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書庫L岐阜城を再建せよ!近代の岐阜城

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                     (画像は、参考文献の横山著書から拝借)

岐阜城の近代史、3回目です。今回からは、史料を読み進めながら、近代の岐阜城の様子を探ってみましょう!

明治43年5月に「再建」された岐阜城ですが、なかなかの人気っぷりだったらしく、ずいぶんと多くの人々が訪れていたようなのです。まずは、その様子が新聞記事になっているので、それを見てましょう…。


【史料】「岐阜日日新聞」明治45年4月『岐阜市史』史料編近代1 1286p)

   金華山登山者 季候に伴ふて増減す
岐阜金華山顛の古城址天主閣は、一昨年五月十五日落成式を挙行し、六月に至り看守人を常置せるが、同六月より昨年四月七日迄の登山者は、合計四万三千九百二十五人、一日平均百四十人に上りしが、今昨年四月八日より去月迄一年間の登山者を聞くに、合計三万五千九百二十五人、一日平均百二十三人内外なるが、昨年の五月は九千余人、六七月は共に千五百余人、八月に至りて千四百五十九人を算し、翌九月は四千七百九人に達して、十十一月は二千乃至四千余人、十二月に至つて漸次気候寒冷に向ひたる為め、千八百二十九人に下り、本年一年●寒の候に於ては、千百七十五人、二月は千四百七十五人にして、追々気候の温暖なるに従ひ、漸次登山者の数を増し、三月には四千七百九十一人に達せしが、本月に入りて一層増加し、今日迄に既に五千余人を算せりしは、伊奈波祭典の影響なるべきも、気候につれ今後益々登山者を増加すべしと、因に今日迄天主閣に於いて、煙草を発売せざりしが、登山者の不便少なからざるを以つて、其の筋の許可を受け、本月より発売することゝなしたり。
(●は、ニスイに「互」)

近代の史料は読みやすいので、そんなに注釈は必要ないと思います。ここで面白いのが、お城の入場者数です。

明治43年6月〜翌明治44年4月7日までの登山者は、合計なんと43925人!1日平均なんと140人!

明治44年4月8日〜明治45年3月までは、35925人!1日平均123人!
これをもっと細かく見ると…

明治44年5月は9000人、6・7月は1500人ずつ、8月は1459人、9月は4709人、10・11月は2000人・4000人、12月寒くなったので1829人、明治45年1月は1175人、2月は1475人、だんだん暖かくなってきた3月には4791人、4月は金華山に今でもある伊奈波神社のお祭りの影響もあって、月の途中で既に5000人、と書いてあります。

ロープウェイも無い時代に、この数はかなりスゴくないですかね!?1日平均100人以上が、あのすさまじい山を登っているなんて…。

さらに面白いのが、看守人を常駐させて、それまで岐阜城天主閣ではタバコの販売をしていなかったのに、登山者がブーブー不満を述べていたので、岐阜市かなんかに許可を得て、販売を始めたって書いてあることです。あの山を登って、頂上にたどり着いて一服、というのが、至福の一時だったのでしょうね。それにしても、常駐している管理人さん、大変そう…

これらによって、明治45年の時点で、岐阜城にはこれだけの人々が訪れていて、天主閣ではタバコも販売されていたことがわかります。「再建」してまだ2年たらずで、一躍岐阜市の一大観光地になったのですね。そのくらい、物珍しいものだったのでしょう。突然信長の居城跡に城が建っちゃうんですから、そりゃ行きたくなりますね(笑)。参考文献には、西洋から伝わった、一種の登山ブームのようなものも背景にあったのではないか、ともしていますが、城跡を観光地として楽しむ、ということをどう考えるのか、面白いところです。

で、もう1つ気になるのは、これは新聞記事なんですが、天守のことを「天主閣」と言っていることです。「守」ではなく「主」と書いてあることも気になります。「天守閣」と今では一般的に言われますが、江戸時代までは「天守」と呼ばれていて、信長の安土城だけが「天主」と「主」という字を使っていたとされます。「閣」は、2層の建物を指すので、「天守閣」という言い方は、実は変なんですね。こういう言い方が、いったいいつから出始めたのか…もう誰かが調べているのかもしれませんが、この史料もそういう意味では面白いものなんじゃないでしょうか…

長くなりましたが、いろいろなことを考えさせられる記事でした…

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参考文献
中日新聞岐阜総局編『岐阜城 いまむかし』(中日新聞本社、昭和57年)
横山住雄『岐阜城』改訂版、濃尾歴史文化研究所、平成17年

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                        (画像は、参考文献から拝借)

岐阜城の近代史、第二回目です。前回ご紹介した通り、実は岐阜城は、日本で最初に模擬天守が造られた城なのです(常設では)。では、そんな記念すべき日本初の模擬天守は、一体誰により何故造られたのでしょうか…。参考文献を参考に、見てみましょう…

