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4回にわたってご紹介してきた滝山城、いかにすごい城であったのか、おわかりになられたかと思います。では、この縄張について、今まではどんな感じで評価されてきたのでしょうか、見てみましょう。 今までは、北条氏照が永禄四年頃(1561)に滝山城に入城したことがわかっているので、そのころの縄張だろうと云われてました。しかも、なんてったって北条氏当主の弟の本拠地ですから、北条氏の築城術が散りばめられている城、つまりは「北条氏系城郭」の典型例として、評価されてきたんです。 で、最近話題の杉山城なんかは、この滝山城と縄張に似ている部分があるので、やっぱり永禄年間頃の城で、北条氏系の城だろう、と評価されてきたのです。所沢市にある滝の城も同様です。つまり、滝山城=北条氏の城かつ永禄年間、というのは、縄張年代比定の軸、編年標準化石となっていた訳です。 ところが、最近の研究によって、軸となりうるべき滝山城の年代自体が怪しくなってきたんです! まずは、氏照がいつ滝山城に入城したのか、について。以前は、天文年代の末頃に、この地方の国衆・大石氏の養子として入り、同時に、あるいは永禄四年までには滝山城に入城したと云われていました。 ところが、最近、実は大石氏の本拠地は由井城(浄福寺城・松竹城)であって、滝山城ではなかった、なので氏照が最初に入城し、上杉謙信が永禄四年に来襲した時にいた城は由井城である、という説が出ています。氏照は、最初は「由井源三」と名乗ってい「由井領」を支配していたことがわかってますが、これも由井こそが当時の本拠地だったから、ということになって納得できます。 ということは、滝山城は大石氏の一支城、あるいはその頃存在していなかった可能性すら出てくる訳ですね。で、史料に確実に「滝山」と登場するのは永禄十年(1567)なので、その頃までに滝山城が築城されて移転したと考えられる訳です。じゃあ入城と同時にこんなに大規模な城を一気に造り上げたのか?という疑問が出てきます。 次。これは今指摘したこととかかわるのですが、なんで今までこの縄張=永禄年間と評価されてきたのか、についてです。だって、滝山城は八王子城に移転する天正後半(1582以降)まで使用されていたことはどうやら確実らしいですし、秀吉の北条氏攻めの時に氏照の城として「竹山(滝山)」と出てくるんですね。これは、八王子城に移転したことを秀吉側が知らなかったのか、未だ機能していたのか、どっちかはわかりませんが、いずれにしても滝山城は天正後半まで使用されていたことには変わりないでしょう。 んじゃあ、この縄張も、何も永禄年間じゃなくて天正後半の頃に造られたんじゃないの?とも言えますよね。つまり、別に氏照入城時に関連させなくても、もっと後に造った新しい縄張なんじゃないのと。つーことは、編年基準が動いちゃうから、似ているとされる杉山城も、あれ、もしかして天正後半の城?となってしまいますよね。こりゃ大変。 ということで、滝山城=永禄年間というふうにいえる証拠は、実はどこにもないんですね。その証拠に、永禄年間(1560頃)とされてきた杉山城は、どうも永正・大永年間(1520年頃)の城らしいということがわかってきたのは、記憶に新しいと思います。ということは、あらら、やっぱり縄張で編年するのは無理かな…と思います。 そして最後に、滝山城は北条氏系城郭の典型例、という評価です。これも微妙でしょう。と言うとよく怒られるんですが、よくよく考えると、そういうふうに言いたい気持ちは痛いほどよくわかるんだけど、なかなか言えないよね、ってな感じです。 だって、「〜系」というからには、「〜系」とくくれるくらいの共通要素がないといけないじゃないですか。「北条氏系」なら、北条氏の城のみに共通してある築城術を挙げないと、話になりませんね。じゃあ滝山城の縄張のどこが北条氏固有の築城術なのか。角馬出?壮大な横堀?枡形虎口?ルートの複雑さ?あるいはそれらの組み合わせ方? これらは、いずれも他の大名の城や他の地域の城、さらにもっと昔の城にもあったことがわかってます。それに、北条氏の城はそんなのばかりではないし、むしろ滝山城のような城は珍しい方でしょう。とすると、一体なにが北条氏特有の築城術なのか、実は挙げられないことがわかると思います(障子堀も全国で発見されています)。他の大名、他の地域、他の時代にも存在している築城術を、北条氏固有の築城術と評価するのは難しいことは、わかりますよね。なので、それを「北条氏系」として概念化するのも、難しいですよね。 一言でいうと、滝山城=北条氏の城だけど、滝山城≠北条氏系城郭です。前者と後者では、話の次元が違うんですね。なので、そこは慎重に評価していかないと、結局は「感覚」に陥ってしまいかねません。議論するからには、何を根拠としてそういう概念を作っているのかをはっきり明示して、それは論理的に正しく説明可能なのかを常に考えなければならないのです。 良かったらポチ、お願いします!↓↓↓ |
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>shuchanさん
と、私は思っているのですが、反対も根強いです…よく怒られますから(笑)でも実際確固たる根拠は挙げられないと思うんですよね…真実かどうかは別にして、あくまで議論するうえでの話ですがね。ポチありがとうございます!
