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       江戸城梅林坂。戦国時代の江戸城の主要ルートだったそう。



100城集めるまで続けます、「真・日本100名城」のコーナー、今回見事選定されました城は、戦国時代の江戸城です。

太田道灌が築城して、後北条氏の支城となり、徳川家の居城となった江戸城ですが、戦国時代の早い段階から、各地に知られた「名城」だったようです。

まずは、江戸城といえばこの史料、「江戸城静勝軒詩序並江亭記等写」です。


【史料】「江戸城静勝軒詩序並江亭記等写」(『北区史』資料編古代中世2、p99)

而堅備其塁、所以一人当険、而万虜不進、亦乃武州之名城也、


太田道灌の依頼をうけて、建仁寺の僧侶が書いたものだそうです。漢詩風のもので、正直現代語訳が難しいのですが、とにかく江戸城が大変堅固な様子が記されていて、最後に「武州之名城」であるとしています。

もう一つ、「旧川状」(ふるかわじょう)という、陸奥国大崎地方に深く関係する史料が仙台市博物館にあります。『仙台市博物館調査研究報告』第16号や、『古川市史』第7巻 資料供仝殿紂γ羸ぁΧ畧1で紹介されています。

天文五年の大崎領内の反乱と、その後の伊達稙宗の古川城攻撃について記された、不思議な形の史料なのですが、いちおう天文五年からそう遠くない時期に記されたものとされています。

実は、その一番最後に、日本各地のすごい城ということで、「武州ニ江戸」と挙げられています。これも、戦国時代当時の認識ということで、まあ考えても取りあえずはいいのかなと思います。この「旧川状」、たくさん名城を挙げてくれているので、またそのうちお世話になります。

それはいいとして、ともかく江戸城は「名城」であると記されているので…

拙ブログでは、戦国時代の江戸城を「真・日本100名城」に選定します!


これで、ようやく4分の1ですね。まだまだ続きます。

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戦国武将が「名城」と認めた城をご紹介するコーナー、今回は一気に2城が選定されました。先日ご紹介した福島県新地町にあります、駒ヶ嶺城と新地城です。

両城とも、伊達氏と相馬氏の境目の城として有名な城で、天正17年(1589)5月まで相馬氏の城でしたが、伊達政宗によって落城し、伊達氏の城になりました。境目という激戦地なだけに、両城とも相馬氏によってしっかりと改修が行われたようです。その様子を目の当たりにした伊達政宗が、両城のことをこんなふうに述べています。


【史料】伊達政宗書状(『仙台市史 伊達政宗文書1』433号、登米伊達家文書)

両地近年相ヨリ被入念候哉、普請結構ニ候事、絶言句候、五六年以前之様躰ニ者、黒白違候、以上


書状の追って書きの部分です。「両地」というのは、駒ヶ嶺城と蓑首山城(新地城)のことを指しています。

ここで伊達政宗は、「両城ともに、近年相馬氏によって入念に改修されたのだろうか、普請の有り様は大変結構な出来栄えであり、言葉がないほどである。5、6年前の状態とは黒色と白色を比較したほどに違う」と述べています。

5、6年前に政宗が両城を見ているかのように書いてますが、調べたらどうも本当のようです。ちょうど天正12年の春に、伊達輝宗・政宗が一緒になって新地・駒ヶ嶺城を攻撃していると『伊達治家記録』などに書いてあります。この時と比べて、両城ともパワーアップしていたと言いたかったのでしょう。

両城を今までとはまるで違う、言葉が出ないほどのスゴイ城であると述べていることには変わりませんので…。

拙ブログでは、駒ヶ嶺城・新地城を「真・日本100名城」に選定します!


