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『戦国の城の一生』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、発売です!

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額田城、続きです。こんなことしている暇はないのですが、締切にめどがついたので…。
ちなみに、前回最後の写真は主郭の堀ではなく、2郭東側の堀だった気がします。

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これが2郭東側の土橋だったか。

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これは2郭から見た本丸の堀のはず。写真だと小さく見えますが、巨大巨大。

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2郭と3郭の間の堀。

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その続き。堀底が遊歩道となっています。折れもあるし、巨大だし、すごい城だ…。

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3郭東側の堀。

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3郭北側だったか。

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戻って3郭の2郭側土塁。

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主郭の堀に入って。

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主郭西側の虎口・土橋で戻ってきました。

デジカメの電池がなくなり、あまり写真が撮れませんでしたが、まあすごい城ですよ。箕輪城レベルでしょうか、まるで近世城郭。というか近世に改修されたのですかね。史料は全然ありませんし、そうだとしてもこの地域にこんな巨大な城を築く必要あんのか…。だいたい、そんなに人がいたのか、1万人くらいで守るのかい。

で、この額田城だけじゃないんですよ、こういう巨大城郭。まだたくさんこの周辺にあるんですよ。「問題でしょ。

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大変長らくお待たせいたしました、バケモノ城郭の登場です。

茨城県那珂市にあります、額田城というお城です。佐竹氏関係の城になりますが、城主は額田小野崎氏という人です。城マニアの間では有名な、いわゆる1つのバケモノで、噂には聞いていましたが、あまりに凄すぎて感覚がおかしくなりましたね。誰もが度肝を抜かれること間違いなし。

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現地看板より。現在地から右側に進み、主郭に入ります。これだけを見ると、なんだという感じかもしれませんが、縮尺に注意。広大な城で、もっと曲輪もあったようです。

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看板が立っているところの左右の堀。主郭西側になりますが、これだけでもデカい…。

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主郭南側の堀。残りがいい!

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主郭内部。広大!とにかく広い!

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そして、出ました、主郭北側の凄まじい堀!!!!!

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デカい!!!!!

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なんじゃこりゃ〜!!!!!

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意味不明なほどの巨大な堀!!!!!

杉山城より、こっちの方が問題じゃない。いつ、だれがつくったのか、こんな城!

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今年の9月に訪れた、茨城県内、いや、関東地方有数の山城である、多気城。前回は、発掘調査説明会の様子とともに、城内の遺構を見てみましたが、今回は、多気城は一体いつ、誰によって築城された城なのか、この点を見てみたいと思います。

(多気城については、以下の本にわかりやすく書いてあります↓↓)
『図説 茨城の城郭』

というのも、実はこの多気城、つい最近まで、全く来歴不明な謎の城だったのです。前回記事をご覧頂ければわかりますが↓
http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/21201603.html

規模も大きく、縄張も非常に特徴的な城なのですが、史料上では確認できない城として有名でした。なので、従来は、この凝った縄張から、おそらく戦国時代の後半から関ヶ原合戦頃のものだろうとされていたんです。

ところが、つい最近の発掘調査によって、一時的に一気に造られ廃城になったこと、16世紀後半の遺物が出土したことから、その頃このへんを支配していた、常陸の戦国大名・佐竹氏による築城なのではないか、ということが、考古学的に説明されるようになったのです!

そして、さらに、無かったはずの文献史料が、またまた見つかったのです。それが、以下の史料になります。

【史料】「明光院記」(『牛久市史料 中世供拿蠎)
(前略)
天正六戌?外七月廿五日乙亥日、木田里((木田余))落城、九月ハキヤクス、
天正七己卯、上菅間見地ナリ、正月十八日見初ル、八月百姓ツクナリ、見地片岡紀伊守所行ナリ、○同年七月廿四日ヨリ北条嶽山再興、○同七月廿二日下妻館夜煙生、戌時也、
天正八庚辰二月廿四日、谷田辺落城、甲午日ナリ、○同当十二月十七日開也、天満宮、甲午日也、
(後略)

この史料は、『牛久市史料 中世供戞糞躓彁圈■横娃娃闇)という史料集に収録されているもので、この地域の出来事を年代記風に書いた記録になります。どうも戦国時代の終わり頃に、地元のお寺のお坊さんが書いたものを、さらに写したやつ
みたいです。なので、当時の史料そのものではないんですけど、内容的にはある程度信頼できるな、ということが、中身を分析するとわかります。

で、太字に注目すると、ずばり「嶽山」=多気山城天正7年(1579)に「再興」されたと書いてあるではありませんか!これにより、ズバリ多気城は、天正7年に存在していたことがわかり、考古学の成果とも合致する結果となったのです!

