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『戦国の城の一生』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、重版決定です!

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続けて「城と災害」のコーナー、今回で10回目になります。今回の舞台は伊予松山城です。この夏に久しぶりに訪れました。

今日も大気が不安定で各地で暴風雨になっているそうですが、松山城では対策が練られていたようです。寛文7年(1667)に出された「留守中之定」という掟に、そのことが書かれていました。藩主が松山城を留守にしている間の掟のようですね。


【史料】「松山政要記 文」(『松山市史料集』第3巻近世編2、p23)

一、風雨烈節ハ年寄共一人令登城可相見舞、尤所々番等堅可申付事、

一、風吹候節侍屋鋪并町中へ、可然輩見斗之見まハらせ可申事、

一、風雨烈節ハ郷中川之様躰早速奥平藤左衛門方へ可注進、其時之様子次第夫々之役人申付可遣之事、


掟の一部を抜き出しました。まず最初の条文によると、風雨が激しい時は、年寄(藩の家老)1人が松山城に登城して見舞いなさい、さらに城内各所の番をぬかりなく申付けること、とあります。やはり責任者である年寄が、城内をきちんと維持管理することになっていたのでしょう。

次の条文は、風が吹いたときは、侍屋敷だけでなく城下町に対しても、然るべき人を見計らって見回りをさせなさい、としています。城内だけでなく、城下町の様子もきちんと把握しようとしていたことがわかります。

最後の条文は、風雨が激しい時は、お城だけでなく、領内を流れる川の様子を報告しなさい、その様子によって領内各所に役人を派遣すること、としています。城内だけでなく、領内の様子にも気を配っていたことがわかります。川が氾濫することを考えていたのでしょう。

暴風雨でお城自体が壊れたりすることも多かったでしょうから、日ごろからそれなりにマニュアルを作成して対策を取っていたんですかね。他のお城でも、こうした暴風雨対策を定めているところ、多いです。それらもそのうち取り上げようと思います。

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                            (画像は山中城)

久しぶりの「城と災害」のコーナー、今回は九州の妙見岳城というお城が舞台です。大分県宇佐市院内町香下にあり、大内氏や大友氏の城として有名です。山城なんですよね。一度行ってみたいです。

さて、このお城、戦国時代のある時に、大雨によって被害を被ってしまいました。そのことを物語るのが、次の史料です。


【史料】大内家奉行人連署奉書(『大分県の中世城館』第1集 文献史料編1、309号)

妙見岳芝矢倉三間事、去七月大雨之時少々崩損之処、以人夫五十一人、芝以御城納築繕之由、貫備後守注進、遂披露候、神妙之通被仰出候、弥馳走肝要候、恐々謹言、
  九月廿一日  隆仲(花押)
         重矩(花押)
   元重次郎右衛門尉殿


差出人の貫隆仲と杉重矩は、ともに天文20年(1551)の陶晴賢の謀叛・大内義隆滅亡の時に亡くなっているので、それ以前のものだということは確実です。このへんのことはさっぱりわからないのですが、ざっと調べたら天文12年頃の史料ということです。

これによると、7月の大雨によって妙見岳城の「芝矢倉」が3間(6m弱くらい?)にわたって崩れてしまったようなのですが、元重次郎右衛門尉という人が51人も人夫を徴発して、芝をお城に納めて修繕したらしいのです。それを貫備後守という人が大内義隆に披露したところ、実に神妙であるとおっしゃったので、より一層働くように、と伝えています。

7月の大雨ということは、季節的に台風か何かなんですかねぇ。それによって、「芝矢倉」というのが崩れてしまったと。戦国時代のお城も、大雨などの影響をモロに受けて、メンテナンスが大変だったことがわかります。

ところで、この「芝矢倉」って、一体なんなんすかねぇ。修理をするために、「芝」をお城に納めたと書いてあるので、「芝」で出来ていることは確かなんでしょう。土塁に芝を張るというのは、関東の北条氏の史料でも出てくるのですが・・・

ちなみに、画像は山中城ですが、芝に覆われた櫓台です。こんなイメージなのかな??? それとも、芝が張られた土塁で造られた貯蔵施設か何か?? 御存知の方、教えてください。


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                     (画像は、内ヶ島氏が支配していた白川郷)

「城と災害」のコーナー、今回取り上げるお話は、非常に有名な話なので、今さら感もあるのですが、重要なので、記事にします。

「城と災害6」でも取り上げた、天正13年(1585)11月に発生した「天正大地震」により、城も領主もまるごと滅亡してしまったというお話です。舞台となったのは、飛騨国の帰雲城(かえりぐもじょう)、城主は内ヶ島氏です。

その様子を、当時の史料から見てみましょう…この史料もとても有名なのですが。


【史料】顕如上人貝塚御座所日記(『愛知県史』資料編12織豊2、1187号)

天正十三                 六百体ト云々
一、十一月廿九日夜大地震ニ京都三十三間堂ノ仏イツレモ倒給ト云々、

一、飛州ノ帰雲ト云在所ハ内島ト云奉公衆アル所ナリ、地震ニ山ヲユリクツシ山河多セカレテ、内島ノ在所へ大洪水ハセ入テ、内島一類地下人ニイタルマテ不残死タル也、他国へ行タルモノ四人ノコリテナクナク在所へ帰タル由申訖、彼在所ハコトコトク淵ニナリタル也、近江・越前・加賀、別而大地震、和泉・河内・摂津同前、六十余州大地震同前也、サレトモ別而破倒タル国トサホトニナキト差別在之云々、一々難知之、不及注之者也、八十余歳之老人モ如此事見聞タル事無之云々、


