであることを知っていたのです。
ですから自分の罪のあがないのための犠牲として羊をささげたのです。
これは聖書全体を貫くメッセージであり、イエスの十字架の犠牲をあらわしています。

さて、カインとアベルの二人の兄弟の性格の違いは、ふたりの名前に暗示されているようです。
カインが生まれたとき、エバは「私は主によって・・・得た」といい、
最初の息子をもった母親の喜びと誇りをうかがうことができます。
ところが二人目の息子にはアベルという名をつけています。
アベルとはへブル語で“息・蒸気”という意味があり、“むなしさ”を意味しています。

なぜアベルという名をつけたのでしょうか。きっと長男カインが成長するにつれ、
アダムとエバの喜び、誇りが失望、期待はずれになってしまったことが推測できそうな気がします。
乱暴で、すぐ癇癪をおこすカイン。そんなカインの献げ物はいつも自分の目に良いこと、
気に入ることを一番にしているその事実を物語っているようです。

カインはいつも自分を認めさせようとする態度で、自分の罪を認める心がなかったようです。
一方、アベルは自分が神の前にも両親に対しても罪人でしかない心の悲しみを抱いていました。
その悲しみと悔い改めのささげ物がアベルの羊のささげ物だったのです。
神はアベルの砕かれた心から献げられた信仰の献げ物を喜んで受け容れられたのです。

しかし、カインは神の心を知らず、逆恨みをして腹を立ててしまうのです。
それはカインのアベルに対する嫉妬となり、憎しみとなり、ついに・・・殺人へと
エスカレートして行ったのです。
両親の間に初めて生まれた子が次に生れた妹弟をいじめたりすることは今でもよく見られます。
だから有島武郎は『カインの末裔』という作品を書いたのです。

カインは殺人という罪を犯したから罪人となったのではなく、
その心が神の心を知らない的(軌道)を外れた罪の結果として殺人を犯したのです。

すべての人は自分の内なる罪の性質に気づくかどうかによって、
カインの道を歩むか、アベルの道を歩むかが決まるのです。

すべての人の罪をあがなう神の子羊として、十字架に命をささげられたイエスを信じ、
失われた神との関係回復の道を歩むかの違いがあるのです。
ですからイエスは宣教の第一声として
“悔い改めなさい。神の国は近づいた。”と言われたのです。

神から逃避するカイン。神を離れたさすらい人カイン。それがカインの末裔である私たちの姿です。
イエスはアベルが献げた犠牲の羊であり、私たちの罪を贖う神への道です。

神はカインに言われました。
「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。
もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。
それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません。」

だれでも顔を上げて生きるためには、罪を治めなければなりません。
しかし、罪を治める事の出来る人は一人もいません。
ただイエスのみ罪を治めることのできるのです。

神はイエスを私たちの罪のあがないの犠牲の神の子羊として遣わされ、
アベルが羊をささげたように、ご自分の命を、私たちの罪の支払うべき代価として、
十字架という祭壇にささげてくださったのです。

「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。
それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、
わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
 愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、
わたしたちも互に愛し合うべきである。
(新約・ヨハネの第一の手紙4章9〜11節)


使徒ペテロはかつてイエスと共に、獄に入れられ、殺されるようなことがあっても
あなたを裏切るようなことはしませんと言った人でした。
しかし、イエスが捕らえられ、裁きの座に立たされていた時、
ひとりの女にあなたもあのイエスの仲間だと繰り返し言われ、怖れの為に、
ちがう、イエスと関係はない、知らないと言って逃げた人でした。

そのペテロが後に使徒ペテロと変えられ、手紙に次のように書き記したのです。
「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、
ののしりかえさず、苦しめれられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、
いっさいをゆだねておられた。
さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、
十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分に負われた。その傷によって、
あなたがたはいやされたのである。あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、
今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。」
(新約・第一ペテロ2章22〜25節)

神の平安がありますように!

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