その名は不思議

「わたしの名は不思議です。どうしてあなたはそれをたずねるのですか。」(旧約・士師記13章18節)

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★今日のみ言葉★(2017.3.8)
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「寛容な心‐神のいのちの表れ」
 
前回の続きです。
イエス・キリストに表された神のいのちのことを見ています。
それは御霊の9つの実でした。
そのひとつひとつをイエスの歩まれた、その地上人生に見ることができます。
前回まで、愛、喜び、平安までの3つを見てきました。
今日は、寛容です。
辞書によれば、寛容とは、「心が広くて、よく人の言動を受け入れること。
他の罪や欠点などをきびしく責めないこと」とあります。
しかし、今の時代、この寛容な心はあまり評価されない傾向があります。
なぜでしょうか。
間違いを間違いとせず、そのままになってしまい、何が本当なのかがハッキリしなくなると、わたしたちは我慢できません。
もちろん、それは大切な場合もありますが、これもアダムが善悪を知る木から取って食べた結果だからでしょうか。
聖書の言葉ではなく、孔子の言葉のようですが、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。
素晴らしい言葉ですが、いくらそのように教えられても、実践できるとは限りません。
寛容な心がなければ難しいことです。
 
聖書を見ると、イエスは寛容な心をもっておられたことが分かります。
罪びと、取税人と言われる人たちと食事を共にし、その寛容な心を示されました。
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マルコ2:16
「パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、『なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか』」(口語訳)
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当時の宗教家たちは、そのイエスの寛容な心、御霊の実が見えず、批判しました。
社会的に見下されている取税人や罪人と言われる人たちと、接触し、親しくする人は、その人も同じように見られると思って、律法学者たちはその人たちに近づこうとしなかったようです。
しかし、イエスがその人たちと一緒に食事をして、親しい交わりをもっていたのは、その寛容な心からだと言えます。
取税人のかしらザアカイが今までの生き方を悔い改め、変えられたのは、イエスの寛容な心に接したからでした。
 
イエスのたとえ話の中で、「放蕩息子」のお話がありますが、放蕩の限りを尽くして家に帰ってきた弟息子を大手を広げて迎え入れた、その父親の姿は、寛容な心をもっておられる父なる神を表しています。
一方で、兄息子は、とてもとてもそのような寛容な心をもてませんでした。
ですから、兄は怒って家に入ろうとしませんでした。
寛容な心、それは父なる神のいのちの表れと言えます。
このような心がほしいと思いますか。

《shalomのコメント》

今、神のいのちの表れについて書かれています。
見えないけれど実在し、神のかたちに造られた私たちに、また全被造物に対して
どのようにかかわっておられる方かについて書かれています。

神のいのちの表れを八つの聖霊の実と述べられています。
「 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
  柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。](新約・ガラテヤ5:22〜23節)

すでに愛、喜び、平和について書かれましたが、今日は寛容です。
だれもが聖霊の実はすばらしい実だと思われるでしょう。
だから、これらを否定する律法はないと書かれているのですね。

どんなに素晴らしく、良いことで、必要な実だと理解できても、
自分にはなかなか無いな、少ないなぁと思われる方が多いのではないでしょうか。
しかし、心配無用です。自分を裁ないでいいのです。

精霊の実はすべて神のいのちの表れであって、人の肉のわざ、実ではないからです。
ガラテヤ5:19節〜21節に肉の働きについてメニューが書かれています。
「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、
 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、
 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、
 今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。」

聖霊の実より、肉の働きの方が身近な感じがしてしまいますが、どうでしょうか。
だれでも神が食べてはならない、それを食べると死んでしまいます、と言われた
善悪を知る木の実を食べると、肉の働きが私たちの心と生き方を支配してしまうのです。

イエスさまの生き方、生涯を見ると、豊かな聖霊の実、神のいのちの表れを見ることが出来ます。
聖霊の実は神の恵みによってイエスさまに対する信仰によって与えられる恵みの賜物なのです。
ですから、イエスさまは「私につながっていなさい。そうすれば豊かな実を結ぶことが出来ます。」と言われ、さらに「私につながっていなければ決して実を結ぶことが出来ない。 」と言われたのです。

私たちの理性や知性、能力ではわからない、本当に不思議な言葉ですね。
「不思議」とは読んで字のごとく、思考、思慮、議論ではわからないことです。
ですから、聖書には神の名を「その名は不思議」と記され、ブログのタイトルとしています。

私たちは聖霊の実をあらわすことが出来なくても、
イエスさまにつながり、委ねていると、イエスさまご自身が寛容という実もあらわしてくださるのです。
「主を待ち望む者は新たなる力を得、鷲のように翼を張って、のぼることができる。
 走っても疲れることなく、あるいてもよわることがない。」
(旧約・イザヤ書40章31節)

暑い、快晴の日が続いています。
脱水に気を付けながら、気持ちの良い風を感じながら、
ここ数日、30kmほどクロスバイクでポタリングを楽しんでいます。
きのうは娘と連れ合いと買い物を兼ねてドライブをして、
久しぶりに娘宅で凛ちゃんと息子も加わり少しお酒を飲んでダベリングを楽しむことが出来ました。





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