>あおれんじゃあさん
まぁそうでしょうね。数千人、いやそれ以上か…中学高校の朝礼で集まった全校生徒1200人を思い浮かべると、滝山城はかなりの人数が必要でしょう…。
大名オリジナルの縄張を見出すのは、やっぱり難しいんじゃないかと思いますがねぇ。説明付かない城があまりにも多すぎると思います…
2009/5/8(金) 午後 11:13
>舞花さん
ご訪問ありがとうございます!滝山城はお近くですか。実は素晴らしい環境の近くにお住まいだとおわかりになったのではないでしょうか!ただの凸凹がある公園ではなくて、とても重要な史跡なのです!
また遊びにいらして下さい♪
>いくよちゃん
ご訪問ありがとうございます!
トイレの記事をお読み頂いたようで、ありがとうございます。何故城に興味をもったのか?話せば長くなりますが…最初はゲームの影響ですね。世界の城郭との比較研究もしてみたいです。そういう研究している方も徐々に出てきていますよ♪
2009/5/8(金) 午後 11:18
門外漢からいわせてもらうと、なぜそこまで北条系城郭にこだわるのかよくわかりません。
それ以前にいわゆるいろいろな城の形体のはやりみたいなものが有り、それが廃れたり何かの理由で復活したりしながら、北条氏がそのいくつかを取り入れていったと考えるのが自然のような気がします。
そう考えると、北条氏が多用したにしてもオリジナルではないし、以前にも関係ない地域にも用いられてたと普通に考えられるのでは。
2009/5/9(土) 午前 7:41
こんにちは。城に対しての見方が竹さんによって大分変わりました。これからもいろいろな情報を教えてください。
[ パールのツ・ブ・ヤ・き ]
2009/5/9(土) 午後 4:44
>オブ兵部さん
言いたいことを要約して下さりありがとうございます。やっぱり城から大名権力の性格を読み取ろうとするにはそういうことが言えるようにしないと意味をなさなくなっちゃうからじゃないでしょうかねぇ。もっと別の道があるような気もするんですが…
>バールのツ・ブ・ヤ・きさん
それは嬉しいですね!こちらこそありがとうございます!
2009/5/10(日) 午前 0:21
よく判りませんが・・
北条氏系城郭と括られるようになり、かてごらいずした見解を
どなたかが学会等で発表、或いは出版されたなりしていらっしゃる?
でもって、その流れが比較的マイナーな世界を世間に広めている
ということなのでしょうか。
当地では、城郭そのものの縄張が北条系云々は別に、天正十八年廃城
があまりに多いので戦国時代の終焉=古城跡=北条氏滅亡という、
時代的な意味は大いにありました。
こちらは、草刈場、地方豪族は風見鶏です。
昨日は上杉、今日は武田、明日は北条ですから・・・
小田原城という冊子で、北条系云々という記述を読み障子堀は
北条氏の築城技法という刷り込み?はありました、確かに。
ちなみに、
確かに
2009/5/10(日) 午前 10:16
>ロベルト・ジータさん
北条氏系城郭の専論は、基本的にはないですね。あるっちゃあるんですけど、1つ2つくらいですかねぇ。城=戦国大名という絶対的なイメージがどうしてもあるもんですから、人々に受け入れやすかったんでしょうね。
天正十八年は、おっしゃる通り、年代の軸になってますね。そこから遡らせて考えるというのが多かったような。
障子堀が北条氏の築城技術という考えは、一体いつから始まったんですかねぇ…
2009/5/12(火) 午後 11:56
小机城で検索していたら、ここにたどり着きました。実は城郭研究者セミナーなども関東で開催の時には参加しているので、竹さんとすれ違っているかもしれません。
縄張りによる編年は難しいのではないか、との指摘、その通りだと思います。確か西股氏も何年か前のセミナーで「縄張り図から正確な年代を考えるのは難しいので、今回は止めました」と断言し、会場をざわつかせた記憶が(笑) パーツによる編年作業って、織豊系城郭の虎口編年しか今のところ成功してない気がします。あれが元祖であり唯一な気が。(続きます)
[ soa*d*s ]
2009/9/18(金) 午後 9:53
ただ、だいたい「北条か上杉か」くらいは関東でも言えるのでは? という論も西股氏はその後出してましたね。それを受けたかどうか知りませんが、八巻氏は豊島氏の城を例に取り「横矢は石神井城で、馬出は練馬城で構築しているが、それを組み合わせるまでには至っていない」とし、その複雑な組み合わせは後北条氏段階(後北条氏のいつかは分からないけど)まで出現しないのでは、と中世城郭研究で書かれていたと記憶しています。
個人的には「その通りだろう」と思います、「感覚」ですが。で、その程度の年代比定は考古資料の蓄積を待たずに遺構でやっていいとも思います。何せ発掘はそう頻繁にありませんし、瀬戸美濃編年も絶対的ではない中、地方のかわらけ編年は…という感じですし。