この史料は、信長と戦った本願寺の法主として有名な本願寺顕如に仕えていた、宇野主水という人が書いた日記の一部です。これを読むと、その恐ろしさがよくわかりますね。

内ヶ島氏という武士がいたわけですが、大地震が起きたことによって山崩れが起き、大洪水(土石流のことか)となって内ヶ島氏の居所=帰雲城とその城下を襲い、内ヶ島一族はおろか、家臣や百姓たちもが残らず死んでしまったと。たまたま他国へ出かけていた4人だけが生き残り、泣く泣く帰ってきた。帰雲城があった場所は「淵」になっているとも書いてあります。すごい光景ですね…

80歳になる老人も、こんな大地震は経験したことがないと言っています。すさまじい地震だったのでしょうねぇ…。ちなみに、帰雲城の跡地は、未だにはっきりしないようです。

ここで注目されるのは、この大地震が近江・越前・加賀にも及んでいることでしょう。越前・加賀、つまりは日本海側ですね。最近の諸問題とも密接に関わってくる話でしょう。

と、この記事を書いている最中にも地震が…


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                         (画像は、舞台となる高知城)

「城と災害」のコーナー、今回は、四国の高知城が舞台です。

高知城といえば、重要文化財の天守や本丸御殿などがある、土佐藩山内氏の居城として有名ですね。山内氏が土佐に来る前は、長宗我部氏が支配していました。


長宗我部元親は、岡豊城から高知城がある大高坂山に居城を移転したのですが、水はけが悪く洪水にもたびたび見舞われることから、数年で近くの浦戸城に居城を移したとされています。もっとも、浦戸城移転は朝鮮出兵のためともいわれていますが、ともかく大高坂山城が洪水に見舞われやすい場所だったことは確かなようです。


それは江戸時代も同じで、高知城下はたびたび洪水に悩まされていたようです。家中の人たちは勿論、城下の人々も、洪水が起きたら高いところに逃げなければなりません。さて、そこでどこに逃げるのか。


【史料】「城内守衛心得」(平尾道雄編『皆山集』第3巻歴史2編、p678)

洪水之節、御家中初足弱不寄貴賤、為可遁水難、御城中へ心掛参候輩可有之候間、惣出ノ貝立候ハゝ、御門守役人早速相詰通シ可被申事、
  享保十巳年四月 日


洪水の時は、御家中を始め、足弱=女性・子ども・老人も貴賤によらず、水難から逃れるために城中へやってくるので、惣出の貝=全員出動の合図のホラ貝の音が聞こえたならば、門番は速やかに各門に付いて、逃げてくる人々を城内へと通しなさい、としています。


これは享保10年(1725)のものですが、元文3年(1738)にも同内容のものが出されていますので、繰り返し出された掟だったと思われます。


普段は出入りが厳しく制限されている城内ですが、洪水という危機的状況の時は、身分の上下も関係なくみんなを城内へ入れて助けることになっていたようですね。お城が地域住民のいざという時の避難場所になっていたことがわかると同時に、こういった自然災害に対する危機管理システムが、高知藩によってある程度整備されていたということがいえそうです。


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                (画像は、宮城県白石城天守。東日本大震災で被災しました)


東日本大震災をきっかけに、お城と災害のことをもっと積極的に考えていこうとしていますこのコーナー、今回は、戦国時代のなかでも、特に巨大な地震だったといわれている、天正13年(1585)11月29日に起きた「天正大地震」を取り上げます。


今の岐阜県北西部が震源だったとされ、マグニチュードは8レベルだったとか。当時の様々な古文書や記録類にたくさん記述があり、相当甚大な被害があったようです。この地震を1つの要因として、それまで対立傾向にあった秀吉と家康が和睦の方向へ向かったともされています。


さて、この地震は中部地方に甚大な被害をもたらした訳ですが、秀吉方の伊勢長島城という重要なお城も、被害にあってしまったのです。


【史料】羽柴秀吉朱印状写(『愛知県史』資料編12織豊2、1177号文書)


今度之大地震ニ天主以下焼散候処、其方長島ニ有合茶湯道具取出候事奇特に候、すきの段不及聞召候へとも、茶湯道具心をかけ候事心中之程床しく候、委細津田小平次相含候也、
  十二月四日   秀吉御朱印
      飯田半兵衛尉殿


<書き下し>
今度の大地震に、天守以下焼け散り候処、その方、長島に有り合わせ、茶の湯の道具取り出し候事、奇特に候、すきの段、聞し召すに及ばず候へども、茶の湯道具、心をかけ候事、心中のほど床しく候、委細、津田小平次にあい含ませ候也、


これは、地震直後の12月4日に、秀吉が伊勢長島城にいた織田信雄の家臣・飯田半兵衛尉に宛てた朱印状です。地震の様子が、生々しく書かれてます。


まず、このたびの大地震によって、長島城の天守を始めとして、城内の建物が悉く焼失してしまったと書いてます。


伊勢長島城は、一向一揆で有名なあの長島にあったお城です。当時は、秀吉に降った織田信雄の居城だったようで、微妙な関係にあった徳川家康の領国との境目近くに位置している重要なお城でした。その長島城が、地震によって天守を始めとして焼失してしまったというのですから、大変なことです。すごい地震だったんでしょうね…


そんな大変な状況のなかで、飯田半兵衛尉は、茶の湯道具を無事取り出したということで、秀吉から褒められています。すき=数寄のことでして、ようは飯田半兵衛尉が茶の湯に通じているなんてことは聞いていないけれど、それでも茶の湯道具を心配して救出してくれたことに、秀吉がとても喜んでいる、ということです。


大地震で城が燃えているのに、茶の湯道具の安否を気にしている秀吉…そして、それを察してか、無事、茶の湯道具を救出した飯田さん…ある意味スゴイです…


天正大地震については、今後何回か取り上げたいと思います。


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