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『戦国の城の一生』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、重版決定です!

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                        (画像は春日山城の井戸)

「城と井戸」のコーナー、かなり久しぶりです。今回は、戦国時代の築城の教科書ともいえる『築城記』にお世話になります。意外にも、このブログで『築城記』を使うのは初めてかも・・・。

『築城記』は有名ですのでご存知の方も多いと思いますが、永禄8年(1565)に室町幕府政所伊勢氏の家臣・河村誓真が書写したものが現存しています。そこには、越前朝倉氏家臣の窪田三郎兵衛尉が朝倉家当主から相伝して、それを親戚で若狭武田氏家臣だった窪田長門守が願って書写して、さらに永禄8年に河村誓真が入手して書写した、というものです。こういったことから、『築城記』は16世紀前半には成立したものだと考えられています。

全44条からなっていて、お城の造り方、特に柵・塀・木戸など建物の造り方はたくさん書いてあります。いわゆる縄張に関する記述は、あるにはありますが、少ないですね。建物中心の築城教科書といった感じです。

その『築城記』の第一条目に、井戸についての記載があります。


【史料】『築城記』(『朝倉家の家訓』福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館、2008年、p132。他にも『群書類従』第23輯などでも見ることができます)

一、山城ノ事可然相見也、然共水無之ハ無詮候間、努々水ノ手遠はこしらへべからず、又水ノ有山をも尾ツヾキをホリ切、水ノ近所ノ大木ヲ切て、其後水の留事在之、能々水ヲ試て山を可拵也、人足等無体にして聊爾ニ取カカリ不可然、返々出水之事肝要候条分別有ベシ、末代人数の命を延事は山城ノ徳と申也、城守も天下ノ覚ヲ蒙也、日夜辛労ヲ積テ可拵事肝心也、


出典の『朝倉家の家訓』という本の中に、詳しい現代語訳と注があります。それを参考にざっと訳しますと・・・


山城というものは、それ自身十分なものの様にみえる。しかし、水がなくては結局無意味なので、決して水の手を遠くに置いてはならない。また、水がある山でも尾根を掘り切って、水脈の近くの大木を切ってしまい、その後水が出なくなってしまうことがある。よくよく水のことを考えて山城を造るべきである。築城の人夫たちは、いい加減に作業してはならない。繰り返すが、水のことは肝要であるので、分別をわきまえるように。末代まで人々の命を延ばすことこそが、山城の徳というものだ。城主も天下の名声を得るものだ。日夜心身を砕いて築城することが肝心である。


という感じです。とにかく、いくら堅固な山城であっても水が出ないと話にならない、ということを力説していることがわかります。面白いには、地下水脈に注意して造るべきだ、と述べている点でしょうか。山城を造る際には、縄張等を優先して一気に山を切り開いて造ってしまうのだと思いがちですが、これによると、尾根に堀切を造る時でも慎重に切るよう述べていますし、木を切るにしても、水脈を支えているような大木があるかもしれないから、慎重にやるようにと述べていますね。

ま、あくまで理想論なのでしょうけれど、当時の武将たちが山城を築城する際、一応水脈を多少なりとも意識して造っていたことはたしかでしょう。


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(画像は、毎度お世話になっている「余湖くんのお城のページ」から引用。画像を引用するときは、必ず出典を明記しましょう!
http://homepage3.nifty.com/yogokun/


「城と井戸」のコーナー、今回は、静岡県の二俣城というお城が舞台です。


先日、天竜川の川下りで痛ましい事故が発生しました。そのニュースを見ていた時「事故現場は、昔お城があったという「城山」の麓に位置します」という解説を聞いて、もしかして二俣城?と思い、調べたら、やはりそうでした…


二俣城は、徳川家康の持ち城でしたが、元亀3年(1572)に武田信玄による攻撃を受けて、籠城戦を展開した城として有名です。城の塀際まで攻め、水の手も断った武田軍でしたが、城内では意外な場所から水を汲んでいたのです…


【史料】山形昌景書状(『戦国遺文 武田氏編』1995号)

如御札二俣諸手塀際へ被押詰、殊方々ニ候水之手五三日以前被取之候間、天流(竜)之水を汲候、因?朴(これ)被厳(巌?)船城岸へ被着置、?囑(糸偏に更)を切候間、是も一円不叶、三日中可為落居候之条、可御心安候、


