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          (画像は、仙台市長命館跡の縄張図)

特に確固たる見通しがある訳ではないんだけども、ちょっと気になるなぁという史料をご紹介するこのコーナー、8回目を迎えました。今回は、ずばり、お城の縄張りについてです。

普段から縄張研究、縄張論などと言ってますが、そもそも当時の史料ではどういうふうに言われていたのか、誰が縄張をしていたのか、そんなことが疑問として出てきまして、見つけたものを溜めこんでいます。そんなことしていたら、ちょっと面白くなってきました。

縄張というのは、どうも最初は「縄打ち」と呼ばれていたっぽいですね。


【史料】「築城記」第十三条(『福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館古文書調査資料2 朝倉氏の家訓』福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館、2008年、p139)

一、平城は始てこしらへ候時、先縄うちをする也、かならず土居出来て内せばくなり候、土居ノ広さなどよく分別して、なは打にて広くもせばくも成也、地わりとは云べからず、縄うちと云べき也、


お城の教科書として有名な「築城記」という書物の一節です。「築城記」は永正年間(1500年頃)には成立していたといわれています。越前朝倉氏に伝わっていることもあって、畿内地方を中心に流通していたようです。

これによると、平城を造る時は、まず縄打ちをすると。必ず土塁が完成すると曲輪が狭くなるので、土塁の広さをよくよく計算すべし。縄打ちによって広くも狭くもなるよ。地割りと言ってはいけないよ、縄打ちだよ、と記されています。ということで、戦国時代の前半には「縄打ち」と言われていたことがわかります。

その後、戦国時代の終わりころになると(??)「縄張」が出てきます。


【史料】「前田利家書状」(『増訂加能古文書』p712、「拾遺温故雑帖」)

仍所口惣がまへ堀普請の事、最前なわばり之儀其方両人可存候間、当年能透にて候間・・・なわばり仕候て可相渡候、


これは天正十年代に比定されている文書で、能登七尾城の堀の普請について書かれたもののようです。ここでは「なわばり」=縄張と呼ばれていますね。「縄張」という史料用語の中でも、結構古い事例になるでしょうか?? この後、慶長・元和あたりになると、普通によく出てきますね。

他にも、史料集を見る限りでは「網張」とか「綱張」なんていうのもありました。写真版見ないとなんとも言えませんが、そういう言い方もあったんですかねぇ。何か情報ご存知の方がいらしたら、是非教えてください。

まだそんなにたくさん見つけたわけではないですが、中には誰が縄張を担当したのかがわかる史料もあります。そんなのもそのうちご紹介しましょう。


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                          (画像は、鉢形城の土塁)

いろいろありましたけど、更新再開です。

すぐに論文にはならないけど、でも興味深いよねという史料をご紹介する「ちょっと気になる城郭関係史料」のコーナー、7回目になります。今回は、丈夫な土塁の造り方が書かれている史料があったので、それをご紹介します。

時は寛永5年(1628)。隠居した伊達政宗は、仙台城の近くの若林城に移ることを計画し、築城を進めていたのですが、その築城過程でいろいろと問題が起きてしまったようなのです。そのことを、同年5月20日付けの手紙で、こんなふうに書いています。



【史料】伊達政宗書状案(『仙台市史』資料編13伊達政宗文書4、3010号、「引証記」三十二上)

一、今月十日之大雨、若林北之土居又破損之由候、去年も普請遅々候而、露之時分ニかゝり仕候所、当春も仕直候へとも、かたまり候ハぬ内ニ、大雨嵐故、破損候と相見候而(へ候)、兎角当夏中ニ申付候ハて不叶義ニ候、今度ハ去年苅候かやを敷候而土をかけたゝき、又かや敷入念候者、丈夫ニ可有之候、青かやハ悪候事、

一、かやの積も大かたつもらせ可然候、土ひとへ・かやひとへ、いかほとも土居之たかさ次第ニ、入念つかせ尤候、此方所々之土手・川か(よ)け、皆々かや敷築候所ハ、水押懸候へとも、少も不苦候、尚、雨之分にてハ、慥ニこたへつよく可有之事、

一、今度破損仕候所、相残内ニも、重而可損所江(候)ハ、中々土を取のけ、如右かやを敷、可仕直候、無申迄候へとも、破損之所、能々土を取のけ、丈夫ニ可仕由、入念可申付事、