確かに縄張り図による年代推定は限界がありますが(檜原とか資料が無かったら永禄以前とか言われてる気が)、例えば先に述べられた片倉にしても「後北条氏と断言できないのではないか?」という反論は成立しても「上杉氏段階ではないか?」という反論は「後北条氏ではないか?」と同様かそれ以上に根拠が薄いんで反論として成立しないように思えます。(さらに続きます・笑)
[ soa*d*s ]
2009/9/18(金) 午後 9:55
これらを反論を恐れて深刻に捕らえすぎると「発達した縄張りから室町末〜戦国期の城郭と思われる」などという、ちょとだけトレンチ空けたけど何も出なかった発掘調査報告書の記述みたいなことしか言えず、ヘタすると研究の衰退を招きかねないと危惧しています。既成の研究成果に対し、斉藤氏のように論争を活性化させるためにあえて「自分でも本当にそう思ってるの?」みたいな論をぶつけられる方もいますが、現況は少々危険かなと…縄張り研究が今日までの城郭研究をリードしてきたのは紛れも無い事実ですので、栃木の渡辺氏のように割り切って、縄張りの方はバンバン図面を発表して、その城の年代を(10年単位の編年は無理でも、せめて四半世紀単位で)ガンガン推定して欲しいなと、個人的には思っています。少し考古学を齧った身なのですが、縄文土器の分類とか「感覚」にしか思えませんでしたしね、傍から見てますと。
ちなみに障子堀ですが、やはり山中城発掘が一つの画期だったように思います。大系の図を見てて思ったんですが、1970年代レベルで堀底までに注意を払って図面書いていたのは、本田昇氏くらいなんじゃないでしょうか?(長々と失礼しました)
[ soa*d*s ]
2009/9/18(金) 午後 10:06
>soa*d*sさん
ご訪問ありがとうございます!コメント500文字くらいしか書けないので、お手数おかけしました…。
まぁこの問題は結局は堂々巡りで、どうにもならない状況ですかね…。先日のセミナーも、そのような状況を色ごく反映していたような気もします。他分野批判はもう一通り出たので、あとは自分野の方法論をきっちり固めるということしかないのでしょう。学問に王道なし、ということで…。
そこで大事なのは、ちゃんと「史料」として使う時の手続きをしているか否か、でしょう。結果が正しいかは別にして、客観的に見て手続きがきっちりしていれば、基本的には議論として問題ないわけですから。
いずれにせよ、城郭研究が新段階を迎えたことは事実でしょうから、わずかながらも参加できたことは嬉しく思っています!
2009/9/20(日) 午前 10:36
竹様 お返事ありがとうございます。
>ちゃんと「史料」として使う時の手続きをしているか否か、でしょう。
縄張りの方はこの辺に何かコンプレックスがあるような気がします。「考古からは学問として見られていないのでは?」とか必要以上に思ってる気が。そんな気に病む事じゃないと思うのですがね。
何故かと言うと、例えば馬念さんの所でも少し書きましたが、高根、高天神や新府の例。縄張図から「この城は明応前後の城である!」なんて推定する縄張の人は多分皆無です。つまり文献と縄張は一致してるが、考古だけ一致してない例ですな。大窯1段階が出土物の9割以上って、城じゃなかったら報告書で「当遺跡は15世紀末から16世紀初めに最盛期を迎え、その後急速に衰退したものと思われる」と断言していいレベルの筈です。で、こっちの「考古だけズレてる城」の方が、杉山のように縄張論だけズレてる城より今後増加する予感が個人的にはするのですが、それに対し考古と文献の方が真剣に受け止めて大いに議論した、なんて話は(私の不勉強のせいかも知れません。何か論文などありましたらご教示頂ければ)聞いた事ありません。(ごめんなさいまた続きます
[ soa*d*s ]
2009/9/20(日) 午後 9:28
この文献と考古の間の異常な齟齬が生じた原因は、ざっと考えると…
1・考古の編年が間違っている
2・文献が間違っている
3・両者とも合っているが、別の要因が働いている
4・武田家中で骨董品がブームだった
…といった所でしょうか(笑) まぁ中井氏の結論じゃありませんが、3が正解なんでしょうけど「別の要因」を突き止めるのは、縄張研究者じゃ無理だし、そもそも彼らの仕事じゃないよなぁ、と思うのです。うんと想像力を働かせると「時代遅れの中古品がバーゲン価格で東国に流れてきたから半世紀以上平気で遅れるんじゃねーの?」とか思いますが(それだと皆幸せになれるのですが)、流通するのに何年かかるかとか、そもそも当時の人は何年くらい使い続けるのかとか、この辺の視点から書かれた論文とかご存じ無いでしょうか? もし無いなら、ぜひとも竹さんに3者が皆幸せになれる論考を発表して頂ければと思います(笑) 長い上に何度も取り留めの無い連投で失礼致しました!