<書き下し>
御札のごとく、二俣へ諸手、塀際へ押し詰められ、ことに方々に候水の手、五三日以前にこれを取られ候間、天竜の水を汲み候、これにより、巌船を城岸へ着け置かれ、?囑(糸偏に更=つるべ縄のこと)を切り候間、これも一円叶わず、三日中に落居たるべく候の条、お心安かるべく候、


城内にあった数々の水の手が断ち切られてしまった籠城側は、麓を流れる天竜川の水を密かに汲んでいたことがわかります。その汲んでいた場所が、どうも今回の事故現場だったようです。


それを知った武田軍は、巌船(岩舟、おそらく頑丈な船)を流して、水を汲むために設置していた「?囑(糸偏に更)」=「つるべ」のところへ着けて切断したといいます。そのため、天竜川の水も汲めなくなったので、3日以内には落城するだろうと述べています。


ようは、天竜川の流れを利用して、船を流して破壊した、ということなのでしょう。今は河川改修もされて、だいぶ穏やかな川流れになっているようですが、当時の川の流れはそれくらい激しかった、といえるんでしょうかね。


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                  (画像は、千葉県久留里城の井戸。本文とは無関係です)

城と井戸のコーナー、今回は、お城を攻めるときに、井戸を攻撃した様子を記している史料をご紹介しましょう。

井戸は籠城するからにはなくてはならないもの。「城の備品」のコーナーで、九州の立花山城では「水瓶」があったことを見ましたが、
http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/27152382.html
それでも井戸の存在は重要だったでしょう。

なので、籠城戦となると、攻撃側はやはり井戸を狙って攻撃をすることが多かったようです。その良い例が、戦国時代に各地を旅していた連歌師の宗長(そうちょう)という人が書いた日記に記されています…

【史料】岩波文庫『宗長日記』p12

…城中そこばくの軍兵、数日をへて、八月十九日落居。安倍山の金堀をして、城中の筒井悉堀くづし、水一滴もなかりしなり。大河内兄弟父子、巨海・高橋其外楯籠傍輩数輩、あるは討死、あるは生捕、男女落行体目もあてられずぞ有し…

永正9年(1511)、駿河の戦国大名・今川氏親に背いた大河内一族は、遠江国の引間城(のちの浜松城)に籠城しました。その後、幾度となく戦い、永正13年、ついに落城するに至ります。

その落城の決め手となったのが、どうも城内の井戸を破壊したことだったようなのです。

で、どうやって井戸を破壊したのか。ここで登場するのが、「安倍山の金堀」です。駿河国の安倍山は金山があって、そこの金堀衆が今川氏によって動員されたのです。彼らは、引馬城の地下から掘り進めていき、見事に城内の井戸をことごとく掘り崩し、水が一滴もなくなった、とあります。

このように、どうも実際に金堀が動員されて、本当に地下から掘っていってお城を攻撃することがあった、ということがわかります。戦国の城攻め、恐ろしいもんです。


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                    (画像は、陣城とされる埼玉県杉山城の井戸)

「城と井戸」のコーナー、今回はとても面白い史料をご紹介したいと思います。

小田原城を居城とする戦国大名・北条氏政が書いた手紙で、家臣の岡本政秀に対して出したものです。いつのものなのかは正確にわかりませんが、天正10年(1582)頃のものだろうと推定されています。

内容は、戦争に際して、どうもどこかに陣城を築城しているようなのですが、実際に築城にあたっている岡本政秀が不手際を重ねたようで、それに対して氏政がキレている、というものです(笑)。戦争の時に、実際どのようにお城を築城していたのか、なんてことがわかる史料は、まずほとんどありませんので、非常に珍しく貴重な史料なのですね。

で、その手紙のなかに、井戸に関することが書いてあるので、見てみましょう…


【史料】北条氏政書状写(『小田原市史』別編城郭p594、岡本氏古文書写)

廿二日之文、廿三酉口披見、普請積見届候、
(中略)一、井ツゝなとハ、時分時刻ニこそより候へ、来年しても来ゝ年しても不苦、井ツゝなとをふしんの積ニ致候、是ほとのうつけたる事致し候ハン与ハ、ゆめゝゝ不覚悟候、(中略)畢竟所によりてふしんハ致物ニ候、其地なとハいちご、井ツゝなとなくても不苦候、(後略)