城に関わる部分だけ抜き出したので、本当はもっと長い手紙です。これだけでも長いので、ざっと現代語訳をしましょう。


一つ、今月10日の大雨のせいで、若林城の北側の土塁が破損してしまったとのこと、去年も普請が遅々として進まず、梅雨の季節にかかってしまい、今年の春にもきちんと土塁を築いたのだが、土塁が固まらないうちに大雨・嵐に見舞われたので、破損してしまったようである。とにかく今年の夏の間に城が完成しないといけないので、今度は去年刈り取った萱を敷いて、その上に土をかけて、しっかり叩いて固めて、さらに念を入れてまた萱を敷けば、丈夫になるだろう。ただし、青萱は良くないので使わないように。

一つ、必要な萱の数量も計算しておくように。土を一重、萱を一重、というように、土塁の高さに応じて念を入れて築くように。方々の土手や川除けの土手も、みんな萱を敷いた所は、濁流が襲いかかってきても、少しも問題ない。ましてや、雨の程度ではビクともしないだろう。

一つ、今回破損した土塁については、破損せずに残っている部分でもさらに破損してしまうかもしれないような部分は、土を取り除いて、さっき言ったように萱を敷いて築きなおすように。言うまでもないが、破損した部分はよくよく土を取り除き、丈夫に築くように、念を入れて命じる。


というわけで、築城途中の若林城の北側の土塁が、大雨のせいで崩れてしまったようなのです。で、その理由として、土塁が固まらないうちに大雨に見舞われたからだ、としています。

でも、早めに完成させたい政宗は、土塁を築く際に、萱を敷いて土をかぶせる、この繰り返しで土塁を築けば、とても丈夫な土塁に仕上がると言っています。実際、河川に築かれた堤防の土塁は、そうやって造ったのでビクともしないと。

ここから、丈夫な土塁を築くには、土だけで築くのではなく、萱を入れることが必要だったことがわかります。しかも「青萱」、つまり刈ったばかりの萱ではダメで、あくまで去年刈った萱が良いということもわかります。乾燥させた萱、ということなのでしょうかね。

こんなふうに土塁の築き方が詳しく書かれている史料は、かなり珍しいのではないでしょうか。北条氏の史料でも土塁に関するものがあったような気がしますが、こういう史料を集めていくのも面白そうですね。今後も面白いのがあったらご紹介します。

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                        (画像は、駿府城の東御門枡形)

「ちょっと気になる城郭関係史料」のコーナー、今回は、山形県新庄市の新庄城が舞台です。江戸時代に戸沢氏の居城だった新庄城の本丸の表門が平入りから枡形へ改修された、という史料をご紹介します。

枡形虎口は、言うまでもなく、そのまま枡の形をした空間を構成している虎口で、内側と外側に2つ門を造って、敵がまっすぐ進めないように、必ず1度直角に折れ曲がらないと城内へ進むことが出来ないようにしてある虎口のことですね。近世城郭では全国各地によく見られる典型的な形の虎口になります。

で、この枡形虎口は、一般的には、まっすぐ進めないようにしてあるということで、軍事的に発達した防御施設と評価されています。まっすぐ進む平入り虎口より、1回曲がらないといけなくて、それにより横矢が掛かる構造になるので、より防御性が強いというわけです。軍事的に非常に発達した施設といわれる所以です。他にも、権威の象徴として役割もあるといわれています。

ところが、今回挙げる新庄城の事例を見ると、また違った枡形虎口の役割が見え隠れするのです。



【史料】「新庄城修復願(仮)」(『新庄市史』史料編(上)、p198、戸沢家文書)

一、本丸表門、只今迄冠木門斗御座候而城内見通し申候間、五間七間之志とミの土居に塀ヲかけ、門下石垣壱丈に築立、三間五間之門矢倉立申度奉存候、



この史料は、寛文4年(1664)7月27日付で幕府に提出された新庄城の修復願の一節で、絵図面とセットで残されたものです。近世城郭を文献史学的に研究されている白峰旬氏の論文「大名居城の修築と修補申請基準・増改築許可基準」(同『幕藩権力と城郭統制』岩田書院、2006年)で取り上げられています。

これによると、新庄城の本丸表門は、冠木門だけが建っている状況で、外から本丸の中が見えてしまうと言っています。なので、5間×7間の大きさの「志とミ」=蔀(しとみ)の土居=土塁を築いてその上に塀を造り、門下は土塁ではなく高さ1丈≒3mの石垣として、さらにそこに3間×5間の大きさの櫓門を造りたいと言っています。