岐阜城のある金華山は、江戸時代には尾張藩領で、勝手に出入りしてはいけない「留山」でありました。それが、明治時代になると、明治政府の所有となり、一般市民が自由に出入りすることができるようになりました。

西洋文化の流入によって、登山・ハイキングが流行するようになると、市民の間で金華山の整備を求める声が高まってきました。そんな声を受けて、整備の一環として、明治43年(1910)年、岐阜城に数百年ぶりに天守が建ちました。

この天守を建てたのは、岐阜保勝会と岐阜建築業組合でした。保勝会とは、今で言う観光協会で、市長が会長だったそうです。建材は、ちょうど長良川の橋の廃材が大量に出たので、それをそのまま貰い受けたんだとか。

もちろん、ロープウェイも車道もない時代ですから、職人さんたちが担いであの金華山を登ったのでしょう…信じられません。明治42年のいつからかわかりませんが建設が始められ、翌年5月15日に落成式が開催されました。屋根はトタン葺きで、高さは約15mの、ちょっと小さい模擬天守がこうして完成したのです。

以上が、参考文献からの抄出ですが、重要なのは、表向きは観光協会などの公的な組織も関わってはいますが、基本的には市民が自発的に建設を行なったことでしょう。廃材を入手し、山頂まで上げて建設したのは、岐阜の地元の大工さんたちだった訳ですから、本当にすごいことです。

さて、建設の背景として、参考文献では、ハイキングなどの西洋文化の流行や観光地としての整備、などが挙げられていますが、もうちょっといろいろと背景がありそうな気が何となくします。江戸時代の岐阜は、今の市街地の南にあった加納城を中心とした城下町でした。それが、江戸時代が終わり、加納城も廃城となった訳で、そういう幕藩体制的なものが崩壊して新たな時代になったときに、新たなシンボルとして、織田信長の岐阜城というものが求められた、というふうには考えられないのかなぁと思う訳です。

郷土の英雄としての織田信長、その居城である岐阜城。明治時代になり、岐阜市民としてのアイデンティティを何に求めるのか、という時に、信長の岐阜城の存在が、市民の間でクローズアップされてきたんじゃないですかねぇ…。にしても、わざわざ天守を建てようと思うに至った理由はなんなのか…不思議です。

まぁ、特に裏付けとなる史料とか今は知らないのですけど、近代になると全国的に郷土意識が芽生えて史跡整備・顕彰とかを行なうようになるはずなので、そういう流れの一つと見れるのかなぁと。

しかし、一番気になるのは、一体この模擬天守のデザインは誰がやったのか!?何をイメージしてこういう形になったのか!?ですかね。建設に関する史料などが残っていれば、かなり面白いでしょうね〜。やっぱり、明治時代の人も、お城と言えば天守なんですね。そういう認識が一体いつから出てくるのか、というのも、気になります。

次回からは、史料を読むことによって、当時の岐阜城の様子を見てみます。

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参考文献
中日新聞岐阜総局編『岐阜城 いまむかし』(中日新聞本社、昭和57年)

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                      (写真は、参考文献の横山氏著書から引用)

「城の近代史」のコーナー、1発目は、岐阜城から見ていきたいと思います。

何故、岐阜城なのか。それは、お城好きの人には割と有名な(?)話ですが、実は岐阜城は、明治43年(1910)に、日本で最初に模擬天守が造られたお城なんです。今からほぼ100年前ですね。

ただしですね、厳密に言うと、「常設の天守が造られた最初のお城」なんですね。実は、それ以前の明治38年だったか、甲府城に仮設で天守が造られたことがあるそうです(鳥羽正雄『日本城郭事典』東京堂出版)。

さらに、話をややこしくしちゃいますが、実際の城跡とは無関係の場所に、とにかく天守を建てた最初の事例は、どうも明治36年(1903)に、大阪天王寺で開催された、第五回内国勧業博覧会の時のようです↓↓
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/museum/ouroboros/06_01/kenkyu.html

一体、近代になってから最初に造られた模擬天守はいつどこでなのか、どうしてこういう模擬の天守が造られるようになったのか、その背景は何なのか…。上のリンクなどを見る限り、こうした問題は建築史の学界でも注目されているようで、もっと古い事例や、建設に至る経緯を示す史料なども出て来るかもしれません。

まぁともかく、本物の城跡に、常設で模擬天守を造った最初の城が、岐阜城であることは、どうやら変わりないようです。ということで、岐阜城は、日本の城郭復元(模擬ですけど…)の先駆けのお城のようなんですね〜。

写真は、その在りし日の岐阜城模擬天守の姿です。どうですか、この素朴な雰囲気のカワイイ天守(笑)。これが、明治43年という時点で造られたんですから、すごいなぁと思います。

では、この模擬天守は、一体誰によって、どういう経緯で造られたのでしょうか?次回はそこをご紹介したいと思います。


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参考文献
鳥羽正雄『新装版 日本城郭辞典』東京堂出版、1995年
横山住雄『岐阜城』改訂版、濃尾歴史文化研究所、平成17年

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