<書き下し>
22日の文、23日酉口に披見、普請の積り見届け候、
(中略)一、井筒などは、時分時刻にこそより候へ、来年しても来来年しても苦しからず、井筒などを普請の積りに致し候、これほどのうつけたる事致し候わんとは、ゆめゆめ覚悟せず候、(中略)ひっきょう、所によりて普請は致すものに候、その地などは一期、井筒などなくても苦しからず候、

この手紙は7月24日に書かれたものですが、まず岡本政秀が22日に書いた手紙が、23日酉の刻に北条氏政のもとへ届いたことがわかります。その内容は、陣城の普請の見積もりについてだったようです。

で、その見積もりを見た氏政はキレにキレます!井戸のこと以外にもいろいろ書いてあるのですが…

現代語訳をすると、「井筒などを造るのは、その時の状況によると。別に今造らなくても来年でも再来年でも構わない。井筒などを普請の見積もりに入れるなんて、これほどバカなことをするとは、夢にも思わなかった。井筒を造るのは場所によるものだ。お前が今築城しているその場所は、ほんの一時期しか使わない場所である。井筒なんてわざわざ造らなくても全く問題ない。」…こんな感じでしょうか。

これは本当に珍しい史料で、陣城というものを大名がどのように認識していたのかを示す稀有な史料ですね。井戸一つとっても、ほんの一時期しか使わない臨時的な城の場合は、井筒まで造らなくても良い!という認識があったことがよくわかります。当たり前のように見えて、はっきり書いてあることが貴重です。

たぶん、井戸自体は掘っていたと思います。ここでいう「井筒」は、井戸そのものではなくて、たぶん井桁のことだと思います。陣城なのだから、わざわざ井桁まで造らなくてもよいと。そんな暇があるなら他のことをしろ!ということなのでしょう。

個々の城の性格によって、縄張も違うのでしょうけど、普請の面も様々だったようですね。この陣城が一体どこの城なのか、分かれば最高に面白いのですが…

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                (画像は、戸倉城から見た鷲津山城。真ん中の山です)

「城と井戸」のコーナー、今回の舞台は、静岡県は沼津市にある山城・鷲津山城です。

このお城、全然有名ではないし、遺構もほとんど残っていない、というか元々そんなに凝った造りではないこともあってか、「砦」と呼ばれることも多いんですが、1点だけ史料が残っているんです。実は、「城と竹木」のコーナーで既に取り上げているのですが↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/7556497.html

また違った視点から見てみましょう…


【史料】北条氏朱印状(『戦国遺文』後北条氏編第3巻、2296号)

鷲津山水曲輪より上におゐて、不可木切候、各存其旨、堅可申付者也


<書き下し>
鷲津山水曲輪より上において、木を切るべからず、おのおのその旨を存じ、堅く申しつけるべきものなり

「城と竹木」のコーナーでは、城に木が生えている証拠の一つとして取り上げたのですが、「井戸」の視点からも読むことができるものなのです。

まず、「水曲輪」という曲輪が鷲津山城にあったことがわかります。これは、おそらく、というか絶対に、井戸がある曲輪、水源がある曲輪のことを指すはずです。他の城にも「水曲輪」という名前の曲輪はあります。「井戸曲輪」とか「水の手(曲輪)」とかもよくありますよね。ようはああいうのと同じです。

で、その「水曲輪」より上に生えている竹木は切ってはいけない、と命令しています。これが一体何を意味しているのか、なんで切っちゃいけないのか、残念ながらこの史料には何も書いていません。が、井戸より上に生えている木ですから、やっぱり井戸に何らかの影響を与えるからこそ、こういうふうにわざわざ命じていると考えられます。

と考えると、木を切ることによって地下水脈がおかしくなり、井戸が枯れてしまうことを恐れているんじゃないのかなぁと思う訳です。つまり、水脈維持のために、井戸が枯れないようにするために、木を切るなと言っている、そういうことです。もしそうだとすると、山城に生えている竹木には、水脈の維持という役割もあったのかもしれません…。

自然・植生の話は専門外なので、木を切ることによる水脈の変化とか、井戸に与える影響とか、正直よくわからないのですが、どうなんでしょうね。深読みの可能性もありますが…詳しい方、教えてください。

まぁそんなこんなで、たったこれだけの短い史料なのですが、見方を変えるだけで、実にいろんなお城の姿が見えてくるもんだなぁ、ということを感じてもらえれば嬉しいです。

*鷲津山城はココ↓↓

詳しい地図で見る

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