このコーナーのために、「名城」史料を探していますが、最近まとめて発見することができました。現在、若干微妙なものも含めて、85城ほどまで来ました。入れてもいいかなと思う史料を含めれば、100城は越えそうですが、もう少し探してみます。


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「真・日本100名城」のコーナー、今回は地元仙台の仙台城(青葉城)です。仙台城も「名城」と評価されている史料がありました。

慶長16年(1611)、イスパニア王国の大使であったドン・セバスティアン・ビスカイノという人が仙台を訪れていますが、彼の報告書の中に、仙台城のことが書かれています。


【史料】『ドン・ロドリゴ日本見聞録 ; ビスカイノ金銀島探検報告』(『仙台市史』城館 総論p3)。

「この城は、当国(仙台藩領)にある最強で最良の城のうちの一つである。なぜなら、それは四囲が非常に深い川で囲まれている岩山の中に築城されていて、しかも一〇〇エスタード(約一九五m)以上もある切り立った岩に囲まれており、ただ一つの入口があるにすぎないからである。そこからは市街の全体が眺望できる。当市は江戸の市と同じほどの大きさであり、極めて堅固に造られている」


仙台藩領という地域限定での話ですが、伊達政宗時代の仙台城のことを「最強で最良の城のうちの一つである」と記しています。やはり、天然の要害であるという点で、そのような評価になっているようですね。「名城」とは記されていないものの、この表現は十分「名城」といえるでしょう。

以上の事からして…

拙ブログでは、仙台城を「真・日本100名城」に選定します!


なお、仙台城は震災で本丸周辺の石垣の一部が崩落してしまいましたが、修復が完了し公開されました。本丸内の仙台城見聞館もリニューアルし、御殿の大広間の遺構展示もされるようになります。新しくなった仙台城を是非見に来てください。


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              (画像は、北条氏時代の小田原城惣構大堀切)

久しぶりの「真・日本100名城」のコーナーです。21城目ということで、今回見事選定されましたのは、小田原城です。戦国大名北条氏の居城として、戦国最大規模の城として、あまりに有名なお城ですね。

そんな小田原城ですが、意外にも「名城」と評価されている史料が少ないのです。凄すぎて、それどころではなかったような感じですが。でも、あるにはあります。


【史料】『北条五代記』(『小田原市史』史料編原始古代中世機■陦牽沓機

前代未聞の大城を興し、関八州の軍兵を籠をき、鉄砲玉くすり、兵粮米ハ、十年経ぬへき、兼ての用意聞しにも越思ひよりしよりもおひたゝしく、城中くわくくわい堅固に有て、天下無双の名城、落へきてたてなし

「北条五代記」は、元北条氏家臣が書いたとされるもので、江戸初期の記述ですが、まあいいでしょう。ここで小田原城は、「天下無双の名城」と評価されています。


次に、秀吉によって小田原城が開城した後、上方へ向かっていた伊達政宗が小田原城を見物しているのですが、こんな感想を述べています。


【史料】「伊達政宗書状」(『仙台市史 伊達政宗文書1』p402)

然而当小田原、昨日無残所見物候、かヽる要害普請之為躰、絶言句、氏直御心底、尚々物弱ク候、もヽて水きるとやらんのことくニ候へとも、さりとてはさりとては、かやうのやうかい、俵粮・兵具之蔵共、無際限、何ニも無不足候而、無躰ニ被果候事、無是非候、其身共ニミせ候はゝ、さてもさてもと可存事、此ニ候、
 

政宗は小田原城をくまなく見物したようなのですが、とにかくこんな城見たことない!凄すぎて言葉に表せない!と述べています。家臣に対しては「お前もこの城を見たら、おっしゃる通り本当にまぁすごいですねぇ…と言うに違いない」とも述べています。政宗は、こういう表現をよくするのですが、それにしても凄い城だと思ったのでしょう。

以上の事からして…

拙ブログでは、小田原城を「真・日本100名城」に選定します!


