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畝堀・障子堀で有名な、山中城をご紹介しましょう。この4月に久しぶりに訪れました。 戦国大名北条氏が、天正18年(1590)豊臣秀吉軍を迎え撃つために築城したことで有名なお城です。畝堀・障子堀をそこら中に巡らせたすごい城なのですが、数万の豊臣軍によって一気に攻められ、数時間で落城してしまったようです。 箱根の山の中にありまして、国指定史跡・日本100名城となっていて、とてもキレイに整備されています。「まるでゴルフ場だ」という声も…戦国時代のお城の姿がよくわかるので、ちょっと行きにくいですけど、一度はぜひ! 案内図。自家用車が便利です。駐車場も大きく、売店もあります。バスだと三島駅から1時間くらい。本数も1時間に1本程度だったと思います。 箱根旧街道の石畳。東海道ですね。城跡を分断する形で通っていて、雰囲気がとてもよいです。 案内図左下の、出丸から見学しましょう。旧街道からちょっと登ると、「御馬場曲輪」に出ます。写真奥の上段がそれ。下段も一部なんでしょうかね。芝生が広がる気持ちのいい公園になっています。 奥に進んでいくと、早速巨大な堀が!「御馬場曲輪」と「岱崎出丸」の間の堀です。久しぶりに見ましたけど、やっぱデカイですね〜すごい迫力です。どうもここも本来は畝堀だったようです。 「岱崎出丸」から先ほどの堀、「御馬場曲輪」方向を見る。細長い曲輪になっています。 「岱先出丸」の端っこには櫓台があります。ここを登って下を見ると… 「一ノ堀」と呼ばれる長大な畝堀が!!これが山中城の代名詞である畝堀・障子堀です!これも久しぶりに見ましたが、圧巻でした… 櫓台上からの眺めも最高です。ちょっともやがかかって、あまりよく見えませんでしたが、天気のいい日は目の前に富士山が見え、駿河湾も伊豆半島も見えて、とにかく絶景です。 櫓台の奥には「すりばち曲輪」があります。ここが城内で一番外側の曲輪ですね。その名の通り、すり鉢状の形をしている、不思議な曲輪です。 続く… |
L静岡県の城
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深沢城、続きです… 再度、縄張図。 城内一番奥にある「本丸」です。ここはですね、発掘調査が行われたのですが、遺物や遺構がほとんど出なかったそうです。なので、あまり使われていなかったのでは、と云われています。なので、最近では「本丸」とは呼ばないことも多いようです。わかるような、わからないような… 一番奥から「本丸」全景。段差がありますが、これは後世の改変なのかしら… 「本丸」からは城下を流れる馬伏川が見えます。川と川に挟まれた台地上に、深沢城はあるんですね。いかにも、城を造って下さいといわんばかりの立地条件。 「三の丸」に戻りまして、西側端にある「三日月堀」を見に行きましょう。道路に面して、標柱があります。 これぞ「三日月堀」!!くっきりとキレイに残ってました。見事ですね、これは。 三日月堀の土塁上からは富士山が!!ちょっと霞んでいたのが残念。 一般的にはまだまだマイナーなお城ですが、3人も見学者に会いました。ちょっとビックリ。中世城郭にも人が来るようになったのですなぁ… さて、この深沢城ですが、多くの城郭関係書籍やHPでは、永正年間頃(1510年前後)に、今川氏によって築城されたとか、このあたりの領主である深沢氏の館があったとか、書かれています。 ところがですね、よくよく文献史料を読むと、どうも違うようなんですね。 というのも、永禄12年(1569)6月16日付けで、北条氏康と氏政の書状が3通残されているんですが、そこに、「信・甲之人衆、今十六駿州之内号深沢新地寄来候…」と書いてあります(『静岡県史』資料編8、30号など)。ようは、信濃と甲斐の軍勢=武田軍が、北条方の深沢城に攻め込んできた、と書いてあるのですが、これが決定的に重要なんです。 何故かというと、「新地」と書いてあるんですね。これは、新しく造った城、という意味なんです。昔の城跡に再び築城する場合は「再興」という言葉を使いますので、「新地」とあるからには、全く新しく造った城ということになるんです。 さらに、1ヶ月ほど前の同年閏5月13日付けの北条氏政書状によると、「向甲州築新地、漸出来候」とあります(『静岡県史』資料編8、12号)。甲州に向かって=対武田氏のために、「新地」を築城して、それがようやく完成した、と言っています。これには「深沢」という地名は書いてありませんが、間違いなく、先ほど見た「深沢新地」=深沢城のことを指します。 ということで、深沢城は、北条氏が、武田氏対策のために、永禄12年閏5月に新しく築城した城だった、ってことがわかります。深沢城の歴史を考えるうえで、一番大事な事実です。 その後、元亀2年(1571)1月に武田氏が攻め落として、天正10年(1582)まで武田氏の城として機能していて、同年3月の武田氏滅亡と同時に、北条氏の攻撃を受けて「自落」していることが文献史料から確認されます。 以上のことは、既に黒田基樹氏などによって明らかにされていることなのですが、最近の静岡県の城に関する議論を聞いていると、こうした事実関係をちゃんと参照ないし理解しないまま、話が先に進んでいるように見えます。 