これだけだとイマイチどういう状況か、イメージしにくいと思うのですが、一緒に残されている絵図を見るとよくわかります。冠木門の内部に5間×7間の土塁を築いて、枡形の空間を造り、さらに枡形に入って右側に櫓門を新たに造って、典型的な枡形虎口に造り替えようとしているのです。今回の画像は駿府城の枡形虎口ですが、形としてはまさにこれと同じように改築しようとしていることになります。

で、何が「ちょっと気になる」のかというと、白峰さんも指摘されていますが、改築の理由として「城内見通し申候間」、つまり城内が外から見えてしまうため、としている点です。冠木門だけの平入り虎口だと城内が見えてしまうことを問題視しているのです。

さらに、枡形を造るために築く土塁を「蔀の土居」と表現していることも面白いです。「蔀」とは、内側を見られないようにするために覆うもののことを言いまして、聞いたことある方もいるかと思います。枡形を構成する土塁のことを、わざわざ「蔀の土居」と表現しているということは、この土塁も城内を見られないようにするためのもの、という意識があったことがうかがわれます。

白峰さんは、「枡形構築の理由として、城内を見通せなくするためとしている点や、枡形を形成する土居を蔀土居と表記している点は、枡形の存在理由を考察するうえで、当時の認識を知ることができて興味深い」、と述べていますが、私も大変興味深く思ったので、ご紹介しました。

枡形虎口というと、やはり軍事性が問題とされることが多いですし、権威の象徴としての意味もあると指摘されてきました。そういったこと以外にも、外から見られないようにするための施設としての意味もあるのかなと。その場合も、見られないようにすること自体軍事性・権威性の範疇に入るのかもですが、通路を曲げて入りにくくするとか、横矢を効かせる、という意味以外の枡形虎口の意味というんでしょうか、そういうことも考えていくことが必要なのかもしれません。今回は近世城郭の事例ですが、戦国時代のお城の枡形も、どうなのかなあとも思いますね。

で、いろいろ史料を見ていくと、この外から中を見られないようにするということが、特に近世城郭を考えるうえで結構な重要ポイントなのではないか、と最近思っています。そんな話はまた追々・・・。


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参考文献
白峰旬「大名居城の修築と修補申請基準・増改築許可基準」(同『幕藩権力と城郭統制』岩田書院、2006年)

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                         (画像は、高田城の絵図)

「ちょっと気になる城郭関係史料」のコーナー、今回は、第3回目に見ました、お城の縄張をコピーする事例をまた見つけたので、それをご紹介しましょう。と言いましても、いわゆる一次史料ではないのですが・・・


今回の舞台は、越後の高田城です。新潟県上越市ですね。春日山城の影に隠れてしまいがちな近世城郭ですが、この高田城も、ある城の縄張をコピーして造られたというのです。


【史料】「信州問屋由緒録」(『新編信濃史料叢書』第24巻、p334)

一、慶長拾五年戌年松平上総介少将忠輝公七拾五万石ニ而越後江御入福島御在城・・・福島之城茂波音ゆ(や)かましく、高田江御移江戸御城之通縄張也、彼是御不行跡重り、信州諏訪江御流人被成候、其跡江元和二辰年酒井左衛門佐様拾万石ニ而高田御城上総介様江戸御城御写被成候而普請之跡江御入被成候、


この史料は、新潟の糸魚川に住居を構え「信州問屋」と称された商人六人衆が、古来よりの由緒を諸書付によって調べたものだそうで、寛政7年(1795)10月に書写されたものです。昔からの由緒を書き立てたもので、江戸時代も後半ですし、しかも写されたものなので、戦国・近世初頭当時の史料に比べて、残念ながら史料としての信憑性は低いです。


しかし、実に興味深いことが書かれています。慶長15年に徳川家康の六男・松平忠輝が、同じ上越市の海側にあった福島城に入城するのですが、波の音がウルサイので、高田へお城を移した。築城の際には、江戸城の縄張の通りに縄張をした、とあるのです。で、程なく忠輝は改易になってしまうのですが、忠輝が江戸城を写して普請した後に酒井氏が入ったと。


これが本当なら、松平忠輝は、江戸城の縄張をコピーして高田城を築城したことになります。画像は高田城の縄張図ですが、これ、江戸城の縄張と同じなんでしょうか・・・そうには見えないのですが、縄張に詳しい人はわかるのでしょうか。


