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『戦国の城の一生』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、重版決定です!

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東京都府中市のJR府中本町駅前に、徳川家康が築いたとされる府中御殿の跡地があります。最近発掘調査が行われ、初めてその存在が確認されたとして、ニュースでも取り上げられるなど、結構な話題になった遺跡です。その府中御殿について、これまた偶然にも関係しそうな史料を見つけたので、『府中市郷土の森博物館紀要』26号に寄稿させて頂きました。

まずは、府中御殿の現況から

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本当に駅の真ん前にあります。大きな看板が立てられています。ここは古代の武蔵国府の国司館跡でもあります。

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フェンスで囲まれていて、中に入ることはできませんが、発掘調査の様子を解説したパネルが設置されています。

さて、この府中御殿ですが、天正18年(1590)、小田原北条氏が滅亡して徳川家康が関東へ入国した際、狩猟の時などに休息・宿泊するために造ったものといわれています。しかも、ちょうど奥羽仕置を終えた秀吉が帰ってくる時だったので、秀吉を接待するために急いで造った、ともいわれています。

翌天正19年には、やはり奥羽仕置に向かう豊臣秀次が府中に立ち寄り、家康と会談したことが、確実な史料からわかっています。おそらく、秀次と家康は府中御殿で会談したのでしょう。

その後、府中御殿は主に鷹狩の際に家康・秀忠によりたびたび使用されていましたが、寛永年間に一度焼失し、その後再建されるも、正保3年(1646)10月の府中大火で再度焼失してしまい、そのまま廃絶したとされています。その最終段階の遺構と思われるものが発掘調査で初めて出てきて、伝承通り、この場所が府中御殿の跡地だったことが判明した、というわけです。

そんな府中御殿なのですが、その起源、つまり天正18年に家康が建てた、秀吉がやってきた、という話は、あくまで伝承でして、詳しいことはよくわかっていません。その後、徳川家の御殿として存在したことは確実ですが。

そうしたらですね、これは府中御殿のことを指すのではないか・・・という史料を偶然にも発見したのです。


【史料1】豊臣秀吉朱印状(『秀吉襲来―近世関東の幕開け―』横浜市歴史博物館、1999年、99号、大阪城天守閣所蔵文書)

 猶以御座所普請衆、明石左近・瀬田掃部・古田織部・岡本下総守此分可割付候、
従岩付小田原迄間、道中ニ御座所可仕候旨、忍・河越・岩付番衆ニ被仰出候、河越城破却候間、其道具ニて可仕候、為両三人奉行仕、可申付候、次、御座所近所ニ二間・五間計之小屋五、六十間令割符可申付候、太田小源五者、八王子之俵子共御座所へ持付、則御番仕可相待候、普請之儀者不可仕候也、
七月廿八日(天正十八年)(朱印)
          伏屋十内殿 
          滝川彦次郎殿
          大屋弥八郎殿


この史料は、北条氏が滅亡した直後のものでして、この時秀吉は奥羽へ向かうため宇都宮にいました。ここで秀吉は家臣に対して、奥羽からの帰り道を整備するよう命じています。その道とは、岩付から小田原へ出る道と書いてありまして、その道中に「御座所」なる簡易休息・宿泊施設を建設しなさいと言っています。

細かいことは省きますが、さらに家臣の太田一吉に対して、八王子城にある兵粮を、その「御座所」建設地へ運んで、秀吉が帰ってくるのを待ってろ、と命じています。これがポイントになります。

で、この史料とズバリ合うのではないか、と思ったのが、次の史料です。


【史料2】太田一吉書状(高幡山金剛院所蔵土方文書。収録史料集は、杉山博・萩原龍夫編『新編武州古文書』上など多数)

  南河辺郷衆(?)
急度申遣候、八王子領之内、いまた指出不仕在所有之儀候而、左様之儀可相尋子細候間、早々府中まて可被罷出候、為其一筆申候、今日中ニ府中へ可被相越事専一候、恐々謹言、
        太田小源五
     八月七日((天正十八年)) 一吉(花押)
      土方越後殿


これは、先ほど出てきた秀吉家臣の太田一吉が、東京都日野市の土豪・土方越後さんに出した書状です。一吉は、八王子領内の戦後処理をしていたのですが、そのことで土方さんに、今日中に府中へ来るようにと伝えています。

細かいですが、7月28日時点では、太田一吉はおそらくまだ八王子城にいたものと考えられます。そして8月7日の時点では、府中にいたことがわかります。しかも、【史料1】には、「御座所」建設地へ移動しろと命じられているわけですから、府中に移動しているということは、秀吉の「御座所」は府中に建設中だったのではないか、となるわけです。