文献史料だけでは、城の歴史はわかりません。ただ、文献史料からわかる事実関係がちゃんとあるのですから、少なくともそれを踏まえたうえで議論する、という姿勢が必要なのではないでしょうか??このへんが、最近の城郭研究に対する私の不満点です。 今回は、カタイ話ですみません… 追加で、深沢城の城門を移築したと云われている、御殿場市大雲院の山門です。関東大震災で倒壊したものの、昭和23年に復原再建したもののようです。Kさんからご提供頂きました。ありがとうございました。 *参考文献 黒田基樹「北条氏の駿河防衛と諸城」(同『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院、2001年) ブログ仲間のTaizoさんも、ご自身のHPで深沢城について、より詳しく書かれています↓↓ http://shizuokacastle.web.fc2.com/shizuoka_castle/fukazawa.html#114 |
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先日行ってきた深沢城をご紹介しましょう。北条氏が対武田氏対策として永禄12年(1569)には築城して、その後武田氏が奪取した、というお城です。詳しくは次回。まずは見てみましょう。 縄張図。JR御殿場線の足柄駅と御殿場駅のちょうど中間にあります。南側が入口になっていて、そこにこの看板と城跡碑があります。駐車場はないので、この看板前に置くしかないですね。私有地のようですので、ご迷惑にならないように… これから使う城内の用語は、ここに書いてある用語ですので、ご注意を… こんな立派な城跡碑が建っています。 この城跡碑や縄張図の看板の裏には、三日月堀があります。藪で埋もれています。これはその名の通り、三日月の形をした半円形の堀です。ただ、これ三日月型になっているのかな… 「三の丸」東側に入っていきます。するとすぐに「馬出」に出ます。ちょっとわかりにくいですが、周囲を堀に囲まれていて、よくよく見ると馬出になっています。 「三の丸」東側の堀。城内側から撮っています。これも形がよく残っています。左奥がさっきの馬出です。細い土橋を渡って馬出に至る訳ですね。 さらに城内側に進むと、すぐに「下馬溜」に出ます。実はこれも「馬出」なんです。馬出が連続していることになります。滝山城以来ですね、こんなに馬出だらけなの… 城内側から見た先ほどの「馬出」。奥はもう断崖になって川が流れています。 1枚目の縄張図の「二の丸入口」という場所まで着きました。目の前は分厚い土塁です。「二の丸」と看板にはありますが、いろいろと調査が進んだ結果、最近ではどうも本当はここが「本丸」なんじゃないかとされているようです。それはさておき、左側に進みましょう。 するとですね、「二鶴様式の堀」という堀が現れます。正直、意味不明(笑)。初耳です、「二鶴様式」って…。たまにこういうよくわからない城郭用語が使われている城跡があるんですよね…軍学書にでもあるのかしら? で、「二の丸」内部に到着。これがとても広いんです。大軍の駐屯地、といった感じでしょうか。規模が違いますね。 さて、「本丸」に向かいましょう。すると、また「馬出」があります。1枚目の縄張図には書かれていませんね…「本丸」入口の部分です。これもとても形がよくわかる馬出ですね〜。本当に、まぁよくもここまで馬出を続けるもんだなと。 続く… |
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先日、ワケありで、箱根・静岡方面のお城を見に行ってきました。「城郭探訪」のネタがありすぎてどう処理しようか困るほどなんですが、取りあえずアップしやすいお城から、順に気長にやっていきます。 この城はですね、最近話題になっているお城の一つかと思います。築城時期はよくわからないんですけど、元亀2年(1571)正月に、近くの深沢城が武田氏に奪われたために、北条氏がそれに対抗して築城したんじゃないかとされています。後ほど詳しく。 城跡は、現在、曹洞宗普明寺の境内となっています。山門脇に城跡碑が立ってますね。 山門をくぐると、本堂があり、その裏山が城跡です。この季節にもかかわらず、藪が結構ヒドイですので、行く人は覚悟して行ってください。 お寺の方が、とても親切そうでして、城跡のパンフレットなどもあるそうです。理解があるお寺で、ありがたいことです。 縄張図。水野茂『ふるさと古城の旅』(海馬出版、1998年)から引用させて頂きました。今はもう品切れの貴重書です。 本堂右の墓地を通って行きます。直接本丸方面へ登る、整備された道もありますが、それは帰り道として、まずは縄張図でいうところの、右側の「虎口」とされる方向へ行きます。その途中に出くわすのが、この縄張図に書いてある「横堀」の部分です。上の曲輪との高低差が結構あります。これが本当に横堀なのかどうか、微妙のようです。 縄張図にある「虎口」。以前ご紹介した、加藤理文・中井均編『静岡の山城ベスト50を歩く』では、「堀切」としていますが、どっちなんでしょうねぇ…。