今回の史料は、いわゆる「二次史料」ですので、事実と確定する根拠にはなりがたいのですが、そういう話が少なくとも江戸時代後半にはあったことになります。前回、毛利氏時代の広島城が、秀吉の聚楽第の縄張をコピーして造られたことをみました↓↓
http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/30745477.html

こういう事例もあるにはあるので、今回のもあり得なくはないなと思います。


ともかく、文献で縄張のことを語っている史料を、二次史料も含めて、一度片っ端から集めてみようと思ってます。随時ご紹介する予定です。


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                        (画像は、麓から見た岐阜城天守)

すぐに大きな話には発展しないけど、ちょっと気になっている史料をご紹介するこのコーナー、今回で4回目になります。


今回の舞台は、岐阜城です。最近、金箔瓦が出土して、信長の時代のものと比定され、大きな話題になっていますね。そんな岐阜城ですが、天正12年の小牧・長久手の戦いでも舞台の一つになってました。


この時、岐阜城には、秀吉の甥である羽柴秀勝が在番していたのですが、その時の様子が、次の秀吉書状からわかります。この書状の内容が、ちょっと気になったのです。



【史料】羽柴秀吉書状(『愛知県史』資料編12織豊2、410号、岡本文書)

  猶以、高山ニ候之間、かせをひかれ候て御煩候ましく候、諸事御由断なく御心かけ専用候、以上、
態申候、大らの城在之儀候条、余の所普請ハ不入事候間、可有其心得候、当山ニ貴所たのミ入おき候之間、かまへ\/御由断候ましく候、山下へ用事候ハヽ、助作・加兵へ若ものニ候之間、ねんを被入、堅被申置、下山候て御用をもかなへられ尤候、返々貴殿見こめ候て在城候条、不可有御由断候、恐々謹言、
  卯月十二日   筑前守秀吉(花押)



書き下し分は面倒なの省略します。宛所が書かれていませんが、他の史料との関係からも、羽柴秀勝宛てで間違いなさそうです。ざっと現代語訳すると…


わざわざ申します、「大ら」(=大浦。尾張郡中島郡)の城があるので、他のところの普請は必要ないので、そのことを心得るように。「当山」(=稲葉山=岐阜城)に「貴所」(=秀勝)を頼んで入れ置いたので、敵への備えに油断ないように。山下へ用事があったら、「助作・加兵へ」(=片桐且元・貞隆)が若者なので、念を入れて厳しく申付け、下山させて要件を済ますことがよい。返す返すも、あなたを見込んで岐阜城に在城させているのであるから、油断ないように。
 なおもって、岐阜城は高い山なので、風邪をひいて病気になることがないように。諸事、油断ないように心掛けることが大切である。以上。


てな感じでしょうか。だいたい合っていると思いますけどね。


まず、「なおもって」、つまりは追伸部分が面白いですよね。岐阜城は高い山だから、風邪をひかないようにと言っています。卯月は4月ですから、今の5月ですかね、まだちょっと肌寒い時があったのかもしれませんが、たしかに岐阜城はかなり高い山なので、風邪をひいてしまう可能性も十分あったのでしょう。


それと関係あるのですが、本文のなかで、山下に用事がある場合は、若者である片桐且元・貞隆に申し付けて下山させろ、といっていることも興味深くはないでしょうか。この時の「城主」である秀勝は、あくまでこの合戦中は山上に常時いたということが、まずわかります。で、若者に下山させる、ということは、当たり前ですが、山下と山上を行き来するのは、結構大変だったということもわかります。


さらに、山下と山上を往復していることから、山下部分も機能していたことが、うかがわれますね。大浦城に岐阜城から加勢の軍勢が派遣されていたようなので、岐阜城にはそれなりの規模の軍勢が当時いたようです。あの山上の狭さからして、山上には秀勝に附属する軍勢がいる一方で、山下にも常駐する軍勢がいたのではないのかなと思いました。


そういえば、ルイス・フロイスの『日本史』には、たしか信長がしょっちゅう山下と山上を上り下りしている様子が書かれていた記憶があります。信長は健脚だったのでしょうか・・・。


このように、当時の山城の使われ方の一端が垣間見えるんじゃないかなということで、ちょっと気になる史料としてご紹介いたしました。


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