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「戦国Basara」最終回
[[img(http://x7.ifdef.jp/bin/ll?098060900.gif,1,1)]] [http://x7.ifdef.jp/bin/gg?098060900 ] いよいよ「戦国Basara」も最終回、しかも、盛りだくさん過ぎっ!! = 光秀やっぱり!? = 政宗と幸村が本能寺に駆けつけると、ソコには・・・。信長に欺かれ、自ら悦楽のために生きる「光秀」が居ました。 {{{ 「凄くイタいですね。それに熱い」 「おや?、
たまーにブログ 4th シーズン
2009/8/30(日) 午後 10:49
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茅ヶ崎城(2007年4月21日訪城)神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎
{{{ 鶴見川の支流の早淵川南の半島状丘陵に位置し、現在も戦国時代初期(大永年間1541〜) の遺構が良好に残っている貴重な城である。 築城者・築城年代は不明だが後北条氏(氏綱の時代)の勢力が鶴見川を越えて小机城を 改修した頃、この茅ヶ崎城を支城として整備したと考えられる。 }}} 南方から茅ヶ崎城。周りは民家に包囲されています。 [[attached(1,center)]] 主郭と西郭間の空堀。左の城壁の高さに圧倒されます。 [[attached(2,ce
旦さまと私
2009/8/2(日) 午後 11:39
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秋の茅ヶ崎城址公園
センター南駅から500m程東にある、知る人ぞ知る、港北ニュータウン内の史跡「茅ヶ崎城址公園」です。 長らく発掘作業や公園整備として立ち入り禁止となっていた茅ヶ崎城址でしたが、今年の夏に公園としてオープンしました。 僕は城が大好きなので何度か足を運んでいますが、いつも僕の貸しきり状態です。 ニュータウン住民の何パーセントがここを知っているのだろうか? 左に北郭(きたくるわ)・右に西郭が見える場所から恒例のパノラマです。カラフルな屋根の家が建っているところも、恐らく城郭の一部分ではな
嘯風弄月【しょうふうろうげつ】?
2009/7/28(火) 午後 9:00
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長谷堂城に行ってきました。
== 長谷堂城 == http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%A0%82%E5%9F%8E 関が原の戦いの時に、上杉軍と最上、伊達軍が戦った記録があります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%A0%82%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 その戦いの中でも激戦だったのが「長谷堂城の戦い」と言われています。
■群青 〜ultramarine〜
2009/7/14(火) 午前 0:31
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有休で仙台城址に行ってきました。
今日(月曜)は有休でした。 せっかくの有休でしたので、また伊達政宗ゆかりの地巡りとドンキホーテに買い物に行きました。 [[attached(1,center)]] 伊達政宗公騎馬像(全景) [[attached(2,center)]] アップ 金曜日に職場の飲み会がありました。 その席上で子供が産まれたらどんな名前にしたい?って聞かれ、政宗と答えました。 (まだ独身ですが…。) そしたら、自分の苗字とゴロが合うとみんなが言っていました。.
■群青 〜ultramarine〜
2009/7/14(火) 午前 0:29
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武田勝頼、没落のお城 〜 新府城 (1) 〜
今日は新府城のお城めぐり記を本編のホームページにUPしました: http://members.aol.com/ShaneHP/index.html 新府城は、武田信玄の跡を継いだ武田勝頼が 武田の外戚にあたる武将・穴山信君の進言を受け入れ、 真田昌幸に命じて築城させたお城です。 新府城の築城に取り掛かったのが、1581年。 6年前の1575年(天正3年)に長篠・設楽が原の戦いで 織田・徳川軍に大敗した武田勝頼は、 周辺の城を織田・徳川方に攻め落とされ、 後北条氏
ShaneのさまよいBlog
2009/7/6(月) 午後 10:28
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【荒砥城/二の郭編】上杉・武田を渡り歩いた≪屋代一族≫の城
=== 【荒砥城/二の郭編】上杉・武田を渡り歩いた≪屋代一族≫の居城 === {{{ 2009.05.14 村上氏・武田氏・織田氏・上杉氏・徳川氏へと主君を変えた屋代一族【荒砥城】 }}} ※ ふるさと創生事業で再現された山城です。 [[attached(1,center)]] ---- 【荒砥城(あらとじょう)】は、信濃国更級郡(長野県千曲市大字上山田周辺)にあった城で 千曲川の左岸、別名:姨捨山(おばすてやま・うばすてやま)と呼ばれる冠着山(標高1252m) から東側に
越後上杉毘沙門堂 by げんごろうハウス
2009/6/25(木) 午後 9:43
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【荒砥城/本郭編】川中島の戦いの前哨戦を繰り広げた城
=== 【荒砥城/本郭編】川中島の戦いの前哨戦を繰り広げた城 === {{{ 2009.05.14 川中島の戦いで上杉軍と武田軍の争奪戦の城だった【荒砥城】 }}} ※ ふるさと創生事業で再現された山城です。 [[attached(1,center)]] ---- 二の郭までのレポートと【荒砥城】の概略を記載した前回記事は[http://blogs.yahoo.co.jp/kagetora_nagao2007/18693677.html 【荒砥城/二の郭編】]でご覧下さい。 今回
越後上杉毘沙門堂 by げんごろうハウス
2009/6/25(木) 午後 9:43
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荒砥城(2007年10月21日)長野県千曲市大字上山田3509
{{{ 『荒砥城』 荒砥城は今から約400年前にこの地を治めていた村上氏の一族である「山田氏」によって築かれ た城で、郭(くるわ)が連なるように並んでいたところから「連郭式山城」と呼ばれています。 この時代は、全国各地で戦(いくさ)が繰り広げられていた戦国時代という時代です。この地も例 外ではなく、荒砥城と千曲川をはさんだ対岸の山頂に築かれた葛尾城の城主村上義清は、天文17年 (1548)上田原の戦い、や天文19年
旦さまと私
2009/6/21(日) 午後 2:26
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佐和山城跡周辺
1600年(慶長5年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を猛攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘し敵を寄せ付けなかったが、やがて城内で一部の兵が裏切り敵を手引きしたため奮戦空しく落城。三成の父・正継や三成の妻など一族は皆戦死・自害して果てた。 徳川方の兵士は「栄華を極めた三成はさぞ華美を尽くしたのだろう」と思い、我先にと城内に乱入したが、城の壁は粗壁であり、また何
旅の途中〜ひさにゃん
2009/6/19(金) 午後 5:24