個人的には虎口の方がすっきりくるかな… 虎口を経て、北側の藪だらけの平場を歩いて、縄張図でいう「櫓台」左の「横堀」に着きました。藪だらけで何が何だかわかりませんね…堀の形に窪んでいるのがわかりますでしょうか?人が立っているので、わかるかな…結構深い、立派なものです。 その横堀から「櫓台」へ藪をかき分け、登って行きます!この縄張図では「櫓台」と書いてありますが、ここが本丸・主郭でしょうね。お寺さんが木を切ってくれていて、こんなにきれいな写真を撮ることができました。曲輪の広さや様子がよくわかりますね〜。まずまずの広さ。 「櫓台」南側には、竪堀のような跡が何本か。この縄張図では竪堀群として描かれていますが、加藤理文・中井均編『静岡の山城ベスト50を歩く』の縄張図には描かれていませんでした。ここも評価が分かれるところなのでしょうか。個人的には、これは違うんじゃないかなぁと… 再度、横堀に降りて、北曲輪へ向かいます。その北曲輪の斜面には、これはくっきりとした竪堀が残ってます。藪も無く、とても見やすく、キレイな竪堀です。2本ありました。この縄張図では3本描かれて「畝状竪堀群」とされていますね。 さあ、そしてこの城の最大の見どころである、北曲輪外側の二重堀切です!その1本目。わかりにくい写真ですね〜なんとなくでも、その深さ・規模がおわかりになれば…。2本目の堀切は藪だらけで撮影断念。 1本目の堀切がそのまま続いて、北曲輪をめぐる横堀となっています。これもものすごい規模です!ド〜ンと100m近く続いています。藪が無かったらまぁより感動モノでしょう…小田原城の大堀切くらいあるかな? 帰りは、「櫓台」から木を切るために使ったと見られるちょっとした道があったので、それを下りて行き、南側の「二の曲輪」に出て、畑の中を通って、最初の墓地に戻りました。 さて、この千福城ですが、築城年代はいつなのか、誰が造ったのか、ということで、いろいろ議論されているお城の1つです。最近では、武田氏の築城術が施されているとして、武田氏が滅亡する天正10年(1582)まで使われていたんじゃないか、あるいはさらに、天正18年の秀吉の北条氏攻めの時に、徳川家康が改修したんじゃないか、とされているようです。 ただ、果たしてそうなのかなぁと思うところも。 この城が登場する史料は、元亀2年と3年のもの2点だけで、いずれも北条氏の城として登場しています。で、そのうちの1点、元亀3年1月8日の武田信玄書状写には「平山破却」とあります。ちょうどこの頃に、北条氏と武田氏は和睦して「甲相同盟」を締結するんですが、そのための戦後処理の一環として、平山城は「破却」されていることがわかります。あくまで平山城は、対武田氏のための一時的に機能した城なのではないでしょうか? 武田氏がその後、この城に入ったとする証拠となっている、普明寺所蔵の文書は、城のことではなくお寺の寺産についての話であって、これから武田氏の城として使われていたとは到底解釈できませんし。可能性は無くはないでしょうけど… |
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城郭探訪、初の静岡県に参ります。まず最初のお城は、もうだいぶ前に行った時のものですけど、沼津市にある興国寺城というお城です。 このお城、北条早雲の居城であったこととして有名です。駿河国と伊豆国のちょうど境界地域に位置することもあって、重要な役割をしていたお城でした。最終的には、徳川氏家臣・天野氏の城として、慶長12年(1607)まで使われてました。なので、現在残る遺構は、基本的にこの頃のものです。国指定史跡として、整備が進められています。 JR東海道本線の原駅近くから、一直線に北上する県道166号線を歩くこと30分、入口に到着します(詳しくは下の地図を!!)。こんなふうに広々とした空間になってます。手前はは二の丸、奥の一段高くなっている部分が本丸、奥の高い土台が天守台ですね。二の丸での発掘では、巨大な丸馬出が出土したそうです。 まっすぐ進むと、穂見神社に着きまして、そこに城跡碑があります。北条早雲の碑も建ってます。このアングルの写真は、興国寺城を紹介する本ではほぼ確実と言っていいほど使われてますね。 では、碑のすぐ裏手にある、本丸・天守台へと向かいましょう… 天守台には、こんな感じで石垣が一部残っています。 天守台到着。そんなに大きくなく、天守台というか櫓台ですかね。どのような建物が建っていたのかはわからないと思います…。礎石も小さいながら一応あります。 天守台から南側、原駅方面を眺める。右側に土盛りがありますが、実はこれは大土塁となっていて、超巨大です。見ごたえがあります。 天守台の裏側直下は、興国寺城最大の見どころである、大空堀が残っています。これがものすごく深い、巨大な堀なんです!これを見るだけで、お城好きの人は感動するでしょう… そして最後に、堀を渡ったところにある、北の丸から見た富士山です!これも見どころの一つかな… 今はもうちょっと整備されているかもしれません。見る場所と言ったらこれくらいなのですが、車があると行きやすいでしょうね。近隣には城跡や有名寺社、さらには沼津港でランチ♪などもありますし…あの巨大な堀をまずはご覧になって下さい! |