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現代人の視点ではなく、あくまで戦国時代当時を生きた人々が「名城」と称えた城を紹介する「真・日本100名城」のコーナー、ようやく20城目まで来ました。今回見事選定されましたのは、ここ2回にわたってご紹介した九戸城です。

九戸政実の乱の舞台としてあまりに有名な城ですが、この城が褒められている史料があるのです。まずは、この史料。


【史料】豊臣秀吉感状写(『岩手県中世文書』下巻、96号、「祐清私記」)

今度奥州九戸に名城雖有、所楯籠之剛兵数多、以其方一身之覚悟即時乗捕、田(首カ)数七百五十到来悦思召候、今度陣中第一之手柄、寔に可為日本無双之剛之者、仍而感状如件、
  天正十八年八月四日      秀吉御判
    堀尾茂助殿


ズバリ、奥州の九戸に名城があると秀吉が言っています。これだけで100名城に認定したいところなのですが、この史料、偽文書と言わざるを得ません。文言が当時の史料としてはおかしいところが多いのと、年代も天正十八年ではなく十九年の誤り。ということで、せっかく「名城」と出てきましたが、これでは使えません。残念です。まあ何か元となるちゃんとした秀吉の文書があったのかもしれませんが・・・。

九戸城は名城に選定することができないのか・・・。そう思ってましたら、出てきました。それが次の史料です。


【史料】蒲生氏郷書状(『大日本古文書 浅野家文書』177号)

  返々、御出候はぬば、かやうに無十方事候ハす候、以上
今朝懸御目候而、本望此事候、四時分罷着候、則普請わり申付候、手間入申ましく候、さてもさても見事に、先日見申候よりも一段見事ニ成申候、可御心安候、何程大ニも又少も、御望次第ニ而候、可然地不及是非候、先本丸之心ニ、我等一円ニ申付候、二日ニ可為出来候、送具候ハヽ、明日中ニも可為出来候へとも、不[   ]り可申候、小丸ハ御出候ハヽ、懸御目候而、談合申候而可仕候、又外丸ハ其まゝにて、いよいよ手間入申ましく候、頓而御帰奉待候、とかく無十方事に候、御帰をまち申計候、恐々謹言、
         羽忠三
   九月十日   氏郷(花押)
  浅弾さま
     人々御中


ちょっと長い史料ですが、蒲生氏郷が浅野長吉に宛てた書状です。日付は9月10日となっていて、これまでの研究では天正十九年のものとされています。ここに書かれている内容が、九戸城の普請のことだと今までの研究でされているのです。

九戸城が落城するのは9月4日なので、6日後に書かれたものとなります。その間、氏郷と長吉は九戸城からいったん離れてどこかに行っていたようですが、10日に氏郷は九戸城に戻ってきました。それ以前に、すでに落城した後の九戸城の大改修が開始されていたようで、その様子を見た氏郷が「先日見た時よりも一段と見事な姿になっている!」と感心していることがわかります。

で、そんなニュー九戸城の様子を「十方も無いことである」と述べている。この「十方」は「途方」であると解釈されています。まさに「途方もなくすごい城になっている!」と言っていることになります。

面白いのが、どうも「本丸」を中心に普請をしていて、その外側にある「小丸」は長吉が戻ってきてから相談してどうするか決めると、さらに「外丸」についてはほとんど手を入れないでそのままにする、と書いてある事です。まさに、現存の九戸城の姿にそのまま当てはまると言えはしないでしょうか。本丸は石垣が築かれ枡形が造られるなど改修されていますが、その他の曲輪、特に外側の曲輪は目立った改修の痕跡がないのです。

ただ、本当にこの史料が九戸城のことを指すものなのか、若干不安があるのですよね。でもまあたぶん九戸城でいいのでしょう。

ということで、2つ目の史料は根拠にしてよいでしょう。蒲生氏らによって改修された後のニュー九戸城がここまで褒められているので…

拙ブログでは、九戸城を「真・日本100名城」に選定します!


参考文献
小林清治『奥羽仕置と豊臣政権』(吉川弘文館)

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