[ soa*d*s ]
2009/9/20(日) 午後 9:30
>soa*d*sさん
またまたどうもです!静岡あたりの方でしょうか?
そのような論文はほとんどないでしょうね。だからこそ、『戦国時代の城』のようなシンポジウムや本がようやく出てくる段階になったのでしょう。11月には埼玉で考古サイドによるシンポが行われます。よろしければ是非!
一番手っ取り早いのは、文献も考古も一切使わずに、縄張オンリーで年代比定が出来れば、それに越したことはないんですよね。他分野とのズレの問題の前に、縄張論では何を根拠に編年をしてきたのか、そこに問題はないのか?という批判を考えることが必要でしょう。杉山も後北条ではなくいつの間にか織豊系になっちゃいましたし。
まぁそんな感じで縄張編年に関する拙稿が、次号の『城郭史研究』という雑誌に掲載されますので、いろいろご教示ください。
なお、御存知でしょうが、九州のnakanishiさんのブログで、似たような話題で結構盛り上がりました。よろしければご覧ください。
http://nakatake05.blogcoara.jp/nakanishiyalab/2009/08/26-8c16.html#more
2009/9/21(月) 午後 8:55
竹様
度々ありがとうございます! 神奈川県民ですがよく西の方に足を伸ばしていました。駿河は今川・北条・武田・徳川が入り乱れ、カオスで面白いです。
縄張の方、特に関東の方は編年化とかはコリゴリなんでしょうかね? 最近の中世城郭研究を見てもそんな印象が…『城郭史研究』の論文、凄く楽しみにしております。nakanishiさんのブログも拝見しております。次のセミナーは地方のはずなので、九州で手を上げて欲しいですねー。私は行くのが困難なのですが…
[ soa*d*s ]
2009/9/27(日) 午前 9:23
>soa*d*sさん
コリゴリというか、特に必要ではない、ということのようですね。まぁ縄張研究者みんながみんなそう思っているのかは知りませんが…。
nakanishiさんのブログもご覧になってますか!私が言いたかったことはあそこで言ったことに尽きますね。あのやり取りは勉強になりました…ネットのいいところですね。また是非遊びにいらして下さい♪
2009/9/27(日) 午後 7:24
ちょうど八高線の陸橋から撮影した写真をつい最近ブログページに載せました。
http://fuefukin.exblog.jp/10610531/
城のあったこの丘の向こうは秋川が流入し、東はこのように多摩川で隔たれている。平城でもなく山城でもないが、防御はかなりやりやすかったのではないかと思われるがいかが。
ところで信玄はどのあたりに陣地を敷いたのか、ご教授くだされたく。
[ fue*uk*n ]
2010/1/12(火) 午後 9:37
>fue*uk*nさん
ご訪問ありがとうございます!
実際見に行くと、やっぱりあれはすごい城だと思いますよ。十分、堅固な城でしょう…郭の広さ、堀のデカさは異常ですよね。
信玄の陣地ですか?どうでしたっけ、確か拝島に陣したんではなかったでしたっけ?
2010/1/14(木) 午後 9:26
はじめまして 履歴からお邪魔しました
私のつたないブログも見ていただいたようで ちょっと恥ずかしいです
滝山城を見て思ったのですが 多摩川の搦め手側から進むと簡単に本丸下の引き橋に辿りつける気がしたのですが どうでしょうか
2010/1/28(木) 午前 1:03
>mdng94さん
ご訪問ありがとうございます!
多摩川側から攻めると、確かに簡単に到達できそうですね。昔は違った地形だったんでしょうねぇ。南側に迂回せざるを得ない感じだったんだと思いますが…詳しくはわかりません…。
2010/1/29(金) 午後 8:29