そこで思い出されるのが、秀吉が府中御殿にやってきたという伝承です。これまでは、府中御殿を造ったのはあくまで家康であって、そこに秀吉がやってきた、とされてきましたが、そうではなくて、実は秀吉が自らの「御座所」として造ったのが府中御殿の起源なのではないか、と思うのです。

しかも、翌年に豊臣秀次が府中に来て家康と会談したことは紛れもない事実です。この時、秀次は小田原から江戸ではなく府中に出てきています。なんで江戸じゃないのか? それは、【史料1】の時に秀吉が整備を命じた岩付―小田原の方の街道を使ったからでしょう。さらに、秀吉の「御座所」が府中にあったからこそ、そこで家康と会談したのではないでしょうか。

ということで、府中御殿は、実は家康が造ったのではなく秀吉が造った、というのが、私の説になります。

そうだとしても、もちろんその後に徳川家の御殿になった(あるいは新規建設された)ことは間違いありませんし、発掘調査でも秀吉関係の遺構・遺物はまだ確認されていません。今後、出てくれば面白いんですけどね。

それと、弱点が1点あります。【史料2】の「府中」としている文字の読みが非常に微妙でして、「宿中」と翻刻する史料集も多く、「宿」か「府」か、かなり微妙な字なのです。どっちとも読めると思うのですが、ただ、「宿」だとしても、【史料1】やその他の諸々の状況証拠から考えても、まあ間違いないんではないかなと。ちょっとこの部分がイマイチになってしまったのですよね・・・

ここでは細かいことは書き切れませんので、ご興味がある方はお読みください。府中市郷土の森博物館にて、間もなく販売されると思います(300円だそうです、激安!)↓↓
http://www.fuchu-cpf.or.jp/museum/

府中市内の図書館にも入るでしょう。その他、各地ではかなり入手困難かと思われます。来週水曜日の調布市での講演会では抜刷をいくつか持っていきますので、いらっしゃる方でご希望の方には差し上げます。

さて、この私の説、反響が来るかどうか・・・

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日本城郭史学会大会の前、午前中に志村城見学会が行われました。私も中学生か高校生か、とにかく相当前に行ったっきりで、ものすごく久しぶりの見学でした。

志村城は、都営三田線志村三丁目駅から歩いて5分ほど。駅南側の城山公園から上の台地上に登って行ったところにあります。駅からすぐなので、訪れやすいです。

歴史はあまりよくわかっていません。室町時代までは志村氏という武士が、戦国時代には武蔵千葉氏の一族がいたようですが、今現在残る遺構とどう関係あるのかはよくわかりません。近くには武蔵千葉氏の赤塚城や、太田道灌が築城したという稲付城などがありますが、それらと何かしら関係があったのかもしれません。

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当時配布の資料から引用。昔の図面で、今は隣に大きなマンションが建ったりしていますが、おおよそは変わっていません。水色の部分が現存する堀です。上から赤線のように見ていきます。

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駅から坂道をちょっと登ると志村城山公園に着きます。入口が城門のようになっていて、その奥の斜面に作られている階段を登っていきます。で、登り切ったところが、二の曲輪である熊野神社の裏手です。そこから、登ってきた道を撮ったもの。斜面にも帯曲輪状のものがありますが、どうなんでしょう…

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階段を登りきると、熊野神社と会社の敷地の間の道路が目の前にあります。どうもこれが二の曲輪と三の曲輪の間の堀跡だとか。

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二の曲輪の熊野神社。この社殿の左側に堀が残っています。

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これがその堀。昔と変わらないですね〜だいたいの大きさがわかりますでしょうか。

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これが「折れ」の部分。赤線を引いておきました。

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戻って社殿の右奥には、土塁の跡らしきものも…

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その土塁の手前には、中世の板碑が残っています。この地域は鎌倉から戦国までの立派な板碑はたくさん残っています。隠れた板碑名所です。明応、永正、大永の板碑です。1500年前後のものですね。文字もはっきり読めます。

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参道の正面、鳥居のすぐ左奥に城跡碑があります。

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熊野神社の鳥居です。

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鳥居から東側に進んで、先ほどの二の曲輪と三の曲輪の間の堀跡を通り、さらに奥に行くと、また道路に出ます。これも外側の堀の跡といわれているそうです。

他にも、近くの延命寺というお寺の境内にある鎌倉時代の板碑も見学しました。

*場所はここ↓↓
http://yj.pn/GELdcw

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戸倉城、続きです。「2」から「1」へ行き、また「2」に戻って「3」へ向かいます。

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縄張図。『東京都の中世城館』(東京都教育委員会編、2006年)より引用・加筆。おおよそのルートを赤くペイントしました。

