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静岡の織豊系城郭、鳥羽山城に行きました。最近の発掘調査でいろいろと面白そうなことになっていたので、一度見てみようと思いまして。 この城、武田氏と徳川氏が戦った二俣城のすぐ隣の山にある城で、最初は今川氏の城だったという説があるそうです。その後徳川氏も使ったようですが、現在残る遺構はすごいもので、天正18年(1590)に浜松に堀尾吉晴が入部して以降に改修されたと考えられています。しかし、文献史料は全くありません。こんなにすごい城なのに… 浜松から遠州鉄道に乗って、終点西鹿島駅で降り、そこから国道152号を北に歩いて行きました。これは西鹿島駅付近の国道から見た鳥羽山城。奥に見える山がそれです。 しばらく歩くと天竜川に出ます。二つ鉄橋がありますが、その奥の山が鳥羽山城です。 歩いて橋を渡りました。天竜川はキレイ!! が、ここからが問題でした。なかなかたどり着きません。一応鳥羽山公園という公園になっているのですが、全然案内板がないのです。結局、鳥羽山城がある山のトンネルをくぐって北側に出て、そこから舗装された道を登っていきました。これが思ったよりキツかったです。結局駅から30分近く歩いたかな。 で、ようやく駐車場に到着。案内板には縄張図が。中心部だけですが、城域はもうちょっと広いみたいです。 駐車場近くに「大手道」があります。この階段を上ります。 すぐにこんな感じに石垣が見え始めてきます。 で、これが噂の大手道。 こんなふうになっています。ここが発掘されて、当時は幅6〜8mもの大きい道だったことがわかったそうです。両側も石垣で固められていたようで、一部は残っています。今あるこの石畳は公園化の時に造ったやつですよね? ちょっとだけ地下にある石垣も出ています。発掘の跡かな。 大手道を越えると、いよいよ本丸。こんな素晴らしい石垣が見えてきます!本丸東南隅の石垣ですね。この算木積みの感じもいいですね〜 本丸南側の大手門の西側の石垣。 大手門正面。 続きます。 |
L静岡県の城
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丸子城、いよいよ丸馬出へと向かいます。 縄張図。「出曲輪」と書いてるのが、丸馬出です。 本曲輪の食い違い虎口から出ていくと、まずは細長い曲輪に出ます。 その曲輪と本曲輪の間にも横堀が巡っています。 細長い曲輪の奥に、丸馬出(図の出曲輪)があります。 その間にも堀が。右側が丸馬出です。 そして、これが丸馬出をめぐる三日月堀です。西側の端っこ部分ですね。 堀沿いを歩いて、三日月堀の真ん中あたり。 もうちょっと進んで東側の端っこあたり。 逆に東側の端っこから三日月堀を見る。カーブを描いているのがよくわかると思います。 で、この東側の端っこが特徴的で、左側が三日月堀ですが、すぐ右隣に大きな竪堀がありまして、道が非常に狭くなっています。右側が凹んでいますが、これが図で言う「長大竪堀」です。 他にも、小さい曲輪をいくつか見まして、ほぼ全城域を見ることが出来ました。鉄道の駅からは遠いですが、静岡駅からバスが頻繁に出て、バス停からもさほど遠くないので、交通の便はかなり良いです。そして何より遺構がとにかく素晴らしく、また大きすぎないので、1時間ちょっとあれば十分隅々まで見れます。これは一見の価値ありです。昔から人気のある城ですが、実際行くとそのワケが良くわかりますね。 |
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城郭探訪、ここも長年見たかった城ですが、ついに訪れることが出来ました。丸子城です。「まりこ」と読みます。丸子は東海道の宿場町「鞠子宿」として有名ですが、素晴らしい城跡が残っていることでも、その筋では有名です(笑)。細かい歴史は省きますが、武田氏の城だったことは確実で、その築城術が散りばめられている、とよくいわれています。とにかく、素晴らしい城です。 静岡駅からバスで25分ほど、「吐月峰入口」で下車して、右奥に歩いていくと、「駿河匠宿」という旧丸子宿を再現したかのような大規模な観光施設があります。バスの本数も多いので、非常に訪れやすい城跡です。その施設のすぐ目の前に、城跡への入り口があります。細い道なので見逃してしまいそうですが、ここです。 こんな歩道が整備されています。これを登ること約5分で、 まずは城跡の一番端っこの曲輪「外曲輪」に到着します。稲荷神社があります。 縄張図付の看板もあります。現在地が記されていますね。 奥に進んでいくと、早速素晴らしい堀に出くわします。「大手曲輪」東側の堀です。左に土橋にあって、これを渡ると「大手曲輪」です。 これは素晴らしいですね〜 北側へと堀が続きますが、この堀もすごい。形的に「三日月堀」と呼ばれることもあるとか。 「大手曲輪」。先ほどの堀と土塁に囲まれた曲輪で、馬出っぽさもありますね。 先ほど見た「大手曲輪」北側の堀が、曲輪内へ向かって曲がって竪堀となっています。 上に進んでいくと、「北曲輪」に出ます。ここは分厚い土塁が良く残ってます。たしか今川氏時代の中心部という説もあったような。 まだまだ続きます。 |