では、誰が築城したのか。天正7年は、このあたりを支配していた小田氏が事実上佐竹氏の傘下に入った年なんです。つまり、多気城周辺地域が、ちょうど佐竹氏の支配下に入ったその時なんですね。

ということは、おそらく多気城を築城したのも、普通に考えて佐竹氏でいいのではないかと思っています。考古学からも推定されていましたが、文献史料からも裏付けられたことになります!

以上のことから、多気城は、天正7年(1579)に佐竹氏によって築城された城、ということが言えるかと思います。ただ、史料の信頼性の問題とか、「再興」の意味をどう考えるかとか、なんのために築城したのかとか、あの縄張はなんなのかとか、いろいろと問題も残っております…。今後の発掘調査や新たな史料の発見を待ちつつ、継続して考えて行きたいと思います…

多気城の位置はここです↓

詳しい地図で見る

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参考文献
拙稿「戦国後期の南常陸と多気城」(『一橋研究』第34巻第3号、2009年)PDFで公開されました!↓↓
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/18014/1/kenkyu0340300330.pdf

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後日、と言っているといつになるのかわからないので、さっさとアップしちゃいます…

城郭探訪、茨城県の城、今回は、つくば市の多気城(多気山城、城山城)です。本日、発掘調査報告会に参加してきました。多気城からの風景に関しては↓
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縄張図。出典は、茨城城郭研究会編『図説 茨城の城郭』(国書刊行会、平成18年)の「多気山城」で、野口潔彦氏原図に樋詰洋氏が追加・補正。多気城は、城郭ファンの間では、茨城県の「山城」ナンバーワンの名を欲しいままにしていた城として有名です。比高100mの独立した山にある巨大城郭となっております。

図をご覧になってお分かりのように、大きく4つの曲輪から成り立っています。二重の横堀をぐるりと山上部分を一周しているなど、ちょっと他では見られない特異なお城なんですねぇ。こんな城なのに、お決まりのように史料が無いために、その歴史については、ほとんど不明とされてきました。ところが、実は文献史料がありまして、さらに今回の発掘により、新たな事実が判明したのです!

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さて、見学会の様子を一部、見て行きますが、まず何と言っても一番感動したものは、この堀ですね。図の「馬ノリバ」左側の長く続く横堀の一部分です。これがすごいデカイんです。落ちたら大変、10mくらい深さがあるようです。

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偽蔑悗瞭鄲Α焚次砲妨弩がありますが、そこの堀。発掘する前は、こんな感じの藪の中に堀が埋もれていたのでしょう。

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偽蔑愃絃緝分で、柵列らしき柱穴が発掘されました。どうも通路を塞ぐようになっていたようです。このほかに建造物の痕跡はほとんどないようで、城内にはロクな建物がなかったことが推測されるようです。

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偽蔑惘上端っこの堀。ここもなかなか大規模な堀となっています。こんな堀が山上部分をぐるりと数百メートル続いているんですから、凄すぎます…

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橋蔑愍緝分の堀。これが偽蔑悗諒までずっと続いているんですね〜。

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戻って「馬ノリバ」のすぐ左下の帯曲輪のようなところに、ちょっとだけ堀が入っている部分がありますが(わかりにくいですね…)、そこの堀。2枚目の巨大な堀に続いています。ほんの少しだけ石積みがありました。堀の向こう側が道になっていて、道を進んできた者がこの石積みを正面に見る形になっていたようです。

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見学風景。今回の見学は、午前中は150人、午後も100人くらいいたそうです。すごいですね…。皆さんがみているのがさっきの石積みがある堀。奥下に2枚目の巨大な堀があります。

とまぁこんな感じで、詳しくは一緒に参加された方々のブログをご覧ください↓↓
あおれんじゃあさん http://blogs.yahoo.co.jp/xym92373/50925691.html
Pさん http://blogs.yahoo.co.jp/dollsdog8700/29778906.html

また、正式な調査結果は、そのうち発掘調査報告書が刊行されるはずですから、何か研究等をする場合は、そちらを参考にしてください。

さて、では結局、発掘調査から何がわかったか。まずは、16世紀後半の遺物が少量ながら出土したことから、佐竹氏による築城説が有力になりました。次に、これら巨大な堀・土塁の造り替えの痕跡がないため、造られたのは一回のみで、そのまま廃城になった可能性が高いことがわかりました。