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「2」から「1」方向を見たところ。赤線を付けたように、階段を登って左に曲がります。ここが特徴的な虎口になっています。枡形虎口と評価する人も。後世の改変の可能性もありそうですが、どうなんでしょう…。

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その枡形虎口の内部。先ほどの左に曲がった部分ですね。赤線のような導入路になります。石垣がありますが、これは後年のもの。

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虎口から「2」を見る。高低差はさほどありません。

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そして、ついに「1」曲輪=主郭に到着!いや、本当に大変な道のりでした。相当キツイ城ですよ、これは。体感としては八王子城よりキツかった…。極端に小さいわけでもないですが、典型的な山城の主郭、って感じでしょうか。

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眺めは抜群です!曇っていたのが残念ですが、晴れていれば相当良い眺めだったこと間違いありません。五日市方面です。ここに城を造るのも納得。

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戻って「3」の曲輪へ。尾根道をしばらく歩くと着きます。この写真奥が「3」。案内板のように右側の道を降りていくと…

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「3」の下をめぐる横堀(?)に出ます。これも横堀と評価する場合としない場合があるようです。写真左上が「3」です。右側がやや土塁っぽくなってます。

地元の小学校の遠足コースにもなったりするとか。遺構もまずまず残っていて、眺めも抜群なので、その点は良いのですが、とにかくキツい登り道でした。


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1週間ぶりの更新です。今回は、今年6月に行った、東京都の戸倉城です。わかりやすく目立つ山容です。

15世紀に、「武州南一揆」と呼ばれる中小武士集団といいましょうか、そういう地域武士の集合体によって築城されたといわれてます。麓にその一揆に関係が深い三島神社があったり、古文書も残ってますが、戸倉城自体が築城されたのかどうかはよくわかっていません。その後、小宮氏という国衆の居城となり、北条氏に属しますが、1550年頃に離反して滅亡し、北条氏照関係の城となったとされてます。が、これもまた微妙です。つまり、よくわかっていない城です。大石氏の隠居城という説もありますが、それも信憑性に欠けるようです。

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縄張図。『東京都の中世城館』(東京都教育委員会編、2006年)より引用・加筆。おおよそのルートを赤くペイントしました。

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入り口の神明神社。山の北側にあります。五日市街道からちょっと入ったところです。降りてきたおじさんが「マムシ出るよ!」と!

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山頂にある戸倉城の鳥瞰図。こう描かれると立派ですねぇ。

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まずは、こんな感じの道をひたすら登ります。両側が石積みで固められているんですが、その間からマムシが出るらしく、ビクビクしながらの登山でした…

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そこを通過しても、まだまだ、山頂は先です。ずっと登っていきます…

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そしてようやく尾根上に出ました!縄張図の真ん中上、青い○を付けておいたところにようやく到着です。でも、もっと先なんです…

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いったいどこまで続くのやら…

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そして、やっとの思いで中心部に到着!まずは井戸です。登山道の脇に、こんな感じで残っています。当時からあるのかはわかりませんが、地元では「金麗水」と呼ばれているそう。

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見上げると「2」の曲輪が見えてきました!

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「2」から先ほどの登山道を見たところ。

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「2」から「3」方面の尾根を見たところ。

一休みして、「1」を目指します。



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勝沼城、続きです…

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再度、縄張図。いつものように、『東京都の中世城館』(東京都教育委員会編、2006年)より引用・加筆。今回は、赤くペイントしたルートをご紹介しましょう。ペイントがすこしキレイになりました。

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「3」から「1」へ戻ります。「1」北側の横堀を通って、「1」東北隅(右上)土塁。

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その土塁の外側、「1」と「C」の間の堀と土塁です。キレイに残っています。

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で、「2」へ到着。城内最大の曲輪ですね。現在は墓地になってます。

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「2」の東に隣接する「b」という曲輪の堀。ここには墓地の造成がぎりぎり及ばずよく残っています。この「b」は馬出なんじゃないかという見解もあるそうです。

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墓地を通って「2」の南側の横堀内部。ここも若干造成されていますが、よく残っています。

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そして、水色の○で囲った部分、「2」から土橋を渡り、馬出になっています。土橋は墓地と藪だらけで渡れませんが、非常によく残っています。見事です。

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この馬出の東側の堀です。ここも素晴らしい。迫力ある堀です。ん〜あの迫力は写真じゃ伝わらない…

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帰りはまた光明寺の方へ出ました。「1」南の赤線あたりから見た風景。なかなか良い景色です。

とにかく行って見てビックリ!こんなによく残っているとは、想定外でした。都内でも有数の城跡ですね。交通も至極便利ですし、大変オススメの城跡です!冬になったら、前回ご紹介した「3」西側のあの堀をもう一度見たいです!



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