その名は不思議

「わたしの名は不思議です。どうしてあなたはそれをたずねるのですか。」(旧約・士師記13章18節)

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この記事は中根千枝著「タテ社会の人間関係」(単一社会の理論)
〈7.人間と人間の関係〉より引用。
講談社現代新書1967年発行。900円(税別)

論理的、宗教的でない道徳社会

さらに興味あることは、「神」の概念自体にも、これは見られるのではないだろうか。
日本人にとって「神」祖先」というものはこの「タテ」の線のつながりにおいてのみ求められ、
抽象的な、人間世界からまったく離れた存在としての「神」の認識は、
日本文化のなかには求められないのである。
極端に言えば、「神」の認識も、個人の直接接触的な関係から出発しており、
またそれを媒介とし、そのつながりの延長として把握されている。

つねに、自己との現実的な、そして人間的なつながりに、
日本人の価値観が強くおかれていると言えよう。
このあまりにも人間的〜〜人と人との関係をなによりも優先する〜〜
価値観をもつ社会は宗教的ではなく、道徳的である。
すなわち、対人関係が、自己を位置づける尺度となり、自己の思考を導くのである。

「みんながこう言っているから」「他人がこうするから」「みんながこうしろというから」
ということによって、自己の考え・行動にオリエンテーションが与えられ、
また、一方、「こうしたことはすべきでない」「そう考えるのはまちがっている」
「その考えは古い」というような表現によって、他人の考え・行動を規制する。

このような方式は、つねに、その反論に対して、何ら論理的、宗教的な理由づけがなく、
もし、それらの発言を支えるものがあるとすれば、それは
「社会の人々がそう考えている」ということである。すなわち、社会的強制である。
社会の道徳とは、修身の本にあるのではなく、いうまでもなく、この社会的強制である。

したがって、その社会がおかれた条件によって、善悪の判断が変わりうるものであり、
宗教が基本的な意味で絶対性を前提としているのに対して、道徳は相対的なものである。


続く

著者紹介 (ウィキペディアより)
中根 千枝(なかね ちえ、1926年大正15年)11月30日 - )は、日本社会人類学者。専門はインドチベット・日本の社会組織。東京大学名誉教授。女性初の東大教授。女性初の日本学士院会員。また学術系としては女性初の文化勲章受章者となった[注 1]。イギリス人類学民族学連合名誉会員、国際人類学民族学連合名誉会員など。


《shalomのコメント》

筆者である中根千枝氏は日本社会の特質はタテ社会であって
きわめてエモーショナルな性向が認められ、感情的な人間関係が重要視され
「契約」(コントラクト)精神は日本人にはまったく欠如しているというより、
ほとんど絶望に近いと思われると述べておられ、
もともと契約(コントラクト)などという観念は存在しないとさえ指摘しておられますが、

その理由として今回引用した記事において次のように述べておられます。
日本人にとって「神」「祖先」というものはこの「タテ」の線のつながりにおいてのみ求められ、
抽象的な、人間世界からまったく離れた存在としての「神」の認識は、
日本文化のなかには求められないのである。
また
つねに、自己との現実的な、そして人間的なつながりに、
日本人の価値観が強くおかれていると言えよう。
このあまりにも人間的〜〜人と人との関係をなによりも優先する〜〜
価値観をもつ社会は宗教的ではなく、道徳的である。
すなわち、対人関係が、自己を位置づける尺度となり、自己の思考を導くのである。
さらに
したがって、その社会がおかれた条件によって、善悪の判断が変わりうるものであり、
宗教が基本的な意味で絶対性を前提としているのに対して、道徳は相対的なものである。

著者である中根千枝氏は外国での学会で多くの外国人学者と研究をする中で、
日本の「タテ」社会の人間関係の在り方がエモーショナルな人間関係を基礎としていること、
諸外国の社会が契約による人間関係によって構成されている「ヨコ』社会であること、
そしてその基礎に「神」認識の違いがあることに気づかれたと思われます。

私はさらに「タテ」社会日本は地縁、血縁という関係を基礎とし、
その関係を宗教的に結びつけるための「神」認識が醸成され、
アニミズム、シャーマニズムなど日本古来の様々な因習、習わしや、
地縁関係は神社による神事、血縁関係は仏閣による仏事やお祭りを行うことによって
「タテ」日本社会の根っこである家をはじめ、地域社会、国家による支配、
人間関係の社会的強制力という楔(クサビ)とされていると思います。

著者である中根千枝氏は次のように述べておられます。
抽象的な、人間世界からまったく離れた存在としての「神」の認識は、
日本文化のなかには求められないのである。

従って、「ヨコ」社会の人間関係を結びつける「神」認識なしには
「タテ」社会の人間関係と社会である日本は相対的な道徳や
因襲、習俗によって支配されているのです。
エモーショナル(情緒)な人間関係と状況は絶えず変わりゆくものですから、
「タテ」社会日本においては神への認識は相対的で揺れ動くほかないばかりか、
人間関係、社会も絶えず移り変わる状況に影響された
情緒、欲望、道徳に支配されてしまうのです。

聖書は全知全能にして、偏在される方であり、永遠不変の方であり、
聖であり、愛であり、義であられる生ける神はその栄光を現わす天地万物を創造され、
さらに神の霊的、人格的なかたちにかたどって人をつくり、造られた人に被造物を与えられ、
そのすべてを神とともにみこころに従って治めることによって、
神の愛と祝福のなかで生きるために、人間関係と社会の確かな契約の土台として
与えられたすべての契約の根源であり土台なのです。

また神の民イスラエルの父祖であり、信仰の父であるアブラハムに与えられた契約の書であり、
神と神の言葉を退け、自らを神のようなものとしてしまい、神を見失い、
その不確かなアイデンティティを不確かな存在である死すべき人間にかたどった
いのちなき自らの手のわざである偶像の前にひれ伏し、
飢え渇く心の不安と欲望を神ならぬものによって満たそうとして、カインの末裔として彷徨い歩き、
希望なき人生の放浪者である私たちを神ご自身のもとに導くために契約されたのです。

アブラハムを父祖とする神の民イスラエルと契約された救いの約束を成就するために、
神の御子イエス・キリストを遣わし、その言葉と御業によって神の愛と力ある支配を証しされ、
十字架によって私たちの罪を贖い、私たちが自ら支払うべき罪の代価を、
神自ら支払うために、罪なき神の御子イエスの贖いの血が流されたのです。
イエス・キリストが流された十字架の血潮によって、救いの道が開かれたのです。
すべての人にただ信仰によってのみ、恵みとして与えられる救いを成就してくださったのです。
神によって成就された救いの契約は人と人とを結ぶ確かな不変の契約なのです。

イエスさまは十字架の死、苦難を前にして、
弟子たちと最後の晩餐と語り継がれている食事をされました。
その時、次のように言われました。

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、
弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。
「皆、この杯から飲みなさい。
 これは、罪が赦されるように、
多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
【新共同訳】
マタ
 イによる福音書26章26〜28節) 





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