さらに、先ほども言いましたように、今までは無いとされてきた文献史料も、実はあることがわかりました。もう一部の方々には知られているのですが、未だ本格的な検討はされていません。次の「城郭探訪 多気城2 文献史料から見た多気城」で、その史料をご紹介していますので、ご覧ください↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/22871125.html

多気城の位置はここです↓

詳しい地図で見る

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逆井城、続きです…

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櫓から見た、堀内大台城の復元御殿。潮来市にあった佐竹氏の城なのですが、学校建設で完全に消滅してしまったのです。それで、発掘をした時に出土した御殿の遺構をそのまま逆井城に移して、建物も復元して展示している、とのことです。逆井城なのに、大台城の御殿…このへんが面白い試みです。

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御殿から櫓を見る…う〜ん、いい景色。

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今もなお残る井戸。というか鐘掘り池と云われる池ですね。この池には、落城時、城主の姫がここで死んだ、という伝説があるそうな。かなりデカイですよ。

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意外と写真を撮っていないことが判明…もっとあるのですが、いきなり本丸・偽蔑悗任后帖こんな感じで、橋と櫓門が復元されています。これも雰囲気ありますよね〜。

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その橋の下はこんな深い堀がめぐっています。この堀の残り具合はとても良いですね。

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橋蔑悗蓮東と西に分かれています。櫓がある正面が西橋蔑悄で、こちらは東橋蔑悗任后こちらにも、井楼が1つ建っています。この上に登ると…

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筑波山が丸見えです!絶景ですね〜。

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東橋蔑悗鮗茲蟯く、土塁と堀。深さはさほどでもないですが、とてもキレイに残っています。土塁、堀・土塁、というように、堀の内側・外側両方に土塁を築く築城技術を、昔は「比高二重土塁」なんていって、北条氏固有の築城技術、なんて云われていたこともありました。もともと誰が最初に名づけたんでしょうかねぇ…

ざっと逆井城、ご紹介しました。今回は、城跡の整備について、一言。

以前、長野県の荒砥城も、城跡整備の事例として取り上げました↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/18364275.html

他にも全国各地で、中世城郭の「復元」が行われるようになってきています。これはどういう流れなのでしょうか。

ご存知のように、お城=天守閣、というイメージは非常に根強くて、高度経済成長期には、全国各地の中世城跡で、史実とは異なる天守閣が乱造されました。天守閣を建てれば、人が来る、郷土のシンボルになる、と考えられていたんですね。そこには、城郭をキチンと歴史的に研究する、なんていう姿勢はほとんどなかったと言っても過言ではないでしょう。

ここ逆井城も、実は当初は天守閣を建てようとしていたそうです。隣町の旧石下町が、平将門の城跡に巨大な天守閣を造ったことに刺激を受けて、「おらが町も負けてられねぇ!」と、もっと高い天守閣を建てようとしていたとか…

ところが、まぁいろいろありまして、可能な限り中世城郭の姿を考証して復元しよう、となり、今現在に至っている訳です。全国に先駆けて、中世の城郭を復元したものとして、その後知られるようになって、全国からお城ファンがやってくる城になったんですね。

この逆井城以後、各地で天守閣を造るのは徐々に減っていって、なるべく当時の姿に近づけた復元をしていこうという風潮が強くなっていったようで、それで荒砥城のような城が増えていった、ということのようです。

もちろん、逆井城も荒砥城も、その復元の仕方には問題がない訳ではありません。どこまで本当にこんな建物が建っていたのか、確固たる証拠はありません。当時の絵図などに描かれている城郭の姿から想像して造られたものなのです。なので、こういうものを造ることはけしからん!という意見も多いことは確かです。一方で、戦国の城とは、天守閣ではなくて、こういうものだ…という新しいイメージを広めたという意味では、ある程度の意義を認めても良いのではないでしょうか。

また、「整備」は「破壊」と同義語と言っても過言ではない面もあります。本当に今現在のまま、城跡を残していくのか、それとも何かしら整備をして「保存」していくのか…これもまた大きく、難しい問題です。

城郭研究自体、新しい学問ですので、今後ますます研究が進み、城郭の実際の姿が判明していく中で、また新しい復元の在り方が登場したりしてくるでしょうね。一口に城跡の整備と言っても、このように複雑な問題を抱えた、一筋縄ではいかないものなのです…



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